学長通信(第12号)

大阪労働学校・アソシエ学長、本山美彦

目次
はじめに
1.2017年度のカリキュラム(予定)
2.地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第9回)
3.学生レポート

はじめに
 講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のおつきになる時間に、1コマでもいいので、ご参加下さい。場所は、学働館3階・講義室・図書室です。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、昨年の11月から「労働講座」が、各労働組合の自主的な運営で開始されています。ここにも、組合員以外の方々の聴講をお待ちします。2月14日(火)と28日(火)の18時半~20時に山元一英講師による講座が開かれます。
 労働学校側の講義は、2月、3月にはありませんが、土曜日に公開市民講座を予定しています。

1.2017年度のカリキュラム(予定)
設置講座

1 基礎ゼミナール
前期

社会変革の古典を読む 大賀正行
『資本論』で現代資本主義を読む 斉藤日出治
マルクスのアソシエーション論 田畑稔
歴史を読み直す 佐藤正人、金静美
後期
社会変革の古典を読む 大賀正行
世界を動かしている力を探る  本山美彦
社会経済論―新しい文明を求めて 津田直則

2 実践講座
後期

労働運動の歴史に学ぶ 木下武男、熊沢誠
社会運動の経験に学ぶ 津田道夫、杉村昌昭

3 基礎教養講座
前期・後期

読み書き話す基礎教養講座 山本哲哉
* 受講生の弁論・提案能力を育て、文章指導、読書感想、課題報告をおこなう
社会運動をオーガナイズするための基礎教養講座 富永京子
コミュニティ・オーガナイズの手法、オルグの手法の学習実践を学ぶ

4 通常講座以外の企画
①公開市民講座
 連帯経済、侵略犯罪の歴史、優生思想、沖縄、原発、地域、差別、改憲、健康問題などの実践的テーマは公開講座として、土曜日の午後の時間帯で設定する。
②会員労組の労働講座(山元一英講師)は労働学校と別枠で設定し、労働学校が協力する 
③連帯労組などを対象に、パソコンを活用した遠隔討論、遠隔授業を実験的に実施する

講師陣
本山美彦(京都大学名誉教授)
斉藤日出治(元大阪産業大学副学長)
大賀正行(部落解放・人権研究所名誉理事)
田畑稔(季報『唯物論研究』編集長)
津田直則(桃山学院大学名誉教授)
木下武男(昭和女子大学名誉教授)
熊沢誠(甲南大学名誉教授)
加藤哲郎(一橋大学名誉教授)
佐藤正人(海南島近現代史研究会)
金静美(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
山本哲哉(大阪大学大学院・哲学)
津田道夫(地域アソシエーション研究会)
富永京子(立命館大学産業社会学部准教授)
山元一英(労働講座講師)

時間割
前期

昼の部
火曜日 1時間目 13:30-15:00 大賀正行
    2時間目 15:30-17:00 佐藤正人、金靜美
木曜日 1時間目 13:30-15:00 斉藤日出治
    2時間目 15:30-17:00 田畑稔
夜の部
月曜日 18:30-20:00 山本哲哉
水曜日 18:30-20:00 富永京子・労働講座(山元一英)

後期
昼の部
火曜日 1時間目 13:30-15:00 津田直則
    2時間目 15:30-17:00 津田道夫・杉村昌昭
木曜日 1時間目 13:30-15:00 大賀正行
    2時間目 15:30-17:00 本山美彦
夜の部
月曜日 18:30-20:00 山本哲哉・富永京子
水曜日 18:30-20:00 木下武男、熊沢誠
 4月以降も学生(本科生、選科生)を募集しています。単発での聴講でも結構です。ご希望の方は、上記の事務室にご連絡下さい。

2.地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第9回)

大塩平八郎の乱(2)

はじめに

 天保8(1837)年2月19日の早朝、大坂東町奉行所の元与力、大塩平八郎(1793~1837年)が乱を起こして、300人ほどの人数で、天満の自宅から大坂城に向かって、「救民」の旗を掲げて行進したが、わずか半日で鎮圧され、本人は自害した。
 多くの民衆が飢饉に喘いでいるのに、幕府の役人と大坂の豪商が癒着して、数々の不正を冒したことを糾弾する失敗覚悟の蜂起であった。蜂起に参加したのは、平八郎が開いていた陽明学の塾で、平八郎を尊敬していた、与力、同心、その師弟、近隣の農民たちであった。乱の最中に火災が起こり、「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失するという大火になった。
 乱は、簡単に鎮圧されたとは言え、平八郎が配布した「檄文」は大名から民衆まで密かに写され、幕藩体制に大きな衝撃を与えた。幕藩体制が崩壊する30年前のことであった。乱の参加者のほとんどは捕らえられ、獄中で死亡した。
 名著『大塩平八郎』の執筆者、幸田成友(幸田露伴の実弟で、不朽の名作『大阪市史』の編纂者)は、乱の衝撃の大きさについての文を、著書の冒頭に掲げている。
 「大阪は天下の台所である。しかり台所であって書院または広間ではないが、台所の一小事は一家の煩いとなり、大阪に生じた異変は海内に波動する」(創元社、1942年)
 大塩平八郎に関する研究は多く、私のエッセイで付け足せるものがあるかどうかは、甚だ覚束ないが、地誌を探訪するために、既知のものも厭わず、書き綴っておきたい。

