学長通信(第5号)

 今月の大阪労働学校・アソシエは、夏期休暇で講義がありません。それでも、学生たちは、沖縄、ソウル宣言研修(モントリオール)、図書整理、自主研究、受講生のリクルート、等々の活動に勤しんでいます。今月は、「地域との共生を模索して」のコラム・シリーズのみを掲載します(学長)。

 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ
 第2回 「をさか」→「大坂」→「おおさか」→「大阪」

 はじめに

 ことわるまでもなく、「淀川」(よどがわ)は大阪だけのものではない。滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県(支流)を悠然とながれる一級河川である。滋賀県では瀬田川(せたがわ)、京都市内では「宇治川」(うじがわ)、大阪市内に入ると「大川」(おおかわ)、「道頓堀川」(どうとんぼりがわ)と呼ばれるようになる。
 淀川は、このようにいくつかの名前で呼ばれているが、「国土交通省淀川河川事務所」の定義では、「水源の琵琶湖から大阪湾に流れ込む川」として、複数の水系を一括して「淀川」(一級河川)となっている。
 法律上の定義は別にして、人々には、京都市から流れてきた「桂川」(かつらがわ)と奈良県を北上してきた「木津川」(きづがわ)が「宇治川」に合流する「淀」(よど、京都府と大阪府との府境)から下流を「淀川」であると認識されている。
 
 1. 複雑の合流・分岐する「淀川」

 琵琶湖を出発点とする川の地点(大津市)には、「瀬田川」という標識がきちんと建てられている。それから「瀬田川」を下る、京都府の「天ヶ瀬ダム」(あまがせだむ)のほとりに「淀川水系・宇治川」の標識がある。さらに下って、「淀」を抱える「大山崎」(おおやまざき)には「淀川」の標識がある。
 ここから、「淀川」は多様な名前の川に枝分かれする。「淀」までは、「淀川」は合流を繰り返すばかりであったが、大阪府に近づくにつれて数多くの分流ができている。
 現在、大阪市内で「淀川」と呼ばれているのは、1896年から始まり、長期間にわたって工事が継続された治水対策で、大きな「淀川放水路」が開削されてできた「新淀川」のことである。この「新淀川」は、大阪湾まで一直線に流れるが、それに対して、開削後の「旧淀川」は、複雑な分流を持つ。それぞれの分流には、親しみのこもった名前が付けられている。
 大阪市都島区毛馬(みやこじまく・けま)という場所に、「毛馬水門」(けま・すいもん)という「新淀川」と「旧淀川」(「大川」、おおかわ)を隔てる水門がある。この水門は「新淀川」と「旧淀川」の水量を調整する役目を担う。また、両川の水位の差によって、航行できなくなる船舶のために、水位を調整してスムーズに航行させる「毛馬閘門」(けま・こうもん)とか、大川の水を強制排水する「毛馬排水機場
(けま・はいすいきじょう)などの設備もある。
 「毛馬水門」の建設は、1896年に計画された。これは、「新淀川」の開削という大事業の一環であった。1907年に最初の設備として、普段の川の水を流すための「毛馬洗堰」(けま・あらいぜき)と船舶通過のために水位を調整するための「毛馬閘門」が完成した。その東側が「毛馬排水機場」である。
 その後に行われた大川の浚渫(しゅんせつ)工事で、大川の水位が、大幅に下がって、新淀川との水位差が広がり、閘門が対応できなくなった。それを打開するために、最初の閘門の下流に二つめの閘門が1918年に設置された。水位調節は新しい「第二閘門」が行い、「第一閘門」は、常時解放して、「新淀川」の水量増大時に閉鎖する役目となった。
 1974年に「第三閘門」が完成。「第一閘門」、「第二閘門」は1976年まで併用され、その後「第一閘門」周辺は公園施設として整備された。「第二閘門」水路は、現在、舟溜まりとして使用されている。1983年、現在の「淀川大堰・毛馬排水機場」が完成した。
 さて、「旧淀川」は、中之島までは「大川」、その先は「堂島川」(どうじまがわ)と「土佐堀川」(とさぼりがわ)に分かれ、中之島の西端で再度合流した後、川口で、また「安治川」(あじがわ)と「木津川」(きづがわ、奈良県の木津川とはまったく別の川)に分岐する。「安治川」は治水用の完全な人工河川である。
 「大川」が「土佐堀川」に分岐してすぐの地点から、「土佐堀川」はさらに南向かって分岐する川を持つ。「東横堀川」(ひがしよこぼりがわ)がそれである。この「東横堀川」が中央区の船場(せんば)の東付近で西に向きを変えて「道頓堀川」(どうとんぼりがわ)になる。この川が「木津川」を西に向かって横切り「岩崎運河」(いわさき・うんが)に繋がる。
 この運河を過ぎた「道頓堀川」の下流が「尻無川」(しりなしがわ)。「尻無川」から「三十間堀川」(さんじゅっけんぼりがわ)が分岐している。河口付近で、「尻無川」と「木津川」との間に「天保山運河」(てんぽうざん・うんが)が開削されている。また、先述の「岩崎運河」は「尻無川」と「木津川」を結んだものである。
 本稿が依拠した『日本経済新聞』(2016年9月6日、夕刊11面)の記事(「とことんサーチ、淀川、名前も流転、琵琶湖から海へ、12回改名」)の筆者(大阪写真部・尾城徹雄)は記している。
 「これほど多くの名前があるのは、この川が長い間、関西の生活や文化を支えてきた証。それぞれの名前の裏に、そこで生きてきた人々の歴史が刻まれているのだ」と。

