現在でこそ通用する『1984年』(ジョージ・オーウェル)

講演テーマ「スマホ時代の恐ろしさ」に向けて
本学学長 本山美彦
2017年6月3日(土)13時半~15時半 於:学働館・関生4F

 はじめに

 オーウェルの掲げたテーマは、「(1)戦争は平和なり、(2)自由は隷従なり、(3)無知は力なり」である。
 もちろん、彼はそれが実現されなければならない課題であると言っているのではない。逆である。このような社会が来ようものなら断固拒絶されるべきである。しかし、社会主義革命前の社会がそうであったことは言うまでもないことだが、革命後の社会も、この倒錯が人々の脳裏を支配しているのではないだろうか。それは、「スターリン」を批判すれば克服できるものではない。「ヒトラー」を批判しておけば済むものでもない。それは、私たちが住まねばならない現実社会の宿痾、業病ではないのか?人間はこのような地獄の社会を真に克服できるものであろうか?それは確かに克服されなければならない悪しき病である。しかし、克服するには、私たちは、あまりにも無知で、単純すぎる。私たちは「早く大人になるべきである」。ではどうすればいいのか?オーウェルの課題はここにあった。

 1 手書きがなくなった

 日本ではもとより、米国でも、最近の若い人たちの中で筆記体が書ける人が少なくなってしまった。
 筆記体、つまり、英語の草書体は、米語で’cursive’ 英語で’joined-up writing’と呼ばれる書き方のことである。タイプライターが普及するようになるまでは、公式の文書は、筆記体が使われていた。
 以前は、日本では、筆記体は、原則必修であった。日本の中学校では、長い間、「ブロック体」(活字体)と「筆記体」の両方が教えられてきた。当時の文部省が定めた昭和37(1962)年4月の「中学校学習指導要領」には、「アルファベットの活字体及び筆記体の大文字及び小文字」を学習させるべきであると明記されていた。中学校で筆記体の書き方を学ぶのは当たり前のことで、私も、きれいな筆記体に憧れて何度も練習したものである。ほとんどすべての生徒がそうであったと思う。
 この流れを変えたのが、いわゆる「ゆとり教育」であった。筆記体を教えるかどうかは、現場の教師の判断に委ねられたのである。平成14(2002)年のことである。同年4月の「中学校学習指導要領」では「アルファベットの活字体の大文字及び小文字」が学習されるべき字体とされ、筆記体は削除された。ただし、教えてはならないというのではなく、「文字指導に当たっては,生徒の学習負担に配慮し筆記体を指導することもできること」という奇妙な一文が付け加えられた。基本的にブロック体だけでよいが、教師の裁量で筆記体を教えてもよいということになった。
 「脱ゆとり教育」が叫ばれるようになった現在でも、平成24(2012)年4月の「新学習指導要領」には復活されていない。
このため、平成元(1989)年4月以降に生まれた人(中学入学が2002年4月以降の人)は、学校の授業で筆記体を習っていないのが普通である。実際にはその2年前からすでに移行措置として「筆記体の指導を省略することができる」という告示が出されているので、昭和62(1987)年生まれでも習わなかった人もいる。
 米国でも、同じような現象が起きている。アメリカでは小学3年生で筆記体を習うケースが多いようだが、コンピュータの普及によて、手書き文字の指導に以前ほど力を入れなくなってきたようだ。そのため、若い人たちの間では、筆記体が使われなくなってきた。 ”msnbc.com”というウェブサイトがある。それによると、米国の高校生が受験するSAT(大学進学適性試験)の答案を筆記体で書いたのは、2007年度の全受験生の約15%にすぎなかったという。
  同じく筆記体の衰退について書かれた米『TIME』誌の記事(英語)は,「大文字のZを筆記体でどう書くのか思い出せない」という記者自身の言葉で始まっていた。
 AP通信によると、筆記体の授業が小学校に復活しつつあるという。筆記体の授業が、いつ頃からなくなり始めたのか定かではないが、2010年に多くの州によって採用された”Common-Core Standards”(共通の教育基準)には、筆記体の習熟が含まれていないという。
しかし、2016年に、アラバマ州とルイジアナ州は、公立学校において、生徒の筆記体の習熟を図ることを義務付ける法案を可決。また、2016年秋より、全米最大規模となる110万人の生徒を抱えるニューヨークの公立学校システムにおいても、小学校3年生の授業で筆記体を教えることを推奨している。
 筆記体が書けず、読むことすらできないということは、高い過去の文化に触れる機会が少なくなることである。つまり、文化水準の後退である。
 現在のブロック体で印刷されていない過去の膨大な文献や手紙類を若い世代は読むことができない。このことの文化的喪失の大きさは図り知れない。
 日本人も偉そうには言えない。私も含めて、現代の日本人は、第二次世界大戦以前の漢字の草書体を読めない。古文書の類いはおろか、床の間の掛け軸や、道端の石碑一つを読むことができないのである。
 スマホに依存する人たちが爆発的に増えたことが原因と考えられるが、私たちの周囲で、文字を手書きで書く習慣がますますなくなりつつある。その余波で、漢字を書くことはおろか、読めなくなっている人が増えてきているのではないだろうか?
 1947年、つまり、いまよりも70年も前に書かれたオーウェルの『1984年』は、今日の状況を見通したかのように、主人公のウィンストン・スミスが日記を手書きできなくなった事態を文章にしている。
 「彼は手書きに慣れていなかった。とても短いメモ類は別として、何でも口述すれば印字できる器械に頼るのが普通だった」。
 音声を吹き込めば、活字になるというソフトは、つい最近になってコンピュータに搭載されたばかりのものである。
 小説では、日記を書くという行為自体が「死刑か、最低25年間の強制労働収容所送り」という厳罰を受けるというのが、小説の中で説明されている。
 小説の舞台は、「オセアニア」という「ビッグ・ブラザー」によって独裁的に支配されている「疑似社会主義国」である。この国には、明確な法律はない。法律に明示された罪はない。法律がないから何をしても罪にならないどころか、権力者の胸三寸で何ごとも犯罪にされてしまう可能性があらゆる領域にわたってあったのである。
 日記には、権力者たちが過去を捏造することを難しくする力がある。日々の記録が付けられるということは、過去を隠蔽するのが権力を維持する最良の手段であるという権力者の意図を挫くものである。権力者は、自分に不都合な過去をつねにねじ曲げるというのが、小説の重要な主張点の一つである。

