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学長通信(第14号)

1 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第10回)
 大塩平八郎の乱(4)
 「孔孟学」
 大塩平八郎が塾を開いていた屋敷には、「読礼堂」という講堂があった。その西側には、前回(第9回)のコラムで説明したように、「王陽明」(1472~1529年)の「立志、勧学、改過、責善」の額、東側には「呂新吾」(呂坤、りょ・こん、1536~1618年)の格言の額が掲げられていた。
 「呂新吾」(呂呻)は、政治家であり儒者でもあり、有名な『呻吟語』という独白を残した人である。「呻吟語」は、明(1368~1644年)時代の世の中の、あまりにも理想と掛け離れた状況を憂いて、「呂新吾」が「呻吟」した言葉を綴ったものである。この著作は、改革を提案する度に非難されたことに抗議して、下野した硬骨漢、「呂新吾」の深い思索と洞察を重ねた人生論である。大塩平八郎は、これを座右の書としていた言われている(幸田成友『大塩平八郎』)
 『呻吟語』には以下のような珠玉の名言が散りばめられている。「貧しさは恥ではない」、「志のないことが恥である」、「地位の低さではなく、能力の低さこそが卑下されるべきである」、「老いを羞じることはない、老いて何もしないことが恥である」、「老いて無目的に生きることは恥である」、「死して何も残さぬことを嘆け」、「政治の責任は上の者にある」、「感情を爆発させず、ひたすら耐えよ」、「知恵とは読書である」等々、「王陽明」の姿勢と同じものである。
 大塩平八郎は、当時の人々からは「陽明学」を学ぶ人として見られていた。しかし、彼は、塾の学問を「陽明学」であると標榜することを控え、学んでいるのは、「仁」を求める「孔孟学」であると説明していた。おそらくは、「朱子学」しか許されなかった当時の江戸時代の雰囲気からすれば、異端であった「陽明学」を信奉する自らの姿勢を隠す意味があったのだろう。
 彼にとって、「孔孟学」は、「孔子」(紀元前552~紀元前479年)・「孟子」(紀元前372頃~紀元前289年)の教えをただ学ぶというのではなく、死も辞さぬ思いで、その教えの真髄を心の中に埋め、字義通りに行動する人間を育てる手段であった。学んだことを行動に移すということが塾の目的であると彼は宣言している。いささか長くなるが大塩の言葉を現代文に直して引用しておこう。
 「私の学びの方向は、『大学』、『中庸』、『論語』を修めることである。『大学』、『中庸』、『論語』は、孔子の教えを顕したものである。『孟子』も修めたい。『孟子』は孔子を引き継いだ書である。また『六経』も孔子が不要な文章を削除し、悪い個所を訂正(刪定、さんてい)したものである。そういうこともあって、私の学ぶものを『孔孟学』と名付けたい。・・・『四書六経』はじつに多くのことを語ってくれる。それらで説かれている『仁』のもつ重要さは計り知れない。『仁』による『徳』を求めるには、『考』が必要である。『考』のみがそれを成し遂げてくれる。したがって、私の学は『考』の一字に言い表せる。『考』こそが、『四書六経』の真理に辿り着けるものである。私の力は足りない。知識も足りない。しかし、『四書六経』の『理』(ことわり)を心の中に求め、心の中の『理』を極めるべく、まさに、生命を賭してこれら書に説かれているものを実践したく願う。そうした意味を込めて、私の学を『孔孟学』と称したいのである」(『洗心洞学名学則井答人論学書略』より)

 『四書五経』
 『四書』
 余計なことであろうが、ここで、整理のために、『四書五経』(ししょごきょう)について説明しておきたい。
 人口に膾炙している『四書五経』とは、儒教の教典で重要な9種の書物のことを指している。『四書』は、『論語』、『大学』、『中庸』、『孟子』の4つの書である。『五経』は、『礼記』(らいき)、『詩経』(しきょう)、『書経』(しょきょう)、『易経』(えききょう)、『春秋』(しゅんじゅう)の5つの『経』(規範となる書)である。
 大塩平八郎が『四書六経』(ししょりくけい)と言っている『六経』とは、『五経』に『楽経』(がっけい)を加えたものである。『楽経』は、秦の「始皇帝」(紀元前259~紀元前210年)による「焚書坑儒」によって早くから失われていた。
