学長通信(第8号)

 後期以降、講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のつくときにご参加下さい。場所:学働館3階・講義室・図書室。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、11月から月2回、「労働講座」が始まります。ご参加・聴講をお待ちします。

 (1) 2016年11月の講義予定

第1限(10時半~12時)「基礎ゼミナール」
田淵太一(同志社大学商学部教授) 毎週月曜日(11月7、14、21、28日)
「保守系の経済学のどこが間違っているのか?」

鈴田渉(大学非常勤講師) 毎週木曜日(11月10、17、24日)
「憲法を学ぶ」

齊藤日出治(本学副学長)・本山美彦(本学学長) 毎週金曜日(11月4、11、18、25日)
「自由討論」

第2限(13時半~15時)「社会変革の古典を読む講座

大賀正行(部落解放・人権研究所名誉理事) 毎週月曜日(11月7、14、21、28日)
「『空想から科学へ』購読」

齊藤日出治(ご入院中の友永健三、部落解放・人権研究所名誉名理事の代行) 毎週木曜日(11月10、17、24日)
「『資本論』を読む」

田畑稔(『唯物論研究』編集長) 毎週金曜日(11月4、11、18、25日)
「マルクスのアソシエーション論」

第3限(16時半~18時)「社会制度の改革を学ぶ講座」

加藤哲郎(早稲田大学大学院政治学研究科客員教授) 11月7日(月)
「グラムシの機動戦・陣地戦論から21世紀情報戦論へ」

鄭海東(福井県立大学経済学部教授) 11月14日(月)
「中国の貧富格差」   

生田あい(『コモンズ』編集長) 11月17日(木)
「社会変革の闘い」

井上正夫(松山大学経済学部准教授) 11月18日(金)、21日(月)
「貨幣から見た日中交渉史」 

澤野義一(大阪経法大学法学部教授) 11月25日(金)
「日本国憲法の平和主義と各国憲法の平和・安全保障方式」

服部良一(元衆議院議員) 11月28日(月) 「原発問題」 

第4限(19時~20時半)「共生・協同社会建設を学ぶ講座」

津田直則(桃山学院大学名誉教授) 11月21日(月)
「労働者協同組合」

柳充(前関生支部副委員長) 11月25日(金)
「実践討論」

新設 「労働講座」 毎月第2、第4火曜日、18時半~20時 全12回(予定)
第1回 「生産関係について」 講師・山元一英(前・全港湾大阪支部長)11月8日(火)
アドバイザー・本山美彦(本学学長)

第2回 「商品生産と価値法則について」 講師・山元一英 11月22日(火)
アドバイザー・齊藤日出治(本学副学長)

 (2)地域との共生を模索して―地域史から学ぶ

 第5回 トーマス・グラバーの日本人妻に見る明治新政府の戸籍制度─外国人との結婚に関して(1)