 2 憎悪の対象が繰り返し放送される

 小説では、「テレスクリーン」が町中だけでなく、家庭の各部屋に設置されて市民のすべてが監視されているだけでなく、この装置を通じて、市民の思考内容が操作されている。
 「テレスクリーン」の画面で、「人民の敵」とされた「反革命」の陰謀家「エマニュエル・ゴールドスタイン」を憎む「憎悪の二分間」が放映される。この二分間は毎日用意され、すべての市民が、職場で、学校で、街角で参加しなければならない義務的習慣である。
 「ゴールドスタイン」は、以前は革命を成功させた社会主義政党の指導者の一人で、「ビッグ・ブラザー」と並ぶ地位にあった。しかし、その後、反革命運動に加わり、党によって死刑を宣告されたものの、忽然と人々の前から消えた。市民の誰も彼を目にしたことはない。
 彼を憎む時間が「憎悪の二分間」である。彼は、破壊活動、逸脱行動、陰謀等々、あらゆる憎むべき行動を取っている。彼を市民は心の底から憎まねばならない。そのために、毎日、巨大なテレスクリーンに彼の憎々しげな顔を大写しに登場させ、党の教義をいつも攻撃している。しかし、彼を実際に見た市民は誰もいない。街角の至る所で爆薬を用いた破壊行為は繰り返されている。大写しになった彼の背後には、市民の母国である「オセアニア」の敵国である「ユーラシア」の軍隊の行進風景が配置され、否応なく市民の憎悪を駆り立てる。
 ちなみに、小説では、世界は、小説の舞台である「オセアニア」(汎大西洋諸国プラスオーストラリア大陸)、「ユーラシア」(ユーラシア大陸プラス東ヨーロッパ)、「イースタシア」(中国プラス太平洋西岸)の三つの大国に分割され、これら三国は年中行事のように、小さな諍いを繰り返している。
 小説では、「憎悪の二分間」で、ものの三〇秒も経たない間で、テレスクリーンに見入る人たちから怒号が湧き起こった。スクリーンに映る「ゴールドスタイン」の得意満面の卑しい顔とその背後で行進する「ユーラシア軍」の猛々しい姿に観客たちは足を踏みならしながら、口々に憎しみの声を挙げていた。正確には、周囲と同じような怒号を発しなければ当局から危険分子と目されるので、周囲といやいやながら同調しているうちに、洗脳され、人々は周囲の人々と心から同じになって同じ怒号を発する精神状態に作り上げられることになったのである。
 「憎悪の二分間」が経過すると、画面は「ビッグ・ブラザー」の慈愛に満ちた顔に変わる。ここで、観客は、「我らの指導者、ビッグ・ブラザー」に寄り添う心を醸し出される。しかし、市民の誰一人として、「ビッグ・ブラザー」も現実に見たことはないのである。
 その後は、必ず、「(1)戦争は平和なり、(2)自由は隷従なり、(3)無知は力なり」のスローガンが画面に登場する。そして、観客は、「ビッグ・ブラザー」の愛称である「B・B」という合唱をする。それとともに、個人の感情は消えて、集団ヒステリーに同化する。顔付きも全員同じものに整えられてしまう。姿勢も同じになる。
 小説で描かれている市民の反応は、いま私たちの眼前で進行していることと寸分も変わらない。現在の各国には、憎むべき対象がある。暴力による威嚇がある。町中で敵国や人民の敵が起こすテロがある。陰謀集団の真実の顔を現代の世界市民は誰も見ていない。あるのは、敵とされた国や集団への見事に組織化された憎悪だけである。
 主人公の「ウィンストン・スミス」は日記に書いた。
 「未来へ、あるいは過去へ、思考が自由である時代へ、個人個人では異なっているが人がそれぞれ孤独ではない時代へ、真実が存在し、なされたことがなされなかったことに改変できない時代に向けて。画一の時代、孤独の時代、『ビッグ・ブラザー』による独裁の時代から、・・・挨拶を送る」。
 なんといまの日本の状況に似ていることか?第二次世界大戦で日本軍がアジアの人々を蹂躙してしまった過去は、記憶から消されようとしている。公務員たちは有力政治家の意に反することが許されなくなっている。森友学園の問題も、加計(かけ)学園の真相は、元高級官僚の反乱や、大衆の抗議行動にもかかわらず、隠蔽され、歴史だけが間違ったものに書き換えられている。
 主人公のこの日記の叙述の後、オーウェルは、美しい文章を添えている。それは、思想犯で幼い主人公の眼前で海に沈められて行った母の慈愛に満ちた眼差しなど、遠くになってしまった過去の記憶を呼び覚ましながら、主人公が抱いた感情を説明したものである。
 「彼は理解した――悲劇は古い時代のもの、プライバシーや愛や友情が存在していた時代のものなのだ。そうした時代にあっては、家族が互いを支え合うのにその理由を知る必要などなかった。・・・とにかく、母は、絶対に譲れない個人的な誠実という思いに自らを捧げたのである。今日では、そうしたことは起こりえない。今日あるのは恐怖であり、憎悪であり、苦痛である。気高い感情や複雑な悲しみは存在していない。こうしたことすべてを、水深何十メートルもある緑色の水中から、沈下を続けながら彼を見上げていた母と妹の大きな目の中に、彼は読み取った気がした。」
 過去を管理できると未来を管理できる。現在を管理できると過去も管理できる。必要なことは現在に真実であると公認されたものは、過去も未来にも真実であると支配者が市民に思い込ませることである。このために、作り出されたのが「ニュースピーク」という極端に意味を狭く限定された言語と、矛盾を矛盾として受け取らず、矛盾するものを統一させる「二重思考」である、というのが権力者が生み出した市民支配の道具であった。
 小説は、権力がスポーツと犯罪と星占いくらいしか掲載していない屑新聞を発行し、煽情的で安っぽい、セックス描写だらけの小説や映画を大量生産していた。そうしたメディアほど、強烈は愛国精神を市民に呼びかけていた。
 現在の日本でも同じである。露骨なポルノ記事を掲載するエログロナンセンス紙ほど、保守思想の強力な宣伝を嬉々としてばらまいているのである。
 小説は、政治犯が裁判にも掛けられずに消されている様を描いている。党の不況を買った人間はただ姿を消し、以後まったく消息不明になる。身近にいた人も、「あの人はどうなった?」と問い合わす自由すらない。人はひたすら沈黙して身を守らねばならない。

