学長通信(第4号)

地域との共生を模索して―地域史から学ぶ
 第1回 「淀川水系」
 はじめに
 「大阪労働学校・アソシエ」は、労働運動、市民運動の担い手を育てることを目標に置いている。社会運動の歴史的な文献から学ぶことが主な学習内容であるが、地にしっかりと足をつけた生活人との共感を持つことを本校は、最大の課題としている。
 一個の生活人として、多様な人々と共生するという心がなければ、社会変革をいくら叫んでも、その思想は頭の中の抽象的な思いつきでしかなくなる。過去の華々しい革命理論の多くが、時間の経過とともに、干からびてきたのは、ひとえに地域に根差す生活人の感情を捉えることに、成功しなかったことにある。
 本校では、地域史の理解を、学生は言うに及ばず、講師陣・支援者も共有することも学習の重要な課題としている。
 本号の「学長通信」(第4号)から、講義内容の紹介とともに、毎号ではないが、地域史から学んだことを、紹介して行きたい。以後、「地域との共生を模索して―地域史から学ぶ」という主題で、先人たちの生きてきた息吹を学ぶ連載を始めたい。
 第1回では、「淀川水系」の大まかな見取り図を提示しておきたい。本校が、拠点を置く大阪市西区「川口」(かわぐち)は、「淀川水系」の中の安治川と木津川の分岐点であり、旧「外国人居留地」であった。そのことの歴史的な意味を追うことにする。

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 「淀川」と一口に言うが、関西人の多くは、「新淀川」と「旧淀川」との区別すら知らない人が多い。地元の大阪人ですら、「淀川水系」を正しくイメージできる人は、そう多くはいないと思われる。

 1. 「茅渟の海」

 地域の旧い呼び名の正しい謂(い)われをを確定することは難しい。地名の多くは、伝承されてきた旧い神話を勝手に解釈した人々の思いから成り立っているからである。
 たとえば、「なにわ」。
 いまなお、大阪人は地元を「なにわ」と呼びたがる。そして、様々な漢字が、その呼び名に当てられている。「浪速」、「浪花」、「浪華」、「難波」、等々。
 「浪速」とは、「浪が速い海」を意味したのだろう。「浪花(華)」は「浪の花が立つ海」、「難波」は「航海するのに難しい波が立つ海」なのだろう。
 いずれにせよ、大阪の地名には、「海」に因(ちな)むものが多い。
 中には、「魚庭」と書くこともある。「魚」(な)「庭」(にわ)、で「なにわ」、その心は、「魚がたくさん集まる海」である。かなり手前勝手で強引な解釈もあるが、それは、郷土への強い愛着の念がもたらしたもので思わず「クスッ」とくる(https://www.kkr.mlit.go.jp/plan/suishin/index300.html)。
 現代でも、大阪湾を気取って「茅渟の海」(ちぬのうみ)と呼ぶ人は結構多い。
 ただし、この呼称の由来を記した支配者編の神話は美しくない。
 神武天皇の義兄「彦五瀬命」(ひこいつせのみこと)が「戦い」で矢傷を受けた手を海辺で洗ったら、一面に「血沼」(ちぬ)の海になったという『古事記』の解説の醜悪さはその最たるものである(神武天皇条)。実際、「大化の改新」(たいかのかいしん)後には、大阪の南部の海は、「河内」(かわち)の国に属し、「血沼海」という字が当てられていた(http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7384464)。
 「戦い」というのは、神武の東征に立ち塞(ふさ)がるべく、「生駒山」(いこまやま)の西麓、「孔舎衛坂」(くさえのさか)に陣地(日本=「くさか、日の下」→「ひのもと」の語源といわれている)を構えた長髄彦(ながすねひこ)と東征軍との激戦である(上田正昭「五瀬命」、『国史大辞典 第1巻』 吉川弘文館、1979年。いまさら、言わずものがなの観があるが、天皇家と戦った豪族はすべて大悪人として『記紀』=きき=『古事記』と『日本書紀』には描かれている)。
 「茅渟の海」の謂われを生活人たちはもっと美しいイメージで語ってきた。民衆の付けた慣習的呼び名の方が、「国体」というおどろおどろしい標語に繋(つな)がる「血塗られた戦史」(国史)よりも、はるかに郷土愛に満ちている。
 関西地方では、「黒鯛」のことを「ちぬ」という。「ちぬ」という美味な魚がいっぱい泳いでいるから「ちぬの海」と人は呼んだ。この逸話の方が人々の心を打つ(http://osakagyoren.or.jp/naniwa/)。
 「茅渟の海」依(よ)りには、長い年月にわたる、淀川、旧大和川(やまとがわ)などによって運ばれてきた土砂が、河口に堆積して洲を創り、それらが、次第に多くの、しかも、かなり大きな島となった。これが古代に言われていた「難波八十島」(なにわやそじま)である。
 現在の大阪の大阪湾沿いには、「歌島」(うたじま)、「竹島」(たけしま)、「佃」(つくだ、古代では田蓑島=たみののしま)、「出来島」(できじま)、「中島」(なかじま)等々、「島」が付く地名が多いのもその名残である。

