能力主義の神話と障がい者の虐殺

斉藤日出治(大阪労働学校・講師)

「わたしたちの中に彼はいる」
 「彼」とは、相模原市緑区千木良(ちぎら)の障害者施設「津久井やまゆり園」で一九名の重度障がい者を殺害したこの施設の元介護職員のことです。この「彼」はなぜわたしたちの中にいるのでしょうか。わたしたちのなかに「彼」を住まわせているものは何なのでしょうか。
 わたしはそれを能力主義という神話だと考えます。能力主義とは、個人の能力を発揮することによって経済成長を推進し社会を豊かにすることができるという思考です(この思考がなぜ神話なのか、ということについては、後ほど述べます)。そのために個人の能力をかぎりなく育てるような教育環境を整備し、諸個人の能力主義にもとづく競争をあおり立て、個人の才能による技術革新がかぎりなく追求されます。
 そしてその成果が経済成長となって結実したときに、その富を享受できるのは、自己の能力を有効に発揮することができた者となります。この思考は不平等や格差を正当化することになります。たとえば、非正規労働者やワーキングプアーが最低限の生活水準に満たない賃金しか得られない場合、それはその個人の能力のゆえとされます。

能力主義はなぜ神話なのか
 この能力主義が神話であることを究明したのが、近年、世界の話題をさらったフランスの経済学者、トマ・ピケティ(『21世紀の資本』筑摩書房)です。かれは資本主義社会が所得や資産の格差を是正するシステムではなく、その逆に格差を増幅する社会であることを資本主義の三〇〇年の統計データを使って立証して見せました。資本主義とは、不動産や金融資産や特許権などの資産を私的に所有するひとたちがその資産がもたらす収益(地代、株の配当、利子、手数料など)によって富を増やす社会だというのです。つまり、資本主義とは、資産を相続する社会層がより豊かになる相続財産社会であり、労働しない者が富を増やす不労所得社会(レント社会)なのです。
 資産の所有者がその資産によって手に入れる収益の比率(資本収益率と呼ぶ)は、賃金労働や事業経営などの活動によって手に入れる報酬の伸び率(これは国民所得の成長率で表される)よりもつねに高い、これが有名なピケティの公式です。つまり、格差は能力に基づくのではなく、財産相続と不労所得にもとづく、というのが、ピケティの導き出した結論です。
 ですが、問題はその先にあります。資本主義は相続財産社会であり不労所得社会であるにもかかわらず、その社会が能力主義的競争と経済成長の理念によって正当化されている。ひとびとが手に入れる富の多寡はその人の個人の能力がもたらした成果である、という表象がこの社会にはしっかりと根づいています。石油の利権で巨額の富を手に入れるアラブの石油王よりも裸一貫でマイクロソフト社を自力でたちあげたビル・ゲイツが賛美されるのはそのためです。
 このような格差の社会的表象は、貧困対策や福祉政策や社会的弱者の救済策に重大な影響を及ぼします。所得を再分配したり、社会のすべてのひとびとに生存のための基本的な条件を保証するという考えが能力主義の表象と衝突し、能力主義の表象を侵害するからです。
 そうすると、ひとはこの能力主義の表象にしたがって考え行動するようになる。つまり、自分の能力を発揮して仕事をし投資することによって富を増やそうと努力します。そして富を増やしたときは自分にそのような能力があったのだと自負し、逆にいくら働いても富を増やすことができないときは自分の能力が不十分なせいだと思い込む。このようなまなざしは自分に対してだけでなく、他者に対しても向けられることになります。
 けれども実際に、大企業の経営者が巨額の役員報酬を手にするのは、その経営者の経営能力のゆえではありません。巨額の役員報酬は、報酬委員会で報酬額を操作する政治の力のゆえにすぎません。にもかかわらず、グローバル資本主義においては、能力のある者が富を手に入れるという神話が支配しています。

能力主義の神話が発動する暴力
 このような神話が支配する社会では、貧困状態におとしめられているひとびとが、その原因を自分の能力のゆえとみなし、自分の「無能力」に対する攻撃へと向かうようになります。自分は能力がないために不遇なのだと思い込んだひとは、そのゆきつくはてに自死の道を選ぶことになる。そして、ひとは同じ思考によって、他者を攻撃するようになる。攻撃の的となるのは、「能力がないために社会に負担をかけている」と見なされるひとたちです。「障害者は生きている価値がない」と「彼」に思わせたのは、このような能力主義的思考なのです。
 能力主義の思考が根づいている社会では、社会的弱者や貧困状態にあるひとが、それよりもさらに劣悪で無力な環境に暮らすひとに対して暴力を振るう社会となります。介護労働者だった「彼」は、自分が働く施設の知的障がい者にその目を向けました。攻撃は富裕層や権力者に向かうのではない、もっとも無力な人々に対して無慈悲な暴力が行使されるのです。
 相模原事件の容疑者が犯行の五ヶ月前に衆議院議長の大島理森に宛てた手紙「障害者を殺害する」がネットで公開されましたが、その手紙の末尾には、「安倍晋三様にご相談いただけることを切に願っております」と記されていました。
 この文言には、彼の安倍首相に対する強い共感がにじみ出ています。それ以上に、彼は自分がこれから行おうとしている行為に対する救いのようなものを安倍首相に求めていることがわかります。「安倍さんだったら、自分がやろうとしている行為を理解してくれる」、それどころか「よくぞやってくれた、と評価してくれる」、そういう宗教的救済にも似た思いがあったのではないでしょうか。彼の思考と行動は、安倍政権が推進している新自由主義の理念とぴったり一体化しているのです。
 この能力主義の思考は国際関係にまで及ぶようになります。中国、韓国、朝鮮民主主義人民共和国などの近隣の諸国を自分たちの国よりも劣位の地位に置き、日本が長期不況に陥って直面する経済的困難をその劣位と見なす諸国のせいにしてそれらの諸国を攻撃する。この態度は、日本が侵略や植民地支配で犯した重大な加害の責任を包み隠すことになります。
 能力主義的思考はなぜ国家間の関係や人々相互の関係を敵対と競争の関係に落とし込んでしまうのでしょうか。それは能力主義的思考がひとびとの連帯や相互扶助の精神を解体し、ひとびとを社会的なつながりから切り離して孤立したはだかの個人に分解するからです。そして、その個人を能力主義的競争の渦に放り込みます。地域、家庭、結社、協同組合、共同体などのコミュニティの関係は能力主義的な市場競争が十全に機能するための妨げとなるからです。