 3 戦争は平和なり

 反革命分子と敵視されている「ゴールドスタイン」の文書が、「ビッグ・ブラザー」のくびきから逃れることを決心した主人公に同情した風を装って、近づいてきた当局の大物スパイの「オブライエン」から渡された。権力側は、独裁政権批判のモデルもちゃんと作っていたのである。当局の作ったこの文書に主人公は心を奪われて、「オブライエン」に心情を吐露して、結局は、この大物スパイの手によって処刑されるのであるが、この偽文書の内容は、現在の私たちの目を通しても、権力の持つ複眼的な支配の見事さに慄然とさせられてしまう。
 手渡された「エマニュエル・ゴールドスタイン」作とされる文書の表題は『寡頭制衆参主義の理論と実践』であった。
 世界が三つの超大国に分裂することは、二〇世紀の半ば以前から十分に予測されていたことである。
 ロシアがヨーロッパを併合して「ユーラシア」国を創る。アメリカ合衆国が大英帝国を併合して「オセアニア」国を創る。最後の数十年にわたる混迷きわまる争いを経た後に、ようやく現れてきたのが、「イースタシア」である。
 「ユーラシア」は、ポルトガルからベーリング海峡までのユーラシア大陸を支配する。「オセアニア」は南北アメリカ大陸、イギリス諸島を含む大西洋の島々、オーストラレーシア、アフリカ南部を支配する。「イースタシア」は、西の国境線を曖昧にしたまま、その東、中国、東南アジア、日本列島、満州、モンゴル、チベットを支配する。
 これら三つの大国は、相互に敵視するが、過去に見られた死に物狂いの壊滅戦争には決して突入しない。本格的な戦争は互いが死滅することをよく知っているからである。イデオロギー上の内乱で内部崩壊することもない。支配下にある弱小国家は往々にしてそういうこともあるが、支配的な大国は、国内反体制勢力を十分に抑えきる力を権力者が保持しているからである。
 にもかかわらず、過去の大戦争を彷彿とさせるような戦争ヒステリーが、権力者によって大衆の中に常時植え付けられている。
 現代の戦争、それも局地戦争の目的は、権力者によって慎重にコントロールされている。
 国民の生活水準を全般的に上げずに機械によって生み出された製造品を消費してしまうことが、戦争の最大の目的である。現在その傾向はさらに顕著である。もし、世界で紛争地域がなくなれば、つまり、シリアの紛争がなくなれば、軍需生産でGDP を維持している米国は、たちまちに過剰生産恐慌に見舞われるであろう。いまでは、膨大な資本が軍需産業を通じて年々費消されている。これが、体制の安全弁になっている。
 統計的には、今日の先進諸国は、膨大な生産力を抱えている。食料も消費財もふんだんにある。しかし、蓄積された資本が生活財を生産し続ければ、必ず、そうした財の市場は満杯になってしまう。過剰生産を発現させないためにも、権力は過剰気味の資本を無駄な軍需生産に誘導しなければならない、軍需生産こそ、世界のどこかで紛争を起こせば、たちどころに市場を見出せるのである。
 戦禍による阿鼻叫喚の地獄で、逃げ惑う民衆の背後で、巨万の富を掴む軍需産業と、その部門に投資した金融業の哄笑が聞こえる。これが、現在の「不透明な世界」と称される「作り出された戦争」なのである。
 重要なことは、過去も現在も、支配的な形態は特権階級が権力を独占しているという実態である。現在の高度の発達した科学技術でもってすれば、人は飢えから解放されているはずである。富が平等に分配され、すべての人が短時間で働くだけで、食料を含む生活必需品を手に入れ、余暇と安定に恵まれると、これまでは貧困のせいでままならなかった読み書きや、自分で考える習慣を持つようになることは間違いない。
 しかし、このことは、現在の一部の権力者が特権を独占している階級社会を破壊してしまうであろう。十分な判断力を身につけた大衆は、不合理な権力者の特権的社会を覆すであろう。
 過去、反体制勢力はつねに真に平等な社会の実現を運動の目標に設定してきた。しかし、権力をまだ手に入れていない運動のリーダーが、権力を持ってしまった後の、独裁者への転化は、これまで例外のない歴史的事実である。
 「結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、成立しないのだ。」「大昔の農耕社会への回帰を夢想した者もいたが、実際的な解決策ではなかった。」それは軍事力を弱体化させて国家の消滅を招くからである。「工業面で立ち後れた国は、軍事的に無力となって、工業化の進んだ敵国から直接、間接に支配されてしまわざるをえない。」だからといって、大衆を極端な貧困状態に置くということも体制維持にはよろしくない。
 「問題は、世界の実質的財産を殖やさずに、いかにして産業の車輪を回し続けるかにかかっていた。」「これを実現するには、最終的に、絶え間なく戦争を行うという手段に訴えるしかなかったのである。」
 戦争に関する小説の叙述は秀逸である。
 「戦争に不可欠な行為と言えば破壊である。それは、人命に限られない。人間の労働が作り出した製品の破壊も含まれる。戦争とは、大衆に過度な快適さを与え、それによって、ゆくゆくは彼らに過度な知性を与えてしまいかねない物質を、粉々に破壊する・・・手段である。」
 「兵器が実際に破壊されていない場合でも、兵器の製造は、消費物質を生産せずに労働力を使い切るための便利な一手段である。たとえば、浮動要塞の中には数百隻の貨物船を建造するのに十分な労働力が閉じ込められてきた。」
 最近の北朝鮮を威嚇する米国の艦隊などがその実例となる。2017年5月、西太平洋に派遣された米国の原子力空母は、まさに浮動要塞の最たるもので、士官・兵員が3,200名、航空要因が2,400名も乗船している。
 これら要塞は、なんらかの物質的利益を生み出すものではない。人々はその製品を食べるわけでもない。
 「戦争の続行は、民衆の必要をかろうじて満たした後に余剰があれば、その余剰のすべてを消費し尽くすように計画されたものである。」
 歴史の冷厳な事実は、階層間の入れ替わりはあるが、三層構造はつねに再生産されてきたことである。
 ただし、いつの時代にも社会の各層間の不平等の存在は意識され、その意味付けが絶えずなされてきた。
 善行を積めば死後に天国に行けるというのがもっとも慇懃無礼な説得であり、宗教がその役割を担ってはいたが、下層の反抗心の芽生えを刈り取ることが上層の政策の常套であった。
 中間層は、権力を求めて戦うために、「自由」、「正義」、「友愛」といったスローガンを利用するのが常であった。19世紀がその時代であった。
 20世紀初期の社会主義が、古代の奴隷の反乱以後、その概念を実現させた最終形態となった。
 しかし、社会主義になってからの権力者たちは、口先だけで、古いスローガンを唱えるが、過去と同じように、上層に成り上がった権力を維持・拡大する方向に勢力を注いでいる。
 下手をすれば、機械の発達によって、真の平等が実現してしまうかも知れない。しかし、そうしたことが実現してしまえば、上層は権力を失ってしまう。
 いまでは、権力者にとって、「人間の平等は、もはやそれを目指して努力すべき運動ではなく、避けるべき危険となっている。」
 「公正で平和な社会など実際にはありえなかった原始的な時代には、それを信じるのはかなり簡単なことであった。悪法がなく、野蛮な労働もない社会、人間が友愛で結ばれた状況で生きて行ける地上の楽園が実現されるという考え方が、何千年にもわたって人間の夢となっていた。」
 しかし、それは幻想であった。「この幻想は、歴史的な変化があるたびに、一定の利益を得てきた人々をも虜にしてきたものである。」
 フランスの人権宣言、英国のマグナカルタ、米国の奴隷解放宣言は、人間の平等を求める人々の魂の拠り所になっていた。「人権」、「平等」、「自由」は必ず実現される真理だと多くの進歩的な思想を持つ人々が信じてきたものである。
 「しかし、20世紀も40年を過ぎる頃には、政治思想の主流はもっぱら権威主義に関するものばかりになってしまった。地上の楽園は、まさにそれが実現可能となったその瞬間に、誰も見向きもしないものになっていた。」「新しい政治理論は、いずれも階級性と厳格な統制化に立ち戻って行った。」
 これらの古い時代の教義が「十分に考え抜かれた政治理論として姿を現したのは、国家間の戦争、内線、革命やら反革命やらが世界各地で十年間続いた後のことだった。しかし、それらの理論は、今世紀初頭にすでに出現し、一般に全体主義という名で呼ばれている様々な体制を下敷きとしていたし、永く続いた混沌から現れる世界の大枠も、ずっと以前から見えていたものである。」
 「新しく台頭してきた貴族階級は、官僚、科学者、技術者、労働組合の幹部、宣伝のエキスパート、社会学者、ジャーナリスト、職業政治家がその大部分を占めている。これらは、元々中流階級に属する給与生活者か、労働者階級の中の上層を占めていた人々で、産業の独占化と統治体制から」結合してきた人々である。
 彼らには、過去の権力者に比べると金銭的な強欲はなく、贅沢にそれほど頓着はしない。しかし、過去の権力者よりもはるかに権力に魅力を感じ、敵を叩きのめすことに意欲を掻き立てる人たちである。
 この権力への熱意ということが最重要な点である。彼らに比べれば、過去の専制君主たちの統治方法はきわめて非効率的なものであった。かつての権力者たちは、民衆の行動にあまり注意を払わなかった。ところが現在の新しい権力者たちは、民衆のすべてに監視の目を注いでいる。
 逆に言えば、過去の権力者たちには、全民衆を監視下に置く意志も技術もなかった。ところがいまはどうだろう。
 印刷物、映画、ラジオ、テレビ。一つの機器で受信と発信とが同時に可能である新技術。
 プライバシーなどいまは絵空事である。オーウェルは70年も前にここまで言い切ったのである。
 まさに現在のスマホ時代、SNS時代の恐怖を非常に正確に予測していたのである。
 オーウェルは断言した。
 「国家の意思に完全に従わせるに止まらず、あらゆる事柄についての意見を完全に画一化するという可能性が、初めて生まれたのだ。」
 1960年代の革命の時代を経て、社会は新しい上層、中間層、下層に編成替えされた。新しい上層は権力を保持する仕方を完全に把握している。従来よりもはるかに少数者のグループに富を集中させる技術がそれである。持てる個人の数は過去に比べるとはるかに少ない。しかも、少数者への富の集中度は過去に例を見なかった空前のものである。この形は、自分たちのグループに権力を委譲、保持できる非常に巧妙なやり方である。

