世界の終わりと経済学-「資本主義と死の欲動」

大阪労働学校講師 斉藤日出治

「セカイノオワリ」という人気上昇中の四人組バンドがいる。この名前は、発達障害に苦しんだボーカルのメンバーが自分の直面した精神的危機の経験から生まれたものだそうだ。だから、それは新しい世界の始まりを孕んだ希望の言葉でもあるらしい。だがわたしには、エンタメの世界に出現したこの言葉が、今日の世界のひとびとの深い精神的・文化的・経済的な苦悩を刻印しているように思われてならない。
 人工知能の進歩が象徴するように、身体の内奥から身体外のすみずみまで情報検索と情報処理が進み、人間の自然に対する制御が極限にまでゆきつくかにみえるとき、その世界が内部から自己崩壊を遂げ破局を迎えるのではないか、という漠たる不安の意識が密かにひとびとのうちに浸透している。
 ところが、経済学の言説は、この漠たる不安の意識からまったく無縁のところで存立している。経済学には危機や恐慌の概念はあっても、破局の概念はない。経済学は市場の均衡と成長によって永遠に続く世界を想定している。経済学が描く世界には終わりも破局もないのだ。偶発的に外からの衝撃で一次的な撹乱が生じたとしても、やがて世界は均衡と安定を回復するものとみなされる。
だがきわめて逆説的なことであるが、世界の終わりを予兆させる漠たる不安を孕んだこの現実の世界は、ほかならぬ均衡と成長が永続すると想定する経済学の言説によって生み出された世界なのである(そういえば、マルクス経済学でも、『資本論』とは資本主義が永遠に続くものと想定して資本の運動法則を描いたものだとみなす研究者がかつていた。マルクスが語ろうとしたのは資本主義の不可能性であった、というのに)。
この逆説に気づいた数少ない経済学者のひとりが、カール・ポランニーであった。かれは『大転換』(一九四四年)において、市場の価格変動を通して需要と供給を自動調整する機能を社会全体にゆきわたらせることによって組織される社会を「市場社会」と呼び、経済学者がイギリス産業革命以降、この市場社会を理念系として社会を組織しようとしたと言う。だがこのような市場社会を構築するためには、連帯と相互扶助にもとづく共同体的な諸制度を解体して、諸個人を孤立させ、無産者にして、賃金労働者として労働市場に赴くように強いるという巨大な文化破壊行為が必要とされる。ポランニーは、このような文化破壊行為が西欧資本主義の内部だけでなく、非西欧社会に対する植民地支配を通して強力に行使されたことを看破している。市場の自己調整機能によって社会を組織するという経済的自由主義の思考には、社会を破局に導く暴力がはらまれている、このことをポランニーは察知していた。事実、この市場社会は二〇世紀に入って、全体主義と世界戦争という狂気の破局をもたらすことになる。
二一世紀の今日、わたしたちが直面している破局の危機も、経済的自由主義の言説が新自由主義という装いをまとって復活し築き上げた世界に起因している。
 加藤典洋が『人類が永遠に続くのではないとしたら』という、やはり世界の終わりを予兆させる評論集を出した。その冒頭で、加藤は原発の損害賠償保険を引き受けてきた損害保険会社グループが東京電力福島原発の重大事故以後、原発のリスクがあまりにも巨額に上ったため保険を引き受けられず、契約を更新しないと東京電力に伝えたという新聞記事をとりあげて、未来の保証が断ち切られたこと、産業社会が未来に向けて約束していた無限の可能性が断ち切られたことに着目している。
 この未来の崩壊をもたらしたものこそ、原子力を市場で取引するビジネスである。原子力発電は、私企業が市場で電力を商品として取引するというシステムのなかで稼働している。原発は電力コストが安いことを売り物にして市場に取り入れられている。だが、原発は炉心溶融という重大事故を起こすことによって巨額の費用を発生させた。放射能汚染は、ひとびとと動植物の生存と生命を不可能にする被害をもたらす。それは現在の人間や他の生命体の生存を脅かすだけでなく、未来の生命を不可能にする。原子炉を廃炉にし、放射性廃棄物を未来永劫にわたって管理する方法についても解決策が決まっていない。
 原発事故は、近代社会がもたらした科学技術がはらむはかりしれないリスクを浮き彫りにした。西谷修[2011]は、核技術の性格をつぎのように語っている。
