学長通信(第10号)

大阪労働学校・アソシエ学長、本山美彦

 講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のおつきになる時間に、1コマでもいいので、ご参加下さい。場所は、学働館3階・講義室・図書室です。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、11月から「労働講座」が、各労働組合の自主的な運営で開始されています。ここにも、組合員以外の方々の聴講をお待ちします。
 また、12月毎週木曜日第1限(10時半~12時)齊藤日出治・副学長による「『資本論』を読む」講義を緊急追加しました。

1. 学生レポート

月曜日 第1限
「保守系経済学のどこが間違っているのか?」 田淵講師の講義に学ぶ
学生A
金本位制の自動調節作用は実在するのか
答えは「実在しない」
 金本位制を行う国があっても、「金」の移動はほとんど起きない。金が移動する前に、中央銀行が金利を調整することで解決している。物価が変動するレベルの金の移動は、歴史上、一度も起こってはいない。
 金本位制とは、金利を調整して金の流出を調整し、金に基づいた為替レートを安定させる仕組みである。為替レートの安定は外国との約束であり、金本位制を守れば、その国に安心してお金を貸せる、つまり信用を得るためにそれぞれの国のエリートが守っていた。
 金利を上げると、お金を借り難くなり、失業・倒産が増加する。金回りが悪くなり、経済活動が停滞する。ケインズは国内均衡より国際均衡を優先する金本位制を批判していた。1870年から1913年まで続いた国際金本位制は、あえて大幅に金利を引き上げ、労働者に失業の脅しをかけて、低賃金を受け入れさせるための制度である。
 国際金本位制を支えていたのは各国における「エリート支配」である。これはイギリスを頂点とし、欧米→日本・南米→植民地の順に構成されたピラミッドに例えると分かりやすい。
 世界で唯一の金融センターを持つイギリスは、負担を周辺国に転嫁できる。イギリスから見て、少し資金が出ている時は、少しだけ金利を上げるだけで資金が戻ってくる。そうすると周りの国は、もっと金利を上げないと自分の国には留まってくれない。
 金が流出しそうになる度に、国内の経済を無視して金利を引き上げる必要が出てくる。不況で金利を上げたら大不況になる。しかし、当時はどの国にも民主主義など無く、労働者階級がどうなろうと眼中にない権威主義的なエリート支配体制であった。ある国はインフラ整備や戦争の費用を賄うために、また別の国は「一等国の栄誉」を得るために、金本位制を守っていた。
 金本位制は第一次世界大戦と共に消えて無くなったが、1925年から再びイギリス主導で復活した。金本位制を復活させたらイギリスは再び繁栄するだろうと勘違いしていたが、本当は「イギリスが強かったから金本位制を保持できた」のである。
 この「再建金本位制」は1931年までの6年間しか保持できず、非常に短命に終わってしまった。これは、①金融センターがロンドンだけではなくなり、イギリスが金利を引き上げるだけでは解決できなくなった、②軍事力のパワーバランスが一次大戦以降崩れ、イギリスにだけ金を預ければ大丈夫という保証がなくなった、③民主化が進んで選挙権が拡大し、政府は新たな経済政策として「雇用政策」を打ち出す必要が出てきたことなどが挙げられる。
 巷では「金本位制は貿易収支を均衡させる作用を持っている」など説明されているが、そんな便利な制度がなぜ現在できなくなったのか。それは決して「ゲームのルール」を守らなくなったからではなく、ルールを守らせるためのイギリスを頂点としたエリート支配体制が失われたからである。

2. 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第7回) 

 1.トーマス・グラバーが残した事業
 武器を売る「死の商人」、薩長を結びつけた張本人「勤王の洋商」として知られているトーマス・ブレーク・グラバー(T.B. Glover 1838~1911年)は、73年の生涯のうち52年を日本で暮らし、2番目の「妻」は日本人のツルであった。明治政府から明治41年(1908年)に勲二等旭日重光章を授けられている。
 それから3年後の明治44年(1911年)に東京で逝去、墓は長崎市の坂本国際墓地。妻ツルと共に息子の倉場(クラバ)(トミ)三郎夫妻と並んでならんで眠っている。
 実父は子沢山で、グラバーはその第五男で、兄(第三男)のジェームズを文久元年(1861年)に長崎に呼び寄せて、自社に入社させている。
 ここで、グラバーの日本における事績を個条的に整理しておきたい。