 4 無知は力なり
 
 党のメンバーは私的感情を持たないように訓練されている。しかし、熱狂状態から醒めてはならないようにも訓練されている。敵国、自国の裏切り者に対する憎しみ、勝利への歓喜、党の権威に対する自己卑下的な賛美、そうした感情が複合し沸騰した熱狂状態にあることが常時求められている。自分の生活上の不満は、背徳者への「憎悪の二分間」で効果的に雲散霧消させられてしまっている。
 幼児時代から党員たちは、反体制、党への懐疑を持つことへの嫌悪感が植え付けられてきた。少しでも党への反抗的な言動を持ちそうになると、「犯罪中止」と名付けられた、犯罪を未然に中止するという感覚がそれである。それは、危険思想を懐きそうになったときに、その一歩手前で踏み止まる能力である。論理的に類推することを止める能力である。異端に導く思想に接すると嫌悪の感情を生み出す能力でもある。敵に対しては、黒を白と言い張る反射神経である。党が望めば、黒を白と信じる習慣でもある。
 党員はもとより、党員ではない一般市民もつねに現代こそが正しいと思い込まされている。現在と異なる過去の存在を知ってしまえば、市民は、現在を過去と違うという形で相対的に見るようになってしまう。したがって、過去は、現在のものと辻褄が合うように書き直されてしまう。現在、市民が属している「オセアニア」という国が「ユーラシア」と戦争していて、その戦争は、過去からずっと続いてきたものであると、市民が思い込まされたら、たとえ、過去には「オセアニア」は「イースタシア」と戦争していたのが真実であったとしても、過去も「ユーラシア」と戦争していたと歴史が書き換えられてしまうのである。あらゆる文献がその方向で書き直される。
 過去は、人々の記憶の中にある。その記憶はつねに権力が望む内容でなければならない。記憶は不確かなので、記録に頼るしかない。しかし、記録を作成する権限は権力者にのみある。つまり、現在を正当化するために、過去はつねに書き改められるのである。
 現在の生活水準が、過去よりもはるかに高いところに来ているという捏造を人々に信じ込ませるためにも、それに併せて過去が非常に貧しかったという書き換えがなされる。
 党の指導はつねに正しい。その正しさは人々の記憶によって裏付けられる。記憶は過去の記録によって証明される。しかし、肝心の記録が改竄されるのである。
 小説で書かれた世界は絵空事ではない。現在の日本でも中国を侵略した日本陸軍による中国人の虐殺、関東大震災の際の朝鮮人の虐殺の記録は政府の公式文書から除外されることになった。
 ただし、記録を改竄した人の記憶がある。この記憶を消し去る心理が要る。これが「二重思考」である。当事者が意識せずに、記憶を抹消し、党が要求するものを「真実」と思い込む精神作用が必要になる。それは、統制された狂気から生み出される。
 過去のいかなる権力も、環境変化に対応できず、高い革命的意識に目覚めた人々によって打倒された。権力が生き延びるためには、人々の意識の深層を管理しなければならない。これが「二重思考」という哲学であり、「ニュースピーク」という言語の開発である。これは、放送技術の発達によって、歴史上初めて可能になったものである。『1984年』は、たんに「監視社会」を遠くから、つまり、絵空事の物語として面白可笑しく語ったのではない。現在の技術水準からすれば、人間の精神が権力によって操作されることが可能になっている。人類は初めて真に恐ろしい時代に入り込んだことをオーウェルは主張したのである。

 5 自由は隷従なり 

 小説は、権力が人々の思考をコントロールする最高の手段として、人々が、日常的に使う従来からの言語そのものを、時間をかけて新しい言語「ニュースピーク」に変える手法を説明している。この小説の最も大事なポイントである。新しい言語が完全に普及するに要する時間は1984から2050年までのじつに70年間である。
 馬鹿なことをと私たちは一笑に伏すことのできぬ現実が、目の前には進行している。つまり、SNSの世界がそれである。私たちが、そしてとくにSNSに嵌まる若い人たちが使う言葉は、急速に幼児化し、単純化されようとしている。
 「きらきら名前」などはその典型である。過去の読み方では考えられない音が漢字に与えられている。意味不明の音のみが名前を形成している。SNSで使われる用語は大人たちにはまったく理解不能である。SNS用語を駆使する若者は、そうした言葉を使えない大人たちを軽蔑する。
 しかし、SNS用語には、歴史を語り、社会を語る単語が、非常な勢いで消失させられてしまっている。その結果、SNSの世界は単純化し、複雑な思考は遠ざけられている。
 「ニュースピーク」は使われる言葉を単純化して権力に反抗する考え方を排除する意図で、多くの心理学者、言語学者、哲学者等々を動員して新しく作り出される言語体系である。
 一つの単語には、単純明瞭な発音と意味しか付与されない。表向きの意味とは違った深い隠された意味がある場合、その種の意味は徹底的に排除される。
 たとえば、”free”という言葉からは「政治的に自由」である、「解放される」という意味には使われない。「この畑は雑草から自由である」という意味、つまり、余計なことからは「免れている」という意味においてのみ使われる。
 表題に掲げた「隷従」も屈辱的に権力に屈服するという意味ではない。「余計なことから免れて党の正当性に寄り添うこと」という意味である。「自由は隷従である」とは「党を信頼して、邪悪なものから逃れよ」という意味になる。
 「ニュースピーク」は、日常生活用の「A群」、政治用語である「B群」、科学・技術用語である「C群」から成る。
 「A群」は、品詞間の区別をできるかぎりなくし、名詞がそのまま動詞にもなる。たとえば”think”は、動詞の「考える」だけでなく「考え方」という名詞にも使う。逆にいえば、”thought”という語はなくされている。”knife”は「ナイフ」でもあり、「切る」という意味でもある。したがって、”cut”という単語はなくなっている。「切る」は「ナイフする」で代用されている。
 名詞に”-ful”を付けるとそのまま形容詞になる。”speed”を”speedful”にすれば、「速い」である。「速い」という昔の単語は「スピード」でこと足りる。
 反対語は、すべて”un-“という接頭語を付ける。「暖かい」は”warm”ではなく、”uncold”である。”bad”という単語はなくなった。”good”を基礎として”ungood”と表現される。「悪い」という反抗的な感情を呼び起こす表眼は徹底的に廃棄されている。
 現在、「フェイスブック」を読んだ感想を表す言葉には、「駄目」がない。「いいね」だけである。オーウェルを読んだ後の感想から言えば、「いいね」しかないのには、なんらかの「罠」がありそうに思われる。
 形容詞や副詞は不規則変化をさせず、”-er”、”-est”を付ける。”good”、”better”、”best”ではなく、”gooder”、”goodest”である。
 動詞の過去形も”ed”を付ける。先に見た”think”は”thinked”である。
 その他、発音のしやすさが重要な指針となっていた。
 「B群」という政治用語の説明に移ろう。
 政治用語としての「B群」は、発音しやすいように創られた合成語である。”goodthink”は、「正統」、「正当的に考える」、「良い考え方」である。「古い思想に支配されている人」は”oldthinkers”である。
 消された言葉も多数ある。「名誉」(honour)、「正義」(justice)、「道徳」(morarity)、「国際主義」(internationalism)、「民主主義」(democracy)、「学問」(sicience)、「宗教」(religion)等々、過去の理想を表す用語のほとんどは消し去られた。
 音節も例外なく3音節以内に縮められた。
 「ニュースピーク」は思考の範囲を狭めるために、年々言葉の数を少なくして行った。音節を少なくすることで、リズムを持つ言葉になったが、音楽的に心地よく響く言葉は思考を単純化させるものである。
 オーウェルは言う。
 「(言語の)選択範囲が狭まれば狭まるほど、何かを熟考しようとする誘惑は小さくなる。」「明瞭な発音と簡単なリズムから成る言葉は、高次の頭脳中枢を活動させることなく喉頭から垂れ流されるだけになると期待された。」
 「C群」は、昔からあった科学用語をすべて「ニュースピーク」で置き換えられたものである。一般社会では使われない専門家集団の言葉である。しかし、古い意味がすべて抹消されたために、現代人は過去のすべての文献を読めなくなってしまった。過去の文献は、「ニュースピーク」で書き換えられた。その結果、過去の人々の社会改革の提案のすべては読めなくなってしまうか、まったく別の意味に置き換えられた。たとえば、「オールドスピーク」で”All men are equal”と書くはずのものは、”men”でなく”mans”である。その上で、「すべての人間は等しい」という表現から人権を想定させる内容はすべて剥奪されてしまっている。「等しい」には、権利の言葉はない。同じ背格好、同じ皮膚の色、同じ体重、等々の意味にしか読めないように訓練されている。
 「ひとたびオールドスピークがニュースピークに取って変わられると、過去との最後の絆も断たれることになったはずである。」「過去の作家たちの書物がニュースピークで翻訳され終わった後には、オリジナルな過去の文献は廃棄処分に伏されるはずであった。

