学長通信(第6号)

 (1) 「大阪労働学校・アソシエ」の講義は、8、9月にはありません
 本校の講義は、8月と9月は夏期休暇中によりありません。しかし、夏期休暇中でも、学生、講師が学校で研修しております。後期は10月から始まります。
 後期以降も、講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のつくときにご参加下さい。場所:学働館3階・講義室・図書室。
 聴講ご希望の方は、お問い合わせフォームよりご一報下さい。
 
 (2) 第1回市民講座
 9月には、第1回市民講座が開かれました。この講座は10月にもあります。すでに終わったものも含めて、3回シリーズの市民講座を以下にご案内します。市民の方々の参加費は無料です。
 本校は、今後、公開市民講座を不定期に開催します。第1回目は「日本が海南島で犯した国家犯罪を問う」というテーマで、3回にわたって、「学働館」4回のホールで開催します。
日本は、現在、中国の保養地として有名になっている海南島を、太平洋戦争中の1939年2月から45年8月まで軍事占領をし、現地の人々を、軍隊に動員したり、虐殺したりして、大きな傷を現地に負わせました。しかし、日本政府はこの史実に対して、徹底的に眼を背けてきました。 
 第1回市民講座では、本校の斉藤日出治(さいとう・ひではる)先生がメンバーの1人として活動されている「海南島近現代史研究会」の会員の皆様から報告していただきます。講演だけでなく、「ドキュメンタリー」記録映画も上映します。
 第1回 9月10日(土)13~15時、学働館4階ホール。「海南島における朝鮮人虐殺と現地住民の虐殺」、ドキュメンタリー「日本が占領した海南島で」(65分)と解説・討論。
 第2回 10月1日(土)13~15時、学働館4階ホール。「海南島月瑭村の虐殺と死者の記録・追悼碑の建立」、ドキュメンタリー「海南島月瑭村虐殺」(45分)の解説と討論。
 第3回 10月8日(土)13~15時、学働館4階ホール。「日本による海南島侵略史の世界史的意味について」、佐藤正人氏講演。                 
 ふるってご参加ください。当日、1回だけご出席されても結構です。

 (3) 学生の自主研究
 今月も先月に続いて、学生たちは、①講義録の作成、②図書の分類と整理、カード作成、③沖縄研究、④カナダ・モントリオールにおける「ソウル宣言」のシンポジウム参加を果たしています。沖縄研修旅行の学生レポートを今月号に載せています。

 (4)  地域との共生を模索して―地域史から学ぶ

 
 第3回 島崎藤村の草莽の視点

 はじめに

 文芸評論家として名高い篠田一士(しのだ・はじめ、1927~89年)が、『二十世紀の十大小説』(新潮社、1988年)という題で、歴史上で最重要な世界の小説を10冊挙げている。その中に島崎藤村(しまざき・とうそん、1872~1943年)の『夜明け前』(新潮社、第1部は1932年、第2部は1935年)が第10位に入れられている。
 他の9冊は以下の通り(数字は順位)。1. マルセル・プルースト(フランス、1871~1922年)『失われた時を求めて』(1913~27年)。2. ホルヘ・ルイス・ボルヘス(アルゼンチン、1899~1986年)『伝奇集』(1944年)。3. フランツ・カフカ(チェコ、1883~1924年)『城』(1926年)。4. 茅盾(マオ・ドゥン、中国、1896~1981年)『子夜』(1932年)。5. ジョン・ドス・パソス (米、1896~1970年)『U.S.A』(1938年)。6. ウィリアム・フォークナー (米、1897~1962年)『アブサロム!』(1936年)。7. ガブリエル・ガルシア・マルケス(コロンビア、1928~2014年)『百年の孤独』(1967年)。8. ジェイムズ・ジョイス(アイルランド、1882~1941年)『ユリシーズ』(1922年)。9. ロベルト・ムジール(オーストリア、1880~1942年)『特性のない男』(1930〜1932年)。そして、島崎藤村が10位である。

