学長通信(第7号)

(1) 「大阪労働学校・アソシエ」10月1日より後期講義が始まります。
 後期以降、講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のつくときにご参加下さい。場所:学働館3階・講義室・図書室。
 聴講ご希望の方のお問い合わせは、お問い合わせフォームよりご一報下さい。
 (注 本年4月に公表してい講義時間割に若干の変更があります)。

(2) 第1回市民講座
 9月には、第1回市民講座が開かれました。この講座は10月にも続きす。9月いすでに終わったものも含めて、3回シリーズの市民講座を以下にご案内します。
 本校は、公開市民講座を、今後、不定期に開催します。第1回目は「日本が海南島で犯した国家犯罪を問う」というテーマで、3回にわたって、「学働館」4回のホールで開催します。入場料は無料です。
 日本は、現在、中国の保養地として有名になっている海南島を、太平洋戦争中の1939年2月から45年8月まで軍事占領をし、現地の人々を、軍隊に動員したり、虐殺したりして、大きな傷を現地に負わせました。しかし、日本政府はこの史実に対して、徹底的に眼を背けてきました。
 第1回市民講座では、本校の齊藤日出治先生(司会担当)がメンバーの1人として活動されている「海南島近現代史研究会」の佐藤正人氏から報告していただきます。講演だけでなく、「ドキュメンタリー」記録映画も上映します。
 第1回 9月10日(土)13~15時、学働館4階ホール。海南島における朝鮮人虐殺と現地住民の虐殺」、ドキュメンタリー「日本が占領した海南島で」(65分)と解説・討論。
 第2回 10月1日(土)13~15時、学働館4階ホール。「海南島月塘村の虐殺と死者の記録・追悼碑の建立」、ドキュメンタリー「海南島月塘村虐殺」(45分)の解説と討論。
 第3回 10月8日(土)13~15時、学働館4階ホール。「日本による海南島侵略史の世界史的意味について」、佐藤正人氏講演。
 ふるってご参加ください。毎回でなく、1回だけのだけのご出席でも歓迎します。

(3) 10月の予定講義のご案内

第1限(10時半~12時)「基礎ゼミナール」

田淵 太一(たぶち・たいち、同志社大学商学部教授) 毎週火曜日(10月3、17、24、31日)
「保守系の経済学のどこが間違っているのか?」

鈴田 渉(すずた・わたる、大学非常勤講師) 毎週木曜日(10月6、13、20、27日)
「憲法を学ぶ」

齊藤日出治(さいとう・ひではる、元大阪産業大学副学長)・本山美彦(もとやま・よしひこ、京都大学名誉教授) 毎週金曜日(10月7、14、21、28日)
「自由討論」

第2限(13時半~15時)「社会変革の古典を読む講座

大賀正行(おおが・まさゆき、部落解放・人権研究所名誉理事) 毎週月曜日(10月3、17、24、31日)
「マルクス、エンゲルスの古典」

大賀政行(ご入院中の友永健三、ともなが・けんぞう、部落解放・人権研究所名誉名理事の代行) 毎週木曜日(10月6、13、20、27日)
「観念論の克服」

田畑稔(たばた・みのる、『唯物論研究』編集長) 毎週金曜日(10月7、14、21、27日)
「マルクスのアソシエーション論」

第3限(16時半~18時)「社会制度の改革を学ぶ講座」

鄭海東(てい・かいとう、福井県立大学経済経営学部教授) 10月3日(月)
「中国の農村自由化政策と食糧大増産」

杉村昌昭(すぎむら・まさあき、龍谷大学名誉教授) 10月4(火)、11日(火)
「フランス社会の抱える諸問題」(現代国家のモデルケースとして)。
「ヨーロッパにおける新自由主義の問題」。

海勢頭恵子(うみせと・けいこ、近畿大学講師) 10月5日(水)
「沖縄問題」

服部良一(はっとり・りょういち、元衆議院議員) 10月17日(月)
「アジア外交」(北東アジアの平和構築の課題)

石井一也(いしい・かずや、香川大学法学部教授) 10月19日(水)、20日(木)
「平和学」

澤野義一(さわの・よしかず、大阪経済法科大学法学部教授) 10月28日(金)
「憲法問題」(立憲主義の意義、歴史、今日的課題)