 6 中間的結びとして

 ジョージ・オーウェルは、多くの人から「スターリン」の独裁を揶揄した作家で、当時の反共イデオロギーに媚びた人品卑しい作家だとのレッテルを貼られてきた。確かに、独裁者「ビッグ・ブラザー」は「スターリン」を想像させ、その敵である「エマニュエル・ゴールドスタイン」は「トロツキー」を思い起こさせるという危うさはある。
 しかし、オーウェルはけっしてそのような卑しい作家ではない。本名「エリック・アーサー・ブレア」として、1903年にネパール国境に近いインド・ベンガル地方の密輸出向け阿片の大栽培地で生まれた彼は、阿片商人の片棒を担ぐ英国官吏の父に反抗して育った。
 1934年に彼は「フランコ」と戦うために、スペイン内戦に参加した。ここで、彼は反ファシズムの本物と偽物との違いを思い知らされた。以降、彼は、広い意味での全体主義を拒否して「民主社会主義」を追い求めるようになった。つまり、自らを「反体制的左派社会主義者」に位置づけた。これは、当時の文脈では、英国の労働党とその左派との決別を意味していた。彼にとって、「スターリン」的社会主義も、英国労働的社会主義も、資本主義の打倒を叫びながらそのじつ、自らの権力の確立とその永続化に腐心する俗物に思えた。大衆は、理想主義に満ちていた。階級格差の存在に怒りを持っていた。しかし、彼らはその理想主義と怒りをうまく利用され、裏切られ続けた。
 敵の砲弾にさらされていたソヴィエト社会主義を揶揄することは卑怯であると当時のオーウェル批判者たちは考えていた。しかし、ソ連と対峙するチャーチル戦時内閣も「スターリニスト」と同じ穴も狢のファシストであった。報道は統制され、賃金や価格は凍結されていた。人々の移動は制限され、市民的自由などはまったくなかった。英国労働党は、権力を取った。しかし、内実は底の浅い官僚主義と金権体質の日常化であった。
 当時の社会主義者は、「スターリン」の強制収容所の存在を知りながら、そこから目を背け、その体制への忠誠を誓っていたことにオーウェルは怒りを抑え切れないでいた。
 「スターリン」の悪を「やむをえない」と受け取った当時の社会主義者は、小説の中の「二重思考」に支配されていたのである。そこから、おそるべきことが始まった。「言葉の幼児化」である。
 (原著は、1948年に出版されている。本稿は、高橋和久訳の『1984年』新訳版、早川書房、epi文庫、2009年を下敷きにしている。)