 2. 九条島の開削

 現在の大阪府枚方市(ひらかたし)から大阪市北区長柄(ながら)まで全長約27kmもの堤(つつみ)があった。文禄3年(1594年)に、豊臣秀吉が、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)に淀川の改修工事を命じて建設されたので、「文禄堤」(ぶんろくつつみ)と呼ばれている。この堤は、1596年に完成し、河内平野における淀川の氾濫を防止するのに役立った。また堤防の上は、大阪と京都を結ぶ最短路である京街道(または大坂街道)として安定した交通路となっていた。この堤の跡が、現在でも、大阪府守口市(もりぐちし)の守口市駅近辺に残っている。
 江戸時代中期、大和川は、現在の八尾市(やおし)から堺市(さかいし)に向かって直線的に流れる姿とは異なり、生駒山西麓の河内平野(八尾市から右折して現在の東大阪市)を北へ向かって流れ、いまの大東市(だいとうし)から左折して西に向かい、淀川下流部の「大阪城」の北で淀川と合流していた。合流付近は、上流からの土砂が大量に溜まり、多数の砂州(さす=流水によって形成される砂の堆積構造の島)が形成されていた。砂州の流域に広がる低湿地帯では、度重なる水害に悩まされていた。こうした水害を防ぐため、淀川改修の命を受けた河村瑞賢(かわむら・ずいけん、1617?~99年)は、淀川河口の「九条島」(くじょうじま)という大きな島が、淀川の水流を妨げていることによって淀川下流の水害が発生していると考え、1684年、「九条島」を開削、そして曲がりくねった河川を直線的な河道とする新しい川、安治川(あじがわ)を造った。
 開削によって、真っぷたに切られた九条島の安治川の北側は現在の「西九条」(にしくじょう)、南側は単に「九条」という地名になった。
 安治川開削の後の1704年、大和川は、河内国今米村(いまごめむら)の庄屋・中甚兵衛(なか・じんべえ、1639~1730年)らの長年にわたる幕府への訴えが実り、付け替えが行われた。大和川の付け替え工事は、約8か月の短期間で完了し、これにより淀川から大和川が切り離されて、大阪平野の洪水被害は減少したとされている(https://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/know/rekisi/kakawar.html)。

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 3. 賀川豊彦の活動拠点であった西野田(川口近辺)