 1. グラバー邸を三菱が購入

 グラバー商会は、1870(明治3年)に支払い不能で倒産した。倒産後もグラバーは日本に留まり、三菱の顧問などを歴任して広範な事業に取り組み、1863(文久3)年に建造した「グラバー邸」を1911(明治44)年に日本で逝去するまで手放さなかった。
 グラバー邸は、一度はグラバーの子供達(長男の倉場富三郎と長女のハナ)の共同所有になっていたが、最終的に倉場富三郎(クラバ・とみざぶろう)の単独所有になっていた。富三郎は、1939(昭和14)年に三菱長崎造船所へ売却するまで、妻のワカとここに居住していた。
 この売却は、太平洋戦争開始前に主力戦艦となる航空母艦の建造を理由としたものであった。合いの子として、戦争体制に突き進んでいた日本社会の冷たい目に耐えてきた倉場にとって、これは大きなショックであったろう。彼は、日本が敗戦した直後の1945(昭和20)年に自殺している。
 この間の事情を長崎市の観光案内は怒りを込めて叙述している。
「国際理解を深めるべく活動した富三郎の努力とは裏腹に、悲劇が起こる。・・・倉場夫妻は<グラバー邸>を三菱へ売却し、丘の麓にある南山手9番地へ引っ越す。戦艦<武蔵>建造中の造船所を一望できる<グラバー邸>に彼らにスパイ容疑がかけられたのだ。日本人として生きてきた富三郎にとって、それは耐えられない屈辱であった。そして、その苦悩から終戦直後、自ら命を絶ってしまう。彼が残した遺言には、街の復興のために莫大な金額を長崎市に寄付すると記されていた。グラバー一家のアルバムのなかで、富三郎は、父トーマスから顔をそむけている写真が目立つ。混血であるということ、また、何かほかにも、富三郎が父と心から向き合えない理由があったのだろうか。しかし富三郎は、仕事でも、社交界でも父グラバーの跡を継ぎ、死期が近づいた父のために出来る限りのことをした――― グラバーは南山手3番地の切り拓いた土地に植物を植え、花壇をつくった。グラバーが丹精込めて造りあげた庭園は富三郎へと受け継がれ、富三郎はこの庭花を愛し続けたのだった」(「グラバー邸のもう一人の住人、倉場富三郎」『ナガジン!』、http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1410/)
 三菱長崎造船所への売却について、三菱グループの広報誌(「マンスリーみつびし」三菱広報委員会、2004年5月号)は、以下のように語っている。
 「<長崎のグラバー邸はかつて三菱重工業のものだった>と言うと<へえ~>と反応する人は三菱の関係者にも多いと思う。長崎湾を見下ろす南山手の丘の上。文久3年(1863)に建てられた。プッチーニのオペラ『蝶々夫人』の舞台に擬(ぎ)せられている。ただしグラバーはピンカートンのように愛妻ツルを裏切っていないしツルは自害などしていない。ちなみに、初演から今年で100年目の由。
 グラバー邸は幕末には武器弾薬などきな臭い取引の舞台となったが、明治維新後は普通の外国人の別荘。昭和14年(1939)に三菱重工業がグラバーの子孫から購入した。戦後の昭和32年(1957)、造船所が長崎鎔鉄所として発足してから100年を迎えた記念に長崎市に寄贈された」(「三菱の人ゆかりの人」、「vol.01 トーマス・グラバー (上)」、https://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man01.html)
 グラバーの息子「倉場富三郎」の住んでいた屋敷を、「普通の外国人の別荘」と表現されている。
 歴史を辿っていくと、グラバーの先駆的な事業のことごとくを明治政府の介入によって、政府の管轄下に入れられ、その過程を経て、日本の企業に払い下げられてきた型の繰り返しに気付く。
 高島炭鉱、「そろばん式ドック」などを経営・発明してきたグラバーの事業を紹介した後、「そういうグラバーだったが<日本国内の政局の流動化を背景に…取引の重心をしだいに投機的かつ短期的性格の強い艦船や武器の取引にうつし… >杉山伸也『明治維新とイギリス商人』)一攫千金をねらうようになっていった」と、冷たくグラバーを突き放す歴史物も普通に見られる。
 長崎港を見下ろす南山手の丘に、「グラバー邸」が建てられてから153年の月日が流れた。この建物は当初、接客所として、住居として、また接客に使用した。現存する日本最古の木造洋風建築物として、1961(昭和36年)に国指定重要文化財に指定された。
貿易を目的に、各国から来航した外国人たちは、当初、古寺などに仮住まいしていた。彼らが幕府の命を受け造成された「大浦外国人居留地」に住居を建て始めたのは、第一次造成工事完了後のことであった。借地権を取得した外国人たちは、半永久的にその土地を借り受けることができる「永代借地権」を日本政府から与えられ、毎年末に借地料を支払うことが義務付けられた。南山手3番地に建てられた「グラバー邸」の永代借地者は、グラバーであった。

 2. 実母、養母ともに不明なグラバーの子、倉場富三郎

 富三郎の実母は、グラバーの妻、「ツル」ではないのではなかろうかとの見方がある。グラバー園名誉園長であり、長崎の外国人居留地時代を研究する第一人者でもある長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ(Brian F.Burke-Gaffney)教授の著書『グラバー家の人々』がそれである。詳しいことは分からないが、グラバーとツルが結婚したのは、グラバー商会倒産後であったらしい。五代友厚の紹介であったという説もあるが、その信憑性はない。ツルその人の出生も同じく分かってはいない。
 ツルと一緒になる前、グラバーは遊女であった「菊園」と暮らし、1861(文久元)年、男児「梅吉」が生まれたが、この子は幼くして亡くなっている。
 「グラバー商会」倒産直後の1870(明治3)年12月8日、「加賀マキ」という日本人女性との間に、もうひとり、男児「新三郎」を設けた。この子が、グラバーの長男、倉場富三郎ではないか、つまり、富三郎は「ツル」の子ではないという説である。「加賀マキ」についても、よく分かっていない。
 明治元年に作られた『外国人支那人名前調帳』というものがある。これは、長崎県立図書館に所蔵されている『幕末・明治期における長崎居留地外国人名簿』(郷土史料叢書, 2-4)に所収されたものである。
 それには、南山手甲壱番英マッケンジ借地の居住者に「トヲマス・ゴロウル 同妻」という名がある。「ゴウル」というのは、「グラバー」のことであろう。同妻というのが、「加賀マキ」であると推定されるのは、成人した「富三郎」自身が、自分の実母は「加賀マキ」であると書いているからである。
 その女性とグラバーは別れたが、ツルと一緒に住みようになって、グラバーは富三郎を引き取り、ツルも我が子として育てたらしい。
そして、「新三郎はツルの姓とされる「淡路屋」と「富三郎」という名を使うようになった。
 ツルは、グラバーとは正式に結婚していない。当時、日本人が外国人と正式に結婚するには、政府の許可が必要であったし、結婚してしまえば、日本人妻は、日本国籍を喪う上、日本国内での住民登録にも、外国人の夫の名前は記されないという戸籍法(1873年3月の「太政官布告」のこと)のせいで、詳しいことはほとんど分からない(この点については、次回に詳しく説明することにする)(ここまでの富三郎については、前掲、『ナガジン!』による)

