原発と優生思想―≪安楽への全体主義≫と向かい合う

大阪労働学校・アソシエ講師 斉藤日出治

 原発事故は優生思想を触発する。この危惧を指摘したのは、「脳性まひ者の生活と健康を考える会」の古井正代さん(「母体の血をのぞき見て―母体血検査と原発」『月刊むすぶ』ロシナンテ社、五二二号)である。彼女は原発事故後にひんぱんに実施されるようになった出生前診断のうごきのなかに原発事故の災いがさらに新たな災いを生む連鎖現象を読み取る。
 古井さんがこの文章のタイトルを「出生前診断」とせずに「母体の血をのぞき見て」という女性の主体のまなざしから問いを立てていることにまず注目したい。「出生前診断」と言うと、それがまるで客観的・中立的な医学(あるいは科学技術)の営みであるかのように受け止められるが、彼女はこの動きが妊娠した女性の不安の意識から発生するというところに着目する。この不安の意識は、放射能汚染がもたらす女性の「不吉な予感」に根ざしている、と。
 そして、この「不吉な予感」が「奇形児」や「障害児」を産み育てることへの恐怖心へと転ずる。この転換は女性の主観的な意識が自動的に生み出すものではなく、そこには政治が作用している。政府は女性の不安の意識に向かい合うどころか、それが恐怖へと転ずる動きを先導する。それが事故直後に政府が発した声明「ただちに健康には影響しない」という「不気味な言葉」だ、と古井さんは言う。この政府声明は、女性にとって放射能汚染が将来の自分の健康に及ぼす悪影響に対して政府が責任を回避しているかのような弁として受け止められるのだ。
 このようにして、「障害者を産むこと」を恐れる意識が、出生前診断を助長し、「障害者」を産むことを回避する行動をかきたてる、つまり女性に「命を選別する」意識を押し付ける。そこに生じてくるのはまぎれもなく優生思想の意識である。古井さんはこの意識が反原発の主張の中にも潜んでいると言う。放射能汚染に対する不安の意識(それ自体は健全な意識)が、「障害児」という「不幸な子ども」が生まれることに対する恐怖へと転ずる。
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 古井さんが洞察した原発事故後に進展するこのような優生思想の深まりは、じつは原発事故が発生する以前のこの社会のあり方に起因しているように、わたしには思える。とりわけ、原子力を産業的に利用するかたちで原子力発電を受け入れてきたこの社会のありかたと密接にかかわっているように感ずる。
 染色体異常を事前に検査する出生前診断は、近年バイオテクノロジーの技術進歩によってかなりの程度普及し、バイオビジネスの重要な市場になりつつある。『朝日新聞』(二〇一四年五月三一日)は、米国で妊婦の血液から染色体異常を見つける新型出生前診断が加速していることを伝えている。シーゲノム社、ナラテ社など米国のバイオ企業が血液の検査項目を増やして出生前診断を妊婦に提供し、その結果、染色体に異常があっても出生後に症状が出ないような染色体異常まで検出することができるようになる。そのため出生後に症状が出るかわからない検査結果でも中絶する事例が出ている。日本でも昨年四月から妊婦を対象とした臨床研究が進んでいるから、アメリカと同様に出生前診断の検査項目が増えていく可能性が高い、と記事は報じている。この動きは、当然に命を選別し、出産を回避する中絶の動きを加速することになる。
 又、その逆の動きもある。「有能な子ども」を求めるために、精子バンクで精子を購入し、子どもを産むような動きも進展する。医学や遺伝子工学の進歩によって、子供の産み分けができるようになり、子供をまるで工業製品を製造するようにして工学的に処理する動きが加速する。
 アメリカの社会学者ジョージ・リッツァは、『マクドナルド化する社会』(一九九二年)(早稲田大学出版部)でこのような動きを「生のマクドナルド化」と呼んで、かなり前にその問題を指摘していた。リッツァは、効率化、数量化、予測可能化、自動制御化といった計算合理性の徹底した追求をめざすマクドナルドの経営方式のうちに、マックス・ウェ-バーの言う形式合理性が支配しつくす現代社会のメカニズムを読み取り、その形式合理性の極限化する動きが人間の生と死の領域にまで浸透したことに警告を発した。