『五経』、または『六経』は、すべて「孔子」以前からの書物であるが、伝統的な儒教の理解では、「孔子」の手を経て現在の形になったものと考えられている。
 宋代(960~1279年)に「朱子学」が興って、儒教を体系的に学ぶために経典が整理された。そして、『論語』が中心に置かれた。さらに、それまでは、『礼記』の中の章であった『大学』と『中庸』を、『礼記』から独立させ、その上に、儒教思想について多く書かれていた『孟子』を加えて『四書』としたのである。つまり、『四書五経』とは「朱子学」の基本文献として定められたものである。
 『論語』 
 『四書』のうちの『論語』は、孔子と彼の高弟の言行を、孔子の死後、弟子たちが記録した書物で、現在の定本の形式としては、「上」、「下」20篇の構成である。著者に挙げられている本人が実際に書いたものではない書物の常として、著名な定本にはいくつかの異本がある。
 一つは、魯国に伝わった『魯論』20篇で、前漢(紀元前206~紀元後8年)・後漢(紀元後25~220年)代を通じて定本となった。現在、『論語』とされているのは、この『魯論』(ろろん)を指すのが通例である。
 魯(ろ)は、孔子の母国(現在の中国山東省南部を本拠)で、周代(紀元前1046頃~ 紀元前256年)、春秋(晋、斉、楚が争った)時代(紀元前770~紀元前403年)、戦国時代(紀元前403~紀元前221年)に亘って存在した歴史の長い王朝であった(紀元前1055~紀元前249年)。当然、魯は、周囲の大国からの支援を受けたり、圧迫に苦しめられてきた歴史を持っていた。
 二つは、斉国で伝承されていた『斉論』(さいろん)で、『魯論』より多い22篇から成る。斉(紀元前1046~紀元前386年)は、周代、春秋時代、戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した国で、周の建国に貢献した太公望(呂尚、りょしょう、紀元前11世紀の伝説上の軍師)によって建てられたと伝承されている。『斉論』は、後漢時代には衰退していた。
 三つは、古文字で書かれた『古論』。前漢時代に孔子の家の壁中から発見されたと言われている。『魯論』より1つ多い21篇である。
 異本があるということは、いわゆる『論語』と孔子とを同一視することの危険性を語るものである。実際には、『論語』が、いつ誰によってどのように作られてきたのかの詳細は不明である。少なくとも言えることは、『論語』は、一人の手によって、一挙に書かれたものではなく、前四世紀初頭から前三世紀中期まで、百数十年に亘って、何度かの編集・再編集・潤色・補遺等が繰り返され、地域的にも平行して編纂されたという点である。
 『大学』 
 先に進もう。『四書』のうちの『大学』とは、修身から治世の心構えまで、人間のあるべき道を諭すことを目的としている。ただし、当時の時代背景の産物として、人間一般ではなく、権力者が目指すべき理想像を述べたものである。完結した本ではなく、紀元前430年頃に書かれた『礼記』(こうじゅつ)の中の一編である。前漢の「武帝」(紀元前159~87年)が、紀元前136年に、儒教を国教と定めて、その教育機関として長安に「太学」(日本の大学の語源)を設置した際、その教育理念を示したものが『四書』の一角を構成する『大学』であるとされている。
 『大学』は『礼記』の中の一篇であると上で触れたが、『礼記』のことを説明する前に『経』の用語の意味についても述べておこう。『経』は、通常『経書」と呼ばれている、儒教の基本的な古典で、儒教の根本法則を著した本という意味である。中国の戦国時代末期には、『詩』、『書』、『礼』、『楽』、『春秋』、といった『経』がほぼできていた。漢代に儒教が官学となると、これらの総称が『五経』となった。
 儒教では、『四書』のうち、『大学』が入門書で、『中庸』が最後に読む深淵な書とされた。日本の少年、二宮金次郎(1787~1856年)が薪を背負いながら読んでいたのは『大学』である。
 日本の会社経営者が好んで引用するのが、『大学』の節である。
 その触りを見よう。
 「上に悪む所、以て下を使う毋れ」(上司が自分を使うのに嫌なところがあれば、自分が部下を使う時に、それと同じことをしてはならない)
 「賢を見て挙ぐること能わず、挙げて先んずること能わざるは命(めい=怠慢)なり」(優秀な人間を見て登用することができず、登用しても先に立てることができないのは怠慢である)
 「朱子学」には、『大学』のさらに前の入門書がある。『小学』と『近思録』である。