 1. 日本の私小説には、本質を捉える「歴史」への問がない
 
 篠田は軽い気持ちでこれらを選んだわけではない。雑誌『新潮』での連載が、足かけ3年にわたったことを考えても、篠田は満を持して発表したのだろう。そして、『夜明け前』に対しては、「空前にして絶後の傑作」と絶賛した。
 ただし、他の9名については、選んだ論拠を丁寧に説明しているのに、『夜明け前』については、絶賛の言葉だけで、冷静にその論拠を示したわけではない。
 松岡正剛は言う。篠田ほどの実力のある評論家が論拠を示さなかったのは、日本の文学者のほとんどが歴史に疎く、世界史の本質的な流れをきちんと掴んでないために、日本の小説家への遠慮があったのだろうと。島崎藤村のように、真正面から歴史が突きつけていた課題に答えようとした人物をきちんと評価することは、日本の文学者の苦手とするのであると松岡は慨嘆する。
 「日本人は島崎藤村を褒めるのがヘタなのだ。『破戒』も『春』も『新生』も、自我の確立だとか、社会の亀裂の彫啄だとか、そんな言葉はいろいろ並ぶものの、ろくな評価になってはいない」。「われわれは藤村のように『歴史の本質』に挑んだ文学をちゃんと受け止めてはこなかったのだ。そういうものをまともに読んでこなかった」(松岡正剛、千夜千冊、 2000年12月21日、『夜明け前』、http://1000ya.isis.ne.jp/0196.html)。
 同感である。世界の文学に比べると、日本の小説は、独りよがりの身辺的な心理描写で終わることをもって「純文学」と嘯いてきただけである。しかも、日本語の使い方が乱れても平然として、作家の証しとして、酒に女に酩酊する「私小説」作家が多すぎた。
『夜明け前』は、ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道(なかせんどう)の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(まごめじゅく)を舞台に、主人公、青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の作品である。『中央公論』誌上に、1929年4月から1935年10月まで断続的に掲載された。
 島崎藤村が、この小説を書き始めた1929年から35年までは日本の暗黒時代が始まった期間である。1927年に日本で昭和金融恐慌が起こり、29年に世界金融恐慌が始まり、1931年に満州事変、1932年に満州国建設、同年5・15事件、1933年には国際連盟を脱退した。それからの日本は、戦争経済体制に向かって一直線に突き進んだ。藤村が執筆を終えた後、36年に2・26事件、1937年に日中戦争が始まった。
 藤村は、ここで明治を振り返った。明治維新とは何だったのか?「王政復古」という名の日本的精神の復活を叫んでいた為政者たちが行ったことは、ひたすら欧米の後追いでしかなかった。軍事態勢を強化し、国民の精神を蝕んだだけではないのか?
 これまでも歴史小説的な類いの物はたしかにあった。しかし、そのすべては、英雄たちの華々しい活躍と、彼らを取り巻く人間模様が描かれただけのことであった。為政者たちの狙いと、草莽の民が受けた悲惨な果とを対照させて、歴史の本質を抉り出す仕事を、藤村以外にどの小説家が成し遂げたのだろうか。
 松岡正剛は言う。
 「藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、『脱亜入欧』は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは『王政復古』を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった」と(同上)。
『夜明け前』の主人公、青山半蔵は、藤村の父がモデルである。冒頭に「木曽路はすべて山の中である」と書かれた街道の馬籠宿という江戸から遠く離れた宿場町で生まれ育った半蔵は、江戸の香りが濃厚な平田篤胤(ひらた・あつたね、1776~1843年)の学風を受け継ぐ人から学びたく、江戸に出たがっていた。せめて、「国学」の素養だけは身に付けておきたいと願っていた。
 そうした思いが募っていたときに、1853年、米国の使節としてマシュー・ガルブレイス・ペリー(1794~1858)が軍艦(黒)船4隻(2隻が蒸気船、2隻が帆船)を引き連れて浦賀に来港し、江戸は大騒ぎをしているという情報がこの地にも入ってきた。
 地元の人々の生活苦を見て育った半蔵は、村人を救うべく、世直しの考え方を微かに持つようになっていた。時代の変化は、この田舎にもゆっくりと押し寄せていた。いつしか、半蔵は、江戸幕府打倒派の西部の各藩の武士たちが「王政復興」を唱えだしていることに憧れの念を抱くようになる。江戸で、京都で、幕府側と朝廷側との間で血みどろの戦いが続いた。
 そうこうするうちに、皇女和宮が降嫁して、徳川将軍が幕政を奉還するという噂、しかも、和宮の運ばれる街道がこの中山道(なかせんどう)で、馬籠宿を通るらしいという噂で、村人たちは沸き返った。その頃、西国で発生した「ええじゃないか」と叫んで踊る集団の勢いがこの地にも伝わってきた。
 江戸時代末期に現れた「ええじゃないか」は、「王政復古の大号令」が出されるまでの1867年8~12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した民衆の騒動である。「天から御札(おふだ=神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子(はやし)言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。伊勢神宮に御札が降る「おかげ参り」と違い、「ええじゃないか」の御札は地域で信仰されている社寺の御札が降ったことから、各地で祭祀が行われた。
 「おかげ参り」について説明しておきたい。
 「おかげ参り」とは、「御札が降る」などの神憑(かみがかり)的な噂が広まると、奉公先から抜け出し、伊勢参りに出かける庶民が急増した現象を指す言葉である。江戸時代の、1617年、1648~52年、1705年、1771年、1830年と、約60年周期で自然発生的に繰り返された。いずれも、3~5年の期間でこの現象は終わっている。
 京都では、1867年8月からこの踊りが高揚し、岩倉具視(いわくら・ともみ、1825~83年)による「王政復古の大号令」が出されることがはっきりした12月段階で収束した。つまり、この新しい踊りは、かなり政治的に利用されてきた可能性を否定できない。