 その意味で、優生思想は最先端のテクノロジーと最先端の資本主義と結びついていることが分かる。そして、原子力発電はこの最先端のテクノロジーと資本主義を代表する産業にほかならない。
 原発というテクノロジーは、ひとたび炉心溶融事故が起きれば、人間にとって制御不能な放射能汚染を拡散するという社会の破局の可能性を秘めている。そのため、その破局的なリスクを「平和」「安全」というイメージで塗り固めて、社会に導入されてきた。一九五〇年代には、広島・長崎の被爆の恐怖を封じ込めるために、「原子力平和利用」というキャンペーンがふりまかれた。原発が日本社会に定着すると、今度は、温暖化対策としてのクリーン・エネルギーと安全神話のキャンペーンが巨額の広告費を使ってはりめぐらされる。このキャンペーンによって、死と恐怖の原子力が平和と進歩の原子力に反転する。進歩的知識人や科学者もこの「平和利用」を歓迎した。市民社会の内部では、「夢の原子力」を語る言説が新聞、雑誌、映画、コミック等のメディアを通して浸透する。
 このような情報の操作による世論の同調化を通して原子力発電が市場に導入され、普及していく。原子力発電のテクノロジーは、このようなひとびとの感覚の画一化と世論の順応主義をかきたてる知的道徳的指導によって社会に全体主義的な作用を及ぼす。だが、カール・ポランニ―(『市場社会と人間の自由』若森みどりほか訳、大月書店)や津村喬(西尾漠との共著「原子力推進と情報ファシズム」『津村喬精選評論集』論創社、2012年)などごくわずかな言説をのぞいて、このような作用に警告を発する者はほとんどいなかった。原子力発電は、一瞬のうちにすべての人々の命を消去する核兵器とはちがって、ひとびとの自由な行動と両立するテクノロジーであるかのような錯視が支配したのである。
 だが、原子力発電は、ひとたび炉心溶融事故によって放射能を放出すると、すべてのひとに選択の余地なくその強制力を発揮する。市場選択の自由によって導入された原子力発電は、強制力をはらんだ全体主義へと反転する。福島の事故はその恐怖をわたしたちにまざまざと見せつけた。このような破局のリスクをはらんだ原子力発電が市場取引の対象となり、原子力がわたしたちの「電化生活」を豊かにはぐくむという幻想が社会に根づくようになった。
 出生前診断によって子どもを産み分け、出産を工学的に処理する優生思想は、市場取引における選択の自由によって豊かな生活が約束されるという幻想と密接に結びついている。そこには、市場における選択の自由が全体主義の強制力へと反転する過程が潜んでいる。わたしは藤田省三の「安楽への全体主義」(『全体主義の時代経験』みすず書房、一九九四年)の思想からこのことを学んだ。藤田省三は敗戦後の日本社会が高度成長に向かって突進していく事態を冷静に眺めていた。そして、高度成長は、日本が敗戦の壊滅的な打撃から雄々しく立ちあがっていく過程などではなく、戦前と同じ全体主義が深化していく過程であることを深いところで読みとった。
 藤田が敗戦後の日本社会で着目するのは、つぎのような事態である。日本人は敗戦によってすべてを失ったが、同時にみずからの存在の根拠としていた国家が崩壊することによって、ひとりひとりの個人が国家から解き放たれ、ただみずからの経験にもとづいて他者や事物とつきあいつつ社会を築き上げる可能性を手にした。藤田はこの経験を戦後思想の原点に据える。闇市で日本人が味わったのはこの解放感であった。
 ところが、高度成長は、日本人がせっかく手にしたその経験をみずから手放していく過程であった。洗濯機、テレビ、冷蔵庫などを「快適である」という理由からつぎつぎと手に入れようとする心の動きのうちに、藤田は日本人がみずからの経験を放棄していく過程を読み取る。そこには、ひとびとがたんに不快を避けようとするだけでなく、≪経験する≫ことそのものを回避し、「不快を呼び起す元の物(刺激)そのものを除去して了いたい」(四頁)という欲望が潜んでいる。それは「一切の不快の素を機械的に一掃しようとする」(四頁)心的態度であり、「恐るべき身勝手な野蛮」(五頁)だ、と断じる。
 藤田はこのような高度成長に向かう日本人の心の動きの中に、戦前の軍国主義と同じ全体主義のにおいをかぎ取る。戦前の軍国主義が「異なった文化社会の人々を一掃殲滅することに何の躊躇も示さなかった」ように、「高度成長を遂げた今日の私的「安楽」主義は不快をもたらす物全てに対して無差別な一掃殲滅」(五頁)を期待してやまない、と。