金早雪(きん・ちょそる、信州大学経済学部教授) 10月31日(月)
「市民福祉革命の世界史的意義」

第4限(19時~20時半)「共生・協同社会建設を学ぶ講座」

津田直則(つだ・なおのり、桃山学院大学名誉教授) 10月24日(月)
「資本主義の矛盾と社会変革の方向」

武建一(たけ・けんいち、大阪労働学校アソシエ代表理事)・山元一英(やまもと・かずひで、全港湾大阪支部委員長) 10月28日(金)
「産別組合闘争・討論」

(4)学校周辺の地歴誌

第3回 現在の新古典派経済学と同じ!─150年前の駐日公使の自由貿易論

1. 開講後、事実上英国軍に支配されていた開港地

 島崎藤村『夜明け前』第2部上巻第2章では、幕末・維新の日本の役人による治安維持が不可能になり、列強、それも主として英国の武力によって、開港予定地の治安が辛うじて維持されるにすぎなかった状況が、淡々とした筆致で語られている。
 開講後、神戸に建造された「運上所」は、いわゆる「びいどろの家」であった。ガラス板を張った窓のある家は、まだ神戸界隈(かいわい)には見られない新奇な建物であった。この運上所が、神戸では、開港の記念としてできた最初の和洋折衷の建築であった。
 「鳥羽・伏見の戦い」の難を避けて、大坂の居館を去って兵庫の方に退いていた各国公使らは、1868年1月14日(新暦。旧暦では15日の元服の日)、それぞれの通訳を伴って、礼服着用で、運上所の二階の広間に集っていた。
 外国公使陣の中では、英国特派全権公使兼総領事・ハリー・スミス・パークス(1828~85年)が主役で、フランス全権公使、イタリア特派全権公使、プロシア代理公使、オランダ公務代理総領事、米国弁理公使たちの6人であった。新帝の元服を祝って、公使らが運上所に集まって、京都新政府の使臣をそこに迎えるという段取りであった。外国人公使たちが、新政府の重鎮たちを訪ねて東京の公定まで挨拶に行くのではなく、日本の重鎮たちを彼らが、自らの軍事力で支配していた神戸の地へ呼び寄せたという点が重要なことである。
 神戸港には、5隻の英艦と、3隻の仏艦と、1隻の米艦が停泊していた。
 そこへ、「ええじゃないか」の謡、囃子(はやし)が、三宮(さんのみや)方面から近づいてきた。群集は三宮神社から運上所までの、新しく開かれた区域にまで溢れ返っていた。公使らはいずれも声のする窓の方へ行って、熱狂する群集を眺めていた。
 そのうちに、新政府の参与兼外国事務「取調掛」(とりしらべがかり)の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ、1834~1912年)をはじめ、随行員として寺島陶蔵(てらじま・とうぞう→後の宗則、むねのり、1832~93年)、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ→後の博文、ひろふみ、1841~1909年)、中島作太郎(なかじま・さくたろう→後の信行、のぶゆき、1846~1899年)たちが応接室に入ってきた。言うまでもなく、新政府の重鎮中の重鎮たちであった。
 新帝の元服の日ということから、新政府の使臣、およびその随行員として来た人たちは、いずれも改まった服装をしていた。
 東久世通禧は、烏帽子(えぼし)、狩衣(かりぎぬ)、帯刀、紫の組掛緒(くみかけお)という公卿の扮装(いでたち)であった。その側には>羽織袴(はおりはかま)の伊藤俊輔が付き添って、東久世と公使たちとの会話を通訳していた。井上聞多(いのうえ・もんた→後の薫、かおる、1836~1915年)と共に英国へ渡ったことのあった伊藤は、髷(まげ)を切って断髪にしていた。断髪は、正使随行員の中でも伊藤一人だけであった。
 建物の外観は立派であったが、予算も時間もなかったことから、椅子などの設備は急拵え(こしらえ)の粗末な間に合わせものであった。
 新帝の言葉を読み上げる儀式は午前中に終わり、午後から、英国公使・パークスと東久世通禧が、三宮英人殺傷事件の処理に関する交渉を行った。パークスは、日本の殺気立った状況をよく認識していたので、事を荒げたくなかった。神戸の占領を解こうと言って、早速街道両口の木柵(もくさく)を取り払わせ、上陸中の外国兵をそれぞれの軍艦に引き揚げさせ、港内に抑留してあった諸藩の運送船をも解放した。ただし、真犯人を挙げて厳罰に処して将来の戒めとすることと、日本政府の陳謝を条件とした。