 2. 今日の「日本会議」を彷彿させる平田篤胤の革命論とその顛末

 江戸時代の革命思想の代表は「国学」であった。江戸末期の国学とは、尊皇を基本的理念に持つものである。半蔵は、倒幕の急先鋒と見なされていた長州の志士たちに、神武以来の「王政復古」の夢を懸けたのである。
 このあたりの藤村の描写は、歴史を人間の強欲からえぐり出すものである。長州・薩摩の志士たち、反目し合う公家たち、水戸浪士たち、彼らに期待する木曽路の名士たち、右往左往させられる庶民、等々の動きを繊細な筆致で叙述し、革命という権力奪取とは、所詮権力者の内輪の強欲の表れでしかないことを証明して行く。
 志士たちが、崇高な「王政復古」の夢を実現させてくれるであろうとの期待は、半蔵の過度な思い込みであったことを藤村は身を切る痛みを吐露しつつ執拗に描いた。
 倒幕、朝廷を押し立てる、薩長による権力の集中、等々の動きは、半蔵の「王政復古」の夢を容赦なく叩き潰した。
 半蔵は、革命後、一縷の望みを託して上京し、縁あって「教務省」(文部省にあたる)に職を得たが、自分の命そのものであった「平田学」はもはやなんの意味をも持たないものに押し下げられていた。密かに誇りに思っていた自らの「学問」も馬鹿にされる時代になってしまった。
 半蔵は、自分の心を詠んだ短歌を記した扇子を天皇の行幸の列に投げ込んだ。
 「蟹の穴 ふせぎとめずは 高堤 やがてくゆべき 時ならめや」
 この時代の誤りは、いまは小さくても、国全体を滅ぼす大きな洪水になってしまうだろう、という訴えがこの短歌には込められていたが、彼の命を懸けて育んだ思想は、巡査に押さえ込まれた一瞬に、粉々に砕け散った。
 生き残った半蔵は、家族からも監視されて、狂い死にする。56歳であった。その子である藤村は父の悲劇を胸に、同じ56歳から、この『夜明け前』を書き続けた。それは、生活感覚に根差さない軽薄な思想が、いかに人々の心を捕らえてしまうか。逆に、狭い生活感覚のみにこだわって、激しい思い込み(憧れ)に拘束された思想のいかに脆いことか。藤村が腹の底から絞り出すようにして訴えたことは、透徹した歴史認識のない思想が冒す犯罪の恐ろしさについてである。犯罪とは「ためにする」思想が人々を殺し、思い込みの強い思想が、自分自身を破壊することである。
 藤村の父(小説の主人公=青山半蔵)は、街道筋(木曽路)、馬籠宿の本陣(ほんじん=重要人物が止まる宿場宿)と庄屋を兼ねる地元の名家だったが、黒船来襲後の時代の変化に敏感な人であった。当時の時代変革の有力な思想(国学=儒教・仏教に妥協する神道を批判し、日本独自の思想形成に傾注)に憧れ、日本変革の政治運動に参加したがったが、旧家のしがらみを断ち切れずに悶々としているうちに、「王政復古」とは名ばかりで、実際には、自己保身と権力欲剥き出しの元志士たちに絶望し、狂い死ぬ。藤村は父のようにはならないない、きちんとした思想を持つことによって、時代を切り開いて見せるとの覇気を持っていたが、歴史が見せつける人間のエゴイズムに気圧されて、父への思慕の念を深めていく。これが『夜明け前』に凝縮させた藤村の魂の呻きであった。
 父が魂を奪われていた思想は、国学の中でも平田篤胤(ひらた・あつたね、1776~1843年)の「復古神道」であった。
 平田篤胤は、本居宣長(もとおり・のりなが、1730~1801年)の神道批判に同調しつつも、宣長学派の実証主義から脱し、神秘学的なものに傾斜した。篤胤の学説は水戸学をはじめ、幕末の尊皇攘夷の支柱となっていた。
 篤胤は、異界の存在を信じ、死後の魂の行方と救済を自己の学説の中心に据えた。また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義を研究し、西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた。彼の知識は広範で、学問体系は複雑なものであった。篤胤の復古神道は平田神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながった。