 7 D. トランプ現象

 電車の車内では、半分以上の乗客がスマホの画面に見入っている。本を読んでいる人はほとんどいない。
 若者の多くが、語彙の少ない短縮表現を使うようになった。モバイル・メディアの蔓延が、そうした風潮を醸し出したのは間違いない。2、3行の短いメッセージが発信され、受け手がそれに納得すると、「シェア」という謳い文句で他人にそれを流し、そうした安直な知識を流布させることが、「拡散」させると表現される。
 正確に経験したことを、正確に理解し、正確な言葉で、正確に他人に認識してもらえるように工夫する、というこれまでは当たり前にあった習慣が、周囲から急速になくなっている。
 こういった風景は、人ごとのように「情けない」といって済ませるものではない。組織や社会がバランスを欠いて、極端な方向に二分されてしまう要素が、このありふれた現象に示されているからである。
 「フレッシュ・キンケイド」(Flesch-Kincaid)という手法がある。1975年前後に開発されたらしい。文章の長さや、使用されている語彙(ごい)の平均音節数で、文意の難易度を測るものである。この判定手法によれば、短くて、少ない音節の語彙が使用されている文が、分かりやすいとされる。
 AFP.comというウェブサイトが、このフレッシュ・キンケイドの指標を用いて2015~16年の米大統領予備選挙における各候補者の演説を評価した。世界のメディアの話題となったので、多くの人が知るようになったが、それによると、すべての候補者の中で、ドナルド・トランプ候補の演説がもっとも分かりやすかった(Mouren [2015])
 同サイトの報告(AFP)は、2015年12月15日、ラスベガスで行われた共和党の大統領候補討論会における9人の候補者が使った言葉の特徴を分析した。使った語彙の少なさにおいて、ドナルド・トランプが際立っていた。トランプの使った語彙のほとんどは3音節以内の極端に短いものであった。4音節以上のものは、全体のわずか7%にすぎなかった。これは、9~10歳の子供でも、彼の発言を理解できることを意味するのだという。
 トランプが圧倒的な頻度で使った単語は、「良い」(good)、「悪い」(bad)、「すごい」(great)など、単純で短いものである。
 「もし私が大統領に選ばれれば、われわれは再び勝てる。われわれは勝ち続け、すごい、すごい国となり、以前よりもそのすごさを増すだろう」と発言したり、中東情勢を語るときには、シリアのバッシャール・アサド大統領を「悪い奴」だと表現した。
 つまり、幼児のような言葉遣いであった。
 トランプは、簡潔で、繰り返しの多い言葉遣いによって、大衆の単純な直感に訴えかけ、
彼らの心を掴むことに成功した。しかも、彼は、単純な言葉を使う自分が正直者であり、逆に複雑な言葉を使いたがる既成の政治屋たちは、聞き手を騙す技術に長けている「悪い奴」だと大衆に思い込ませ、トランプ流の言葉の魔術に取り込んだ。
 「良い」、「悪い」、「馬鹿」という、あまりにも単純な言葉の乱発で聴衆が興奮の坩堝(るつぼ)に引き入れられたということは、非常に恐ろしい事態である。
 米国におけるトランプ現象は言うに及ばず、すでに、過激な発言を武器とする超保守主義者が世界中で増殖している。このまま行けば、あらゆる社会、あらゆる組織の集団が、極端な方向に向かうことになってしまいかねない。
 ただし、候補者たちの演説で使われた語彙を「フレッシュ・キンケイト」の手法を用いて判断するのは、厳密には正しくはない。この手法は、書かれた文章を対象として開発されたもので、話し言葉を対象としたものではないからである。
 この限界を意識して、メロン大学のエリオット・シューマッハーとマスキン・エスケナージは、’REAP’ という手法を用いて、2016年の米国大統領予備選挙の候補者たちの演説をランキングづけた(Schumacher & Eskenazi [2016])
. ‘REAP’ とは、カーネギー・メロン大学で開発され、現在でも改良中の言語習得プロセスの改善技術のことである(http://reap.cs.cmu.edu/)。話し手の使う言葉を、人に伝達しやすく、しかも内容あるものに上達させていく方法を、ネット上に登場した膨大な言語データから獲得しようと試みるこうしたプロジェクトは、主として、カーネギー・メロン大学のスタッフによって行われている(Heilmann, et. al. [2008])
 誤解を避けるために、急いで述べておかねばならないことがある。
 この研究者グループは、たまたま、米大統領選を素材に取り上げた報告を出したものであって、けっして個人攻撃をするのが目的ではない。このグループは、現代社会において、聴衆の心に響く言葉のデータ分析していたところ、たまたまマスコミの網に掛かってしまって、そのトランプ批判に使われたのである。
 ちなみに、いささか横道に逸れるが、「カーネギー・メロン大学言語研究所」のこのプロジェクトと「デール・カーネギー・トレーニングセンター」のプロジェクトとは、同じ「カーネギー」という名前を使っているが、相互に関係のない、まったくの別物である。
 カーネギー・メロン大学のアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)と超ロングセラーを刊行したデール・カーネギー(Carnegie [1937])との間にはまったく姻戚関係はない。一度、騙(かた)りの汚名でヨーロッパに逃避していたデールは、米国に帰国後、本名のカーナギー(Carnagey)をカーネギー(Carnegie) 表記に変えた(1922~29年のどこかで)。デール・カーナギーは、鉄鋼王として著名なアンドリュー・カーネギーにあやかったのである。活動拠点も本物の「カーネギー・ビル」に置いた。以後、彼は、マーケッターとして大成功を収めることになった(Watts[2013])
 カーネギー・メロン大学言語研究所の上記二人らは、2016年の米大統領予備選挙に打って出た大統領候補者の中から5人、過去の大統領から5人を選び、選挙演説で使われた語彙の「分かりやすさ」(readability)の平均にランクをつけた。語彙ランクの平均でもっとも分かりやすいランクを1、もっとも難しいランクを12とした。
 2016年の候補者の5人とは、テッド・クルーズ、ヒラリー・クリントン、マルコ・ルビオ、ベニー・サンダース、ドナルド・トランプ。過去の5人の大統領とは、エイブラハム・リンカーン、バラク・オバマ、ジョージ・W・ブッシュ、ビル・クリントン、ロナルド・レーガンであった。
 10人を比較すると、語彙ランキングでは、レーガンがもっとも高く11ランク、トランプがもっとも低くて7ランク(同報告、第1表)であった。
 カーネギー・メロン大学のこの調査は、「フレッシュ・キンケイド」による計測も同時に行っているが、それによると、サンダーズがもっとも高くてランクは10、トランプはわずか4であった(同、第2表)
 人格的にはともかく、トランプの発言の仕方だけを切り離して、彼の知的レベルが低いと断定してしまうことは当を得ていない。彼が大統領選に勝利したのは、「ネット社会」の特徴を熟知していたことによるものだったと理解すべきだろう。
 大統領就任後も、トランプの語り口は変わっていない。
 大統領就任演説で米国製造業の停滞を表現するのに使った「大虐殺」(carnag)。NAFTA(北米自由貿易協定)を批判したときの言葉「完全な大失敗」(total disaster)。女性司会者を侮辱した「軽量級」(light weight)。女優のメリル・ストリープを揶揄した「過剰評価された」(over rated)奴、等々。
 他方、褒める時も大袈裟な表現を多用している。「君たちはすばらしい」(great people)がその例。
 『日本経済新聞』(2017年2月1日付、朝刊)は以下のような感想記事を掲載している。
 「感情的で単純な単語を連ねる語り口が<非エリート層>の心に響いたのは確かだ。だが難解な事象も短文で表現する言動は、すべての物事を短絡化させかねない。怒れる白人の中・低所得層を味方に付けたトランプ節はそんな危うさをはらむ」。
 「マサチューセッツ工科大学(MIT)の人工知能(AI)研究グループに所属するブラッドリー・ヘイズ氏は昨年(2016年)3月、トランプ氏のようにつぶやくAIの開発に成功した。『トランプ氏の語り口調は平易なので、AIの訓練に要した基礎データはシェークスピアの15%で済んだ』という。基礎データ完成後、数時間の訓練でAIはトランプ風の短文を書き始めたそうだ。・・・今も’@Deep Drumpf’’というツイッターアカウントで<偽トランプ節>をつぶやき続けている」(ニューヨーク、清水石珠実記者)

 8 ジョージ・オーエル『1984年』が怖れた言語の劣化=「ニュースピーク」(再論)

 重要なことなので、本稿第5節に再論を追加したい。恐ろしい監視社会を描いたジョージ・オーウェルの小説『1984年』(Orwell [1949])が語る「ニュースピーク」は、近年のAI社会をすでに透視していた。
 小説の中の専制国家「オセアニア」は、以前は、民衆の幸福を実現させる崇高な目的で革命を実現させた社会主義国家であった。しかし、革命当初は、いかに心の美しい革命家であっても、権力が彼を腐敗させてしまう。革命政権を打ち立てたこの指導者を打倒して、新たに権力を握った「ビッグ・ブラザー」が、「イングソック」という擬似的社会主義国家を創った。
 「ニュースピーク」は、元々の言葉の意味内容から外れて、極端に分かりやすく、短い音節からなる、リズム感に溢れたものに替えられた言葉である。新言語には、単純で無内容な語彙しか許されなかった。映画も、歌も、絵画も、分かりやすいということが絶対的使命にされた。言語は、単なる符号である。そこにはいかなる意味でも、権力批判の思想が入る込む余地はない。
 人口のほぼ90%を占める「プロレ」(旧プロレタリアートから労働者階級という意味を剥奪された言葉)と言われる庶民には、低水準の笑い、下品な芸能、単純なリズムで踊りたくなるような大音響の演奏、あくどいポルノ映画、等々、愚民化政策を狙った娯楽がふんだんに提供された。
 この階層は徹底的にものごとを深く考えない享楽的なミーハーにされてしまっていて、「ビッグ・ブラザー」の権力機構を支える基盤になっていた。
 「党内局」と呼ばれる、ごく少数者のみが権力を保持しているのだが、彼ら(権力側)がもっとも怖れているのは、「プロレ」(庶民)と「党局内」との間に位置し、人口当たり数パーセントの「党外局」(中間層)であった。これら中間層は、権力の代行者であるが、その思考能力の深さによって、反権力に向かう可能性をつねに秘めていた。「ニュースピーク」は、主としてこれら中間層を対象にして開発されたものである。
 現在こそが、オーウェルを怯えさせた「ニュースピーク」の時代なのである。
 こうした、極端に単純化された「ニュースピーク」に「二重思考」の教育が加わる。
 「民主主義は善である」、その民主主義を護るためには、それを破壊する異端分子たちを抹殺しなければならない。したがって、民主主義を標榜する国家権力が、反対勢力を弾圧しても、それは容認できる、と考えるのが「二重思考」である。国家は民主主義の擁護者であると同時に、反体制派への弾圧者でもある。博愛と弾圧との間には大きな溝がある。この溝を超えるものこそ、「愛」、小説では「国家への愛」である。「愛」こそが、絶対的な対立を乗り超える「善の心」である(日本讃美が保守的ナショナリズムを増幅させている現在を想起されたい)
 このように、「ニュースピーク」の時代では、反対物が相互に克服されて新しい次元の世界を拓くという意味における旧来の弁証法的歴史意識に根差す「止揚」は、独裁政権によって、都合よく変形されて、愛による心の「合一」に落とし込まれる。
 小説の主人公は、「ビッグ・ブラザー」の支配をはね除ける潜在力を持つ層が、「プロレ」であるはずだと自らに言い聞かせ、密かに改竄された社会主義革命の真相を調べて行くうちに、信頼していた人に裏切られて投獄され、「二重思考」の秘術を徹底的に施されて、「心の底から」、「ビッグ・ブラザー」を「愛」し、銃殺される喜びに浸ることになる。
 芥川龍之介の「羅生門」のテーマがそうであった。「生きるためには」、「悪」と承知しつつも悪人の老婆の身ぐるみを剥いだ小心な下人が、典型的な「二重思考」の持ち主である。
 AIロボットや車の自動運転技術の開発に鎬
(しのぎ)を削るIT専門家たちは、自分たちの輝かしい頭脳が、人々から多くの働き口を奪い去ることを心の底では怯えながら、それでも、技術開発を止めないであろう。彼らの多くは、この「二重思考」によって、良心の呵責から逃れているからであると思われる。
 科学者たちは、そもそも原爆という悪魔をこの世に送り出すべきではなかったのに、競って開発に勤しんだ。彼らが開発に遅れを取れば、敵によって自国が壊滅される。それならば、まず核兵器の開発を先行させなければならない。その後で、自分たちは「核兵器」の使用反対という「平和活動」をすればよい。そう意識していたのであろうし、いまもそうであろう。

