ケインズの自家撞着

-黄金欲からの解放はいかにして可能となるのか?

 

斉藤日出治(大阪労働学校・アソシエ副学長)

 

はじめに

資本とは価値の無限増殖の運動である。この運動は、近代を貫く長い歴史を根底で突き動かしている力の源泉とも言えるが、こんにちのグローバリゼーションは、この資本の運動に歯止めをかけるのではなく、その逆にこの運動を全開して発動させ、そのエネルギーを経済成長につなげて、豊かさを達成できるという幻想によって推進されてきた。

その結果が、グローバルな富の集中と貧困の増大であり、国家間・社会階層間のすさまじい格差の拡大であり、深刻な環境危機である。そして、この無放縦な価値増殖の運動がもたらす社会の不安や混乱を主権国家へのひきこもりや強化によって乗り切ろうとする反動が世界各地で巻き起こっている。

資本主義は、価値増殖の衝動の爆発と主権国家によるその反動とのせめぎあいの歴史を、二〇世紀前半にすでに経験している。国際金本位制を維持して自由貿易を推進し経済的自由主義を貫こうとする動きが深刻な長期不況を招いたとき、資本主義は主権国家の力に頼って、この危機を切り抜けようとして、全体主義を招来し、世界大戦を引き起こした。

この長期不況と世界戦争の時代に、それでもなお資本主義の将来に明るい展望を読み取っていたひとりの経済学者がいた。ジョン・メイナ-ド・ケインズがそのひとである。ケインズは、当時の資本主義の運動を突き動かしている価値増殖の衝動を「呪うべき黄金欲」と呼び、その黄金欲を是とする社会道徳を厳しく批判するが、にもかかわらず一〇〇年後の孫たちはこの黄金欲から解放され、新しい道徳を身につけた暮らしを送るであろう、と予言した(「わが孫たちの経済的可能性」)

ケインズのこの予言から八〇年以上が経過しその時期が近づきつつある現在、ケインズの予言が実現する可能性は遠ざかり、その逆に黄金欲がますます世界に根を下ろし、自由時間よりも過剰労働時間と失業時間が蔓延している。

だが、ここで問題にしたいのは、ケインズの予言の破綻をあげつらうことではない。ケインズのこの予言の中には、「呪うべき黄金欲」がはらむ社会の道徳問題の深刻さ、および「呪うべき黄金欲」から解放された生のありかたについて、瞠目すべき考察がはらまれている。本論では、そこに焦点を当てて、この予言を再検証してみたい。

 

1 成長からの解放と孫たちの将来展望

ケインズは、資本主義の活力の源泉を不平等に基づく蓄積衝動にもとめる。第一次世界大戦が終わった直後の一九一九年に執筆した「平和の経済的帰結」において、ケインズは、一九世紀資本主義の富の原因をこの視点からふりかえっている。一九世紀の資本主義においては、富の分配の不平等が著しく、富が富者に極度に集中した。富者は手にしたその富を、自分の享楽のために消費せずに、蓄積した。この蓄積によって、不平等な富の分配は「社会全体の利益」(「平和の経済的帰結」邦訳一四頁)へと転換することになる。

もしも富が平等に分配されていたら、分配を受けた多くのひとびとはその富をみずからの消費のために使ってしまい、固定資本の蓄積など起きなかった。生産されたパイの多くが富者に分配され、富者がそのパイを自分の享楽のためではなく、投資に用いたことこそが社会を豊かにしたのだ、と。

「「貯蓄」の義務が美徳の一〇分の九となり、ケーキの成長が真の宗教の目的となった」(「平和の経済的帰結」邦訳一四頁)

ケーキの成長の追求を目的とする宗教とは何か。それこそ、ケインズが毛嫌いしたピューリタニズムである。ピューリタンは、現在の享楽を断念してその享楽を明日に引き延ばして、節欲と勤勉に励むことを美徳とし奨励する。そして、その見返りとして、ピューリタンには、来世における神の救済が約束される。周知のように、マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、この倫理が資本蓄積を推進する精神と結びつき、ヨーロッパに近代資本主義を出現させたものであることを洞察した。