 原発事故後に生まれる優生思想は、放射能の汚染の不安から突如生まれたわけではなく、高度成長に起源を発し、さらにそれ以前の軍国主義にもさかのぼるこのような心の動きの延長上にある。
  古井さんは、原発の事故後に、被爆のリスクに直面して、ひとびとのあいだに二つの対応がとられたことに注目している。一つは、事態を直視せず、「被爆はたいしたことがない」と思いこんで、被爆の恐怖をみずから打ち消そうとする動きである。「福島では事故後に甲状腺がんの発生率がさほど増えていない」、「チェルノブイリのようなリスクはほとんど見られない」、として、被爆の脅威を軽視しようとする。
 もうひとつは、被爆がもたらすであろう将来のリスクを恐れて、そのリスクをあらかじめ封じ込めようとする。その表れのひとつが、妊娠した女性が出生前診断で染色体異常が見つかった胎児の出産を拒む優生思想への道である。
 このいずれの対応も、藤田が洞察した「安楽への全体主義」と結びついている。前者の対応は、被爆のリスクに向かい合うことを回避し、現実から目をそむけ、現実を見ないようにする行為であり、後者の対応は生まれてくる未来の「不快」を回避しようとする行為にほかならない。かつてアジアの他者に向けて行使した「一掃殲滅」の行為が、わたしたちの身体と精神に向かって、さらには未来の時間に向かって侵攻している動きをここに読み取ることができないか。
 スラヴォイ・ジジェク『ジジェク、革命を語る』(青土社、二〇一四年)は、藤田が戦後の高度成長のうちに洞察した「「安楽」への全体主義」が今日の新自由主義的グローバル経済においてさらに深く進行していることについて、恋愛を事例に挙げて、つぎのように語る。われわれは「ナルシシズムが強すぎて」、本気で恋に落ちるという体験をすることに恐怖心を抱いている。われわれは「安全な繭の中にいることを望んでおり、自分を他者にゆだねる官能的なセックスさえも、愛のないセックスに変わりつつあります。・・・今日のナルシシズム的で、独我論的で、個人主義的な文化においては激しい愛着はどんな形であれ脅威とみなされるのです」(一三二頁)。
 ジジェクは、現代のナルシシズム的個人主義のうちに「絶対的な安全を得たいという強迫観念」(一三三頁)を読み取る。この脅迫観念は全体主義を呼び起すてことなる。安倍政権がつぎつぎと打ち出す政策は、国家の非介入による市場の自由競争の推進と軍事力の増強による強力な国家介入という、一見すると相反する方向を向いているようにみえるが、上述した日本社会の「安楽への全体主義」を先導し、ひとびとの不安の意識を増長させつつ行使される政策という視点からとらえかえすとき、その一貫性が見えてくる。慰安婦や強制連行のような日本人にとって「耳障りな事実」はなかったことにして消し去りたい、特定秘密保護法や集団自衛権は国民の安全のためにどうしても必要だとアピールする。集団自衛権が国民にとって必要だと訴えるのに、日本人家族が米軍の航空母艦に乗って避難する事例をなぜ挙げるのか、そのわけも腑に落ちる。
 優生思想は市場経済の全体主義と不可分に結びついている。このことを踏まえたうえで、さらにその全体主義が湧き出てくる源泉が、安楽を求めて経験を回避しようとするわたしたちの心の態度に潜んでいることに気づかなければならない。そして、そのような心の態度と強力な国家の介入が相互に支え合って、わたしたちの日常生活を破局へと押し流そうとすることに思いを致さなければならない。
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 原発事故がすでに起きてしまった以上、その現実を打ち消してみたり、その現実に向かい合うことを回避するのではなく、生み出された事態に正面から向かい合うほかない、古井さんはその視点から、健康被害の可能性を避け、安全な地域に移住し、将来世代へのサポートをしていくことが大切だと訴える。将来世代を産む女性に「不吉な予感」への恐怖心から「子殺し」を選択させる仕組みを社会が全体として受けとめ、変革していく道が求められている。古井さんのこの提言は、優生思想を生み出している現在の市場経済全体主義との対決の姿勢を明示している。(名古屋同人誌『象』80号、2014年秋、からの転載)