学長通信(第11号)

大阪労働学校・アソシエ学長、本山美彦

 講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のおつきになる時間に、1コマでもいいので、ご参加下さい。場所は、学働館3階・講義室・図書室です。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、昨年の11月から「労働講座」が、各労働組合の自主的な運営で開始されています。ここにも、組合員以外の方々の聴講をお待ちします。
 また、1月毎週木曜日第1限(10時半~12時)に、大賀正行・講師による「マルクス関係講義」を緊急追加しました。
 2月、3月には講義はありませんが、土曜日に公開市民講座を予定しています。

1. 2017年1月の講義

基礎ゼミナール 第1限(10時30分~12時)
 鈴田渉・講師「憲法を学ぶ」(毎週木曜日)
 本山美彦・齊藤日出治・講師「自由討論」(毎週金曜日)
 田淵太一・講師「保守系の経済学のどこが間違っているのか?」(毎週月曜日)

社会変革の古典を読む講座 第2限(13時30分~15時)
 大賀正行・講師「マルクス関係講座」(毎週月・木曜日)
 田畑稔・講師「マルクスのアソシエーション論」(毎週金曜日)

社会制度の改革を学ぶ講座 第3限(16時30分~18時)
 大野敦・講師「物流のグローバルチェーン」(16日(月)、20日(金))
 永島靖久・講師「国家機密法」(25日(水))

共生・協同社会建設を学ぶ講座 第4限(19時~20時30分)
 津田直則・講師「協同組合論」(23日(月))
 武建一・講師「労働運動論」(27日)(金))

労働講座 (18時30分~20時)
 山元一英・講師 (24日(火))

2. 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第8回)
 大塩平八郎の乱(1)