 篤胤は、庶民をも説得目標に置いていた。教義の内容を講談風にしたものを、弟子たちに口述筆記させ、それを出版している。これらの出版物は町人・豪農層に受け入れられ、国学思想の普及に大いに貢献した。庶民層に篤胤の思想が受け入れられたのは、篤胤が、土俗的民俗的な内容を自己の思想の重要な構成要素にしていたことによる。
 とくに、木曽、伊那地方で、平田学派は大きな影響力を持っていた。「王政復古の大号令」が半蔵を鼓舞したという『夜明け前』の叙述は当時の木曽路の人々の新時代へ期待感を正確に伝えている。
 倒幕前は、平田派の神道家は大きな影響力を持っていたが、新政府が、神道を国家統制下に置き、それまでの神道を編成替えした国家神道を押し立てたことから、平田派は明治政府の中枢から排除されて影響力を失っていった。
 藤村は、小説の登場人物の口を借りて、尊皇攘夷の時代錯誤を批判している。
 尊皇は水戸浪士の掲げてきた旗印である。もともと尊皇と攘夷とを結びつけ、その二つのものの堅い結合から新機運を呼び起こそうと企てたのは、真木和泉(まき・いずみ、後の保臣、やすおみ、1813~64年)という篤胤の崇拝者であった。
 真木は、久留米藩士で、久留米の神官(従五位下・和泉守の官位を持つ)。1844年、水戸藩に赴き、会沢正志斎(あいざわ・せいしさい、1782~1863年)の門下となり、戸学の継承者とされる。
 藩政改革を藩主に上申し、その怒りを買って10年間も蟄居を命じられた。その時に詠んだ歌、「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ること得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」は、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862~1933年)の『武士道』(1900年)に引用されている。
 真木は、長州藩に接近し、王政復古の大号令布告を朝廷に進言すること、武力を増強して外国に対抗することを主張していた。1863年、朝廷の中の公武合体派の公家たちが、会津藩、薩摩藩と組んで、尊皇攘夷派の公家たちを追放した。追放された7人の公家が長州に逃れときに、真木は行動を共にした。
 真木は、楠木正成(くすのき・まさしげ、1294~1336年)を崇拝し、「湊川神社」をはじめとする人物顕彰神社や「靖国神社」などの招魂社建設に大きな影響を与えた。
 真木たち、篤胤派の活動化たちは、幕府の専横と外国公使陣の不遜さに憤り、王室の衰退を嘆く心情から激しい運動を展開していたが、尊皇攘夷を王室の威厳回復の梃子とすることへの疑問は、当時から多くの人が抱くものであった。藤村の言葉で表現すれば、「尊皇は尊皇、攘夷は攘夷―尊皇は遠い理想、攘夷は当面の外交問題である」という意識が生まれ出していた。
 真木は、1864年に長州藩が起こした皇居襲撃(禁門の変、蛤御門の変)に加わったが、長州勢は敗退し、敗走中の「天王山」(てんのうざん)で会津藩と新撰組によって殺害された。
 真木には、誠意があった。「衆にさきがけして諸国の志士を導くに足るだけの熱意があった。最早その人はない。尊攘の運動は事実に於いてすでにその中心の人物を失っている」(藤村『夜明け前』新潮文庫、第1部、下)。
 藤村は、小説の中で、登場人物に語らせている。尊皇攘夷の牙城であったはずの長州藩が自藩の俊秀たちを英国に密航させて外国のことを学ばせている。それには、英国の公使・ラザフォード・オールコック(1805~97年)による有力藩への説得が功を奏している。攘夷のみを主張する水戸学は、もはや廃れるしかないのではと。