 ①グラバー邸
 長崎市に現存する、あまりにも著名な「グラバー邸」は、日本最古の洋風木造建築である。文久3年(1863年)、山腹の山の手3番地(当時)という外国居留民に幕府が貸し出した土地に建設された。
 安政6年(1859年)、長崎・横浜・箱館(函館)の3港の開港に合わせて、長崎に着任(上海・香港のアヘン商社=ジャーディン・マセソン商会から派遣されて来日)したグラバーは、21歳の若者であった。若年にもかかわらず、長崎・大浦の外国人居留地の中でめきめき頭角を現し、グラバー邸を建てたのはまだ26歳の時であった。
 グラバー邸は、当時でも異彩を放ち、珍しい独特のバンガロー風であった。グラバーには、当初から社交の場としてそこを利用する意図があったと思われる。事実、維新政府の重鎮になる幕末の志士たちが、このグラバー邸に集っていた。すでに紹介したように、薩摩、長州の若者たちがグラバーの導きによって(すぐ後で見るが、実際には、「ジャーディン・マセソン商会」が世話をした)イギリスに密航し、ロンドンなどの大学に留学した。彼らは、グラバーの恩恵に報いるべく、明治政府の実力者になってからは、グラバー支援を行い続けたのである。
 しかし、グラバー邸は、紆余曲折の末、息子の倉場富三郎の代になって、第二次世界大戦中に三菱長崎造船所の所有になってしまった。

 ②長崎在住の外国商人による「商業会議所」
 来日した直後のグラバーは、ケネス・ロス・マッケンジー(1801~73年)の経営する「マッケンジー商会」で事務員として働いていた。マッケンジーも、「ジャーディン・マセソン商会」のエージェントであった。
 そのマッケンジーが、新たに開港された長江(揚子江)中流域の漢口(ハンカオ、現在の武漢市の一部、「ジャーディン・マセソン商会の拠点があった)で貿易取引を行うべく、文久元年(1861年)長崎を離れたことを契機に、同年、グラバーは、マッケンジーから「ジャーディン・マセソン商会」の多くの仕事を引き継いだ。グラバーは、同商会だけでなく、「デント商会」、「サッスーン商会」という当時の大商社の長崎におけるエージェントの権利も得た。
 「ジャーディン・マセソン商会」は、幕府から大浦2番地の土地を借り受けていたが、その土地も、エージェントであるグラバーの管理に委ねられた。グラバーはその地に事務所を構えた。
 同年、「オールト商会」や「ウォルシュ商会」など、英米の7つの商会(イギリス系5社、アメリカ系2社)の代表が集まり、「長崎貿易の促進と発展」、「不法取引の禁止」、「貿易報告書の発行」をスローガンに掲げて設立された「長崎(外国人)商業会議所」が設立され、グラバーは3名の代表運営者の1人となった。この会議所は、日本で最初の「商業会議所」であった。ただし、外国商人と言っても、長崎在住の西洋商社はまだ少なかった。1865年時点でも、この地に居住していた西洋人は、英国人63名、米国人37名、フランス人19名、その他の西洋人は25名と、合計しても150名に足りなかった。
 グラバーは、若造でありながら、このような重要な位置を獲得できたのも、当時、外国商人の間で大きな信頼を勝ち得ていたマッケンジーの後ろ盾と、「ジャーディン・マセソン商会」の威光があったからであろう。
 武器を扱う前は、グラバーだけでなく、他の西洋商社は、茶の輸出を行っていた。しかし、茶はすでに中国(清)人の商圏であったので、長崎の西洋人商会は、グラバーを通して「ジャーディン・マセソン商会」の交易網に頼らざるを得なかった。アヘン戦争で巨大な特権的権益を得た「ジャーディン・マセソン商会」のエージェントであったグラバーの対中コネクションの内容については、もっと調べる必要が日本の史学には残っている。そのこともあって、本節の流れからいささか逸れるが、「ジャーディン・マセソン商会」について、簡単に紹介しておこう。
 ○注「ジャーディン・マセソン商会」
 「ジャーディン・マセソン商会」は現在でも健在であり、香港に本店を置いている(ただし、バミューダ諸島のハミルトンで登記している)持株会社である(Jardine Matheson Holdings Limited)。いまでも、アジアに根を張る世界最大級のコングロマリットである。
 同商会は、1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社の元船医のウィリアム・ジャーディンと、貿易商人のジェームス・マセソンによって、中国の広州(沙面島)に設立された。広東語名は「怡和(Yee Wo)洋行」(現在の中国語と広東語とでは発音に大きな違いがある。中国語では香港はホンコンとは発音しない)。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出であった。同社は、1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関与していた。同商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は、9票という僅差で軍の広州への派遣を決定した。アヘン戦争後、1844年に上海の共同租界である「外灘」(バンド)で同商会は最初に土地を租借した外国企業である。
 1860年、同社は、横浜の居留地に支店を開設した。日本に進出した外資第1号である。
 長崎には、上述のように、安政6年(1859年)に進出した。同社のエージェントとして、グラバーは、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文といったいわゆる「長州五傑」や、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。薩摩や長州の若手の藩士たちのイギリス留学(もちろん密航)については、同商会横浜支店長やロンドン支店が細かい世話をした。
 今でも、香港のランドマークには「渣甸橋」(Jardine’s Bridge)や、「勿地臣街」(Matheson Street)、「渣甸街」(Jardine’s Bazaar)、「渣甸坊」(Jardine’s Crescent)、「渣甸山」(Jardine’s Lookout)、「怡和街」(Yee Wo Street)といった名称のものが残っている。