 現在の大阪には、天保山(てんぽうざん)という地名がある。
 江戸時代、安治川において、淀川が運ぶ大量の土砂を浚渫(しゅんせつ)したことから、その土砂を積み上げて作り出された人工的な山(実際には山でなく、土砂の塊)が天保山である。天保2(1831)年から約2年間、安治川では「天保の大川浚」(大川とは淀川のこと)呼ばれる浚渫工事が行われた。
 「大坂町奉行」(後述の予定)の指揮の下、延べ10万人以上の労働力が注ぎ込まれた浚渫工事で、浚渫された土砂が安治川河口に積み上げられた。それで出来た築山は約20mほどの高さがあり、安治川入港の目印となった。そのため当初は「目印山」(めじるしやま)と命名されたが、後世、築かれた時の元号から天保山と称されるようになった。
 天保時代は、大火や大飢饉で世の中は騒然となっていた。その時に、「大塩平八郎の乱」が発生したのである。
 天保8(1837)年に天下を騒がせた大塩平八郎の乱は、200年余り続いてきた幕藩体制の崩壊の兆しであった。その顛末については、幸田成友(こうだ・なりとも、幸田露伴の実弟)や森鴎外の有名な叙述があるので、衆知のことであろうが、この乱が浮き彫りにした大坂の町のことについては意外に知られていない。そこで、今回から数回にわたって大塩の乱を通して見える当時の大坂「町民」の生活ぶりを浮き彫りにしてゆきたい。
 大塩の乱を扱う意味は、この乱を通して地歴を眺めたとき、私たちの多くが、過去の人々の生活に関してかなり誤解したままであることを正すことにある。
 たとえば、私たちは江戸時代の庶民を武士ではない「町民」だと見なしてしまう。しかし、これは正しくはない。町民はいわゆる庶民ではない。町民とは、家・屋敷を所有する裕福な階層のことである。つまり、「家持」(いえもち)、大商人たちである。当時の住民は、武士や公家や僧侶以外では、借家住まいの人がほとんどであり、彼らは「借家・借地の者」と呼ばれていた(幸田成友『江戸と大坂』冨山房、1934年)
 町民、武士、僧侶はそれぞれ別個に棲み分けていた。江戸の「町地」(町民が一定の自治を委ねられていた地域)の市街地に占める比率は、江戸と大坂では対照的であった。
 明治2(1869)年に行われた維新政府の調査によると、幕末期の江戸は市街地の約6割も武家地によって占められていた。寺社地と町地は、それぞれ2割程度に過ぎなかった。政治の中心地の江戸では、町民を含む住人が、いかに狭い所に押し込められていたかをこれは示している。
 これとは対照的に、大坂の町地は、市街地のすべてであったと言っても過言ではない。武家屋敷は大阪城の周辺にわずかにあっただけである。大名の蔵屋敷などは町中(大坂三郷、後述する)に少数あったが、それでも、そのほとんどは町民名義の屋敷であった。寺社は後述するが上本町筋と天満の寺町筋に押し込められていた(幸田成友『江戸と大阪』冨山房、1934年)。名実ともに、大坂は「町民の町」、つまり、大商人の町だったのである。
 ここで、「大坂三郷」(おおさかさんごう)という言葉を使ったので、その説明をしておこう。
 大坂三郷は、北組、南組、天満組の3つ組の総称である。「組」というのは、町奉行の管轄領域である町の行政組織・地域のことを指している。
 江戸時代、「大坂の町」とはこの三郷を意味していて、本町通りの北を「北組」、南を「南組」、大川の西岸を「天満組」といった。三郷とは、現在の地名で言えば、大阪市中央区の大半・西区の東部・北区の南部を中心に広がり、浪速区・大正区・此花区・福島区・都島区の各一部にも及んでいた。
 本町通りを南北に横切った2つの川が掘られた。東側が「東横堀川」、西側が「西横堀川」という。この東西2つの横堀川に挟まれた地域が「船場」であり、西横堀川の西側が「下船場」と呼ばれていた 
 いまの「阿波座」はこの下船場に「土佐座」と並んであった。名の通り、阿波や土佐の人たちがこの地で市を開いていたのである。
 有名な道頓堀は、2つの横堀川を結び、木津川にまで続く東西方向の川で、河内久宝寺(かわちきゅうほうじ)の豪商、安井道頓が掘削工事を請け負ったことから付けられた名称である。これは元和元(1615)年に完成している。
 いまの堂島川が「北堀」と呼ばれていたことに対応して、道頓堀は「南堀」とも称されていた(前掲、『江戸と大阪』)
 大坂城落城後、戦乱で大坂外に去っていた商人たちを大坂に呼び戻して、商売を繁盛させるべく、三ノ丸を解放して市にし、その地に、まず、伏見商人たちを招致したのが、徳川家康の外孫、松平忠明(まつだひら・ただあきら)であった。これら、京都から招かれた伏見商人たちが、下船場に販路を拡大すべく開削したのが「京町堀」である。この堀の北には「江戸堀」、南には「阿波堀」が掘削された。元和3(1617)年前後である。阿波堀の南には「立売堀」(いたちぼり)があった。いずれも、「壊して新しく作る」大阪の伝統のせいで、いまでは、無惨にも埋め立てられて風情のないビルになり、地名だけが残っている。地名が残ればまだいい方で、大阪には頻繁に地名を改名するという困った伝統もある。