 2. 「大坂」から「大阪」へ

 地名は、人々の慣習的な呼び名である。元々は生活に根ざした深い意味を持っていたのだが、その由来は、茫漠の歴史の彼方に埋もれてしまっている。文献も、人々の記憶もないので、現代人はその由来をあれこれと推測するしかない。正解のない推測とはいえ、しかし、地名から浮かぶ想像は、私たちに豊かな心を醸し出してくれる。
 「大坂」は、いつしか、「上町台地」(うえまち・だいち)周辺を指す地名になった。この上町台地こそ、「大阪」の歴史を作った主役である。
 上町台地とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地である。台地は、北の大阪城、天満橋の辺りからせり上がり、南に向かって、緩やかに小山(大阪城天守閣跡の標高がもっとも高く38m)を形成し、天王寺区・阿倍野区周辺を経て、南部の住吉区・住吉大社付近で下りとなる。清水丘当たりで平地になる。南北の長さは12kmある。
 熊野詣に使われた「熊野街道」は、この丘陵地帯を通っている。

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 わざわざ丘を通らなくても麓の平地を通って熊野に向かえばよいと現在の地形からなら言えそうだが、熊野詣が盛んであっ平安・室町時代には、台地の東側は湿地であった(これが、大和川を付け替えさせた理由)。
 天満橋のたもとにある「八軒家船着場」(はちけんやふなつきば)は、旧淀川(大川)左岸に設けられた船着場で、ここから熊野街道が始まる。

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 つまり、京都から大川を船で下ってきた熊野三山への参詣者たちは、ここから湿地を避けて上町台地に上がり、熊野まで南下した。江戸時代には、宿が8軒並んでいたことから、こう呼ばれたらしい。「八軒家船着場」は、平安時代には、「渡辺津」(わたなべのつ)と呼ばれる海陸交通の要所であった。
 十返舎一九『東海道中膝栗毛』第8編には、舟を下りた弥次郎兵衛と北八が「大坂の八軒家」で上陸する場面がある。
 奈良時代には、台地の東側が「東生」(ひがしなり→東成)、西側が「西生」(にしなり→西成)とも呼ばれていた。
 「なり」は古代百済語で「渡し場」を意味するという説もある。一時百済の首都だった熊津(現在の公州)を『日本書紀』の「雄略紀二十一年」で「久麻那利」(くまなり)と読んでいることから、「津」は当時「なり」と発音されていた可能性がある。つまり、上町台地の「東側の津」(ひがしなり)、「西側の津」(にしなり)である。
 旧「大和川」(やまとがわ)が、大坂を湿地帯にしていた。旧大和川は、生駒(いこま)山系を抜けて現在の柏原市(かしわらし)付近で「石川」(いしかわ)と合流し、さらに、北へ流れて、河内(かわち)平野に大きな湖、「草香江」(くさかえ)、を作って、古い時代の淀川を合わせ、上町台地の北で海へと出るという流れを形勢していた。
 江戸時代中期までの旧大和川は、柏原市の北で、「長瀬川」(ながせがわ)、「楠根川」(くすねがわ)、「吉田川」(よしだがわ)など幾筋にも分かれ、吉田川の一部は、「寝屋川」(ねやがわ)とともに、「深野池」(ふこのいけ→ルイス・フロイス、1532~97年、が 湖と書いている広大な池→大東市周辺)や「新開池」(しんかいいけ→東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいた。これらの池の水と長瀬川本流は現在の大阪市鶴見区放出(はなてん)周辺で淀川支流の「古川」(ふるかわ)、同じく河内平野を流れる「平野川」(ひらのがわ)などと次々に合流しながら上町台地の北(現在の天満橋の辺り)でやっと淀川(大川)本流に合流していた。淀川はそこからまた安治川や木津川など多くの川に分かれ、デルタ地帯を形成しながら海へ流れていた。
 「大坂」の地名を漢字で表現した最初の人は、浄土真宗を大組織に押し上げた蓮如(れんにょ、1415~99年)であると言われている。蓮如は、1483年に京都の山科(やましな)に「山科本願寺」(やましなほんがんじ)を建立していたが、この寺院を息子に譲り、1496年、「家の一軒もない畠ばかりの地で虎狼の棲むところ」(『拾塵記』)に「坊社」(ぼうしゃ→僧が住む建物)として「大坂御坊」(おおさかごぼう)を建てて隠居した。この地を蓮如は、「摂州東成郡生玉之庄内大坂」(せっしゅうひがしなりこおりいくたまのしょうないおおさか)と表現した。つまり、「大坂」は東成郡の一部でしかなかったのである。
 この「大坂御坊」が、後に「石山本願寺」(いしやまほんがんじ)として発展したものである。きっかけは、1532年の法華宗徒による山科本願寺焼き討ちにある。本願寺が「大坂御坊」に移転してきたのである。そして、石山本願寺が大きくなるにつれて、「大坂」という地名が世人に流布されるようになった。
 石山本願寺の隆盛前は、「大坂」は「おおさか」でなく、「をさか」と発音されていたらしい。
 「大坂」が「大阪」に変更された理由は、現在のところ不明である。すでに、江戸時代から「大坂」と「大阪」の字が併用されていた。
 1868年に大阪府が設置されたが、府の公印には、「大坂府」と「大阪府」の両様があった。大阪市史は結論する。「坂」と「阪」の使い分けの根拠はなかった。「坂」から「阪」に転じたのはむしろ偶然の産物であったと(『大阪市史・巻1』」1927年再版)。