 藤村の慧眼は、篤胤の思想が武士よりも、時代に翻弄されて生活圏を根こそぎ奪われつつある百姓や町人(草莽=社会の危機に対処する動きをするが、立身出世を求めない人たち)の心を捉えていたことに注目した。
 ちなみに、国学には医師が多い。平田篤胤がそうであった。篤胤の師・本居宣長(もとおり・のりなが、1730~1801年)もそうであった。朱子学を強要されていた江戸時代にあって、他の職業に比して、医師は、比較的自由にヨーロッパの学問に傾倒できたからであろう。そして、士族でない生い立ちが、自らの学問を庶民にも伝えたいという思いを育んだのであろう。
 庶民、とくに主人公の半蔵のような本陣・庄屋は、為政者たちや法律の理解を超える複雑な地域の歴史に規定された生き方をしてこざるを得なかった。地域のそうした事情を無視した急激な変化を為政者の思い付きで起こされては、地域で生きなければならない庶民には大打撃となる。
 平田派が説いたのは、ただ「古」(いにしえ)に帰れとうことではなかった。この世に「王」と「民」しかいなかった「古」(上つ代、かみつよ)にいったん帰って、そこから「仁義礼講孝悌忠信」(じん・ぎ・れい・こう・こう・てい・ちゅう・しん) などと「やかましい名をくさぐさ設けて厳しく人間を縛りつけてしまった」社会を作り替えることの重要性に、庶民は気付いたのである。
 たとえば、今日の言葉でいう「入会権」(いりあいけん)に代表される村落住民の特権があった。これは世界共通の住民の権利であった。権力者に支配される土地であっても、生活に不可欠な資料をそこから獲得する権利のことを指す用語である。田には田の、山には山の各種特権が、そこで生きる住民のために慣習的にある特権がある。権力者が交代しても、入会権的な特権は冒されることのないものとして、社会には認識されていた。
 『夜明け前』の舞台となっている木曽路にも、山地には「明山」(あけやま)と呼ばれる生活のための樹木などの伐採が山で生きる民のために認められていた。
 民謡の「木曽節」にも歌われているが、木曽には、「木曽五木」(きそごぼく)という檜(ひのき)の5種類(ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ、サワラ)は許可なく伐採することが禁じられていた。しかし、五木を伐採しないことの報酬として、資料を得ることや、報償米の支給などが山人には認められていた。
 ところが、新政府は、この特権を無視して、「五木」伐採の禁のみを地元民に押しつけてきた。「王政復古の大号令」を布告したことから、半蔵などの期待を集めていた新政府が、地域の伝統的な特権を剥奪した。これに抗して山人に伐採を促したとして、半蔵は庄屋の地位を剥奪されてしまった。尊敬する平田派の学者たちは、主として栄達を欲する行動に出て、その思想は干からびてしまった。崇高な思想も現実の物欲の前にいとも簡単に放棄されてしまった。
 藤村は、以下の慨嘆を記して、の長編を終えた。
 「すべて、すべて後方(うしろ)になった。ひとり彼の生涯が終わりを告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台もその一九年あたりまでを一つの過渡期として大きく廻りかけていた。人々は進歩を孕(はら)んだ昨日の保守に疲れ、保守を孕んだ昨日の進歩にも疲れた」。(若者は)「封建時代を葬(ほうむ)ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むことも出来ないような吹くな薄暗さがあたりを支配していた」(藤村『世悪前』新潮文庫、第2部、下)。
 私たちの幾人が、この含蓄の深い言葉の意味を理解しているのだろうか?