 そうした後、彼は兵庫にある仮の居館に公使兼総領事として滞在して、神戸の建設状況を観察していた。
 パークスは、部下を通して、東久世に次のように語った。
 「自分は京都新政府に好意を表するため、かくも穏やかな取り計らいをした。これは御国に対し懇切な心から出た次第で、隔意のある事ではない。他の外国が交渉談判を開くとはわけ違いである。もしこれが他の外国人の殺傷の場合ででもあると、なかなかこんなわけにはまいるまい」と(島崎藤村『夜明け前』第2巻上、新潮文庫より転載)。
 パークスは、かつては敵として戦った薩長両藩の人士と握手する位置に立ち、兵器弾薬の類まで援助を惜しまないという姿勢であった。
 その上で、パークスは、今日の新古典派経済学の自由貿易論を彷彿とさせることを語った。
 「今日の世界はすでに全く開けて、いずれの国も皆交際しないものはない。国と国とが交わる以上は、人情もあまねく交わらないわけにいかない。物貨とてもそのとおりであろう。交易の道は小さな損害のないとは言えないが、しかしその小さな損害を恐れてそれを妨げるなら、必ず大艱難を引き出すようになる。ヨーロッパ人はもう長いことそれを経験して来た。在来の東洋諸国を見るに、多く皆、旧くからの習慣を固守するばかりだ。貿易を制限するところがあり、居留地を限るところがあり、交際の退歩するところがある。我は開くことを希望するし、彼は鎖(とざ)すことを希望する。そんなふうに競い合って行って、彼も迫り我も迫って互いに一歩も譲らないとなると、勢い銃剣の力をかりないわけにいかなくなる。互いの事情を斟酌する必要がそこから起こって来る」(同上)。
 「何ゆえに日本はこんなに外国を嫉視(しっし)するのであるか。外人の居住するものは同盟条約の中について日本のためにならないことがあるのであるか。日本治国の体裁に害あることがあるのであるか。条約の精神が行き渡るなら、今日すでに日本国じゅうのものが交易の利を受けて、おのおのその便利を喜ぶであろう。決して今日のように人心動揺して外人を讐敵(かたき)のように見ることはあるまい。この排外は、全く今までの幕府政治の悪いのと、外交以来諸藩の費用のおびただしいとによっておこって来た。この形勢を打破するには、見識ある日本諸侯の力に待たねばならない。薩長両藩の有志者のごときは実に国を憂うるものと言うべきである」(同上)。
 これが、ラザフォード・オールコック(1809~1897年)以来の方針を押し進め、徳川の旧勢力に見切りをつけ、薩長勢力の伸張を期待するパークスの言い分であった。
 当然、米国公使は面白くなかった。
 米国は、この国への先着者である。米国が日本の固い殻をこじ開けた主役である。その先着者を出し抜いて、事ごとに先鞭を着けようとする英国公使の態度を米国公使・ロバート・ヴァン・ファルケンボルグ(1821~1888年)は、薩長と旧幕府との抗争から中立を宣言することによって、英国を牽制しようとしていた。英国は、半ば公然と、薩長に武器を販売していた。フランスは、旧幕府に軍用品を供給していた。
 これに対して、米国は局外中立を宣言していた。中立とは、御門(みかど)側(新政府)と大君(たいくん)側(旧幕府)の両者のいずれに対しても、兵士はもとより、武器、弾薬、兵粮、その他すべて軍事にかかわる品々の売買を自粛することを、米国は、各国に呼び掛けていた。それは、国際法の立場から当然であるとの立場を各国に訴えていたが、薩長の成功を見た各国は、米国の呼び掛けを無視していた。武器弾薬どころか、軍艦までもが売買されていたのである。
 英国による治安維持が保たれている神戸には、各国公使が滞在していた。そして、1868年2月、京都にあった新政府は、三宮事件に対する詫び状を各国の公使に届け、各国公使たちに、通商条約を結ぶために、京都に来ることを要請した。
 公使たちは、京都行きを承諾した。京都への行路として、陸路には治安面の不安がはあったために、各国公使は、それぞれ自国の軍艦を仕立てて大坂の天保山(てんぽうざん)まで行くことにした。

