月別アーカイブ: 2016年12月

学長通信(第10号)

大阪労働学校・アソシエ学長、本山美彦

 講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のおつきになる時間に、1コマでもいいので、ご参加下さい。場所は、学働館3階・講義室・図書室です。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、11月から「労働講座」が、各労働組合の自主的な運営で開始されています。ここにも、組合員以外の方々の聴講をお待ちします。
 また、12月毎週木曜日第1限(10時半~12時)齊藤日出治・副学長による「『資本論』を読む」講義を緊急追加しました。

1. 学生レポート

月曜日 第1限
「保守系経済学のどこが間違っているのか?」 田淵講師の講義に学ぶ
学生A
金本位制の自動調節作用は実在するのか
答えは「実在しない」
 金本位制を行う国があっても、「金」の移動はほとんど起きない。金が移動する前に、中央銀行が金利を調整することで解決している。物価が変動するレベルの金の移動は、歴史上、一度も起こってはいない。
 金本位制とは、金利を調整して金の流出を調整し、金に基づいた為替レートを安定させる仕組みである。為替レートの安定は外国との約束であり、金本位制を守れば、その国に安心してお金を貸せる、つまり信用を得るためにそれぞれの国のエリートが守っていた。
 金利を上げると、お金を借り難くなり、失業・倒産が増加する。金回りが悪くなり、経済活動が停滞する。ケインズは国内均衡より国際均衡を優先する金本位制を批判していた。1870年から1913年まで続いた国際金本位制は、あえて大幅に金利を引き上げ、労働者に失業の脅しをかけて、低賃金を受け入れさせるための制度である。
 国際金本位制を支えていたのは各国における「エリート支配」である。これはイギリスを頂点とし、欧米→日本・南米→植民地の順に構成されたピラミッドに例えると分かりやすい。
 世界で唯一の金融センターを持つイギリスは、負担を周辺国に転嫁できる。イギリスから見て、少し資金が出ている時は、少しだけ金利を上げるだけで資金が戻ってくる。そうすると周りの国は、もっと金利を上げないと自分の国には留まってくれない。
 金が流出しそうになる度に、国内の経済を無視して金利を引き上げる必要が出てくる。不況で金利を上げたら大不況になる。しかし、当時はどの国にも民主主義など無く、労働者階級がどうなろうと眼中にない権威主義的なエリート支配体制であった。ある国はインフラ整備や戦争の費用を賄うために、また別の国は「一等国の栄誉」を得るために、金本位制を守っていた。
 金本位制は第一次世界大戦と共に消えて無くなったが、1925年から再びイギリス主導で復活した。金本位制を復活させたらイギリスは再び繁栄するだろうと勘違いしていたが、本当は「イギリスが強かったから金本位制を保持できた」のである。
 この「再建金本位制」は1931年までの6年間しか保持できず、非常に短命に終わってしまった。これは、①金融センターがロンドンだけではなくなり、イギリスが金利を引き上げるだけでは解決できなくなった、②軍事力のパワーバランスが一次大戦以降崩れ、イギリスにだけ金を預ければ大丈夫という保証がなくなった、③民主化が進んで選挙権が拡大し、政府は新たな経済政策として「雇用政策」を打ち出す必要が出てきたことなどが挙げられる。
 巷では「金本位制は貿易収支を均衡させる作用を持っている」など説明されているが、そんな便利な制度がなぜ現在できなくなったのか。それは決して「ゲームのルール」を守らなくなったからではなく、ルールを守らせるためのイギリスを頂点としたエリート支配体制が失われたからである。

2. 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第7回) 

 1.トーマス・グラバーが残した事業
 武器を売る「死の商人」、薩長を結びつけた張本人「勤王の洋商」として知られているトーマス・ブレーク・グラバー(T.B. Glover 1838~1911年)は、73年の生涯のうち52年を日本で暮らし、2番目の「妻」は日本人のツルであった。明治政府から明治41年(1908年)に勲二等旭日重光章を授けられている。
 それから3年後の明治44年(1911年)に東京で逝去、墓は長崎市の坂本国際墓地。妻ツルと共に息子の倉場(クラバ)(トミ)三郎夫妻と並んでならんで眠っている。
 実父は子沢山で、グラバーはその第五男で、兄(第三男)のジェームズを文久元年(1861年)に長崎に呼び寄せて、自社に入社させている。
 ここで、グラバーの日本における事績を個条的に整理しておきたい。

 ①グラバー邸
 長崎市に現存する、あまりにも著名な「グラバー邸」は、日本最古の洋風木造建築である。文久3年(1863年)、山腹の山の手3番地(当時)という外国居留民に幕府が貸し出した土地に建設された。
 安政6年(1859年)、長崎・横浜・箱館(函館)の3港の開港に合わせて、長崎に着任(上海・香港のアヘン商社=ジャーディン・マセソン商会から派遣されて来日)したグラバーは、21歳の若者であった。若年にもかかわらず、長崎・大浦の外国人居留地の中でめきめき頭角を現し、グラバー邸を建てたのはまだ26歳の時であった。
 グラバー邸は、当時でも異彩を放ち、珍しい独特のバンガロー風であった。グラバーには、当初から社交の場としてそこを利用する意図があったと思われる。事実、維新政府の重鎮になる幕末の志士たちが、このグラバー邸に集っていた。すでに紹介したように、薩摩、長州の若者たちがグラバーの導きによって(すぐ後で見るが、実際には、「ジャーディン・マセソン商会」が世話をした)イギリスに密航し、ロンドンなどの大学に留学した。彼らは、グラバーの恩恵に報いるべく、明治政府の実力者になってからは、グラバー支援を行い続けたのである。
 しかし、グラバー邸は、紆余曲折の末、息子の倉場富三郎の代になって、第二次世界大戦中に三菱長崎造船所の所有になってしまった。

 ②長崎在住の外国商人による「商業会議所」
 来日した直後のグラバーは、ケネス・ロス・マッケンジー(1801~73年)の経営する「マッケンジー商会」で事務員として働いていた。マッケンジーも、「ジャーディン・マセソン商会」のエージェントであった。
 そのマッケンジーが、新たに開港された長江(揚子江)中流域の漢口(ハンカオ、現在の武漢市の一部、「ジャーディン・マセソン商会の拠点があった)で貿易取引を行うべく、文久元年(1861年)長崎を離れたことを契機に、同年、グラバーは、マッケンジーから「ジャーディン・マセソン商会」の多くの仕事を引き継いだ。グラバーは、同商会だけでなく、「デント商会」、「サッスーン商会」という当時の大商社の長崎におけるエージェントの権利も得た。
 「ジャーディン・マセソン商会」は、幕府から大浦2番地の土地を借り受けていたが、その土地も、エージェントであるグラバーの管理に委ねられた。グラバーはその地に事務所を構えた。
 同年、「オールト商会」や「ウォルシュ商会」など、英米の7つの商会(イギリス系5社、アメリカ系2社)の代表が集まり、「長崎貿易の促進と発展」、「不法取引の禁止」、「貿易報告書の発行」をスローガンに掲げて設立された「長崎(外国人)商業会議所」が設立され、グラバーは3名の代表運営者の1人となった。この会議所は、日本で最初の「商業会議所」であった。ただし、外国商人と言っても、長崎在住の西洋商社はまだ少なかった。1865年時点でも、この地に居住していた西洋人は、英国人63名、米国人37名、フランス人19名、その他の西洋人は25名と、合計しても150名に足りなかった。
 グラバーは、若造でありながら、このような重要な位置を獲得できたのも、当時、外国商人の間で大きな信頼を勝ち得ていたマッケンジーの後ろ盾と、「ジャーディン・マセソン商会」の威光があったからであろう。
 武器を扱う前は、グラバーだけでなく、他の西洋商社は、茶の輸出を行っていた。しかし、茶はすでに中国(清)人の商圏であったので、長崎の西洋人商会は、グラバーを通して「ジャーディン・マセソン商会」の交易網に頼らざるを得なかった。アヘン戦争で巨大な特権的権益を得た「ジャーディン・マセソン商会」のエージェントであったグラバーの対中コネクションの内容については、もっと調べる必要が日本の史学には残っている。そのこともあって、本節の流れからいささか逸れるが、「ジャーディン・マセソン商会」について、簡単に紹介しておこう。
 ○注「ジャーディン・マセソン商会」
 「ジャーディン・マセソン商会」は現在でも健在であり、香港に本店を置いている(ただし、バミューダ諸島のハミルトンで登記している)持株会社である(Jardine Matheson Holdings Limited)。いまでも、アジアに根を張る世界最大級のコングロマリットである。
 同商会は、1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社の元船医のウィリアム・ジャーディンと、貿易商人のジェームス・マセソンによって、中国の広州(沙面島)に設立された。広東語名は「怡和(Yee Wo)洋行」(現在の中国語と広東語とでは発音に大きな違いがある。中国語では香港はホンコンとは発音しない)。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出であった。同社は、1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関与していた。同商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は、9票という僅差で軍の広州への派遣を決定した。アヘン戦争後、1844年に上海の共同租界である「外灘」(バンド)で同商会は最初に土地を租借した外国企業である。
 1860年、同社は、横浜の居留地に支店を開設した。日本に進出した外資第1号である。
 長崎には、上述のように、安政6年(1859年)に進出した。同社のエージェントとして、グラバーは、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文といったいわゆる「長州五傑」や、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。薩摩や長州の若手の藩士たちのイギリス留学(もちろん密航)については、同商会横浜支店長やロンドン支店が細かい世話をした。
 今でも、香港のランドマークには「渣甸橋」(Jardine’s Bridge)や、「勿地臣街」(Matheson Street)、「渣甸街」(Jardine’s Bazaar)、「渣甸坊」(Jardine’s Crescent)、「渣甸山」(Jardine’s Lookout)、「怡和街」(Yee Wo Street)といった名称のものが残っている。