 この安治川の岸辺にキリスト教の安治川教会があった(大阪市西区安治川1丁目、川口から安治川を少し下った左岸の地)。ここが、戦前の「大阪労働学校」の最初の教室となった場所である。ただし、家賃を払わねばならない間借りであった。
 大正も終わりに近づいた1920年初め、賀川豊彦(かがわ・とよひこ、1888~1960年)・西尾末廣(にしお・すえひろ、1891~1981年)らを中心に大阪労働学校の設立が企てられた。設立準備事務所は「友愛会大阪連合会」(後述)に置かれた。
 しかし、学校が、労働運動の拠点になることを恐れた警察はなかなか設立の認可を出さなかった。それでも、やっと1922年に、設立認可が下りた。ところが、資金不足で開講もままならなかった。この危機時に、賀川豊彦が『死線を越えて』の印税の提供を申し出て、なんとか開校に漕ぎ着けた(二村一夫「大阪労働学校の人々」『法政通信』No.123、1982年7月号)。
 賀川豊彦の活動を支えたのは、キリスト教の精神に基づいて結成された「友愛会」(ゆうあいかい)であった。
 「友愛会」は、1912年8月1日に鈴木文治(すずき・ぶんじ、1885~1946年)ら15名が集まって、労働者を支援する目的で組織したクリスチャンたちの会である。結成当時の「友愛会」は、労働組合というよりは労働者同士の相互扶助が目的で、性格的には共済組合のものであった。大資本家の渋沢栄一からの援助を受けていたことから見ても、現代的意味での労働組合とは言えなかった。
 しかし、「友愛会」は、第一次世界大戦の下で急増していた労働争議の多くに、人道的に関与し続けていた。その過程で、「友愛会」傘下の各組織は、次第に労働組合としての性格を強めて行った。そして、1919年に「大日本労働総同盟友愛会」、さらに、1921年に「日本労働総同盟」に改称して、名実ともに労働組合に変身したのである。
 「友愛会」、東京だけではなく、大阪の地にも活動領域を広げていた。1917年5月、上述の「友愛会大阪連合会」が設立された。本部所属の松岡駒吉(まつおか・こまきち、1888~1958年)が責任者となり、事務所は、西野田今開(いまびらき)594番地(現、福島区野田2丁目)の松岡宅に一旦置かれ、その後、江成町(えなりちょう)292番地(現、福島区吉野2丁目)に事務所を移す(移転年月日不明)。1921年、「総同盟大阪連合会」と改称した。
 そして、1922年4月、賀川豊彦・杉山元治郎(すぎやま・もとじろう、1885~1964年)たちが「日本農民組合」を創設、神戸で創立大会を開いた。その本部は、江成町183(現、福島区吉野4丁目)の杉本元治郎宅に置いた。この組合は、同年の「三島郡山田村」の大小作争議をはじめ、全国の小作争議を支援した。「日本農民組合」は、1928年5月、「全日本農民組合」と合併して「全国農民組合」となり、本部は玉江橋(たまえばし)北詰(現、福島区福島2丁目1番、堂島側右岸、現在の関西電力病院の南側)に移転した。
 1925年5月、「日本労働総同盟」から分裂して「日本労働組合評議会」が結成された。この「評議会」の設立大会も神戸で開かれた。創設メンバーは、河田賢治(かわだ・けんじ、1900~95年)、三田村四郎(みたむら・しろう、1896~1964年)、鍋山貞親(なべやま・さだちか、1901~79年)、福本和夫(ふくもと・かずお、1894~1983年)等々、非合法期(1921~24年)の[日本共産党」の主だった活動家たちであった。本部は、玉川4丁目の長屋の一角(現、福島区野田3丁目)にあった「大阪電気労働組合」の事務所に置かれていた。その後、西区の本田(ほんでん)に移り、さらに東京に移転した(1928年、弾圧を受けて解散)。
 日本共産党関係の活動家に離反(1925年)された「日本労働総同盟」は、翌年の1926年にも脱退者を出し、彼らが、「総」の字を削除した「日本労働組合同盟」を結成した。さらに、1929年、「日本労働総同盟」から新たに脱退した人たちが、「労働組合全国同盟」を結成した。
 こうして、日本の労働組合の全国始祖期は、3つの全国的組織が併存することになった。本家の「日本労働総同盟」は「右派」、「労働組合同盟」は「中間派」、全国統一組織は持てなかった左翼系労働組合の「左派」という配置ができた。「右派」の労働運動には、「現実主義」、「反共主義」、「労使協調主義」というレッテルが貼られた。
 それでも、「日本労働総同盟」は、1932年には、「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」の結成によって、当時の労働運動の最大勢力となっていた。