 9 AIでなく、IAを夢見ていたハーバート・サイモン

 現在、AIに関する将来の夢が数多く語られている。しかし、AIの方向ではなく、IA(インテンシヴ・アビリティ=人間の能力拡張)について論議されることは多くない。しかし、この方向こそが人間の将来を豊かにするものであると私は思う。 
 AIの提唱者であったハーバード・サイモンなど、初期のAI開発者には、IAを夢想する人たちが結構多かった。
 ジョン・マッカーシーは、米国の認知科学者であったマーヴィン・ミンスキーと並ぶ初期の人工知能研究の第一人者で、AIという用語の創始者である。
 1961年、マッカーシーは、MIT100周年記念の一環として、ダートマス会議を開き、AI開発の重要性を人々に認識させた(第1次AIブーム)
 ダートマス会議では、アレン・ニューウェルとハーバート・サイモンによって、初めての人工知能プログラムと言われる「ロジック・セオリスト」のデモンストレーションが行われた。これは、コンピュータが四則演算等の数値計算しかできなかった当時では画期的なことだった。
 サイモンは、1978年の「ノーベルを記念するスウェーデン銀行賞」(通称、ノーベル経済学賞、ノーベル記念財団の賞ではない)の受賞者である。彼は、多くの同賞受賞者を出したシカゴ大学出身(上記のカーネギー・メロン大学でも研究した)である。彼の研究分野は、経営学、経済学だけでなく、人工知能、認知心理学、コンピュータ・サイエンス、政治学と広い分野にまたがっていた。
 サイモンは、行動する主体の意思決定には、辻褄(つじつま)の合わない要素が必ず含まれるという「限定合理性」論を展開した人である。総じて、意図した成果が現れることは難しい。したがって、組織は、実施内容の範囲を限定した上で、合理性を実現するという仕組みを試行錯誤的に絶えず作り直すという作業をしなければならない。これが、サイモンの言う「限定合理性」である。
 この「限定合理性」について、サイモンは、1969年初版の『システムの科学』で、「アーティフィシアル・サイエンス」という視角から説明した(Simon [1969])
 「アーティフィシアル」(人工的)という表現は、「アート」(芸術)から派生したものである。人間社会は、なんらかの設計図に従って展開してきたものではない。アートとは「寄せ集め」(プリコラージュ)である。
 たとえば、ありふれた「布切れ」。布切れにとっては、服に縫い上げられることが「自然の流れ」である。布切れを寄せ集めて、ちぎり絵を作るのは、自然の流れに反する。しかし、自然の流れに反しても、まったく別のものを創り出す能力が人にはある。その能力を活かして、その場、その場の寄せ集めを編成することで人間社会は進展してきた。
 「人工的」という言葉には、そういう意味が含まれている。本来の用途とは違う方向で使う物や情報を生み出すことが人工的なのである。人工的をこのように解釈することは、構造の「多様性」の認識に結びつく。
 進化は、予め作られた設計図に基づいてゼロから行われる「エンジニアリング」によって実現したものではない。そうではなく、既存の系統に対して用途の変更や追加を行うことによって実現してきた。その結果、進化は必ず複雑性を増してきた。挑戦と挫折、試行錯誤の繰り返し、そして、脈絡のないところから突然にやって来るヒラメキ、そうしたものが、ないまぜになって、概念(認識)が形成される。
 人間の知的な側面は単純である。ところが、人間の行動は複雑極まりない。人間が様々なものを「寄せ集めて」、ものごとを企画(デザイン)してきた。複雑な人間行動を理解するためには、人間が描いてきたデザインを研究しなければならない。人間固有の研究領域はデザインの科学に他ならない。
 デザインこそ、「アーティフィシアル・サイエンス」である。「秩序」を求めながら、現実にはそこから大きく逸れてしまうというパラドックスを理解するには、各人が描く多様なデザインに注目しなければならない。
 サイモンと同じく、AIはIAへと進化させるべだと、AIの第1次ブーム時から力説していたのが、ダグラス・エンゲルバートであった。彼の熱い心はいまでもIT研究者の中には生き延びている(Markoff [2015]. 邦訳、21~23頁)