 ③蒸気機関車をお披露目
 グラバーは、慶応元年(1865年)、つまり、日本で鉄道が開通する5年も前に、長崎で実際の蒸気機関車を走らせた。
 グラバーは、上海で購入した小型の英国製蒸気機関車を自社の持ち船で長崎に運び,、数百メートルの線路を大浦海岸通りに敷設した。燃料の石炭は日本で産出したものを用いて、機関車を走らせた。多数の見物客が押し寄せたという。その時の模様は、ロンドンの『レイルウェー・タイムズ』(Rail Way Times)の1865年号(年刊誌)や大正7年(1918年)6月7日付『ナガサキ・プレス』(Nagasaki Press)で紹介されたという。
 因みに、日本で蒸気機関車が最初に走ったのは、新橋─横浜間で明治3年(1870年)のことであった。

 ④武装船と武器の売却
 文久元年(1861年)、薩摩の五代友厚(当時は才助)に蒸気船2隻の斡旋を依頼されたグラバーは「ジャーディン・マセソン商会」に照会したが、最初のうちは、適当な船が見つからなかった。それでも、薩摩藩は、五代に、そのまま御船奉行副役として、長崎常駐を命じた。文久2年(1862年)、売却可能な1隻が見つかり、長崎に回航されたが、公武合体運動で長崎を不在にしていた五代が今度は間に合わず、長州藩に、「ジャーディン・マセソン商会」を通してさらわれてしまった(壬戌、じんじゅつ丸)。
 その後になるが、同年に、グラバーの兄のジェームズが、アメリカ船籍のコロンビア号を入手し、筑前(福岡)藩に売り込んだ。「グラバー商会」による船の売却第1号であった。
 そして、薩摩藩は、同年、横浜で自藩の藩士がしでかした「生麦事件」の報復をイギリスから受けることを恐れて、武装船の購入を五代に急がせた。これも、ジェームズがドイツ船籍のサー・ジョージ・グレイ号を上海で見付けて、薩摩藩に売却した(靑鷹丸)。続けて薩摩藩は、グランバーよりアメリカ船籍のコンテスト号を購入(白鳳丸)している。
 文久3年(1863年)の薩英戦争の結果、イギリス軍が使ったアームストロング砲の威力に日本の各藩は目を見張った。薩摩藩は早速グラバーに同砲の入手を依頼した。グラバーは、本国政府に同砲を薩摩藩に売却していいかどうかを問い合わせたが、幕府への外交的配慮から本国は売却に同意しなかった。
 やむなくグラバーが取った措置は、同砲の密輸入であった。ポルトガル領マカオには、アメリカ製の旧式砲が89砲門あった。それらを「ジャーディン・マセソン商会」の香港本店のルートによって、鹿児島に運んだ(イギリス本国政府の預かり知らぬこと)
 周知のように、アメリカのいわゆる南北戦争は1865年4月に終わり、この年から不用になった大量の武器が市場に放出された。死の商人たちは、それらをせっせと日本の各藩に売りつけるようになった。
 そして薩英戦争が突発し、「青鷹丸」に乗船していた五代は、船ごとイギリス軍艦に拿捕され、捕虜となって横浜に連行された。しかし、薩摩藩はその事情についてはつゆ知らず、五代を敵前逃亡者として藩から除名してしまった。イギリスの監禁から脱出した五代は、薩摩藩士からも狙われ、途方に暮れていたが、探索してくれた薩摩藩家老に見つけ出されて、グラバー邸に匿われることになった。
 慶応元年(1865年)に五代が帰藩を許されたのは、小松帯刀が行ってくれた藩主への助命嘆願のせいもあるが、グラバー邸に匿われている間に五代が藩主宛に書いた上申書によるところが大きい。それは、貿易を梃子に据える富国強兵策であった。おそらく、五代は、グラバーと相談しながら書いたのであろう。
 薩摩藩は、米や海産物を上海に売って、その売上金で製糖機械を買う。その機械で砂糖を作り、これを内外に売り捌いて利益を得る。その利益を使って、若い藩士を海外に留学させ、同行した藩のしかるべき人物が、武器類や紡績機械類を購入して、藩の軍備増強と産業技術の向上を図るという内容の上申書であった。
 当然、そこには「グラバー商会」や「ジャーディン・マセソン商会」などの貿易商人の存在が暗黙裏に想定されていた。この点だけを見ても、グラバーが五代に入れ知恵をしたと容易に想像できる。
 そうした想像を裏付けるように、グラバーは、五代の活躍に呼応して上海や横浜に「グラバー商会」の支店を相次いで開設した。必要資金は「ジャーディン・マセソン商会」から借りまくった。
 文久3年(1863年)~元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間で戦闘があった。1863年、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。その報復としてアメリカとフランスの軍艦が、馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃した。しかし、長崎藩は海峡封鎖を続行し続けた。そして、1864年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合軍が、艦砲射撃や兵士の上陸などによって、長州藩の砲台を徹底的に破壊した。
 薩英戦争や下関戦争の様子を見た幕府や各藩は、外国と日本との武力差を思い知らされた。その結果、幕府や各藩は、競って軍艦や武器・弾薬を外国商社、とくに「グラバー商会」から購入するようになった。「グラバー商会」は数値上は空前の儲けを出すはずであった。しかし、結論を先に言ってしまうと、「グラバー商会」の台所は火の車であった。そもそも、外国人からの武器の仕入れは現金であったが、大名からの入金はなかった。当時の日本の大名取引の慣習によって、大名の買いは掛け買いであった。そうした習慣は、数年後の新政府による廃藩置県によって、大名が廃絶されるや否や「グラバー商会」を極端な資金難に陥れることになる。藩が消滅してしまえば、「グラバー商会」が破綻してしまうことは当然の成り行きであった。
 それでもグラバーは、新政府が成立するまでは、軍艦や武器を各藩に売りまくった。1864年の最後の3か月だけでも、グラバーは高価な軍艦を3隻も、肥後、肥前、紀州の各藩に売りつけたのである。