 1935年に中間派の「労働組合全国同盟」(全総と呼ばれるようになっていた)と統合したが、1937年の日中戦争では、「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言し、日本の軍国主義に協力した。戦争が進むにつれ、左翼系の労働組合は次々に弾圧されて崩壊していった。1940年7月、組合の全国組織は、自主解散して「産業報国会」に組み入れられた。
 戦前の「大阪労働学校」の校舎の話題に戻そう。
 1924年5月、一年余も家賃を延滞していたため、賀川校長は安治川教会より即時退去を要求された。やむを得ず、当時、江成町にあった「購買組合友愛会」(現、福島区吉野3丁目22番24号)の二階に引っ越した。
 しかし、1年も経たないままに、1925年1月、「購買組合友愛会」の都合によって、ふたたび、教室を移転しなければならなかった。今度は、江成町110番地の個人の家の二階六畳二間(現、福島区吉野3丁目)を借りての教室であった。
 この苦境を乗り切れたのは、有島武郎(ありしま・たけお、1878~1923年)の遺志を受け継いで設立された「労働者教育界」(有島財団)のお陰である。
 白樺派の作家、有島武郎は、1923年に自殺していたので、「大阪労働学校」の苦境を知る由もなかったが、大財産家であった有島武郎は生前から賀川や石本恵吉(いしもと・けいきち、1919~46年)などの社会運動に資金援助をしていた。彼は自殺する時、遺言で、その遺産の処理を「東大新人会」のOBで組織していた「社会思想社」に委ねた。「社会思想社」はこれをもとに「労働者教育会」という財団(有馬財団)を創立し、各地の労働学校に資金援助を始めた。「大阪労働学校」も毎月20円の補助を受けることになった。
 それだけではない。「労働者教育会」は、吉野町1丁目36番地(現、吉野3丁目)の敷地84坪余・建物40坪余の「大阪労働教育会館」を建設したのである。建設資金の多く( 13,050円)は、「労働者教育界」が提供した。
 「大阪労働学校」は、1925年12月30日、ここに、事務所と教室のすべてを移転させることができたのである。
 さらに、当時、天王寺にあった「大原社会問題研究所」の所長、高野岩三郎(たかの ・いわさぶろう、1871~ 1949年)が、「大阪労働学校経営委員会」の責任者になることを進んで引き受け、財政問題解決のために熱心に働いた。彼は、友人、知人を説いて同校の後援会員とし、毎月10円ずつの寄附を約束させた。
 高野岩三郎が、このように大阪労働学校に肩入れしたのは、兄、高野房太郎(たかの・ふさたろう、1869~1904年)への感謝の念があったからであろうと言われている。
 高野房太郎は、日本の労働組合運動の輝ける星であった。房太郎は、賀川豊彦より20年以上も前の1886年に、アメリカに渡り、同じように労働運動に関心を持ち、「アメリカ労働総同盟」の日本オルグとして活躍した。岩三郎が決して豊かな家の出でなく、しかも父が早世し母の手で育てられたのに、東京帝国大学を卒業し、母校の教授になることができたことは兄のお陰だと、岩三郎は思っていた。事実、房太郎はアメリカで苦学しながら毎月10ドルを岩三郎の学資として送り続けていた。房太郎が創立した組合は短命に終り、彼自身も35歳の若さでこの世を去った。岩三郎にとって、労働組合運動の育成は兄の遺志を継ぐことであったのだろう。
 高野岩三郎が「大阪労働学校」の「経営委員長」に就任したことを機に、「大原研究所」の所員の多くが講師陣に加わった。中でも、森戸辰男(もりと・たつお、1888~1984年)は、講師として貢献しただけでなく、「経営委員」として、財政的にも学校を支える重要な役割を果たした。
 森戸辰彼は第10期以降第45期までの13年間にわたって1回の休みもなく無給で講師を続け、また「経営委員会」にもほとんど皆出席であった。戦後、片山内閣の文部大臣として教育改革、「中央教育審議会」の会長などを歴任した森戸は、死後、遺言で、1934年、夫人を通して、1万円を「大阪労働学校」に寄付した。それを元に、同所に洋式で70坪の木造二階建ての立派な校舎が実現し、一階には大衆診療所も併設された。
 しかし、1928年の「3・15事件」以後、労働運動に対する弾圧は激しく、その影響は「大阪労働学校」にも及んだ。翌29年3月は、かつて講師として生物学を教えたことのある山本宣治(やまもと・せんじ、1889~1929年)が右翼によって刺殺された。「大阪労働学校」も日中戦争開始直後の第45期を最後に閉校に追い込まれた
 (資料:野田周辺のことにつて、中島陽二「社会運動の中心地―戦前の野田阪神―」 『大阪春秋 第80号』1995.10、二村一夫「大阪労働学校の人々」『法政通信』No.123、1982年7月号に大きく依拠した)。