能力主義に潜む全体主義
 ですから、神話や宗教の高みにまで上り詰めた能力主義の神話は、ひとの能力についてのきわめて特異なとらえかたに立脚しています。ここで称揚されているひとの能力とは、学力・金銭力として数値化され比較考量される能力です。個人の能力とは、本来は他者との関係や共同のつながりのなかに存在します。社会を豊かにはぐくむのはそのような共同的・集合的能力です。個人の多様性や個性はその共同的・集合的能力を基盤としてそのうえに開花するものです。
 これに対して、能力主義的競争の中では、ひとびとが分断されたがいに敵対しながら個人の能力を数量的に高める競争を強いられていきます。ひとびとをばらばらの個人に分断して、その個人の能力を開発し、その能力を経済成長に向けて動員します。 ですから、それは一種の全体主義的思考といえます。個人の自立を促すかに見えるアクティブ・ラーニングといった教育手法のなかにもこの全体主義的な能力主義の思考が浸透していきます。能力主義は個人の能力を尊重しその自己開発を推進する思想でありながら、じつは個人の能力を経済成長、国富の増大に向けて動員し、諸個人を国家の価値基準に従って序列化し、価値づける全体主義的思考と不可分なのです。

能力主義の神話にとりつかれた自己からの脱却を
 能力主義の思考は、自分の人生のすべてを経済計算し、自分の活動を投資と見なして、その投資の利益の多寡で自分の行動を決定する考え方を増長します。恋愛、結婚、進学、就職、友人のつきあいのすべてがそのような能力主義の思考によって判断されるようになります。
 当然、障がいのある子供を産むという「リスク」を避けたいという優生思想の考え方もそこからわき上がってきます。優生思想はかつての全体主義の思考のように国家の強制力によって強いられるのではなく、一人一人のこころのなかに潜む自発的な思考となります。けれど、それは個人の心の中に宿る全体主義の思考です。全体主義は個人の私益を求める能力主義的思考のなかでひそかにはぐくまれ、やがて国家の強制的な暴力となってひとりひとりにブーメランのようにはねかえっていきます。
 わたしたちはこの思考によって枠づけられ、金縛り状態に陥って、そこから抜け出すことができなくなります。相模原事件の容疑者はこの能力主義的な思考に沿ってきわめて忠実に行動したといえます。わたしたちのだれもがそのような思考に基づいて生きているかぎり、たしかに「わたしたちの中に彼はいる」のです。
 社会的差別を受けているひとびとが社会の保護を受けることを「特権」として批判し、そのような「特権」を許さない、と声を上げる人たちも、やはりこの能力主義の神話にとりつかれたひとたちです。「そうだ難民しよう!」というキャッチコピーを思いついたイラストレーターも同じです。このイラストレーターにとって、「難民する」とは自己の能力を発揮して利益を上げるための都合のよい手段と見なされているのです。
  こうしてわたしたちの中に住み着いた「彼」はわたしたちの心と体をしだいに深くむしばんでいきます。それだけでなく、わたしたちの関係をもむしばんでいきます。自己と他者をともに生きる価値のないものとみなし、その存在を抹殺しようとする攻撃的暴力の世界がそこから立ち現れてきます。そして、この暴力の世界を統制しようとして強力な国家が介入し、安心とセキュリティを提供しようとします。相模原事件のあとでさっそく監視カメラを設置する対応が始まりました。さらには、排外主義をあおり立て、国民の不安を国外に向けて誘導しようとする。わたしたちの国はすでにそのような暴力主義の世界へと変貌しています。
 私たちは自分の中に巣くう「彼」をみずからの力で追い出さなければなりません。そのためには、個人の能力を開発するという神話から脱して、自己が他者とつながっていること、他者とのつながりのなかにある自己を見いだすこと。そのつながりを大切に育てていくことが求められています。(本稿は、月刊『むすぶ』(ロシナンテ社)No.548.2016年9月号に掲載された原稿の転載です)