 ⑤「ソロバン・ドック」の建設
 グラバーが大量に売りつけた軍艦のほとんどは中古のものであった。いきおい、修理面での不自由さが目に余ってきた。そこで、グラバーは、慶応2年(1866年)に五代や小松帯刀と組んで、長崎の小菅(こすげ)の入江に大規模の修船場(ドック)建設を構想した。資材はグラバーの故郷、アバディーンの「ホール・ラッセル」社に発注した。グラバーの兄、チャールズ(長兄)が調達の責任を引き受けた。
 資材とは、巻き揚げ機、ボイラー、チェーン、レール等々である。チャールズは、そうした資材を長崎に輸送する快走帆船を、やはりアバディーンの造船所「アレキサンダー・ホール」社に依頼した。「ホール・ラッセル」社の技師が、できあがった帆船に、資材とともに乗って長崎にやってきて、修船場の建設の陣頭指揮に立った。
 明治元年(1868年)に出来上がったドックは1,200トン級の船を収容できる広さがあり、ソロバンの形に似ていたことから、地元では「ソロバン・ドック」と呼ばれた。
 この修船場も、最初こそグラバーの所有であったが、明治2年(1869年)に政府に買い上げられ、明治20年(1887年)、三菱長崎造船所の所有となった。

 ⑥高島炭鉱
 長崎港の入口近くに石炭が採れる高島という地があり、元禄時代から佐賀藩が石炭を採掘していた。しかし、この炭鉱は、幕末の開港時になっても、前近代的な手掘りであり、採掘量も微々たるものであった。工業化が日本でも進行するであろうことを読んでいたグラバーは、高島炭鉱の近代化の方針を佐賀藩主の鍋島直大と話し合った結果、慶応3年(1867年)、香港の「ジャーディン・マセソン商会」に乗り込み、高島炭鉱の近代化のための開発資金の融資を申し込んだ。さらに、アバディーンに足を延ばし、採炭機械の調達と技師の採用の手配をした。
 慶応4年(1868年)、「グラバー商会」は佐賀藩と契約を交わし、直ちに炭層の探査を始めた。幸運にも地下45メートルの当たりで広大な鉱脈を発見した。「ジャーディン・マセソン商会」から融資を受けた豊富な資金と、アバディーンから調達した機材、そして優秀な技師のお蔭で、良質な石炭の採掘は順調に進み、高島炭鉱の石炭は長崎港から内外に販売された。石炭の質は、イギリス産の石炭よりも硫黄分の少ない非常に良質のものであった。
 高島炭鉱は、明治2年(1869年)秋まで順調に操業を継続してきたが、明治3年(1870年)に入ると、スポンサーの「ジャーディン・マセソン商会」が、グラバーに対して、すべての債務の精算を迫った。困ったグラバーは、「オランダ貿易協会」に高島炭鉱を残すことを頼み込み、炭鉱の経営権を同協会に移し、すべての機材も同協会の所有に移し替えた。
 しかし、同協会─炭鉱経営には無頓着であった。グラバーも、炭鉱経営に従事はしていたが、資金的な決定権がないために、経営に毅然とした姿勢を示すことはできなかった。経営責任があいまいになり、資金難で労働環境が急激に悪化したことによって、不満を募らせた炭鉱労働者たちが、ついに、明治5年(1872年)、本格的な労働争議を起こすことになった。日本最初の大労働争議だと言われている。翌6年(1873年)には数十名もの炭鉱労働者の死者が出た。
 明治7年(1874年)、見かねた明治政府が、高島炭鉱の経営に介入することになった。グラバーに公的資金を渡して、高島炭鉱の所有権を「オランダ貿易協会」から、とりあえず買い戻させた。しかし、それは、グラバーを正式の所有者として確定させるためではなかった。一時的な名義切り換えにすぎなかったのである。
 同年、政府は「日本坑法」を国家で可決させ、外国人による日本国内の鉱山所有を禁止することにした。その上で、政府は、一旦渡した所有権をグラバーから取り上げて、土佐藩出身の後藤象二郎が経営する「蓬莱(ほうらい)社」に高島炭鉱を払い下げた。
 グラバーや、彼によってアバディーンから連れてこられた技師たちが炭鉱に留まることは、認められたが、膨大な債務は減少されず、不安的な経営状態はなお継続し、炭鉱労働者の不満は鬱積していた。
 所長の座をあてがわれたとはいえ、グラバーは、いたたまれず、明治13年(1880年)、福沢諭吉を動員して債務も精算してくれる大会社に炭鉱を身売りすることを画策した。
 炭鉱の経営、債務返済のすべてを引き取ったのが岩崎弥太郎であった。明治14年(1881年)のことであった。その後も、グラバーは、高島炭鉱の顧問として残っていたが、明治18年(1885年)、高島炭鉱から一切、手を引くことになった。
 その他、五代との共同事業であった大坂造幣局、あるいは麒麟麦酒の設立などもグラバーの大きな遺産であるが、ここでは割愛する。 
 それでも、少なくとも、繁栄する大三菱グループの下地は、グラバーによっても作られたものであったと見做すことは誤りではないだろう。

マルクスによる非西欧社会の発見

新自由主義的グローバリゼーションを根源から問い直すための歴史認識の探究
大阪労働学校アソシエ講師 斉藤日出治

 イギリスのEU離脱やトランプ大統領の出現は、新自由主義的グローバリゼーションがもたらした社会の破局に対する社会の防衛反応であるが、この反応は、市場原理にもとづく社会を救済するのではなく、民主主義の縮減と排外主義の高揚をもたらし、社会の分断と閉塞を一段と激化させる。グローバリゼーションと反グローバリゼーションのこのような拮抗のなかで、脱グローバリゼーションに向けた歴史的選択が見失われてしまう。
以下に紹介する拙論は、グローバリゼーションを西欧近代の長期的歴史のなかで再検証し、脱グローバリゼーションの歴史的針路を探り当てるための手がかりとして、マルクスの歴史認識を再考したものである。
同人誌『象』グループ・象発行、85号(2016年夏)、および『象』86号(2016年秋)からの転載

マルクスによる非西欧社会の発見
― 一八五〇年代におけるマルクスの歴史認識の視座転換
  はじめに-ふたりのカールの世界史認識
 カール・ポランニー(一八八六‐一九六四)とカール・マルクス(一八一八-一八八三)。ふたりのカールは近代資本主義が引き起こした社会と歴史の巨大な転換に向き合いそれと苦闘した。ポランニーは二〇世紀に出現したファシズムと世界戦争という破局的事態の起源を探り、マルクスは一九世紀に出現した近代の資本という怪物がもたらした社会の激変と格闘した。
 ほぼ一世紀近くを隔てて生きたこの両巨匠に共通するのは、近代社会における市場取引の発展や科学技術の進歩がひとびとの生活に及ぼした破局的な暴力を洞察していることであり、その暴力が誘発する未来社会の胎動を見据えている、ということである。この洞察において、ふたりは他のあまたの経済学者とはっきりと峻別される。
 両者の思考にたちかえることは、グローバリゼーションの急進展が世界的な破局を呼び起こし、この破局が多様で複雑な社会の胎動を誘発している二一世紀の現代世界を考えるうえで重要な示唆をあたえてくれる。