2. 特別な地位にあった西本願寺

 大坂の宿舎に使われたのが西本願寺の別院である。
 そもそも、西本願寺は幕末から長州の影響力が強く、勤王の志士たちが蝟集(いしゅう)する寺であった。幕府打倒に力があったとして、明治の廃仏毀釈(はいふつきしゃく)の難を逃れたのも、そうしたことが強く影響した可能性がある。大坂には、西本願寺の別院があり、北御堂(きたみどう)とか津村別院(つむらべついん)と呼ばれていた。ここに、大坂に来る予定の各国公使を迎えるべく、新政府の要人たちが控えていた。また、薩摩藩は、護衛兵を出して、小蒸汽船で安治川(あじがわ)の川口(がわぐち)に着く各国公使を出迎えるという手はずであった。接待の主役は、三宮事件でパークスと交渉した東久世通禧であった。
 東久世が公使たちを出迎える役目を押し付けられたのも、交渉係は公家でなくてはならないが、公家の中で、彼以外に西洋人と接触した経験のある者が、東久世以外にはいなかったからである。
 この東久世は、1867年の冬、五代才助(ごだい・さいすけ、後の友厚、ともあつ、1836~85年)の斡旋で3週間ほど長崎にいて、オランダや英国の商人に会っていた。オランダ人で米国から派遣された宣教師のグイド・フルベッキ(1830~98年)とも接触している。
 そもそも、東久世は強硬な攘夷派の公家であった。そうした人物を外国公使との条約締結交渉の主役に選ばなければならないほど、朝廷には、外交に明るい人材がいなかったのである。
 いずれにせよ、公使たちは薩摩兵の一隊を先頭に、鉄砲で武装した外国兵に護衛されながら、川口に到着した。川口には、大坂運上所から、居留地、新大橋にかけて、公使の一行を見ようとした人たちが黒山を築いていた。
 1868年2月14日、各国公使の一行は無事に北御堂に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一行一二人の外交団であった。会見の席上、公使たちは、新政府が徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、最後の徳川幕府将軍、1837~1913年)追討の兵を京都から出したことへの不安感を表明し、一刻も早く大坂を発って、横浜の居留地の同胞の安全を守りたいと東久世に迫った。米国公使のファルケンボルグは、イタリア、プロシァの公使とともに、大坂を発ち、横浜に向かうとまで息巻いていた。
 翌、15日の夕方、フランス公使の招待で、交渉団は北御堂で夕食会を開催した。宴会のはじめは、京都には18日に参上することが話し合われ、会は和やかな雰囲気であった。しかし、宴の最中、堺港でフランスの軍艦デュソレッキ号の乗組員7人が土佐藩士に殺害され、遺体は海に投げ込まれたらしいとの情報がフランス公使に入り、宴会は中止された。
 フランス公使は、自国の軍艦・ウエストに引き上げ、17日朝までに死体を軍艦まで運べ、それができなければしかるべき措置をフランス政府は取るとの強硬な抗議文を日本側に送ってきた。死体の発見、収容、届けるという差し迫った任務は五代に押しつけられた。五代は任務を無事に果たした。朝廷は、フランス公使の恫喝に動揺し、ただちに条約の締結に入ると17日のうちに各国公使に伝えた。
  2月28日、結局、米国、イタリア、プロシァの公使たちは京都に寄らず、大坂から横浜に直行した。京都に参内したのは、英国、オランダ、フランス公使だけだった。英国のパークス一行には、薩摩の小松帯刀(こまつ・たてわき、本名は、清廉、きよかど、1835~70年)と五代才助という重鎮が陸路で同行した。
 フランスとオランダの一行は、川口から艀(はしけ)に乗り、深みに停泊していた小蒸気で伏見まで遡上し、伏見から陸路で御所に向かった。
 英国公使陣は、大坂から陸路で御所を目指した。既に見たように、大坂から京都までは小松と五代の護衛があった。京都に着いてからは、薩摩藩士の中井弘蔵(なかい・こうぞう、後の弘、ひろし、1839~94年)と土佐藩士の後藤象次郎(ごとう・しょうじろう、後の元曄、もとはる、1838~97年)が伏見稲荷の辺まで出迎えた。
 東山の知恩院の旅館に宿泊した翌朝、参内にむかった一行を見物していた群衆の中から赤い軍服を着けた英国の護衛兵(いわゆる赤備兵)を目がけて、2人の攘夷派の武士が斬りかかった。1人は後藤が切り捨て、2人目によって、中井が傷付けられた。襲撃者は、兵によって取り押さえられ、後方にいたパークスは無傷であったが、参内は直ちに中止された。
 御所の紫宸殿(ししんでん)では、パークスを含む3人の外国公使に対して、新帝は、かつての幕府のような尊大な姿勢はなく、親しげに接待したという。
 後で、パークスへの襲撃事件を知ったフランス公使は、知恩院に駆け付けて、兵庫に引き帰そうとパークスに進言したが、パークスは動じなかった。