「核技術は、核分裂や核融合を引き起こし、一定程度それを制御することはできるがその結果生ずる現象に関しては「自然に任せる」しかない」(一三五頁)。
 技術は特定の目的に従ってそれがめざすものを実現できても、特定の目的を実現した結果が生み出す副次的効果に対して制御が働かない。原発事故は、この副次的効果が人間による制御をはるかに超えた重大な破局をもたらした典型的な出来事であった。
 経済学は核技術が孕むこのはかりしれない副次的効果を「市場の外部効果」というかたちで処理しようとした。社会を破局に追いやり、ひとびとの生存と生命を不可能にするリスクを「市場の外部効果」とすることによって、経済学は破局という概念をみずからの言説の責任の埒外に置いたのである。社会的費用の経済学は、この外部効果を費用計算して、市場の内部に取り込んで処理すべきだと主張する。だが、保険会社による原発事故の保険契約更新の拒否は、そのような市場の内部化が不可能になったことを意味する。東京電力は、「市場の外部効果」に対する社会的責任を放棄する。東北地方だけでなく全国に、さらには全世界にまき散らされた放射能を「無主物」と呼んで、自己の責任の範囲外にあることを宣言している。
 原子力発電という未来を不可能にするリスクを孕んだ商品が市場で取引され、そのリスクが炸裂したときに、企業も、政府も、経済学者も責任を拒絶する。その結果、わたしたちは世界の終わりという事態に直面することになる。
 市場の経済システムを均衡と成長によって描き出し、未来を喪失し世界を破局に追い込む事態を自己とは無縁なものとして排除する経済学の言説のなかに、じつは破局をもたらす恐るべき暴力が内蔵されているのではないか。
 この視座から経済学の言説を再考した一書を紹介したい。フランスで二〇〇九年に刊行されたG・ドスタレとB・マリという経済学研究者による『資本主義と死の衝動』がそれである。本書の序文は、本書刊行の前年の二〇〇八年に発生した世界金融恐慌に言及している。著者たちはこの恐慌を一九二九年の大恐慌の再来としてとらえ、その根因を資本主義における生産のための生産の追求、飽くなき貨幣蓄蔵への衝動に求める。資本主義の現実を突き動かしているこの衝動は、経済空間を平穏な均衡状態にあるものとみなし貨幣を実体経済の中立的なヴェールとしてとらえる経済学の言説では説明することのできないものである。金融恐慌が世界の破局をもたらすほどのものになったのは、このようなかぎりなき利潤の追求と貨幣の蓄蔵の欲動に起因している。経済活動は均衡と安定を望むにもかかわらず、利潤の追求と貨幣の欲望はこの願望を成長へと先送りし、やがて死を招くほどの極限まで突き進み、そして破局へと至る。この経済活動の際限なき欲望の増殖が世界の破局と死滅を招く。
それゆえ、求められているのは、そのような破局へと向かう動態をすくい取る経済の認識、貨幣の認識である。正統派の経済学が視野の外に置いたこの動態的運動を省察の対象とした思想家として、二人がとりあげるのが、ジークムント・フロイトとジョン・メイナ-ド・ケインズである。
フロイトは人間の根源に潜むエロス(生の欲動)とタナトゥス(死の欲動)との葛藤において、資本主義の経済活動をとらえる。フロイトにとって、タナトゥスはエロスと切り離された欲動ではなく、エロスのうちに住まい、エロスとともに膨張していく。一方で、エロスはタナトゥスを支配し利用し従属させようとする。文化とはエロスがタナトゥスを抑制し支配し利用する様式である。だが文化は同時に、死の欲動を先送りし迂回させる回路でもある。生の欲動は死の欲動を先送りし、そうすることによって死の欲動をさらに巨大なものへと育て上げていく。
資本主義とは、このエロスとタナトゥスが運動する文化的な様式であり、死の欲動を先送りし成長へと転移させ、迂回させる装置である。そうやって、資本主義は死滅に向けた運動をかぎりなく増幅させていく。
このフロイトの方法視座によって、生産、消費、資本蓄積といった資本主義の経済活動に独自の意味があたえられる。資本の蓄積や技術の進歩とは、死の欲動を迂回させる回路にほかならない。技術の進歩や資本の蓄積がもたらす巨大なリスクは、生の欲動によって迂回させられ増幅した死の欲動が発現したものにほかならない。
資本の蓄積とは、目の前にある直接的消費を断念し、快楽を先送りすることである。それは、「より多くの将来の破壊のために現在の破壊を延期することである。」(Dostaler G./Maris B.,p.34.)