 10 沈黙のスパイラル

 本稿7節のはじめで触れたように、3行そこそこの短い情報が、「シェア」という言葉で人を動かし(圧倒的な数のフォロワーズという名の観客の動員)、「拡散」という要請を出し、単純化、過激化したスローガンで人々の集団意識を意図的に増幅させている(違いの排除)
 その手法が、権力者(市場の支配人)に擦り寄る目端の利く情報の仕掛け人に持ち上げられた無邪気な情報関連技術者たちによって開発され続けている。手を替え、品を変えても、同じ中身の情報が、これでもかこれでもかと流され、人々の意識が一色に染め上げられている。仕掛け人は、受け手の細かい個人情報の収集技術を高度化させ、意図通りに、人々の意識を一定の方向に誘導する。
 情報の垂れ流しは、けっしてメディアの放逸さから生じているのではなく、国家・組織・個人の機密情報を盗み出す米国情報当局によるものであることを告発したのが、米国の支配地域から逃亡したエドワード・スノーデンであった(Harding[2014])
 IT業界は、大衆受けする無料のアプリ開発に余念がなく、そのアプリが大化けすれば、企業や各種団体等から多額の広告収入を得ることができる。
 トランプ米国大統領の過激で突飛な発言が世界の人々の注目を集めた2017年初の環境をチャンスにして、世界中のメディアが視聴率を稼ぎ、フォロワーズを激増させている。トランプ批判者たちの怒りの抗議行動が全米各地で大きくなり、それに対抗するトランプ擁護派の動きも激しさを増す。そして、全米を二分する対立の相乗効果が、「サイバー・カスケード」(情報という連続する多段状の滝)の威力を巨大なものにしている。
 トランプは、メディアの中でも、「ツイッター」を愛用することで知られ、初の「ツイッター大統領」であると言われている。大統領就任後も、トランプは、メディアの「不当な報道」を批判し、「ツイッターなら自分の言葉をそのまま伝えられる」と強調し続け、大統領の公式アカウントではなく、個人アカウントを使い続けると言い放った。しかし、多くの人が眉をしかめているように、トランプのツイートは、大統領としての考えがリアルタイムで反映されるだけに、物議を醸すことも多い(http://www.cnn.co.jp/tech/35095093.html、2017年2月1日にアクセス)
 トランプ現象は、「プラットフォーマー」としての「ツイッター」の情報収集力をますます強力にさせるであろう。「プラットフォーマー」とは、情報の発信・受信の大元である。彼らが提供するプラットフォーム(吸着場所)は、大きくて、広ければ広いほど、多くの情報を集めることができる。
 しかし、プラットフォームが、ますます特定のIT企業に集中してしまう結果、本来、多様であるべき世論が、声の大きい多数派に流れてしまう。昨今の日本における「嫌中」、「嫌韓」などに、そうした気配が見られる。国政選挙にしても、投票は、その時々の話題をさらった政党や候補者に集中してしまう。昔からそのような傾向はあった。しかし、最近では、サイバー空間が、世論の大きな流れを生み出す主たる要因になっている。
 いろいろな流れを集めて、大河にも大津波にもできるからである。権力は、この流れを作り得たグループによって握られている。権力者がその波に乗って、大きな声で叫べば叫ぶほど、「大衆」は歓呼の声を挙げてついてくる。
 そして、少数派で、力の弱い「観相者」たちは、大きな流れに連動する大声に抗した反論はせず、黙ってしまいがちとなる。
 そういうことから、世界は「全体主義的」社会に向かって漂う、という危険性を訴えたのが、旧西ドイツの政治学者、エリザベート・ノエレ=ノイマンであった。『沈黙のスパイラル』(Noelle-Neumann[1984])がそれである。
 ノエレ=ノイマンは、同書で、社会における少数派が、同調を求める多数派の圧力によって沈黙を余儀なくされていく過程を描いた。
 同氏は言った。自らを社会の少数派であると思っている人は、多数派に属する人々が発する同じ内容の言葉の大合唱によって、脅迫されているような感覚に陥り、孤立を恐れて自分の意見を表明しなくなる傾向があると。
 このような現象は、「長い物には巻かれよ」という旧い格言が示すように、はるか以前から存在していた。しかし、マスコミが発達するにつれて、この現象はますます広がりを見せるようになった。そして、スマホが登場した。スマホに熱狂する人たちが巨大な層を形成するようになって、沈黙状態は、また一段と進展してしまった。スマホに代表されるSNS社会の怖さは、この一点にある。
 ここで注意しておきたいのは、「沈黙」とは、反対者たちが、自らの自発的意思によって黙して語らないことを意味しない、ということである。そこには、有形無形の暴力が存在する。
 威嚇を背景とした大声だけが、すべての人の声のように社会では響いてしまう。反対者たちは、ウェブ社会で血祭りに上げられる。血祭りに上げられている人を救おうとする人が、多数者と反対の書き込みをしようものなら、その人への批判が無数に押し寄せてきて、その人のブログはウェブ上で瞬時に炎上してしまう。その結果、威圧的な言葉に同調する人たちのみが社会の大部分を占めるようになる。
 ジャーナリストの森健は言う。
 「ある集団で意見が極端な方向へ傾くという集団分極化は、ウェブの世界、とりわけブロゴスフィアやSNSのようなパーソナライゼーションが起きている場では、しばしば見られる現象だ。ブログやSNSのコミュニティで、ある発言者に対して明確な反論を述べるような人は(一般的な著名人の場合は別として)、多くない。・・・その発言者と対立する考えをコメントすることは、論争を招く要因になる。副次的に感情的な面倒を抱えることになり、いろいろとやっかいな話にもなる。であるなら、コメントなど返さずに黙って流してしまった方が楽だからだ」(森[2006]、225頁)
 SNSは、人と人との繋がりを促進・サポートするコミュニティ型のウェブサイト、つまり、知人の間でのコミュニケーションを円滑にする手段や場を提供し、趣味や嗜好、居住地域、出身校、あるいは「友人の友人」といった繋がりを通じて、新たな人間関係を構築する場を提供する会員制のサービスである、というのが建前としての謳い文句である。しかし、現実は、そのような歯の浮くような綺麗事にはなっていない。
 ノエレ=ノイマンが指摘した「沈黙のスパイラル」という負の現象は、今日でも、スマホの競争部面で確認される。現実に、過去のメディアよりもはるかに激烈な闘いが、情報を載せるプラットフォーム間で展開されている。アップルも、グーグルも、そしてアマゾンも、いまや新しい類の「コンテンツ配信エンジン」になろうと懸命になっている。その帰結は、世界中の膨大な視聴者にコンテンツを配信し、巨大な財務基盤を作り、コンテンツを見る人も作る人をも支配するようになる情況の出現である。

 おわりに

 スマホの世界では、異様な行動を取り、過激な言動を発するユーザーは、検索機能などを通して瞬時に発見される。その存在が社会に知れ渡るようになり、氏名や所属先などの個人情報もすぐに特定されてしまう。常識的には、情報拡散の速さに萎縮して、そうした目立つ行為は影を潜めるはずだが、ネットの世界ではそうではない。馬鹿馬鹿しさに悪乗りして動画として投稿する目立ちたがり屋のユーザーが後を絶たず、ネット上では、その行為への反響が爆発的に増殖する。その反響が特定の主張を繰り返す特定の人への反感として大きくなった時、その人のブログは使えなくなる。つまり、「炎上」する。このようなことが今では、日常茶飯事に生じている。過激で極端な行動と言動が、劇画を見るように面白く、自分たちも面白い劇画の参加者になってしまう。その流れに、毅然として異を唱える人は、はしゃぎ回る目立ちたがり屋によって、ネット上で、身辺に危険を覚えるほどの激烈な攻撃の生け贄にされてしまう。
 ネットが普及すれば素晴らしい世の中になると、かつては言われていた。しかし、実際には、過激な行動、過激な言葉、過激な攻撃的脅迫が、闊歩するようになっただけのことである。
 ネット上では、簡単に自分をアピールできることが、異常な行為をSNSに氾濫させるようになった大きな理由の一つである。現実世界の欲求不満がネット上でのバーチャルな世界にぶつけられる。
 スマホは、ネット依存症をも激増させている。いつでも、どこでも、容易にインターネットにアクセスできてしまうために、ネットが生活の中心になってしまっている「ネット依存症」に陥っている人が、年齢を問わず、増えている。
 総務省情報通信政策研究所が、2013年6月に発表した調査結果によると、小学生から25歳までのスマホ所有者の半分にネット依存傾向があるということであった(総務省[2011])。いまでは、れっきとした中高齢者が「VR」(ヴァーチャル・リアルティ)に嵌(は)まっている。
 「ネット住民」が、「バカッター」的に付和雷同する傾向が、ネット社会によって強められているという事態が、「集団の過激化」の温床になっていると言い切ってもよい。
 多くの情報が競って、大きな滝のような流れを作り、その滝が人々の話題に上れば、似たようなテーマでまた新しい滝の流れが作られていく。多くの人は、これら滝の流れの連鎖を鑑賞することで、自分が大きな流れに沿っていることを確認し、自己満足してしまう(Sunstein[2001])。情報の流れが「情報のカスケード」を作り、カスケードが「共同了解の感覚」(同じように反応してしまうこと)を生み出す。
 SNS社会では、「共同了解」から離れることに臆病な人が多い。
 政治の世界でも、保守政党がほとんどの場合に政権政党になるというのは、政策の正しさがそれを可能にしたというよりも、保守政党が共同了解と同じ役割を担うからである。社会のエリートとして人々の上に君臨するには、つねに多数派に身を置かねばならないのである。
 労組という組織もこの傾向から逃れることは難しい。その傾向こそ、「過激化」、「極端化」である。

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