1 「市場社会」と「文化的破局」
 ポランニーは、一八世紀のイギリス産業革命が科学技術の巨大な革新をもたらすと同時に、民衆の生活を根底からくつがえす破局的事態を引き起こしたことに着目する。産業革命は、羊毛工業の原料となる羊の牧草地を確保するため耕作地や共有地を囲い込み、農民の土地や家屋を奪い去って無産者化するという暴力を行使した。農民は生活の基盤となった共有地や共同体的な絆から引き離されて、所有を奪われた裸の個人と化し、生存のために労働市場に赴くことを余儀なくされる。機械制大工業にとって必要な集合労働者の一群がこのようにして労働市場で供給される体制が整備されていく。
 ポランニーにとって、この社会の転換はマルクス主義が唱えるような狭義の経済問題ではなく、連帯と相互扶助にもとづく共同社会から私益と自助にもとづく市場社会への道徳的・倫理的な転換を随伴する巨大な社会問題であった。ポランニーは、市場の自己調整機能によって社会を組織するという近代の「市場社会」を創出するためには、このような連帯と相互扶助にもとづく社会的・文化的な諸制度を解体し農民から誇りや尊厳を奪う社会意識の大転換が必要であったことを看破する。
 ポランニーの卓見は、イギリスの農民を襲ったこの社会的破局が非西欧地帯における諸地域の民衆をも巻き込んだことに目を向けていることにある。南北アメリカ、アフリカ、インド、中国の各地をつぎつぎと植民地化していったイギリスをはじめとする西欧諸列強は、市場取引を全世界に波及させるための条件を非西欧地帯に強いる。非西欧地帯は、西欧の工業生産に必要な原料や食料の供給地として、租税や貢納による植民地主義的な収奪の対象として、資本主義の国際分業体制のなかに引きずりこまれていく。そのために、それら地域の伝統的な家内工業が破壊され、共同体的な諸関係が解体され、ひとびとはみずからの生活と生存を支えていた文化的・社会的環境から引き離されるようになる。ポランニーは「人間を浮浪する群衆へとひき砕いた」(『大転換』五九頁)この破局的暴力を詩人の言葉を借りて「悪魔のひき臼」と呼んだ。
 ポランニーは、この「悪魔のひき臼」の暴力が、産業革命期のイギリスの民衆と非西欧地帯の民衆を同時に襲うことに目を向ける。近代が生み出した市場社会は、世界市場と国際分業を推進することによって、このような世界的な規模での社会的破局を引き起こした。
 価格の変動による市場の需給関係の調整によって社会を組織しようとする経済的自由主義の思考は、西欧社会と非西欧地帯の双方にひとびとの共同社会と社会的・文化的紐帯に対する破壊的作用をもたらす。この破壊的作用に抗して、ひとびとは自然発生的に生活と生存を確保するための制度を整備しようとする様々な社会防衛の運動に着手する。
 ポランニーは市場経済を推進し普及させようとする運動と、その破壊的作用から社会を防衛しようとする運動の対抗的関係という視座から、一九-二〇世紀の世界史をとらえようとする。ポランニーにとって、この対抗的な二重運動は、西欧地域に限定されるものではなく、地球的な規模で展開される運動であった。したがって、この対抗的二重運動に巻き込まれた非西欧地帯は、植民地主義の破局的な暴力に抗しつつ社会の防衛を図るうえで独自の課題に直面することになる。つまり、非西欧地帯はみずからの社会がはらむ専制的性格をのりこえ、西欧の植民地主義的な専制的支配にも抗しつつ、いかなる共同社会を創造するのか、という課題に直面する。この課題に目を向けたのが、もうひとりのカールであった。

2 「資本の文明化作用」と「社会革命」
 もうひとりのカールは、ポランニーにほぼ一世紀先立つ一八五〇年代に、すでに近代的資本が発動する破局的な暴力とその暴力がはらむ革命的な意義に注目していた。
 イギリスの産業革命とともに進行する囲い込み運動がイギリスの農民にもたらした過酷な運命について、マルクスは『資本論』第1巻末尾における≪資本の本源的蓄積≫の章で論じている。この囲い込み運動は農民の土地や共同体的な諸関係を打ち砕き、社会の保護を断ち切って、農民を無産者化する。農民は、身分的束縛から自由になると同時に、生産の客体的条件(土地)からも自由になる、という二重の意味で自由なプロレタリアートへと変貌する。
 マルクスは資本制生産がみずからの足で立つための条件を二つ挙げ(『1857-58年の経済学草稿』2一一七頁)。ひとつは、耕作者と土地の結びつきが分離され、自由な労働者が出現すること、もうひとつはその自由な労働が貨幣と交換されることである。ここに近代社会における自由の概念が端的に語り出される。労働と貨幣との自由な交換とは、労働と土地という生産の客体的条件との暴力的な分離を再生産する行為であり、この行為の反復において暴力的な分離が合法的に再生産されることを意味する。労働と貨幣との自由な交換を媒介にして行われる資本の蓄積と再生産過程とは、ポランニーが語る「文化破壊的暴力」が構造化される過程であることをマルクスは立証するのである。
 そして、マルクスはポランニーと同様に、この同じ破局的暴力が資本主義本国の内部だけでなく、非西欧地帯に向けてそれを上回る巨大な規模で行使される動きに対しても鋭いまなざしを向けている。
 マルクスとエンゲルスは、一八四八年に執筆した『共産党宣言』で非西欧地帯を植民地化する資本主義世界市場の動向を≪文明による未開の包摂≫ととらえた。そしてその包摂の任務を遂行するブルジョアジーの革命的な役割を高く評価する。
 「ブルジョアジーは、歴史上きわめて革命的な役割を演じてきた。・・・ブルジョアジーは、あらゆる生産用具を急速に改良することによって、またはるかに容易になった交通にたよって、あらゆる国民を、もっとも未開な国民をも、文明にひきこむ。…ブルジョアジーは、あらゆる国民に、滅亡したくないならばブルジョアジーの生活様式をとりいれることを余儀なくさせる。・・・ひとことでいえば、ブルジョアジーは、自分の姿に似せてひとつの世界をつくりだす」(三六-四一頁)
 ここでは、経済的自由主義の原理によって組織された「市場社会」が文化破壊的な暴力をグローバルに発動するというポランニーと同じ視座が据えられていることがわかる。ただし、マルクスにとって、この暴力は近代西欧文明が世界に波及することによって新しい世界史を切り開く助産婦として肯定的に評価される。植民地主義というかたちをとった西欧のアジアへの侵入がアジアを歴史的進歩に導くものと評価されるのである。
 マルクスは一八五七-五八年に執筆した『資本論』の準備ノート『経済学草稿』においても、資本概念の検討を通して資本の文明化作用がもたらす世界史的意義を肯定的に評価している。資本とは価値を維持しつつ価値を不断に増殖する運動であり、この運動が国境を越えて無窮道的に追求される。資本の価値増殖の無制約的な衝動は、空間と時間を圧縮して、世界のあらゆる地域を資本の生産と消費の地点として開発し、ひとびとの消費欲望を不断に開拓する。
 この視点は資本概念の理論的深化と並行して、同時期の世界の歴史的動向に対するマルクスの評論にも貫かれる。一八五〇年代にイギリスによるインド統治についての評論のなかで、マルクスは、「資本の文明化作用」の視点からその歴史的意義について論じている。
 「イギリスのインド支配」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』一八五三年六月二五日付け第三八〇四号、『マルクス・エンゲルス全集』第九巻)では、イギリスの植民地統治がインドに巨大な社会的破局をもたらしたことが述べられる。そこでは、インド社会の停滞とその停滞を打ち砕いたイギリスの破壊的暴力とが対照的に描き出されている。
 イギリスが侵入するまでのインドは、運河と用水による大規模灌漑という集権国家の公共事業と農業-手工業の家内結合に支えられた停滞した社会で、多くの征服国家に支配されてきた。だが、その制服を支える社会の構造は不変であった。
 イギリスのインド支配はこの長年にわたって定着したインド社会の構造をいっきょにうち砕いた。東インドのイギリス人は「イギリス流の自由競争、自由放任の原則」(同、一二四頁)とはまったく相容れない農業を放置し、東洋農業の基礎であった公共事業をおろそかにすることによって農業を衰退させる。さらにイギリス人は、それまでヨーロッパに受け入れていた「インド綿製品をヨーロッパ市場から駆逐した。つづいて撚糸をヒンドゥスタンにもちこみ、ついにはこの木綿の母国そのものに綿製品を氾濫させた」。そして、インドの「社会の構造の枢軸」をなしていた「無数の紡績工と織布工とを規則正しくつくりだす手織機と紡車」(同、一二四頁)を無残に破壊した。それはインドの都市の衰退を招いた。綿工業で栄えたダカ―の人口は一九世紀前半に一五万人から二万人までに減少した、と。
 イギリスのインド支配は、インドの伝統的な共同体の文化的・社会的環境を破壊し、その保護下にあった民衆をその環境から引き離して無産者化する。
 マルクスはポランニーと同じまなざしでイギリスの植民地統治がインドに及ぼした「文化破壊行為」を把握していることがわかる。イギリスは私益を追求するために、インドに定着している専制主義の機構を使って民衆から労働を収奪し、貢納と労働を強いる。だからイギリスの東インド会社は、「アジアの専制主義の上に」「ヨーロッパの専制主義」を二重に「つぎ木」(一二二頁)するものであった、マルクスはこう告発する。
 だが、この二重の専制主義がインドの民衆に対していかに悲惨な事態をもたらし「人間的感情にとって、胸いたむもの」(同、一二六頁)であろうとも、イギリスがインドにもたらした革命的な意義を見失ってはならない、マルクスはこう断言する。
「インドはこれまでどんなに政治の姿が変わったようにみえても、その社会的条件は、最古の時代から変わることなく一九世紀の最初の一〇年代までおよんだ」(同、一二三頁)。歴史をもたないこのインド社会の不動の骨組み全体をイギリスはうち砕いた。イギリスの「蒸気力と科学」、「自由貿易」の作用が農業と手工業の強固な伝統的結合を切り裂いた。マルクスはこの作用を「社会革命」として位置づける。
 「イギリスの干渉は、・・この小さな半野蛮、半文明の共同体の経済的基礎を爆破して共同体を解体させ、こうすることによって、アジアでかつて見られた最大の、じつは唯一の社会革命を生みだしたのである」(同、一二六頁)。
 マルクスは≪西欧の文明とアジアの野蛮≫という図式に立って、前者が後者にもたらした激変を「社会革命」として評価する。
マルクスにとって、インドの歴史を支えてきた村落共同体はひとびとの生存を支えてきた文化的環境であると同時に、歴代の専制的な政治を支えた強固な基盤でもあった。 
 「牧歌的な村落共同体がたとえ無害にみえようとも、それがつねに東洋専制政治の強固な基礎となってきたこと、またそれが・・人間精神を迷信の無抵抗な道具にし、伝統的な規則の奴隷とし、人間精神からすべての雄大さと歴史的勢力を奪ったことを、忘れてはならない」(同、一二六頁)。それは「殺人をさえ宗教上の祭式にし」、「カーストの差別や奴隷制という汚点」をもち、「人間を外的環境に隷属させた」(一二六-一二七頁)。
 これに対して、イギリスがインドにもたらしたものは、その動機がいかに「いやしい利益」でありいやしい手段を用いたものであったとしても、アジアの「社会革命を遂行するという「無意識の歴史の道具の役割を果たした」(同、一二七頁)。
 「イギリス人が村々のこういう自給自足的な不活動を打ち破ったあとで、鉄道が交通と交流を求める新しい欲求を満たすだろう」(同、二一五頁)