生の欲動は死の欲動を抑圧するのであるが、それはもっと後により大規模なかたちで、より増幅されたかたちで死の欲動を発現させるためである。成長とは死の欲動の繰り延べであり、のちに破局へといたる回路にほかならない。
「フロイトにとって、問題は死の欲動を迂回することであった。自我の原初的破壊を外的世界に向けて迂回させることは、技術進歩をはぐくむ。死の欲動の抑圧が重要になればなるほど、労働におけるリビドー[性本能の力]の昇華はますます強くなり、病的傾向に加えられる抑圧がますます高まり、技術がますます強力になり、蓄積がますます重要になる。」(ibid.,p.36.)
この欲動は自然および人間に対する破壊的な暴力となって発現する。フロイトの視点からすると、新自由主義の規制緩和とは、致死のエネルギーを深くため込んでそれを無放縦に解き放つことを意味する。資本の蓄積と貨幣の蓄蔵に向けて迂回させられた死の欲動は、経済活動を通してひとびとの下意識に沈殿しためこまれ、その欲動が、今度はナショナリズムや排外主義や能力主義や人種主義や性差別というイデオロギーの回路を通して社会的弱者に向けた破壊的暴力となって発現する。性的・人種的マイノリティに対する攻撃、民族差別のヘイトスピーチ、難民の排除、障害者の虐殺はこの無放縦なエネルギーの発露である。それはすでに二〇世紀前半に全体主義と世界戦争として発現した暴力である。それゆえ、マルクーゼをはじめとするフランクフルト学派は、かつて強制収容所、ジェノサイドを近代以前の野蛮の復活としてではなく、近代資本主義および近代的技術の進歩がもたらした帰結として認識したのである。この暴力は二一世紀初頭の今日、沈静化するどころか世界の各地で再現されている。
文化は破壊の欲動をためこんで先送りし、さらに巨大な規模でその欲動を発現するための回路となる。科学技術はこの文化の主要な構成要因をなす。科学技術も、文化も、人間を苦悩から解放してくれる救世主のようにみえるが、その逆に死の欲動を増幅させ、その破壊的暴力を自然と人間自身に向けて発動する装置となる。
「文明は死の欲動を抑圧し、それを外部に向けて迂回させ、自然に抗して導く。だが、死の欲動は持続し、つねにより強力なものになる。死の欲動はいつの日かその目的に到達し、文明と人類に打ち勝つ。」(ibid,.p112.)
地球的規模における資本蓄積を推進するグローバリゼーションの過程は、それゆえ死の欲動を制御する運動であるかにみえて、その逆に人類の消滅に向ける動きを加速させている。
「だから、資本主義が導き入れる死に抗するすさまじい闘争は種の消滅を加速する手段にすぎない。蓄積が生存のための闘争に取って代わるということは、理性の狡知にほかならない。無へとゆっくりと歩んでいると思いつつ、じつはより急速に無へとせき立てられているのである。」(ibid.,p.91.)