 (5) 学生レポート

学生レポート
日本国憲法と米軍基地問題との矛盾・沖縄反基地闘争の現状と研究

学生A

第一章 なぜ戦後70年が経過しても米軍が日本に残り続けているのか

サンフランシスコ講和条約は、1951年(昭和26年)9月8日に調印され、1952年(昭和27年)4月28日に発効された。
通常は講和条約を締結し、占領が終われば占領軍は撤退する。しかし、1950年9月15日のニューヨーク・タイムズは、米国の対日講和における次のような方針として、「(日本の)再軍備に制限を設けない。経済と通商の自由を最大限認める。国連加盟などの参加を促進する」「米軍が日本に駐留する許可を得る」と報道している。つまり、講和条約が締結される以前から、米軍が国内に駐留することが日本独立の条件となっていた。
「サンフランシスコ講和条約 第6条( a ) 前半
連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後、なるべくすみやかに、かつ、いかなる場合にもその後90日以内に、日本国から撤退しなければならない(後略)」
「ポツダム宣言 第12項
以上に列挙した占領の目的が達成され、さらに日本国国民の自由に表明された意志にしたがって、平和的な傾向をもつ責任ある政府が樹立されたときは、連合国の占領軍はただちに日本国より撤退する

それにも関わらず、日本は見ての通り、太平洋戦争で米軍が上陸した嘉手納を始めとして、占領が終わった頃に米軍基地だった場所は、全てそのまま基地として残されている。GHQが解散しようと、米兵はそのまま駐留を続けている。なぜ米軍は撤退しないのか、この謎は講和条約第6条a項の後半部分で明らかにされている。

「サンフランシスコ講和条約 第6条( a ) 後半
(前略)ただしこの規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結されたもしくは締結される二国間もしくは多数国間の協定にもとづく、またはその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とんまたは駐留を妨げるものではない。」

第二章 日米地位協定とは何なのか

サンフランシスコ講和条約第6条a項に記述のある「協定」とは、日米地位協定を指している。日米地位協定とは、アメリカが占領期と同じように日本に軍隊を配備し続けるための取り決めであり、1952年の旧安保条約とセットで発効された日米行政協定を前身とするものである。その日米行政協定を結ぶにあたって、アメリカ側が最も重視した目的が、「日本の全土基地化」「在日米軍基地の自由使用」であった。
前者は、日本全土を米軍にとっての「潜在的基地」にすることを目的としたものであり、後者は、占領期と同じように、日本の法律に拘束されず自由に日本国内の基地を使用できることを意味する。当時、国務省顧問だったジョン・フォスター・ダレスが言うように、「われわれが望む数の兵力を、望む場所に、望む機関だけ駐留させる権利を確保すること」がアメリカの最大の目的であった。
講和条約がサンフランシスコのオペラ・ハウスで調印されたのと対称的に、行政協定は東京・外務省庁舎の中でひっそりと結ばれた。また、旧安保条約はサンフランシスコ郊外にある米国陸軍第六軍の基地の中にある、下士官クラブで結ばれている。
講和条約→安保条約→行政協定の順番に、それぞれ締結されてきたが、行政協定のための安保条約、安保条約のための講和条約でしかなかったと、元外務次官であった寺崎太郎は指摘する。
旧安保条約には、米軍の日本駐留の在り方についての取り決めが何も書かれていない。「条約」は国会での審議や批准を必要とするが、政府間の「協定」ではそれが必要ないため、日米両政府は都合の悪い取り決めを全部この行政協定の方に入れてしまった。
日米行政協定とは、日米地位協定と同じく、日米安保条約に基づいて駐留する在日米軍と米兵他の法的地位を定めた協定である。占領中に使用していた基地の継続使用、米軍関係者への治外法権、密約として合意された有事での「統一指揮権」など、占領中の米軍の権利をほぼ全て認めるものである。1960年、新安保条約締結と同時に「日米地位協定」と名称を変えたが、米軍の治外法権、日本国内で基地を自由使用するという実態は殆ど変わっていない。