3. 五代友厚を利用した英国

 私たちの学校(大阪労働学校・アソシエ)は川口2丁目にある。隣の3丁目には、「川口運上所」があった。「運上所」とは、神戸の運上所でも説明したが、現在の税関とほぼ同じ業務であるが、関税自主権のなかった時代の運上所は、外国人公使や、外国の政府高官、有力な外国商人たちのサロンでもあった。
 開港後に設立されたのであるが、最初の運上所は兵庫(1858年)。その後、箱館(1859年)、神奈川(1859年)、長崎(1963年)、築地(1867年)、川口(1867年)、新潟(1869年)と続く。1872年11月28日、これら運上所は、「税関」と一斉に名称変更されている(この日が、今日でも「税関記念日」になっている)。川口運上所の初代の長官は五代友厚であった。職名は「長官」ではなくて「外国官判事」であった。このことからも、運上昇は、税関業務よりお外交を主たる業務としていたことが分かる。
 1920年には大阪税関の本体は大阪市港区築港(ちっこう)に移転され、川口には富島営業所が残されていたが、ここも現在では営業していない。
 じつは、明治新政府の貨幣である硬貨は、重要な種類のものは「造幣寮」(いまの造幣局)によって鋳造されたものであった。両でなく円、1円=100銭という十進法を制定したのは、日本側ではなく、香港のオリエンタル銀行であった。このオリエンタル銀行が、明治初期の日本の本位貨幣(基本貨幣)のすべてを、自行が連れてきた英国人技師の手で鋳造していた。英国人技師たちは、豪勢な住居を川口の外国人居住区にあてがわれ、川口から特別に作られた「鉄道馬車」で造幣寮に通勤するという破格の待遇であった。オリエンタル銀行の支店、「オリエンタル銀行大坂支店」は川口運上所の中に設立されていた。
 しかも、西日本初の電信局だと喧伝されている「川口電信局」は、オリエンタル銀行が神戸支店との間で通信を専用的に授受できるだけのものであった。これも、川口運上所に設置されていた(1870年)。
 幕末に、英国人との接触が深かったのは、薩摩藩の五代友厚であった。1856年、藩命で、江戸幕府が創設していた「長崎海軍伝習所」へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学んだ。
 1862年、薩摩藩主に懇願するも、外国への渡航を拒まれた友厚は、26歳の時、水夫として、敵方の幕府艦・千歳丸に乗船して上海に渡り、藩のために戦略物資を買い付ける傍ら、主として英国人たちから情報収集をしていた(この時、長州藩の高杉晋作と出会う)。
 1863年7月、生麦事件によって発生した「薩英戦争」では、3隻の藩船ごと松木弘安(まつき・こうあん、後の寺島宗則、てらしま・むねのり、1832~93年)と共に英国海軍の捕虜となるが、横浜において、英国艦を脱出、江戸に入る。 国元では英国の捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をしていたが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀(のむら・もりひで、1831~73年)の取り成しによって帰国を許された。
 大阪の経済は、五代友厚抜きには語れないが、五代の軌跡を追うには、膨大な紙面を要するので、詳細は後述するとして、ここでは、話題を転じて、「死の商人」として多くの日本人から侮られているトーマス・グラバー(1838~1911年)こそが、明治の幕藩政治の基礎を提供した人であったことを急いで語ろう。