そしてこの貯蓄と投資の連鎖が高い成長を保証することによって、将来世代はその実りある成果を享受することになるであろう、ケインズはこのように将来を展望する。

「もしケーキが、切り分けられず、・・・幾何級数的な比率で成長していくことが許されさえすれば、恐らく、遂にはみんなに行きわたるほど十分になり、子孫がわれわれの労働を享受しうるようになる日が到来するに違いない」(同、邦訳一五頁)

この将来展望は、「平和の経済的帰結」から一〇年後の「わが孫たちの経済的可能性」においてくりかえされることになる。(ただし、ケインズはそこで将来に対する二つの懸念を挙げている。一つは、人口が蓄積を上回って増えることであり、もうひとつは、蓄積された富が戦争によって破壊されてしまう、ことである。人口過剰と戦争は、経済成長の成果を相殺してしまう恐れのあるものとして警戒された。そしてこの後者の懸念は、二度目の世界大戦となって現われ、不幸なことに、ケインズの懸念は的中することになる。)

この評論において、ケインズは技術革新と資本蓄積が追求され生産性の上昇が続くならば、「進歩的な諸国における生活水準は、今後一〇〇年間に現在の四倍ないし八倍の高さに達する」(「わが孫たちの経済的可能性」、邦訳三九二頁)であろう、と予言する。そうなると、ひとびとの生活のために働く時間が著しく短縮され、余った時間をほかの目的のために使うようになるだろう。

この予言を踏まえて、「わが孫たちの経済的可能性」では、ひとが直面する新しい課題について言及がなされる。経済問題が解決され、人類は、生活に必要な手段を手に入れるために労働するという「その伝統的な目的を奪われる」ことによって、「人間は真に恒久的な問題に・・に直面するであろう」(同、邦訳三九五頁)

それは、「経済上の切迫した心配からの解放をいかに利用するのか、科学と指数的成長によって獲得される余暇を賢明で快適で富裕な生活のためにどのように使えば良いのか、という問題」(同、邦訳三九五頁)である。

まず確認しなければならないのは、ケインズにとって、不平等にもとづく資本蓄積と「幾何級数的な成長」は、それ自体が目的なのではなく、幸福を実現するための手段であり、むしろ成長を必要としなくなる世界、成長から抜け出した世界こそがケインズの望む世界であった、ということである。ケインズが「わが孫たち」に期待したのもそのような生き方である。

真の豊かさは、経済成長の直線上に連続して生まれるのではなく、経済成長とすっかり手を切ることによって生み出される。ケインズが理想としたのは、成長あるいは蓄積から解放された社会であった。

 

2 成長の原動力としての黄金欲

ケインズは成長あるいは蓄積から解放された社会を実現することによって、人類の「道徳律に大きな変化が生じる」(同、邦訳三九七頁)、と言う。それは黄金欲からの解放である。

経済成長を推進する原動力となった道徳律、それが黄金欲である。この道徳律において、貨幣は、生活に必要なものを手に入れるための手段ではなく、それ自体が目的となる。ひとびとは貨幣財産そのものをためこむことを目的として経済取引に専念する。「人生の享受と現実のための手段としての貨幣愛とは区別された―財産としての貨幣愛」(同、邦訳三九七頁)が、成長と蓄積を推進する道徳律となる。

しかし、ケインズは、この黄金欲が成長と蓄積の原動力であることを認めつつも、その黄金欲がひとびとの心にとりつき、異様に肥大化している動きを懸念してもいる。

「近年、呪うべき黄金欲は、性とか宗教の領域においてさえ未だかつてお目にかかったことがないほど、ひどく尊厳振った装いを身につけようとしている」(「呪うべき黄金欲」邦訳一九二頁)