 ③蒸気機関車をお披露目
 グラバーは、慶応元年(1865年)、つまり、日本で鉄道が開通する5年も前に、長崎で実際の蒸気機関車を走らせた。
 グラバーは、上海で購入した小型の英国製蒸気機関車を自社の持ち船で長崎に運び,、数百メートルの線路を大浦海岸通りに敷設した。燃料の石炭は日本で産出したものを用いて、機関車を走らせた。多数の見物客が押し寄せたという。その時の模様は、ロンドンの『レイルウェー・タイムズ』(Rail Way Times)の1865年号(年刊誌)や大正7年(1918年)6月7日付『ナガサキ・プレス』(Nagasaki Press)で紹介されたという。
 因みに、日本で蒸気機関車が最初に走ったのは、新橋─横浜間で明治3年(1870年)のことであった。

 ④武装船と武器の売却
 文久元年(1861年)、薩摩の五代友厚(当時は才助)に蒸気船2隻の斡旋を依頼されたグラバーは「ジャーディン・マセソン商会」に照会したが、最初のうちは、適当な船が見つからなかった。それでも、薩摩藩は、五代に、そのまま御船奉行副役として、長崎常駐を命じた。文久2年(1862年)、売却可能な1隻が見つかり、長崎に回航されたが、公武合体運動で長崎を不在にしていた五代が今度は間に合わず、長州藩に、「ジャーディン・マセソン商会」を通してさらわれてしまった(壬戌、じんじゅつ丸)。
 その後になるが、同年に、グラバーの兄のジェームズが、アメリカ船籍のコロンビア号を入手し、筑前(福岡)藩に売り込んだ。「グラバー商会」による船の売却第1号であった。
 そして、薩摩藩は、同年、横浜で自藩の藩士がしでかした「生麦事件」の報復をイギリスから受けることを恐れて、武装船の購入を五代に急がせた。これも、ジェームズがドイツ船籍のサー・ジョージ・グレイ号を上海で見付けて、薩摩藩に売却した(靑鷹丸)。続けて薩摩藩は、グランバーよりアメリカ船籍のコンテスト号を購入(白鳳丸)している。
 文久3年(1863年)の薩英戦争の結果、イギリス軍が使ったアームストロング砲の威力に日本の各藩は目を見張った。薩摩藩は早速グラバーに同砲の入手を依頼した。グラバーは、本国政府に同砲を薩摩藩に売却していいかどうかを問い合わせたが、幕府への外交的配慮から本国は売却に同意しなかった。
 やむなくグラバーが取った措置は、同砲の密輸入であった。ポルトガル領マカオには、アメリカ製の旧式砲が89砲門あった。それらを「ジャーディン・マセソン商会」の香港本店のルートによって、鹿児島に運んだ(イギリス本国政府の預かり知らぬこと)
 周知のように、アメリカのいわゆる南北戦争は1865年4月に終わり、この年から不用になった大量の武器が市場に放出された。死の商人たちは、それらをせっせと日本の各藩に売りつけるようになった。
 そして薩英戦争が突発し、「青鷹丸」に乗船していた五代は、船ごとイギリス軍艦に拿捕され、捕虜となって横浜に連行された。しかし、薩摩藩はその事情についてはつゆ知らず、五代を敵前逃亡者として藩から除名してしまった。イギリスの監禁から脱出した五代は、薩摩藩士からも狙われ、途方に暮れていたが、探索してくれた薩摩藩家老に見つけ出されて、グラバー邸に匿われることになった。
 慶応元年(1865年)に五代が帰藩を許されたのは、小松帯刀が行ってくれた藩主への助命嘆願のせいもあるが、グラバー邸に匿われている間に五代が藩主宛に書いた上申書によるところが大きい。それは、貿易を梃子に据える富国強兵策であった。おそらく、五代は、グラバーと相談しながら書いたのであろう。