4. 薩長政府の産みの親=トーマス・グラバー

 薩摩と長州が、幕末・維新の時代に、日本の主導権を握り得たのは、トーマス・グラバーというスコットランド、アバディーン州出身の天才的な実業家と緊密な関係を築いたからである。アバディーンはスコットランド最大の造船の地域であった。この地から多くの青年たちが海外に雄飛した。アバディーンで建造された快速帆船は、世界各地の特産品を英国に持ち込んだ。19世紀半ば、アジアからの最大の輸入品は茶であった。
 21歳の時、グラバーは、まず中国に渡った(1859年)。アバディーン出身の毛織物製造会社、「クロンビーズ・オブ・グランドホーム」という、当時の著名な会社を頼ったのである。その年、「日米通商条約」によって、下田、箱館、横浜、長崎が全外国人に対して開港したとの情報を得るや、彼は、紹介状(誰の紹介状かは不明)を持って長崎に来た。
 紹介先は、同じくスコットランド商人のケネス・ロス・マッケンジー(1801~73年)であった。マッケンジーは、長崎開港(1859年)の数か月前にこの地に、「ジャーディン・マセソン商会」の代理人として、茶輸入商人として来ていた。「ジャーディン・マセソン商会」は、1832年に、スコットランド出身の元船医・ウィリアム・ジャーディン(1784~1843年)と同じくスコットランド人貿易商人・ジェームズ・マセソン(1796~1878年)が設立した商社であり、1840年に中国でアヘン戦争の引き金になったアヘン商会であった。
 出自はともかく、同社は、戦争で割譲された香港に1844年、本社を移し、拠点を広州から上海に拡大して、東アジア貿易を牛耳る大商会となった。1868年の香港上海銀行創設にも同商会は大きく関与している(実質的には、サッスーン財閥が主導権を握っていた)。横浜には、開港と同時に支店を開設している(横浜一番館)。
 戦後日本の首相、吉田茂(1878~1967年)の養父、吉田健三(1849~89年)は、1866年に英国軍艦に乗って密航し、2年間同国に滞在し、帰国してからは、「ジャーディン・マセソン商会」の横浜支店長を一時務め、日本政府に軍艦、武器を売りつける一方で、生糸輸出で大をなした人である。彼は、1872年、自由民権運動の牙城であった「東京日日新聞」の経営に参加して、多くの活動家を支援した。土佐に広くて深い人脈を持っていた。
 1861年、マッケンジーが漢口(はんこう)に移るとともに、グラバーは「ジャーディン・マセソン」商会の代表権を譲り受けた。マッケンジーが去ったわずか1月後(1861年6月)、外国商人たちは、日本初の商工会議所を設立した。グラバーは、その運営責任者の一人に任命された。
 1862年、グラバーは、「グラバー商会」を設立する。社員の一人に、日本初だが、実際には日本人はオフリミットであった「神戸ゴルフクラブ」を設立した(1901年、神戸市は、日本初としてのこのゴルフクラブを、六甲山を開発したプロジェクトであったと絶賛し、彼を「六甲山開祖」とした碑を建てている)アーサー・グルーム(1846~1918年)がいた(兄のフランシス・グルームが「グラバー商会」の共同設立者)。
 開港後、西日本の各藩は、幕府が設立していた「長崎海軍伝習所」(1855年第1期生入学)に若手の藩士を派遣していた。この伝習所は、オランダ医学や航海術がオランダ人講師によって講義されていた。各藩は、若い藩士に航海術を学ばせることも目的であったが、実際には、外国人との貿易のルートを藩士に探らせていたのである。事実、五代才助は、若造でありながら、この長崎への派遣時に、薩摩藩のために軍艦を発注している。
 グラバーは、とくに、薩摩、長州、土佐藩士と親しく、彼らと軍艦や武器の取引を行っていた。当時、幕府のルート以外の商取引は禁止されていたので、グラバーは危ない橋を渡っていたのである。
 1863年の「薩英戦争」、1864年の長州による関門海峡封鎖が引き起こしたフランスと長州の戦いの結果、英国は、幕府の弱体化、武力における薩摩の強力さを目の辺りにして、薩摩藩主の島津家と接触したがっていた。これを斡旋したのがグラバーであった。英国使節団と島津藩との会見は、1866年、鹿児島城内で実現した。英国側は、パークス、グラバーたち、薩摩側は、藩主・島津茂久(しまづ・しげひさ、1840~97年)、その父・島津久光(ひさみつ、1817~87年)、西郷隆盛(さいごう・たかもり、1828~77年)、寺島宗則たちであった。