この貨幣財産をためこもうとする欲望は、生活の必要性から解放された世界においては、当然、放棄されるようになる。自由時間を享受する暮らしにおいて、黄金欲はむしろ病的で、犯罪的な社会慣習とみなされるようになるだろう。それは、「いまいましい病的なものとして」「精神病の専門家に委ねられるような半ば犯罪的で半ば病理的な性癖の一つと」(「「わが孫たちの経済的可能性」邦訳三九七頁)みなされるようになるだろう。

この黄金欲は、今日でも「守銭奴」「吝嗇」として語られる場合には道徳的に非難されるべきもの、不健全なものとみなされる。だがケインズは、この黄金欲の内面化され合理化された価値規範が崇高な宗教倫理としてたちあらわれていることに目を向ける。

快楽を禁じて節欲と勤勉を規範とするピューリタニズムの倫理は、黄金欲が信仰として内面化され合理化されたものであり、資本蓄積を推進する経済道徳に直結している。とりわけピューリタンの厳格な性道徳は、性行為の快楽を禁じ、性行為を危険なものとみなし、性行為を生殖という目的に限定して、性的なエネルギーを経済活動にふりむける回路にほかならない。ピューリタンにとって、同性愛は犯罪行為にほかならない。ケインズはこの宗教倫理に激しく抵抗する。

グローバリズムが浸透し尽くした現代において、黄金欲は身体と意識の内面にまで深く浸透している。所得の多寡をひとの能力のたまものとして評価する能力主義的な思考のうちに、教育投資によって、みずからの労働能力に付加価値を付け、教育のコストと生涯所得を天秤にかける人的投資論の思考のうちに、黄金欲は潜んでいる。

 

3 黄金欲の時間と「野の百合」の時間

この黄金欲は、近代社会における時間概念に決定的な作用を及ぼす。ケインズは黄金欲に拘束された時間意識についても、鋭い言及をしている。

限界をもたない無窮動的な貨幣の追求は、現在の時間をつねに未来に先送りし、ついには自己の時間を永遠の未来に葬り去る。ケインズは、「わが孫たちの経済的可能性」において、学校教師のために服を仕立てた仕立屋がその代金の支払いを学校教師に迫ったとき、学校教師からもう一年待てば支払いを倍にしてやると言われて、もう一年待つことにした、というエピソードを紹介し、そこに黄金欲が現在の時間を永遠の未来へと先送りする時間意識を見て取る。貨幣の増殖を自己目的として追求する者は、「自分たちの行為の遠い将来の結果にたいして、強い関心」を抱く。だが、この関心は「自分の行為にたいする自分の関心を将来に押し広げることによって、自分の行為にたいして見せかけだけでごまかしの不朽性を手に入れよう」(同、邦訳三九七頁)とするものにほかならない。貨幣はこのごまかしの不朽性をひとびとにあたえることによって不死の幻想をまきちらす。

だが、貨幣は不死の幻想を、永遠の生の幻想をふりまくことによって、じつは死をひそかに引き寄せることになる。ケインズがミダス王の神話を好む理由がそこにある。ミダス王はデュオニソス神から、手に触れるものすべてを黄金に変える力を授けられる。だが、手に触れるものすべてが黄金に変わることによって、ミダスは飲み物も、食べ物も手に入らなくなることに気づく。黄金欲は、ミダスの生の存続を不可能にし、死を招き寄せるのである。

この時間意識は、自分が愛する対象を永遠の未来へと遠ざけることを意味する。

「彼が可愛がろうとしているのは、自分の猫ではなく、その仔猫、いや実際にはその仔猫でもなく、仔猫の仔猫・・という風に、猫族の果てるまで永久に求めつづけていくのである」(同、邦訳三九七三九八頁)