1 与力
 乱を起こす前、まだ大坂東奉行の現役の与力であった頃から、世の中の堕落・不正を糾弾してきた人として、頼山陽などの賞賛を得た平八郎による破戒僧の島流しについて今回は述べておきたい(ただし、ほとんどは幸田成友の前掲書に依存している)。  
 今回は、平八郎が断罪した数々の腐敗の一つである、破壊僧侶を島送りの刑に処した背景を述べよう。
 事件は、文政13(1830)年3月に起こった。大坂在住の僧侶たちのあまりにも堕落した姿に対して、平八郎は、再三再四、警告を出していたが、僧侶たちに悔悛の念なしとして、彼らのうち10数名に遠島を申し渡したのである。これは、上司の大坂東町奉行・髙井山城守(たかい・やましろのかみ、1763-1834年)との相談の上で決めた断罪であった。
 髙井山城守が東町奉行に赴任したのは文政3(1820)年11月のことで、文政13(1830)年10月に転勤している。髙井山城守は、前回(大塩平八郎の乱1)で紹介したように、平八郎を使って、自分の配下でなく、西町奉行配下に属する(西組)与力の「弓削新右衛門」を汚職の罪で追放している(転勤の前年)。当時の上層役人であった現役与力と、同じく当時の特権階層であった僧侶たちを切り捨てたことへの幕府権力側から掛かった圧力は相当大きかったものと想像される。転勤させられた背景にはそうした事情があったものと想定される。
 平八郎は、上司の髙井山城守に心酔していた。山城守が東町奉行から転出を決意するともに、平八郎は、同年、与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲っている。後は、陽明学の塾に専念していた。
 ここで、破壊僧侶の説明から少し横道に逸れて、当時の町奉行、与力、同心の身分の高さを記しておこう。
 大坂町奉行は、江戸幕府が大坂に設置した役職で、東西の大坂奉行所(東町奉行、西町奉行)の2つがあった。町奉行(江戸の場合、江戸町奉行とは言わない。単に町奉行と称された。北町奉行、南町奉行)と同様に、1か月ごとの月番制を取っていた。配下の与力はそれぞれ東組、西組と呼ばれていた。奉行は老中の支配下にあり、で大坂城下(当時は大坂三郷のこと)及び摂津・河内の支配を目的としていた。
 大坂町奉行の知行は1,500石(江戸の半分)であった。しかし、これは名目額であり、実質はその4割、つまり、600石、それに役料として米の現物600石が支給されるので、計1,200石の年収であった。
 奉行の下に与力があった。各奉行は東西で30騎(人数のこと)ずつ、計60騎、与力の給与は200石であった。
 さらにその下にそれぞれ50人(同心は騎と呼ばない)、計100人の同心があり、10石3人扶持であった(幸田成友『江戸と大阪』冨山房、1934年)
 ここで、注意しておかねばならないことは、知行の石とは付与される領地から上がる米の量である。1石は1人の年間の食い分(米)、扶持とは家の従者(家僕=かぼく)の扶養に必要な年間の米の量。当時、米1石は現在の貨幣価値に換算するとほぼ8.8万円であったという説に従うと、1,500石という奉行の年収は1.3億円程度になる、とてつもない高給であった。与力の200石でさえ、2,600万円という高給である。ただ、多くの家僕を屋敷で養わなければならないので、これらの高給を家族だけで消費できるわけではないので、実際にはその3分の1から5分の1程度の懐具合であっただろう。
 町奉行は、幕命で交代するが、与力と同心は慣例として世襲で、家屋敷もそのまま占有できる(「居付き」という)。与力は500坪、同心は200坪の敷地を持つ屋敷を幕府から貸与されていた(前掲、幸田『大塩平八郎』)
 つまり、大塩平八郎は、当時のかなり地位の高い高級官僚だったのである。