 周知のように、「グラバー商会」の取引商品は武器が主役であった。1867年には、香港上海銀行とオリエンタル銀行の代理店になった。
 同商会は銀貨決済を原則にしていたが、銀貨による支払いができず、米を差し出す藩もあった。グラバーはこれを了承していた。受けとった米や倒産品は、自社のルートで中国に輸出して換金していた。
 坂本龍馬(さかもと・りょうま、1836~67年)が薩摩の武器と長州の米とを交換して、薩長同盟の基盤を築いたという説は眉唾物である。そもそも、当時の龍馬に大量の武器を調達し、米を換金できる力などなかったはずである。そうした取引の太宗は「グラバー商会」の手になるものであった。
 グラバーは、日本人の勝手な海外渡航を禁じていた幕府の国策を犯して、若者たちの海外留学(もちろん、密出国)の後押しをすべく、渡航のための船や留学先の入国手続きの世話をした。これが、後に薩長の内部で権力を取ることになる若者たちとの親交を深める最大の梃子となった。
 1863年、グラバーは長州の5人の若者(「長州5傑」)を横浜から英国に密出国させた。その5人とは、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(いのうえ・ぶんた、後の馨=かおる、1836~1915年)、遠藤謹助(えんどう・きんすけ、1836~1893年)、山尾庸三(やまお・ようぞう、1837~1917年)、野村弥吉(のむら・やきち、後の井上勝=いのうえ。まさる、1843~1910年)の面々であった。
 5人とも明治新政府で大活躍している。伊藤博文は4期に渡り首相を務めた人である。「グラバー商会」が深く関わった大坂造幣寮の建設に山尾を除く4人は、いずれも、大坂造幣寮の長になった経験がある。井上馨と井上勝は、グラバーが紹介したオリエンタル銀行の指示の下で、造幣頭、造幣局長として、大阪造幣寮建設の責任者であった。遠藤謹助も造幣寮では大活躍をしている。1870年に造幣寮長の任に当たるが、独断専行していた、オリエンタル銀行のキンダーと衝突、結局、キンダーを造幣寮から追い出すことに成功している。一時はその責任を取って、遠藤は造幣寮を辞している。現在、大阪人に人気のある造幣局の「桜の通り抜け」は、1883年、当時局長であった遠藤の提唱で始まったものである。
 英国への留学については、長州藩の後が、薩摩藩士の番である。1865年、「グラバー商会」は、後に大阪経済界の大黒柱になる五代友厚率いる19名の薩摩藩士を乗せて密出国させた。
 一行19名のうち、引率係の寺島宗則、五代友厚、他2名と年少の長沢鼎(ながさわ・かなえ、1852~1934年)の5名を除いた14名は、一旦ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに入学したが、すぐに、フランス、米国に転学した。長沢は、アバディーンの実家に預けられて地元の学校に通った。
 米国に転身したのは、森有礼(もり・ありのり、1847~89年)ら6名であった。とくに、森は、初代文部大臣、一橋大学(東京高商)の創設者として、日本の教育界に巨大な足跡を残した人である。
 グラバーが送り出した留学生たちのそれぞれは、明治新政府時代に大きな業績を残したが、それでも、グラバーが日本に創業した事業の数々は、当時の日本人の度肝を抜くものばかりであった。
 1865年、グラバーは、長崎の大浦海岸通りに蒸気機関車を走らせた。数百メートルの線路の敷設、燃料である石炭の調達等々は、すべて「グラバー商会」が実施した。
 グラバーは、長崎の小菅(こすが)の入江に船舶の大規模な修理工場(修船場)を建設した。この建設には、英国留学から帰った五代友厚の協力があった。五代は薩摩藩の会計係に就任していた。留学からの帰国後1年で、五代は薩摩藩の共同出資という形で、グラバーに協力したのである。
 日本が欧米から購入した船のほとんどは中古船であったために、どうしても修理施設が必要だった。工場建設に協力したのは五代友厚、小松帯刀であった。工場建設に必要な「コンニャク・レンガ」(日本最古の煉瓦、コンニャク型で小型)は後に三菱長崎造船所に払い下げられる「長崎製鉄所」で焼かれたものである。
 この修船場は、その形状から「ソロバン・ドック」と名付けられ、新帝まで見学した。