この「ごまかしの不朽性」を宗教的理念にまで高めたのがピューリタニズムである。

「不朽不滅の約束を宗教の核心と本質のなかにもっともよく組みこむことのできた民族が、複利の原理にも最も大きく寄与してきた」(同、邦訳三九九頁)

直接の快楽を禁じて節欲と勤勉に励むことを神の救済の条件としたプロテスタンティズムこそ、黄金欲の「不滅不朽の約束」を崇高な倫理にまで高めた宗教であることを、ケインズは見抜いたのである。

このような現在の時間を未来に先送りすることによって現在の時間を失う、という時間のありかたは、近代世界の成立と同じ歴史を有している。それは、利子の貸し付けを合理的なものとみなし、価値増殖の運動を日常意識に根づかせた近代世界とともに生まれた。

古代、中世の社会が利子を禁じていたのは、利子を生む時間が特定の個人の私的利益を生む時間になることに対する批判と抵抗のためであった。古代・中世における時間は、神によって創造され万民に平等にあたえられた時間であって、その時間を個人の私的な利益のために利用するということは許されることではなかった。

ケインズは、この黄金欲に拘束された時間からの解放を未来の孫たちに託そうとする。なかば病的でなかば犯罪的な黄金欲から解放された高潔なひと、徳のある人は、「明日のことなど少しも気にかけない人」であり、「この時間、この一日の高潔で上手な過ごし方を教示してくれる人」である。それは、生活のために「物事のなかに直接のよろこびを見出すことができる人、汗して働くことも紡ぐこともしない野の百合のような人

 (同、邦訳三九九頁)だ、とケインズは言う。そして、黄金欲にとりつかれたひとではなく、「野の百合」こそが、真に個体的な存在である、と言う。

ケインズにとって、株式市場で株を取引するひとびとに個体性はない。かれらは他人が何を考えているかについてつねに耳をそばだて、風評や平均的世論を探り出し、それを基準にしてみずからの行動を決定する、という意味で、模倣欲望に感染した群衆であって、「野の百合」とは対極の生き方をするひとびとである。

現在の時間を未来に先送りすることなく、未来を思い煩うこともなく、現在の時間をかぎりなく充実した時間として享受する生き方こそ、ケインズがわが孫たちに求めるものであった。

 

4 ケインズの自家撞着

しかし、ケインズは多くのひとびとがそのような生き方を実現することの困難さも自覚していた。ケインズは、年老いた掃除婦がみずからの墓に刻んだつぎのような墓碑銘を紹介する。

「私のために嘆き悲しまないで、友よ、私のために涙を流さないで、私は、今後は永久に働かないでもよくなるのだから」(同、邦訳三九五頁)

人生を日々の労働に駆り立てられて過ごしてきた貧者にとって、死とはその苦役からの永遠の解放であり、永遠の安らぎの場なのだ、と。

だが、掃除婦は言う。

「賛美歌と快い音楽が天国に響きわたっていることでしょう、しかし私は歌うことに縁がないのです」(同、邦訳三九五頁)

貧者は死んで安らぎを得ても、天国で賛美歌を歌い、音楽を享受する能力すらもちあわせていない。だから、ケインズは慨嘆する。「われわれのうちで歌うことができる者は何と少ないことだろう!」(同、邦訳三九五頁)、と。

そこでケインズは、社会の富裕層が、病的で犯罪的な黄金欲からみずからを解き放ち、現在の時間をかぎりなく享受する生き方を徐々に習得して、わが孫たちの暮らしの導きの糸となることを期待する。

「富裕階級こそわれわれのいわば前衛」であり、いまだその準備が整わない「他の者に代わって約束の地を見つけ出し」(同、邦訳三九六頁)、ひとびとの「生活術そのものをより完璧なものに洗練し、生活手段のために自らを売り渡すことのないよう」(同、邦訳三九五頁)にする道を先導してくれる階級なのだ、と。