 3. 淡路屋ツルについて

 1894(明治27)年に作成され、いまは長崎市役所に保存されているツルの戸籍によると、ツルは、1851(嘉永4)年1月9日、大阪市新町の「大月又助」の長女として生まれ、「淡路屋安兵衛」の養子に出された(河村瑞賢が開削し、本学校の側を流れている「安治川」は「あわじがわ」とも読める)
 しかし、この戸籍は信頼できるものではないと上記『グラバー家の人々」は叙述している。つまり、ツルの父の名前すら、いまのところ不明なのである。
 グラバーが死ぬまでツルを手放さず、しかも長男の倉場(淡路屋)富三郎の実業家としての令名が高かったということもあって、出生が不明であるツルを巡る覗き趣味的な説がまことしやかに流されることになった。
 曰く、大分の武士に嫁いだが、その藩が佐幕派であったために、勤王派の淡路屋が離縁させたとか、五代友厚がグラバーに紹介したとか、大阪西区の松島でグラバーと所帯を持ったとか、いろいろな説が現在でも入り乱れている。
 もっとも多くの話題を集めたのは、ツルの義理の曽孫(ひまご、そうそん)であると名乗り出た「野田平之助」なる人物が、ツルの略歴を新聞記者に語った内容である。
 それによると、ツルは、大分県竹田村岡城の御普請大工、「中西安兵衛
の娘であり、15歳で時岡町の「山村國太郎に嫁ぎ、「山村ツルになった。1863(文久3)年に娘、「センを産んだ。しかし、嫁姑の諍いと亭主の乱行のせいで離婚して大坂に行き、1年間ほど芸者をした後、長崎に流れ、そこでも芸者をしていた時、三菱長崎造船所の技術顧問をしていたグラバーと知り合い結婚した。49歳で、東京で亡くなった(『長崎日々新聞』1959年10月2日付)とされた。
 ところが、野田は、自著『グラバー夫人』(新波書房、1972年)では、新聞記者に語った内容を大幅に変更し、生まれは、大分の竹田でもなく、芸者でもないとして、大坂生まれ、竹田の殿様の参勤交代に同行し、竹田で結婚し、娘を得たが、明治政府への忠誠心から夫と娘を棄てて、大坂に戻ったとなっている。ただし、それを裏付ける資料を明示していない。
 実際に、くどいようだが、ツルに関しては、1876(明治9)年に娘、「ハナを出産し、1899(明治32)年に東京で死去したということだけが確かである。
 上記『グラバー家の人々』を下に引用する。
 「江戸時代に日本の近代医学に貢献したP. F. フォン・シーボルト(P. F. von Siebold)の日本人妻タキと同じように、淡路屋ツルはトーマス・グラバーの<妻>と呼ぶのが慣わしとなっているが、二人は正式に結婚しなかったというのが事実である。ツルの戸籍、英国領事館の婚姻簿や『内外人許婚人名簿』などの公的史料を見ても、トーマス・グラバーと淡路屋ツルが結婚を届け出た形跡はない」。
 「明治6(1873)年3月に公布された『太政官布告』が日本人と外国人との婚姻を初めて認め、外国人との男女関係を遊女に限るという封建時代の定めを改めた。しかし、この新しい法律には、<外国人ニ嫁シタル日本ノ女性ハ、日本人タルの分限ヲ失ウヘシ>という条項が盛り込まれていた。つまり、法律改正によって日本人女性が正式に外国人と結婚できるようにはなったものの、日本国籍の放棄という厳しい選択を余儀なくされた。
 ツルがこの条項に抵抗を感じ、内妻のままでよいと決意したのかもしれない」。
 『グラバー家の人々」の上記引用文のうち、前段部分は正しい。しかし、後段部分は、不正確である。そもそも、戸籍という概念は当時の西欧人にはなかった(戸籍法などなかった)し、現在でも戸籍制度が残る日本は、中国と並んで世界では例外中の例外であったし、いまもそうであるという認識はこの著作にはない。優れた研究者、ブライアン・パークガフニであっても、外国人である制約があったのであろう。彼の説明は間違っている。この点は、次号で説明する。