 薩摩藩は、米や海産物を上海に売って、その売上金で製糖機械を買う。その機械で砂糖を作り、これを内外に売り捌いて利益を得る。その利益を使って、若い藩士を海外に留学させ、同行した藩のしかるべき人物が、武器類や紡績機械類を購入して、藩の軍備増強と産業技術の向上を図るという内容の上申書であった。
 当然、そこには「グラバー商会」や「ジャーディン・マセソン商会」などの貿易商人の存在が暗黙裏に想定されていた。この点だけを見ても、グラバーが五代に入れ知恵をしたと容易に想像できる。
 そうした想像を裏付けるように、グラバーは、五代の活躍に呼応して上海や横浜に「グラバー商会」の支店を相次いで開設した。必要資金は「ジャーディン・マセソン商会」から借りまくった。
 文久3年(1863年)~元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間で戦闘があった。1863年、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。その報復としてアメリカとフランスの軍艦が、馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃した。しかし、長崎藩は海峡封鎖を続行し続けた。そして、1864年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合軍が、艦砲射撃や兵士の上陸などによって、長州藩の砲台を徹底的に破壊した。
 薩英戦争や下関戦争の様子を見た幕府や各藩は、外国と日本との武力差を思い知らされた。その結果、幕府や各藩は、競って軍艦や武器・弾薬を外国商社、とくに「グラバー商会」から購入するようになった。「グラバー商会」は数値上は空前の儲けを出すはずであった。しかし、結論を先に言ってしまうと、「グラバー商会」の台所は火の車であった。そもそも、外国人からの武器の仕入れは現金であったが、大名からの入金はなかった。当時の日本の大名取引の慣習によって、大名の買いは掛け買いであった。そうした習慣は、数年後の新政府による廃藩置県によって、大名が廃絶されるや否や「グラバー商会」を極端な資金難に陥れることになる。藩が消滅してしまえば、「グラバー商会」が破綻してしまうことは当然の成り行きであった。
 それでもグラバーは、新政府が成立するまでは、軍艦や武器を各藩に売りまくった。1864年の最後の3か月だけでも、グラバーは高価な軍艦を3隻も、肥後、肥前、紀州の各藩に売りつけたのである。

 ⑤「ソロバン・ドック」の建設
 グラバーが大量に売りつけた軍艦のほとんどは中古のものであった。いきおい、修理面での不自由さが目に余ってきた。そこで、グラバーは、慶応2年(1866年)に五代や小松帯刀と組んで、長崎の小菅(こすげ)の入江に大規模の修船場(ドック)建設を構想した。資材はグラバーの故郷、アバディーンの「ホール・ラッセル」社に発注した。グラバーの兄、チャールズ(長兄)が調達の責任を引き受けた。
 資材とは、巻き揚げ機、ボイラー、チェーン、レール等々である。チャールズは、そうした資材を長崎に輸送する快走帆船を、やはりアバディーンの造船所「アレキサンダー・ホール」社に依頼した。「ホール・ラッセル」社の技師が、できあがった帆船に、資材とともに乗って長崎にやってきて、修船場の建設の陣頭指揮に立った。
 明治元年(1868年)に出来上がったドックは1,200トン級の船を収容できる広さがあり、ソロバンの形に似ていたことから、地元では「ソロバン・ドック」と呼ばれた。
 この修船場も、最初こそグラバーの所有であったが、明治2年(1869年)に政府に買い上げられ、明治20年(1887年)、三菱長崎造船所の所有となった。