マルクスはそう断言する。E・サイード[1993]は、マルクスのこの思考のうちに西欧知識人に共通するオリエンタリズムの図式を読み取る。

3 マルクスの歴史認識における視座転換
 だがイギリスのインド支配を論ずるマルクスのまなざしのうちに微妙な変化があらわれる。「イギリスのインド支配」から1か月後に公表された「イギリスのインド支配の将来の結果」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』一八五三年八月八日、第三四八〇号)において、マルクスは、一方で、インドが過去にトルコ、ペルシャ、ロシアに征服されてきたが、イギリスの征服はこれまでの征服者がなしえなかったこと、つまり「古いアジア社会を滅ぼすことと、西欧的社会の物質的基礎をアジアに据えること」(同、二一三頁)という歴史的任務を果した、というように、やはり同じ視点から論を立てている。
 だが他方で、マルクスはイギリスがインドにもたらした物質的諸条件(鉄道、工業)に向けていたまなざしを、イギリスの統治に抵抗するインドの民衆の主体的な反応へと移していく。そしてイギリスの「社会革命」の評価に代わって、イギリスのブルジョア文明がいかに文明を装う欺瞞性に満ちたものであるかを厳しく糾弾するようになる。
 「ブルジョア文明のもつ深い偽善と固有の野蛮性とは、この文明が体裁のよい形をとっている本国から、それがむきだしとなっている植民地へと、われわれの眼をむきかえるときに、あからさまになる(同、二一七頁)。
 ≪財産、秩序、家族、宗教の擁護者≫であるはずのイギリスがそれらの聖なる権利を守る、と公言して、実際にやっていることは、略奪であり、殺人であり、淫売である、と。マルクスは、イギリス将校がきまぐれのスポーツとして夫人を凌辱し、子どもを串刺しにし、村民を蒸し焼きにする蛮行に対して、怒りを込めて弾劾する。
 この評論から三年後にインドの大反乱(セポイの乱一八五七-一八五九年)が起きると、マルクスはこの戦況について『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に一〇編以上もの寄稿をするが、そのなかで、さらにこのイギリス文明の野蛮性に対する批判とインドの抵抗運動への評価を強めるようになる。
 たとえば「インドにおける拷問について」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』一八五七年九月一七日、第五一二〇号、『マルクス・エンゲルス全集』第一二巻、二五四-二五九頁)では、イギリスの民間人に対してセポイがおこなった残虐行為を非難するイギリス新聞の論調に反論し、かれらの行為をイギリスの征服に対するインドの抵抗がもたらしたもの、としてこれを擁護している。
 「公平で考えぶかい人ならば、このように臣民を虐待してきた外国の征服者にたいして国民がこれを追放しようと試みるのは当然ではないかという疑問を、おそらくもつであろう。そしてもしイギリス人がこうしたことを平然とおこなうことができたとすれば、反乱を起こしたヒンドゥー人が反乱と闘争の激情に駆られて、彼らが犯していると責められているような犯罪や残虐行為を実際におこなっているとしても、おどろくべきことであろうか?」(同、二五九頁)。
「インドにおけるイギリス軍」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』一八五八年六月二六日、第五三六一号)では、イギリス軍がインドの財宝をほしいままに略奪し、その略奪行為がイギリス軍の士気を著しく弱め、部隊の解体を促していることを伝えている。イギリス軍がラクナウを占領後に二週間のあいだに、ダイヤモンド、エメラルド、真珠などの宝石、銀貨、金貨を略奪し、成金になったため、軍務に復帰せず、軍隊が解体している、と。にわかに一財産をつくった将校が一五〇人も辞表を提出した、と。さらに、将校たちはイギリスの官金運搬車を襲撃してイギリス政府の財宝まで略奪しようとする、と。
 「これらのキリスト教的な、文明化された、騎士的な、そして生まれのよいイギリス兵」が「戦利品係を連れて歩き、この係が略奪を制度化し、略奪品を記帳し、それを競売し、・・厳重に監視する」(同、四七二頁)。
 そして、イギリスがインド統治のために雇った「原住民軍隊」がその統治をくつがえす組織に反転したことに注目する。「インド軍の叛乱(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』一八五七年七月一五日、第五〇六五号)では、イギリスのインド統治においては、四万人のイギリス人軍隊が二〇万人の「原住民軍隊」を統率することによって二億人のインド民衆を支配してきたが、この二〇万人の「原住民軍隊」、つまりセポイの軍隊は、いまやイギリスのインド支配のためではなく、インドの民衆がイギリス統治に対する「抵抗のための全般的な中核体」(二一九頁)へ反転した、と。
 さらに、セポイの反乱は、回教徒とヒンドゥー教徒とが団結してイギリスという共通の主人に対する反乱を組織した、その反乱が少数の地域に限定されずにインド全域に広がっている、そしてこの反乱が、アジアの諸民族によるイギリスの支配権に対する共通の不満を背景にしている、としてマルクスはこの反乱の特徴を列挙する。そして、この反乱が、ボンベイやマドラスの原住民連隊が反乱軍と接触することによってさらに新しい反乱を触発することに期待している。
 以上のように、インド評論におけるマルクスの記述は、イギリスの文明がインドの野蛮な社会を解体し、そこにインドの社会再生の物質的な基盤を据える、という破局的暴力に対する肯定的な評価から、その破局的暴力がはらむ道徳的退廃の告発、インド民衆に及ぼす悲惨に対する批判と、その暴力に抵抗するインドの雇兵、民衆の反植民地主義的な抵抗闘争への評価へと反転していることがわかる。 
 ケヴィン・アンダーソン[2015]は、一八五〇年代のマルクスの主張のなかに、一方で「イギリス植民地主義のあらゆる進歩性を是認」(五五頁)すると同時に、他方で、この「ブルジョア文明のもつ固有の野蛮性」(五六頁)を批判するという両義性がはらまれていたことに注目している。そして、西欧社会がインドに据えた物質的基盤の果実をインド人自身がわがものとするためには、「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとって代わるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか」(「イギリスのインド支配の将来の結果」二一六頁)、そのいずれかが必要である、と主張していることに注目する。
 『共産党宣言』においてマルクスは、近代のブルジョアジーが封建制の社会秩序を破壊したが、ブルジョアジーの発展はこの新しく生まれた資本制の秩序を破壊するための墓堀人であるプロレタリアートを育てる、と述べた。だが、資本主義の墓堀人は、イギリス本国だけでなく、イギリスの植民地支配に抗して立ち上がるインド民衆の大反乱となってインドにおいてもたちあらわれている。ここにおいて、社会革命の主体は、イギリスのブルジョアジーからインドの民衆へと移行する。マルクスはこの歴史の弁証法をインドにおいて確認するのである。