第三章 米軍駐留に違憲判決を下した「伊達判決」の行方

 在日米軍立川飛行場の滑走路拡張工事に反対する住民運動、砂川闘争が1955年から始まり、二年後の1957年には米軍基地内に数メートル入ったデモの参加者23人が逮捕され、その内の7人が刑事特別法違反で起訴されるという「砂川事件」が起きた。
 1959年3月30日の東京地裁判決で、砂川事件を担当した伊達秋雄裁判長は、「米軍駐留は憲法第9条違反」という画期的な判決を下した。この、通称・伊達判決を要約すると、「米軍が日本に駐留するのは、わが国の要請と基地の提供、費用の分担などの協力があるもので、これは憲法第9条が禁止する陸海空軍その他の戦力に該当するものであり、憲法上その存在を許すべからざるものである」。
 そして、米軍の日本駐留が憲法に違反している以上、駐留米軍を特別に保護する刑事特別法も憲法違反、米軍基地に入ったことは罪に問われないとして、被告全員に無罪判決を言い渡した。
 当然のことながら、伊達判決は60年安保改定交渉を進めていた日米両政府に大きな衝撃を与え、全国の反基地闘争、安保改定反対運動を勢いづくことを懸念していた。違憲判決が覆されない限り、新安保条約の国会提出も調印できなくなってしまう。
 日本政府は、一刻も早く伊達判決を覆すために、――マッカーサー駐日大使の指示の下――高裁への控訴という通常の手続きを踏まず、最高裁に直接上告する「跳躍上告」を行った。跳躍上告を行うと、高裁へ控訴するよりも早く、最高裁での判決が得られるからである。
  更に、田中耕太郎・最高裁長官は、安保改定交渉の当事者であるウィリアム・レンハート駐日アメリカ主席公使に対し、公表前の砂川裁判の審理日程、「結審後の審理は実質的な全員一致を目指す」など自身の意向を伝えていた。一国の司法のトップが、このようにして日米両政府の望み通りの展開になるよう奔走していた事実が、2008年に米側の解禁秘密文書によって明らかにされた。
 当然、このような行為は憲法76条に規定された裁判官の独立に反し、日本が法治国家でなく、米国にとって都合の良いものだけが存在を許される「占領地」であることを確証するものである。
 こうして、1959年12月16日、最高裁長官である田中耕太郎自らが裁判長を務め、最高裁で砂川裁判の判決が言い渡された。原判決を破棄して東京地裁に差し戻し、米軍駐留や刑事特別法を合憲とするのではなく、「憲法9条2項がその保持を禁止した戦力とは、わが国が主体となって指揮権・管理権を行使し得る戦力を意味する」「日米安保条約はわが国の存率の基礎にきわめて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものだ。(中略)違憲か合憲かの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない」として、司法の政治的配慮によって米軍駐留を容認することになり、今日に至る。
 
第四章 沖縄・反基地闘争現地視察 山城博治氏へのインタビューまとめ
沖縄の反基地闘争が、本土と比較して激しいのはなぜかという私の問いに、今まさに基地が作られている現場で集会所に集まる、デモ行進して歩く、では意味がない。ただ、「反対」の声を上げるだけでは虚しさを感じる。集会ではなく現場で張り付く。座り込むなど非暴力実力行動に重点を置くという回答を頂きました。
また、沖縄県民弾圧に利用されてきた日米地位協定は、法学部の学生すら習っていない、大学の先生でも地位協定を研究してない人は多いというお話には驚きました。山城氏が言うように、沖縄と直接的な関係のない人たちは、自分の興味の範囲の中で調べていくしかないと思われる。

第五章 沖縄・反基地闘争現地視察 佐々木弘文氏へのインタビューまとめ
 僧侶である佐々木弘文氏は、反戦・反基地の前に「反差別」を信条としている。人を殺すには人を偏見で見るしかなく、そういうことが戦争に繋がる。
 戦争を遂行するには基地が必要であり、たとえどれだけ国力のある国家だとしても、日頃からの訓練や準備がなければ戦争はできない。戦争が始まったら止めることができない、だから戦争の始まりになる基地建設を止めさせよう、という佐々木氏の思いが伝わってきました。
 2014年にN4ヘリパッドが完成し、佐々木氏は辺野古での運動を始めた。新基地建設に反対するカヌー隊は当初、4,5人しか居なかった。しかし、立ち向かわねば変わらないと思って続けていくことで、世論を動かし、政治家を動かし、とうとう工事を止めることが出来た。仲間が増えてきたから続けることが出来たと、佐々木氏は強く訴える。

参考資料

『戦後史の正体』 孫崎享 著(創元社)/2012年
『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』 前泊博盛 著(創元社)/2013年
『検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉』 吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司 著(創元社)/2014年
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』 矢部宏冶 著(集英社インターナショナル)/2014年
『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』 矢部宏冶 著(集英社インターナショナル)/2016年
『伊達判決を生かす会』 http://datehanketsu.com/toha.html