2 戸籍制度が生んだ僧侶の堕落
 豊臣秀吉の没落後、大坂城主になった松平下総守忠明(まつだいら・しもふさのかみ・ただあきら、1583~1644年)の手によって、大阪の大規模な整理・拡張が行われた。「道頓堀」の名付け親であることから見ても、今日の大阪の基本的な設計は彼によって進められたのである。
 彼は、寺院を天満(てんま、大川の北側の台地)の北隅(川崎村、北野村)と上町(うえまち、大川の南側の台地)の東南隅(谷町、寺町)に集合させた。これは、外敵の侵入を防ぐ意図が込められていた。天満の北隅については、寺町橋(秀吉が掘削した天満堀川に架かっていた橋、いまは道路になり形だけが残っている)の東西両側が「東寺町」、「西寺町」になっている。
 元禄8(1695)年の記録によれば、寺の数は西本願寺派がもっとも多くて94寺、その次が浄土宗知恩院派の85寺、東本願寺派の54寺、等々、総計422寺であったという。西本願寺派だけが三郷の城下内に居を構えることを許されたが、他は、郊外に押し込められていた。
 仏教では、四天王寺(してんのうじ)のみが幕府からの援助を受けていた。
 四天王寺は、駅名「天王寺」の由来になった寺である。一時を除き、特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
 四天王寺以外の寺院は、すべて檀家の喜捨のみで維持されなければならなかった。しかし、寺院、とくに浄土真宗系のものは経営に困らなかった。当時の戸籍簿に相当する「家持借家宗旨人別帳」によって、すべての民衆は、寺院のこの人別帳に記載されなければならなかったからである。
 禁教であるクリスチャンでないことを民衆は自己証明しなければ、クリスチャンと見なされて罪に問われていたのである。各寺院は、檀家の宗旨手形(宗旨請状)を町奉行に提出する義務を負わされていた。民衆は、なにがなんでも寺院に自己と家族の存在を登録しなければ、通常の社会生活を維持できないほどの苛酷な制度が人別帳によって形成されていたのである。
 宗旨手形がなければ、民衆は、移転も奉公もできなかった。人別帳には、戸主、家族の氏名、年齢が記され、戸主の氏名の上には、必ず「何宗何町何寺檀徒」という文字が書かれていた。
 檀家とは純粋に仏に帰依することにとって形成されたものではなく、戸籍登録するのに便利な近くの寺院が選ばれただけのことであると見なしてもいいのではないか。もちろん、そこには一定程度の宗教心はあっただろうが、ほとんどは習慣的、制度的なものであったと見なしてもいいだろう。この習慣と制度とが寺院の経営を大いに助けていたことは否めない事実である。そして、僧侶は、法会を主催し、説教するだけでなく、人別帳に記す側の権力を背景に、葬儀に参加すれば、かなり多額の金銭の謝礼を貰えたのである。
 葬儀には、僧侶は籠に乗り、長刀、合羽籠を従えるという俗物そのものの僧侶が巷には溢れていた(前掲『大塩平八郎』)
 上記のように、文政13年、山城守より命じられた平八郎は、再三触書を出して教訓を加えたのち、なお非行を改めない僧侶10数名を捕らえて遠島を申し渡したのである。

3.学生レポート

□EUの原点 ――欧州石炭鉄鋼共同体――

学生A

1952年にECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足し、前年のパリ条約に合意した西ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの六ヶ国が加盟した。ECSC設立の目的は、現在のEUのように経済的連携に重きを置くものではなく、戦争を防ぐために作られたことに注目したい。
石炭と鉄鋼がなぜ平和と関係しているのか。それは当時、石炭と鉄鉱石が国力を決める重要な資源として捉えられ、独仏国境にあるアルザス地方の石炭と鉄鉱石を巡ってドイツとフランスが戦争を繰り返していたことに由来する。ECSCの目的は、重要資源を六ヶ国で共同管理することで戦争の原因を永久に除去することである。
二度の大戦の主戦場は欧州であり、敗戦国のドイツは国土を東西に分断、連合国に分割占領されるだけでなく、領土を失うことで1500万人の難民を出し、200万人の犠牲者を出すに至った。イタリアも北アフリカから上陸する連合軍、イタリアを見捨て南下してくるドイツ軍の板挟みに遭い、半島全土が地上戦の舞台となった。フランスやベネルクス三国もヒトラーの軍隊に占領されながら抵抗したものの、レジスタンスは惨殺され、中にはオラドゥール村のように、村ごと滅ぼされた事例もあった。
 このように惨憺たる目に遭った加盟国が平和を望んでいたことは想像に難くないが、共同管理以外の方法があったのかを考えると、それ以外に「最善の方法」が思いつくものではない。パリ不戦条約は破られたら意味が無く、ルール占領のように敗戦国を痛めつけてもヒトラーのような国家主義者が支持される、武力での統一はヒトラーもナポレオンも既に失敗している。
 第一次大戦後に、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の汎ヨーロッパ運動、ジャン・モネの提言した独仏国境にある資源の共同管理は、実現されることなく世界恐慌を経て次の戦争へと突入してしまう。それがようやく、第二次大戦後、フランスのロベール・シューマン外相が、ジャン・モネの構想を実現すべくドイツに石炭と鉄鉱石の共同管理を持ち掛け、欧州統合は具体的に動き出した。