 ⑥高島炭鉱
 長崎港の入口近くに石炭が採れる高島という地があり、元禄時代から佐賀藩が石炭を採掘していた。しかし、この炭鉱は、幕末の開港時になっても、前近代的な手掘りであり、採掘量も微々たるものであった。工業化が日本でも進行するであろうことを読んでいたグラバーは、高島炭鉱の近代化の方針を佐賀藩主の鍋島直大と話し合った結果、慶応3年(1867年)、香港の「ジャーディン・マセソン商会」に乗り込み、高島炭鉱の近代化のための開発資金の融資を申し込んだ。さらに、アバディーンに足を延ばし、採炭機械の調達と技師の採用の手配をした。
 慶応4年(1868年)、「グラバー商会」は佐賀藩と契約を交わし、直ちに炭層の探査を始めた。幸運にも地下45メートルの当たりで広大な鉱脈を発見した。「ジャーディン・マセソン商会」から融資を受けた豊富な資金と、アバディーンから調達した機材、そして優秀な技師のお蔭で、良質な石炭の採掘は順調に進み、高島炭鉱の石炭は長崎港から内外に販売された。石炭の質は、イギリス産の石炭よりも硫黄分の少ない非常に良質のものであった。
 高島炭鉱は、明治2年(1869年)秋まで順調に操業を継続してきたが、明治3年(1870年)に入ると、スポンサーの「ジャーディン・マセソン商会」が、グラバーに対して、すべての債務の精算を迫った。困ったグラバーは、「オランダ貿易協会」に高島炭鉱を残すことを頼み込み、炭鉱の経営権を同協会に移し、すべての機材も同協会の所有に移し替えた。
 しかし、同協会─炭鉱経営には無頓着であった。グラバーも、炭鉱経営に従事はしていたが、資金的な決定権がないために、経営に毅然とした姿勢を示すことはできなかった。経営責任があいまいになり、資金難で労働環境が急激に悪化したことによって、不満を募らせた炭鉱労働者たちが、ついに、明治5年(1872年)、本格的な労働争議を起こすことになった。日本最初の大労働争議だと言われている。翌6年(1873年)には数十名もの炭鉱労働者の死者が出た。
 明治7年(1874年)、見かねた明治政府が、高島炭鉱の経営に介入することになった。グラバーに公的資金を渡して、高島炭鉱の所有権を「オランダ貿易協会」から、とりあえず買い戻させた。しかし、それは、グラバーを正式の所有者として確定させるためではなかった。一時的な名義切り換えにすぎなかったのである。
 同年、政府は「日本坑法」を国家で可決させ、外国人による日本国内の鉱山所有を禁止することにした。その上で、政府は、一旦渡した所有権をグラバーから取り上げて、土佐藩出身の後藤象二郎が経営する「蓬莱(ほうらい)社」に高島炭鉱を払い下げた。
 グラバーや、彼によってアバディーンから連れてこられた技師たちが炭鉱に留まることは、認められたが、膨大な債務は減少されず、不安的な経営状態はなお継続し、炭鉱労働者の不満は鬱積していた。
 所長の座をあてがわれたとはいえ、グラバーは、いたたまれず、明治13年(1880年)、福沢諭吉を動員して債務も精算してくれる大会社に炭鉱を身売りすることを画策した。
 炭鉱の経営、債務返済のすべてを引き取ったのが岩崎弥太郎であった。明治14年(1881年)のことであった。その後も、グラバーは、高島炭鉱の顧問として残っていたが、明治18年(1885年)、高島炭鉱から一切、手を引くことになった。
 その他、五代との共同事業であった大坂造幣局、あるいは麒麟麦酒の設立などもグラバーの大きな遺産であるが、ここでは割愛する。 
 それでも、少なくとも、繁栄する大三菱グループの下地は、グラバーによっても作られたものであったと見做すことは誤りではないだろう。