 いずれも、町民たちが開削した堀であった。
 三郷の各町からは、世襲制の「惣年寄」(そうとしより)がいた。身分は町民である。町奉行の配下で、町の行政を事実上差配していた。
 惣年寄の多くは、徳川時代に入って、河川を掘ったり、埋め立てたりするのに尽力した有力な開発町民出身であった。惣年寄の人数は、三郷で10~20人と少なかった。彼らは、名誉職で、無給であった。しかし、軒役(のきやく=家一軒に対して課せられた賦役を伴う諸税)を免除されていただけでなく、年頭や八朔(はっさく=旧暦8月1日の祭り=徳川家康が江戸城に最初に入城した日を記念する)などの祝いの日には、礼銭・祝儀を受けた。
 賦役の中には、惣会所経費・消防費などの諸費用の負担(公役=くやく)、町会所費用・橋の普請費用など、町の運営費の負担(町役=まちやく)が含まれていた。
 惣年寄は、こうした税負担を免(まぬが)れる代わりに、町奉行の最重要の手足となっていた。
 因みに「町」は、江戸では「ちょう」、大坂では「まち」と発音されていた。いまでもその名残は東京と大阪の地名に見られる。
 大坂の地名の特徴も記しておこう。街路の呼び方に大坂独特の特徴がある。街路は、大坂城の大手門(正面)が西向きであるところから、大手門に直角の向きの街路を縦(たて)とした。つまり、縦は東西方向である。この東西に延びる街路を大坂では「通り」と呼んだ。そして、横が南北方向になる。横向きの街路は、「筋」(すじ)と呼ばれた。
 現在の「御堂筋」は、江戸時代は「淀屋橋筋」と呼ばれていた。つまり、南北の「筋」の街路である。
 堀川も同じである。船場を挟む南北の堀川は、「横」堀川と名付けられ、それぞれ、「東横」堀川、「西横」堀川と称されたのである。
 町の施政の担当者の職名を列挙しておこう。大坂町奉行所からの触(おふれ)は惣年寄たちに伝えられ、惣年寄はそれぞれの惣会所で「町年寄」や「惣代」に伝達することになっていた。
 施政の役に就いた町民たちは、月番で惣会所に詰めて勤務していた。ある程度の自治は町奉行から認められていた。町年寄を補佐する「手代」、書類の作成に従事する「物書」、会所の書類を保管する「会所守」(かいしょもり)なども置かれていた。彼らを雇う「給銀」(給金)は各町の負担であった。
 少なくとも町民は、自らの才覚で日々の糧を得ていたのに、そうした町民にたかったのが町奉行配下の「与力」、そのまた配下の「同心」(これらについては後述の予定)、そして各藩から派遣されてきた「蔵屋敷」の武士たちであった。
 蔵屋敷で留守居を命じられた各藩の役人は、自国の物産を「蔵物」(くらもの)として売り捌(さば)き、そうした蔵物を抵当として、町民から借金するのが役目であった。こうした各藩の武士たちを、幸田成友は、「武士の町民」として揶揄している(同氏『大塩平八郎』東亜書房、1910年)
 「武士の町民」たちは、町民を屋敷に招いたり、逆に御茶屋で接待されたりして、町民と借金の交渉をしていた。彼らの間で賄賂の授受があったのも事の自然の成り行きであった。
 与力や同心もまた同じ穴の狢(むじな)であった。
 大坂の庶民たちには縁遠い武士階級と日常的否接触があるというだけで、武士に賄賂を送る町民は、特別の権威を町地で持つようになった。
 代表的な集団は、天満、天王寺、鳶田(とびた)、千日前に居住する輩であった。彼らは、「四ヶ所」と呼ばれるやくざ集団であった。頭(かしら)は「長吏」(ちょうり)と呼ばれ、配下には「小頭」(こがしら)、「若者」(わかもの)と称される、ならず者たちがいた。
 彼らは、徒党を組んで与力、同心たちの手先を務め、町内でなんらかの冠婚葬祭があれば、他の暴力集団から金銭要求を拒否してやるという名目の下に、様々の金銭酒食を強請していた。毎年の年末には、「節季候」(せきぞろ)、「鳥追」(とりおい=余所者を追い払うの意)、「大黒舞」(だいこくまい)等々の名の下に、町中の家持から心付けをせしめていたのである。
 与力や同心にとって、こうした四ヶ所のやくざ集団を使うことは、掏摸(すり)や窃盗犯人を捕まえるのには便利だが、四ヶ所自体が、犯罪人たちと馴れ合いの関係になっていたばかりか、つねに家持を恫喝するので、町民にとっては迷惑な強持(こわもて)のたかり集団以外の何者でもなかった。
 これら四ヶ所から莫大な賄賂を取っていた名家出身の「西組・与力」の弓削新右衛門(ゆげ・しんえもん)を、文政12(1829)年に、命を掛けて(後述の予定)失脚させた「天満・与力」の大塩平八郎の名声は一挙に高まった。頼山陽は、「大塩子起(子起は平八郎の字)の尾張に適(ゆ)くを送る序」で大塩平八郎を絶賛している。
 「大塩平八郎の乱」が歴史で語り伝えられるのは、平八郎の現役時代の数多い赫赫(かくかく)たる成果に負うところが多い。