4 マルクスによる非西欧社会の発見
 イギリスの植民地統治に抗するインド民衆の社会闘争に着目するマルクスは、その社会闘争の背後にあるインド社会へと目を向けるようになる。インドの社会は他民族によって征服される歴史をもつばかりで、不変で停滞する野蛮な共同体であり、それゆえイギリスの植民地主義によって暴力的に解体される宿命にある、というマルクスのインド社会像は、インド民衆の反植民地闘争に目を向けることによって反転する。マルクスは、インドが私的所有を原理とする西欧社会とは異なる独自の所有の原理と社会形成のダイナミズムをはらんだ社会であることを再発見するのである。
 マルクスは「キャニングの布告とインドの土地所有問題」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』一八五八年六月七日五三四四号,『マルクス・エンゲルス全集』第一二巻)で、イギリスの支配層によるインドの土地所有をめぐる議論を紹介している。それは、徴税請負人であるザミンダール、タールクダール、シールダールといった階級が元来の土地所有者であるのか、それともたんに徴税を任務とするだけの集団なのか、という論争である。前者の主張は、インドの土地が実質上私有財産であるから政府の所有権なるものは政治的な「主権者に由来する権原にすぎ」(四六二頁)ない、という認識に立つ。それに対して、後者の主張は、土地の所有権は国家に帰属し、国家が耕作者に土地を貸し出している、という認識に立つ。
 前者の見解は、私有財産の主体を徴税請負人の階級に求める。したがって、徴税請負人は土地の耕作者である農民に対して絶対的権限をもつものと理解される。マルクスは、この私有財産説の根拠が徴税請負人階級を「ヨーロッパの土地貴族および郷紳の地位と同じような地位を占めている」(四六三頁)ものとみなすことにあるものととらえる。つまり、この見解はインドの土地所有制度をヨーロッパの封建制の枠組みでもって理解している。それは「郷紳地主を社会構造の主要な柱として・・見なすイギリス人の観念」(四六三頁)でもってインドの社会構造を理解していることを意味する。
 ところが、この見解にもとづいて「ベンガルの土地継承処分」が行われ、それが現実の耕作者に対する不正を引き起こすことになった結果、「土地の所有権は村落共同団体に属していて、この共同団体が耕作のため諸個人に土地を割り当てる権利をもって」(四六三頁)いたということがわかってくる。つまり、土地の実質的所有権は徴税請負人でも国家でもなく、村落共同団体にあり、徴税請負人階級は村の課税を監督し徴税するたんなる政府の役人にすぎない、ということがわかってくる。キャニングはこの見解を根拠に徴税請負人から所有権を没収するという布告をする。これが今度は徴税請負人階級の不満を引き起こし、セポイの乱に対する徴税請負人階級の協力関係を生み出すことになる。
 マルクスはこのような土地所有をめぐる議論のなかに「インド問題についての見方が・・・イギリス人ふうの偏見ないし感情によって影響されがち」になり、「この点に、イギリス本国からインドを統治することの最大の不都合と困難がある」(四六四頁)ことを読み取る。
 マルクスはこの議論を通して、インド社会における最高所有者の権利と村落共同体の耕作権とのあいだの西欧には見られない固有の結合様式に注目するようになる。
 マルクスは「イギリスのインド支配」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』一八五三年六月二五日付け第三八〇四号、『マルクス・エンゲルス全集』第九巻) で、インドに関するイギリス下院の古い公式報告書を引用し、インドの村落制度の概要を紹介している。インドの村落は自治体(コミューン)あるいは町村に似ていて、住民の長が村の事務や争いごとの調停や治安や徴税の任務をこなす。さらに、土地の耕作を記帳する係り、旅人を護衛する係り、作物を守り計量する係り、村の境界を守る係り、農業用水を分配する係り、村の礼拝をおこなうブラーフマン、占星術師がいる。この村落制度のうえに、農業と手工業の家内的結合が築かれ、その上に農業と商業の大規模公共事業をつかさどる中央政府が支配してインドの社会秩序が築かれる。
すでに述べたように、マルクスはこの評論で、このインドの村落共同体が「人間精神をありうるかぎりのもっとも狭い範囲にとじこめて、・・人間精神からすべての雄大さと歴史的精力を奪った」し、「つねに東洋的専制政治の強固な基礎となってきた」(邦訳、一二六頁)ときわめて否定的な評価し、イギリスの「文明化作用」によってこの共同体が破壊されつつあることに期待をかけた。
 ところが、「資本の文明化作用」を肯定的にとらえるこの視点からインド社会をとらえたこのような評価は、インド民衆の社会闘争への着目を媒介にして反転し、マルクスはインドの村落共同体のうちに私的所有を原理として資本主義の発展をたどる西欧社会とは異質の社会形成の原理を見出すようになる。
そしてこの共同体論が資本概念を内省する歴史理論的な基軸となり、西欧社会自身の批判と、西欧社会が非西欧地帯に向けて発動する「資本の文明化作用」に対する批判の双方の認識基軸を提供することになる。
周知のように、マルクスは『一八五七-五八年経済学草稿』における「資本制生産に先行する諸形態」の章で、「東洋的共同体」をとりあげている。まず注意すべきは、この「東洋的共同体」を《西欧の文明と東洋の野蛮》という二項図式で理解してはならない、ということである。ここでは、共同体の概念がその逆に私的所有に立脚する西欧の近代資本主義を批判する座標軸として提示されている。
 このノートで、マルクスは資本を自由な労働と貨幣との交換によって成立するシステムである、ととらえた上で、この自由な労働と貨幣との交換が行われるためには、自由な労働とその労働が実現される客体的諸条件との分離という歴史的前提条件が必要であることを指摘する。 
 マルクスは、労働とその客体的諸条件との分離の様式として、二つの形態を挙げる。ひとつは「自由な小土地所有」が解体することであり、もうひとつは「東洋的共同体」(マルクス『資本論草稿集』Ⅱ、邦訳四〇七頁)が解体することである。「自由な小土地所有」と「東洋的共同体」の双方とも、労働者が「自己の財産としての彼の労働の客体的諸条件と関係している」から、労働者と労働の客体的所条件を分離することなしに自由な労働と貨幣との交換はありえない。
 つまり、そこでは、「自由な小土地所有」と「東洋共同体」という、労働と所有の本源的統一性が、この両者の分離によって成立する西欧資本主義に対する批判の基軸として提示されていることがわかる。マルクスは、労働と所有の本源的統一性の視点から両者の分離にもとづく西欧資本主義を批判的に認識しようとする。その批判的な認識のための座標軸として「東洋的共同体」が設定されたのである。
 自由な労働が貨幣と交換されるというシステムにおける「自由」の概念には、他者の労働を私的に領有し支配するという特殊な規定性がはらまれており、マルクスはそのような自由の概念を労働と所有の本源的統一性の視点から批判的にとらえかえす。
「東洋的共同体」は、この本源的な労働と所有の統一性におけるもっとも原古的な形態に位置づけられる。そこでは、私的個人が労働の客体的諸条件と関係する小土地所有と異なり、諸個人が共同体の成員として労働の客体的諸条件と関係するからである。
 マルクスは所有を言語と対比して論じている。言語が個々人の所産ではないように、所有も個々人の所産ではない。つまり、原古的な形態としての労働と所有の本源的統一性の形態は「種族共同社会」「自然的共同体」を前提とする。共同体は「土地の共同体的領有と利用の結果」ではなく、「その前提として現れる」(同、四〇八頁)。ただし、土地の共同体的領有と利用の前提となる共同体は、それ自体が「すでに歴史の所産」(同、四一二頁)である。「種族共同社会」や「自然的共同体」がいかなる過程を経て歴史の所産となるかについての知識をマルクスはこの時点で十分もたなかったとはいえ、それらが自然の所与ではなく、固有の歴史をもつという視座をすでにこの時点でうちたてていることがわかる。マルクスはいまだ未知の古代における共同体の発生の歴史にかんするまなざしをこの時点ではぐくんでいたのである。
 この共同体は多数の共同体の連合体あるいは統一体を組織し、その統一体の上位に特殊な総括的統一体を置く。この総括的統一体が「共同体の父」として、つまり「専制君主」(同、四〇九頁)として立ち現われることもありうる。これが東洋的専制主義の成立である。だが、この東洋的専制主義は、自然生的な共同体が労働の客体的諸条件を介して自然とかかわる関係行為の上に立脚する。東洋的専制国家はこの活動の転成された結果であって、この活動にとっての前提条件ではない、マルクスはこう主張する。東洋的専制国家は「東洋的共同体」の前提ではなく、その転成された結果である。
マルクスがなによりも着目するのは、このように労働する個人が共同社会の成員として客体的な諸条件(土地)と関係することによって自然に働きかける活動そのものである。だがこの活動は、諸個人の共同体との関係のありかた、共同体が特定の集団あるいは個人において観念的に表象されるしかたに媒介されている。マルクスは、所有の概念を、このような生産活動、共同体への帰属、意識関係行為といった三層の構造においてとらえる。
 そこから、東洋的共同体のきわめて多様な様態が検出される。マルクスは小共同体が相互に独立併存して、各個人が各共同体内部の分業を担い、戦争や祭祀などの共同業務を担うスラブ人やルーマニア人の共同体から、共同体の統一体が労働の共同化をおこなうメキシコ、ペルー、古代ケルト人、インド種族まで、東洋的共同体のきわめて多様な様態を記述している。この共同体がやがて村の分業関係を世襲化し固定化してカースト制のような階級関係を作り上げたり、用水路、灌漑の整備という公共事業を担う専制政府を生み出すようにして、共同体社会に固有な階級社会を生み出していく。
 だが、この共同体は、西欧の近代資本主義における交換価値の発展に基盤を置く自由・平等・友愛とは正反対の「古代的自由および平等」(同、一六五頁)の理念をはらんでいることをマルクスは同時に指摘している。
 以上のように論ずるマルクスにとって、「東洋的共同体」とは、西欧資本主義における資本関係の歴史的過程の前史に押し込め、単線的な歴史的発展の経路上の始原に整序されるべきものではなかった。西欧資本主義を労働と所有の分離に立脚する生産様式として規定したとき、非西欧地帯は労働と所有の本源的統一に基づく社会として発見され、しかもその本源的統一性に基づく社会は西欧とは異なる固有の歴史をもつきわめて多様なありかたの社会として再発見される。この社会は、もはや≪野蛮、未開、停滞、専制≫といった規定に還元され西欧社会の歴史的経路に整序される社会であることをやめる。むしろ、「東洋的共同体」の社会は、労働と所有の分離に立脚する西欧社会を批判するための人類史的基準を提示する社会としてたちあらわれる。このことに気づいたマルクスはその後死に至るまで、西欧の市民的資本主義の運動過程=構造認識の究明と並んで、非西欧社会の究明に全力をあげるようになる。
 要するに、マルクスはすでに一八五〇年代の時点で、非西欧地帯において、西欧とは異質な社会の原理を発見し、その原理から西欧近代社会を批判する視座を確立していたことがわかる。非西欧社会とは、地理的に西欧社会とは異なるという意味においてだけでなく、西欧市民社会の価値基準を批判しそれを超える人類史的基準を提示する社会としてマルクスによって再発見されたのである。「東洋的共同体」、「アジア的生産様式」とは、マルクスが西欧資本主義を批判的に自己認識するために創出した概念であって、サイードがオリエンタリズムと呼ぶような西欧近代社会の歴史的過去に非西欧社会を押し込め投影する概念とは正反対のものである。
 だが、マルクスの「東洋的共同体」論、あるいは「アジア的生産様式」は、あいかわらずオリエンタリズムの思考の一例として理解されている。植村邦彦[2006]は、マルクスが「東洋的共同体」をヨーロッパとアジアに共通する歴史的過去の段階に設定し、「「アジア的」形態から脱却できなかったアジアと、「アジア的」形態から脱却できたヨーロッパとが暗黙の内に価値的に対比される」(二三八頁)として、マルクスがヨーロッパ中心主義的な歴史認識のコンテキストから抜け出せなかった証拠としてマルクスの「東洋的共同体」をとりあげる。石井知章[2008]も、マルクスのアジア社会論が「前近代的非合理性を象徴するネガティブなもの」(一八頁)であり、「資本の文明化作用」によって突き崩される宿命にあるものととらえている。
 マルクスは「東洋的共同体」を東洋的専制主義と同一視するオリエンタリズムの思考を一八五〇年代にすでに脱していて、「東洋的共同体」がきわめて多様な様態をとるものであり、しかも停滞した社会ではなく、固有の歴史をもつものであることを洞察していた。「東洋的共同体」を否定的なもの、克服されるべきものとする観念をマルクスはこの時期に脱ぎ捨てているのである。