フロイトは、経済学の基本的概念である貨幣を死の欲動の視点から考察するため、貨幣の精神分析をこころみる。貨幣は、権力、セクシュアリティ、死と結びついた象徴的な次元を有している。貨幣は肛門愛と結びつき、糞便とつながる。古代文化、神話、おとぎ話、迷信では、貨幣が糞便とのかかわりで語られる。民話では、雌鳥が金の卵を産み、ロバが尻から金貨をひりだす。大便は、子どもが愛する両親に提供する最初の贈り物であり、子どもの大便を介した子どもと両親の嗜糞症状的交換関係は、贈与、交換、価格、富、貯蓄の経済的関係を存立させる根源にある。貨幣は抑圧された死の欲動を無意識にはらむものであり、ひとびとの欲望の対象であると同時に恐怖と死を内蔵するものである。
ケインズはフロイトのこの精神分析に敏感に反応する。ケインズはブルームズベリーという知的集団に所属し、ヴィクトリア朝の厳格な道徳主義とピューリタニズムに対する批判的精神をつちかうなかで、フロイトの精神分析を受け止めるようになる。
とりわけ、ケインズはひとびとの貨幣に対する異常なまでの執着を同時代の深刻な道徳的問題としてとらえた。つまり、貨幣愛は、ケインズにとって死の欲動を増幅させる回路にほかならない。貨幣の獲得をめぐる競争が万人の万人に対する闘争をひき起こし、暴力を発動する。貨幣は貨幣数量説が説くような、実体経済を媒介する中立的な道具でもなければヴェールでもない。
ケインズの貨幣概念は、古典派経済学、新古典派総合における価値尺度、交換手段といった中立的な機能的概念とはまったく異なる。ケインズにとって「貨幣とは欲望の対象であり、死をともなう恐怖である」(ibid.,p.62.)。
フロイトにとっても、ケインズにとっても、貨幣が富と所有の対象であると言うことは自明のことではなく、心理分析の対象にされる。貨幣は人間の苦悩や欲望や死の恐怖といった心理現象と密接に結びついている。
ただし、この心理現象は個人的な次元ではなく、集団的な次元で問われている。欲望は経済学に登場するホモ・エコノミクスという合理的な個人の欲望ではなく、ルネ・ジラール[1982]が言う対象をめぐって競争相手と争う模倣欲望=関係の欲望である。貨幣は合理的な計算が生み出した産物ではなく、非合理的な愛の対象なのである。
ケインズはミダス王の物語を好んで引用したと言われる。ミダス王は、黄金の呪われた欲求にとりつかれて、自分が触れるものすべてを金に変えるという願望を叶えてもらう。ところが、そのためにミダスは自分が触れようとする食べ物、水がすべて金に変わってしまうということに気がつき、恐怖におののく。山積みの黄金が死を引き寄せる。ここに貨幣の不合理な本性がみごとに語り出される。
ケインズはミダスの神話に死の衝動と肛門愛のフロイド的精神分析を読み取る。このミダスの精神は、今日の新自由主義の精神でもあり、株式、不動産、特許の所有者の意識のなかに住み着いている。
ケインズにとって、貨幣はたんに交換手段や価値尺度ではなく、それ自身が崇拝の対象となり、独立した価値として蓄積の対象となる。しかし、貨幣は何の役にも立たない。その貨幣をひとびとは追い求め、争う。そこに、ケインズは資本主義の糞便的で、小児病的な側面を読み取る。
ケインズは、守銭奴根性と吝嗇の貨幣蓄蔵欲望の内面化された倫理を節約と勤勉を有徳とするピューリタニズムとヴィクトリア朝の道徳精神のうちに読み取る。現在の消費を繰り延べし享楽を拒否する倫理は、将来のパイを増やす蓄積のためであり、それは死の欲動に向けてひとびとの行動を誘導する回路にほかならないものとみなされる。
「蓄財家はひとびとの共同体におけるあらゆる取引をねじ曲げる。蓄財家は迂遠させられた快楽のエネルギーおよび死の欲動に結びつけられたあらゆるエネルギーをむさぼり食うブラック・ホールである。」(ibid.,p.81.)