 この「小菅修船場」はグラバーが経営していたが、1869年に政府によって買い上げられた。官営になってからも、管理は政府が雇用した外国人技師によって担われていた。しかし、これも、1887年に三菱長崎造船所に払い下げられた。岩崎家と明治政府との強い結びつきをこれは示したものである。
 グラバーは、1868年に高島炭鉱の本格的な採掘を佐賀藩主の鍋島直大(なべしま。なおひろ、1846~1921年)と交わす。資金の多くは香港の「ジャーディン・マセソン商会」によって供与された。
 しかし、これまで、グラバーの事業展開に協力してきた「ジャーディン・マセソン商会」が、グラバーは事業に手を広げすぎだと判断して、資金供与を渋りだした。当然、グラバーは、急速に資金不足に直面した。1870年、グラバーは高島炭鉱を「オランダ貿易協会」に売り渡してしまう。 その直後、炭鉱では激しい労働争議が起こり、死者まで出た。そこで、1874年政府が35万円をグラバーに貸し付け、炭鉱をグラバーに買い戻させた。
 同年、政府は「日本坑法」を成立させて、外国人による炭坑の所有を禁じた。グラバーは、実の弟たちとともに、炭鉱には残ることができたが、所有権は、後藤象二郎(ごとう・しょうじろう、1838~97年)が社長を務める「蓬莱社」(ほうらいしゃ)に移された。
 これも、身売りされる運命にあった。身売りに奔走したのは、グラバーと福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835~1901年)であった。
 結局、高島炭鉱も、岩崎弥太郎(いわさき・やたろう、1835~85年)の「三菱商会」(1873年設立)が負債も含めて炭鉱を引き受けた。グラバーは、1885年まで炭鉱の顧問に就任していた。
 グラバーの最大の取引相手は、西南部の雄藩であった。グラバーは、これら大名たちに倒幕のための武器を売りつけていた。しかも、代金は延べ払いであった。
 皮肉にも、倒幕の成功が、グラバーの首を絞めたのである。藩が解体されることによって、大名はグラバーへの支払いができなくなったのである。
 グラバーの手元には、大名が発行した無数の約束手形と売れ残りに膨大な数の武器であった。
 「グラバー商会」と密接な関係を築いてきたグルーム兄弟は去り、茶輸出で協力してきたフレデリック・リンガー (1838~1907年)も独立してしまった。
 「ジャーディン・マセソン商会」が「グラバー商会」への資金供与を拒否したことから、1870年、グラバーは長崎にある英国領事裁判所に破産申告をし、会社解散を決意した。同社の資金繰りは、すでに明治新政府ができた1868年には極度に難しくなっていた。しかし、大坂造幣局(造幣寮)建設への協力を同社は五代友厚から依頼され、「ジャーディン・マセソン」商会を介在させて、閉鎖状態にあった香港造幣局の造幣機械を「グラバー商会」が買い取り、明治政府に転売した。造幣寮の完成祝賀会が開かれた1871年には、「グラバー商会」はすでに会社解散をしていたのである。五代からすれば、少しでも「グラバー商会」の資金繰りを助けようとしていたのかも知れない。後に造幣寮の長官となった遠藤勤助は、すでに指摘したように、グラバーが英国への留学の導きをした人である。
 しかし、造幣局の重要な業務のほとんどはオリエンタル銀行に握られていて、「グラバー商会」は造幣寮の操業初期に機械を納入しただけで、利益を出せるだけの取引ができたわけではなかった。
 1870年に「グラバー商会」を倒産させた後も、グラバーは、日本に留まっていた。たとえば、高島炭鉱の所有権は「オランダ貿易協会」に移ったが、実質的な経営権はグラバー個人に残された。炭鉱が、後藤象二郎の会社に払い下げられても、経営は依然としてグラバーに委ねられたままであった。「三菱商会」に転売されても、岩崎はグラバーを炭鉱経営の所長の地位を与えた。それは1885年まで続いた。所長を辞めた後も、グラバーは、「三菱商会」の顧問として、岩崎との関係は保たれた。顧問として雇われていたのである(1885年まで)。
 「グラバー商会」が倒産してしまい、一時の勢いは失われた後も、グラバーはしたたかに日本の新政府の中枢に食い込んでいく。大阪で娶った日本人の妻と終生生活を共にし、子供たちも日本人として育てた。対外戦争に血道を上げる日本に滞在し、日本の土となったのである(本稿は、ブライアン・ババークガガフニ、平幸雪訳『グラバー家の人々』長崎文献社、2003年、を参照している)。