5 晩年のマルクスはなぜ古代史研究にこだわったのか
 本源的所有の共同体が固有の社会と歴史を創造するものであることを発見したマルクスは、西欧の資本主義を批判的に自己認識する『資本論』の完成にまい進すると同時に、その『資本論』が未完成な時点においてなお古代史研究に異常なまでの執着を見せ、古代史研究を渉猟しそのノート作りに没頭する。マルクスは、一八八三年に生涯を終えるその直前の一八七九-八二年のあいだにインド、インドネシアの村落共同体、ネイティブ・アメリカン、古代ギリシャ・ローマの共同体、アルジェリア、ラテンアメリカの共同体にかんする人類学者らの研究について三十万語におよぶ抜粋ノートを作成している。L・クレーダーが一九七二年にこの抜粋ノートの主要な原稿を編集して刊行している。
 これらの研究ノートは、もはや非西欧地帯を西欧近代の歴史的過去に位置づけるための作業ではない。それは、西欧近代とは異なる所有の原理をもった社会の探究であり、その原理が有する人類史的普遍性を確認し、その人類史的な視座から西欧近代の歴史的個性を位置づけ直す作業であった。
 その視点からこれらのノートを読むと、注目すべきことは、モルガンの古代社会ノートあるいはコヴァレフスキーのアルジェリアの土地所有に関するノート(一八七九-一八八〇年)において、マルクスが「私的所有」と区別して「個体的所有」の用語を用いていることである。アルジェリアの土地所有形態で、氏族的所有や大家族所有といった集団的所有が支配的であった共同体のなかで装身具や労働用具などの動産が個体的所有になっていく。コヴァレフスキーがこれを「私的所有la propriete privee」と記述しているのをマルクスはあえて「個体的所有la propriete individuelle(Godelier M.1970.)と書きなおしている。モルガン・ノートでは、古代社会の「未開の中層」(西半球でトウモロコシ、豆、トマトなどの植物栽培が、東半球で馬、牛、ロバ、羊などの家畜の飼育が発達した時期)において「個体的所有personal property(Krader L.2009.p.135)が進展し、「未開の上層」期(この終わりの時期に、定住農耕、手工業、貿易などが発達した時期)には「土地の大半はすでに単独の個体的所有individual ownership in severaltyに属していた」(ibid.,p.134)ことにマルクスは着目して抜粋している。
マルクスは、共同体所有を基盤に置きそのつながりを保持したままの「個体的所有」と、共同体から完全に切り離され共同体と対立する「私的所有」を区別して使っている。
 この一連の抜粋ノートの視点は、一八八一年二月一六日―三月八日に執筆されるロシアのナロードニキのヴェラ・ザスーリチ宛の手紙に反映される。マルクスはそこで「原古的共同体」「農耕共同体」「新しい共同体」という共同体の三類型を挙げて、耕地の共同所有とその個人的利用、およびその果実の私的領有からなる「農耕共同体」と、耕地の私的所有を原理として森林・荒蕪地・牧草地のみが共同所有として補完的な役割を果たす「新しい共同体」を区別し、ロシアのミール共同体が「新しい共同体」ではなく「農耕共同体」の段階にあると指摘したうえで、それゆえ、ミール共同体は資本主義の発展によって死滅の道を避けられないのではなく、その共同体を社会再生の基盤にして社会主義へと至る道がありうる、という回答をザスーリチに送ったのである。
 マルクスは世界史を西欧資本主義に収れんさせ、非西欧地帯を西欧の歴史的経路に回収する単線的な歴史観をすでに一八五〇年代に克服しており、晩年の古代史研究においてその視点をさらに深化させていったことがわかる。
マルクスは『資本論』の本源的蓄積の歴史的傾向を普遍的な歴史哲学とすることをはっきりと拒絶し、その傾向を西欧社会に明示的に限定している。この歴史認識は、一八五〇年代のマルクスが非西欧地帯のうちに社会を発見したまなざしがもたらした帰結にほかならなかったのである。