レントつまり不労所得の増殖も、フロイドとケインズのまなざしからすると死の欲動の運動にほかならない。トマ・ピケティ[2013]はこのレントの増殖率が国民経済の成長率を上回るということを資本主義三〇〇年の統計データを使って立証したが、それは資本主義の歴史が死へと向かう欲動を確実に深化させていく過程であることを証すデータとも言える。そのために、ケインズは金利生活者を安楽死させようとし、自己増殖する貨幣の機能を廃棄するために、蓄蔵不可能な貨幣を導入しようとする。「スタンプ貨幣」、「溶解する貨幣」を提言するシルヴィオ・ゲゼルに対する高い評価がそこから生ずる。
フロイトとケインズによる貨幣の精神分析は、グローバリゼーションがもたらす現代の破局を貨幣認識の深層において鋭く洞察していることがわかる。ドスタレとマリは、グローバリゼーションの本質が貨幣を回路として増幅する死の欲動にあると警告する。
「われわれが「幸福なグローバル化」と信じているものは、狂乱の貨幣の度を超した動きであり、その破壊的な欲動にすぎないのである。
(ibid.,p.8.)
 ケインズのこの貨幣認識は、市場の認識と不可分に結びついている。ケインズは市場を、価格変動による自動調整の場としてではなく、ひとびとの模倣欲望を感染させ破壊的暴力を増幅する場としてとらえた。市場は合理的な判断力を有した個人=ホモ・エコノミクスがその判断にもとづいて価格情報を交換し需給関係を調整する場ではなく、大衆の非合理的な世評や虚報が飛び交い流言飛語が感染する回路である。
ケインズが株式市場を美人投票の論理で説明する理由もそこにある。株式市場では、ひとびとは自己の理性的な判断に依拠するのではなく、他者の判断を見抜こうとするゲームに参加する。そして平均的な判断を見抜いたものがこのゲームに勝利する。ケインズ以前にフロイトが群集の行動のうちにこの心理を洞察していた。フロイトによれば、群衆は多数者の平均的な判断に自己を合わせようとする心理をもっており、この判断がかぎりなく感染していく傾向をもつ。将来がまったく不確実な中で苦悩と死を避けようとする群衆は、もっとも平均的な世論を参照し、他者の欲望を模倣する。その模倣はかぎりなく感染して、群衆を特定の方向に導く。それが苦悩と死から逃れることのできる唯一の光だからである。ケインズにとって、株式市場はそのような社会心理によってうごめく空間であって、理性的な個人が自己の欲求を最大化するように合理的な判断をおこなう空間ではない。フロイトとケインズは、ルネ・ジラールの模倣欲望の論理をすでに先取りして提示していたのである。

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 一九九〇年代以降、社会主義体制を飲み込んで暴走する新自由主義の大波は、当初予測されたような、「歴史の終焉」や「資本主義の勝利」をもたらすどころか、世界の破局を、人類の終焉を招きつつある。それはほかならぬフロイトとケインズがすでに予見したことであった。
著者たちは言う。フロイトとケインズは生涯の最後に気がかりなメッセージを残した、と。「人類はみずから破滅することを望んでいる」(ibid.,p.110.)というメッセージがそれである。
 フロイトはナチズムの迫害を受け、一九三九年に亡命先のロンドンで末期がんに苦しみつつ生涯を終え、ケインズは第二次大戦直後の一九四六年に、戦後の国際通貨体制をめぐる米国との交渉に挫折して死を迎える。フロイトはファシズムのうちに、ケインズは国際通貨の将来のうちに、人類の自己破滅願望の不気味な予兆を感じ取ったのではないか。グローバリゼーションの末期的症状に直面しているわたしたちが思い起こさなければならないのはこのふたりの残した重いメッセージではないか。ドスタレとマリはこう問いかける。
(ドスタレ・マリの邦訳は藤原書店から刊行予定であり、今回は簡単な紹介にとどめるが、別稿で本格的に論じたい。)
参考文献
西谷修編[2011]『経済を審問する』せりか書房
加藤典洋[2014]『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社
カール・ポランニー[1944]『大転換』野口建彦・楢原学訳、東洋経済新報社、二〇〇九年
Dostaler G./Maris B.,Capitalisme et pulsion de mort,Albin Michel,2009
ルネ・ジラール[1982]『暴力と聖なるもの』古田幸男訳、法政大学出版局
トマ・ピケティ[2013]『二一世紀の資本』山形浩生ほか訳、みすず書房
                (名古屋同人誌『象』87号、2017年春、からの転載)