だが、ケインズは富裕階級によって先導されるこのような豊かな時代が到来するためには、すくなくとも今後一〇〇年のあいだ、黄金欲が牽引する経済成長を続けなければならない、と言う。われわれは黄金欲という不道徳な方法を利用してこそ、黄金欲から解放された世界にたどり着くことができるのだ、と。そのためには、あと一〇〇年間は「自分自身に対しても、どの人に対しても、公平なものは不正であり、不正なものは公平であると偽らなければならない。なぜなら、不正なものは有用であり、公平なものは有用でないからである。貪欲や高利や警戒心は、いましばらくなおわれわれの神でなければならない。なぜならば、そのようなものだけが経済的必要というトンネルから、われわれを陽光のなかへと導いてくれることができるからである

< span style=”font-family: Times New Roman,serif;”>(同、邦訳三九九頁)

だがケインズ自身が洞察しているように、現在の享楽を未来へと先送りし続けることによる見せかけの不朽性の追求は、享楽を手に入れることを永遠に不可能にすることを意味する。ケインズはそのことを承知していながら、この先送りの道の追求が一〇〇年後のわが孫たちの経済的必要性からの解放を保証するために欠かせない条件だ、と言い張るのである。

このケインズの自家撞着によって、ケインズの主張は楽観論から恐るべき悲観論へと反転することになる。貨幣に対する貪欲な追求はとどまるところを知らないままに永遠に追求され先送りされる。フロイトはここで先送りされるものが「死の欲動」であることを感じ取った(拙論「世界の終わりと経済学」『象』八七号を参照されたい)。フロイトから学んだケインズも、やはりかぎりない黄金欲のうちに死の予兆を読み取っている。

つまり、未来のジャムや猫を求めてかぎりなく反復される行為は死を招く。現在を未来へと先送りし続けるわたしたちは、「わが孫たち」の死という未来の他者に出会うことになる。  すでにわたしたちはそのことをうすうす感づいている。赤字の国債をたえず発行し続け財源を確保し、その負担を未来の世代に先送りしたり、原子力発電を再稼働して、廃棄物の処理と放射能汚染を未来の他者に委ねる現在の時間のありかたは、死の予兆を物語る。

それでも、ケインズはこう言い張る。経済成長とともに、「経済的必要性の問題から実際に解放された人々の階級や集団が次第におおきくなる」(邦訳四〇〇頁)、と。ケインズの楽観論はここにきわまる。富を独占する今日の最富裕層は、今日でもなお、「野の百合」のような暮らしを求めるどころか、黄金欲を追求するグローバル競争の先頭を走っているというのに、ケインズのこの底抜けの楽観論は、いったい何を根拠にしているのであろうか。

黄金欲に突き動かされた生き方から「野の百合」のような生き方への転換は、道徳律の転換をめぐる巨大なヘゲモニー闘争を必要としている。このヘゲモニー闘争は、精神的諸観念の変革はもとより、社会制度の転換、技術のありかた、人間と自然のかかわりかた、といったものの総体的な構造転換を必要とする。ケインズは富裕階層の<善意>に期待することによって、この社会闘争の広大な過程に目を向ける道をみずから閉ざしてしまったようである。

参考文献

J.M.ケインズ[1919]『ケインズ全集2・平和の経済的帰結』、中山伊知郎編集代表、東洋経済新報社、1977)

J.M.ケインズ[1930]「わが孫たちの経済的可能性」『ケインズ全集9』、中山伊知郎編集代表、東洋経済新報社

J.M.ケインズ[1930]「呪うべき黄金欲」『ケインズ全集9』・説得論集、中山伊知郎編集代表、東洋経済新報社、

ドスタレール・ギル[2005]『ケインズの闘い

哲学・政治・経済学・芸術』鍋島直樹ほか訳、藤原書店、二〇〇八年]

Dostaler G./Maris B.[2009],Capitalisme et pulsion de mort,Albin Michel,

(名古屋同人誌『象』88号、2017年夏、からの転載)