むすび
 マルクスにとって、「東洋的共同体」は西欧によってうち砕かれる宿命にある社会ではなく、西欧近代を批判する基軸として位置づけられている。この基軸設定は、一八五七-五八年に執筆された「資本制生産に先行する諸形態」においてすでになされているが、晩年になると『資本論』の本源的蓄積の位置づけにおいてこの基軸がさらに深化される。
 平田清明[1971]は、マルクス自らが編集した最後のフランス語版『資本論』において、マルクスが『資本論』の本源的蓄積の歴史的傾向の妥当範囲を明示的に西ヨーロッパに限定したことの意味をつぎのように説く。
 「フランス語版『資本論』は、・・その直接的妥当範囲を西ヨーロッパに明示的に限定することによって、・・この[市民的資本主義の展開過程=構造連関というー引用者]西欧的基準そのものをひろく人類史的視点から批判しようとするものであり、また、このことを通じて、西欧文明的な発展段階を宿命として経過することなき非西欧諸民族社会の人類史的発展と西欧諸社会における文明史の人類史への揚棄との同時的可能性をあきらかにしようとするものであった」(四八〇頁)
なんとも堅苦しいこの一文が語ろうとしているのは、非西欧社会が西欧社会とは異なるきわめて多様な独自の発展の歴史を有するということであり、その発展の歴史の多様性が人類史としての普遍的な意味をもつということである。その人類史は、西欧の「文明史」によって破壊されたり、西欧の「文明史」に解消されるべきものではありえない。むしろ変革を求められているのは西欧社会のほうであり、西欧社会はみずからの「文明史」を非西欧社会の人類史的発展に向けて克服するという課題を突きつけられている、ということである。我々が目を向けなければならないのは、ハイチ革命、南アの反アパルトヘイト運動、メキシコのサパティスタ、ニカラグアのサンディニスタなどの近代五〇〇年にわたる非西欧社会の先住民の運動が西欧市民社会あるいは市場社会の価値基準を超える自由・平等・友愛の理念を創造してきたことの人類史的な意味にほかならない。
 マルクスは、西欧人がコロンブス以降五〇〇年以上にわたって近代的資本にとっての開拓地であり私的欲望の対象として位置づけてきた非西欧地帯の諸社会のうちに、西欧社会がみずからを批判的に自己了解すべき価値機軸を再発見する。私的所有の原理が世界を覆い尽くしていく歴史的傾向を自然法則であるかのように経験してきた西欧社会が共同的契機と個体的契機をともにはらんだ社会へとみずからが反転すべき自己の将来像をさししめす社会として非西欧社会を再発見するのである。マルクスが『資本論』で提示した資本蓄積の歴史的傾向性を普遍的な歴史哲学であるかのようにみなすことを断固として拒絶し、それを西欧社会に限定した意味はここにある。死の直前まで古代史研究の抜粋ノートに全力を投入した意味がここにある。E.トッド[2016]が「グローバリゼーション・ファティーグ」と呼ぶ疲弊しきった今日のグローバル世界が直面している課題をマルクスは一五〇年も前にすでに提起していたのである。

補注 
 すでに述べたように、K・ポランニー[1944]は、一八世紀後半以降西欧近代に出現した経済的自由主義が共同体の文化破壊行為を強力に推進したことを告発し、それに対抗する社会の防衛運動の出現を語る。そしてこの文化破壊行為が西欧社会のみならず、非西欧地帯においても植民地主義というかたちで行使されたことを洞察している。貨幣経済の非西欧地帯への導入は、共同体を破壊し、先住民を土地から切り離し、無産者、浮浪者、泥棒、売春婦を大量に生み出し、先住民の道徳的退廃を引き起こした、と。
 だが、にもかかわらず、非西欧地帯におけるこの文化破壊行為に抗する社会の防衛運動に関してポランニーは語ろうとしない。ポランニーが社会の防衛運動をみるのは、ローバート・オウエンに代表される西欧社会の協同組合運動をはじめとする多様な運動であって、そのような防衛運動がきわめて多様なかたちをとることを強調するにもかかわらず、非西欧地帯において資本の文化破壊行為に抗する共同社会の防衛運動に向けるまなざしが見られない。ポランニーは、市場交換とは異なる「互酬」「再分配」という経済の原理を古代社会に読み取っているが、それにもかかわらず、経済的自由主義による文化的破壊に抗する社会の防衛運動を通してこれらの原理が現在的に再生するダイナミズムを見ようとしない。
 マルクスが晩年の古代史研究でこだわったのは、西欧資本主義に抗して非西欧社会が独自の個体的にして共同的な原理に基づく社会の再創造をいかに果たしうるのか、という課題を発見したためであり、西欧社会の労働者階級とは異なる社会創造の筋道をそこに見いだしたためであった。この課題はマルクス主義の主流によって忘却され、そのことによってマルクス主義は近代性の根源的批判の座標軸を見失ったのである。

参考文献
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平田清明『経済学と歴史認識』岩波書店、一九七一年
石井知章『K/A/ウィットフォーゲルの東洋的社会論』社会評論社、二〇〇八年
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クレーダー L.編、布村一夫訳『カール・マルクス古代社会ノート』未来社、一
九七六年
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マルクス『1857-58年の経済学草稿』2、大月書店
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太田昌国『脱<国家>的状況』現代企画室、二〇一五年
ポランニー K.『大転換』東洋経済新報社、野口建彦・栖原学訳、二〇〇九年、初版、一九四四年
サイード E.E.『オリエンタリズム』今沢紀子訳、平凡社ライブラリー、一九九三年
斉藤日出治「マルクスの共同体論と歴史認識-晩年マルクスの古代史研究」 『大阪産業大学論集 社会科学編』九六号、一九九四年
トッド E.『問題は英国ではない、EUなのだ』文藝春秋、二〇一六年
植村邦彦『アジアはアジア的か?』ナカニシヤ出版、二〇〇六年
カール・ポランニー[1944]『大転換』野口建彦・楢原学訳、東洋経済新報社
若森みどり[2015]『カール・ポランニーの経済学入門』平凡社ライブラリー
K・アンダーソン[2010]『周辺のマルクス』平子友長監訳、社会評論社
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マルクス『1857-58年の経済学草稿』2、大月書店
マルクス・エンゲルス[1962][1964]『マルクス・エンゲルス全集』大内兵衛・細川嘉六監訳、第9巻、第12巻、大月書店