 『小学』とは、朱熹が編纂した儒教のもっとも初歩的な入門書である。その節の題は、明治以降の日本人には馴染み深いものである。
 『小学』の「序」から順に題を掲げる。「立教」(子育ての心構え)、「明倫」(教育の心構え)、「敬身」(人と接する心構え)、「稽古」(善を積む心構え)、「嘉善」(教師と師弟の心構え)、「善行」(身を治める心構え)などの節は現代人にも馴染み深い。「身を慎み、華美を遠ざける」というのが、この書の結論である。
 『小学』の次の段階での入門書は、『近思録』である。『近思録』は、「朱熹」(「朱子」のこと)たち、「宋学」の達人たちが編纂して、1176年に刊行された「朱子学」の入門書で、14章から成る。日本では、江戸時代後期に各地の儒学塾で講義されていたと言われている。
 「道体」(宇宙や世界の捉え方)、「為学大要」(学び方)、「格物窮理」(物事の道理を極めること)、「存養」(心の根本を養い育てること)、「改過遷善克己復礼」(過ちを改め、善をめざし、人欲を去り、天理に則ること)、「斉家之道」(家庭の有り様)、「出所進退辞受之義」(正しい出処進退の有り様)、「治国平天下之道」(国を治め、天下を太平にする方法)、「制度」(社会制度の整備)、「君子処事之方」(君子としての対応の仕方)、「教学之道」(教育のあり方)、「改過及人心疵病」(過ちを見つけ、心の悪い点を改めること)、「異端之学」(異端の教学とは何か)、「聖賢気象」(先人の聖人や賢人)等々の題も有名である。
 『小学』、『近思録』、『大学』の順で学ぶことを「朱子学」では掟としているが、日本の保守思想家たちが、現在の世の風俗の乱れを嘆いて、「修身教育」の必要性を声高に叫ぶ有力な根拠の一つが、「朱子学」にあることは説明するまでもないだろう。「陽明学」も「君子」が「将軍」から「天使」に代わっただけのことで、権力側から見た「臣民」を統治するイデオロギーで固められたものであることに変わりはない。
 『中庸』 
 『四書』の一つである『中庸』は、紀元前430年頃成立していたと言われている。上で説明したように、『中庸』は、『礼記』に含まれる一篇であったが、南北朝(後漢末期から随の成立までの時期、184~589年)時代に独立した一書になったとされる。『大学』とともに宋代に入り儒教の重要文献として尊崇されるようになった。中庸とは偏り無く永久不変のものという意味である。「朱熹」(しゅき、朱子のこと、1130~1200年)によれば、「中」とは偏らないこと、「庸」とは易(か)わらないことを意味する。
 孔子は説明している。
 『君子は中庸をす、小人は中庸に反す』(徳行の備わった人は偏らず、つねに変わらないのに対して、徳の無い小人物はそれが出来ない)
 『中庸は能くす可からざるなり』(中庸の徳を実行することは難しい)
 『孟子』
 『四書』の一つとされている『孟子』は、「孔子」の弟子・「孟子」(紀元前372頃~紀元前289年頃)による『論語』を真似た言行録で、当時の儒家の標準的理解が記述されている。とくに、「仁義」の思想に重きが置かれている。
 上の者が「仁」を持つなら、下の者は「義」で報いるべきだとした。「孟子」はこれを「仁義」として「仁」と「義」を重ねた。
 『孟子』については、上田秋成(うえだ・あきなり、1734~1809年)の『雨月物語』が刮目すべき見方を出している。「革命論」を秘めている『孟子』は日本では真の意味では読まれなかったというのである。松岡正剛はこの見方を称揚し、大塩平八郎などの「陽明学」や「国学」が力を持つようになって、初めて『孟子』が革命という明確な意志によって読まれるようになったのであると(『松岡正剛の千夜千冊」、「孟子」、http://1000ya.isis.ne.jp/1567.html)
 次に『五経』についても、話を進めよう。

 『五経』
 『礼記』 
 『五経』の一つである『礼記』とは、主に礼の倫理的意義について解説した古説を集めたものである。前漢初期には『礼の記』131編のほか、種々の礼(習俗、制度、宗教)に関する古記録が出回っていたが、紀元前1世紀に、「戴徳」 (たいとく)という学者がこれらを整理・縮小して『大戴礼』 (だいたいれい) 85編を編集し、次いで甥の「戴聖」(たいせい)が、それをさらに整理して49篇の『小戴礼』(しょうたいれい)という著作にまとめた。これが、唐代(618~907年)以後の正統な経書『五経』の中の『礼記』となった。内容は、ほぼすべてが孔子による解釈であるとされている。
 『詩経』
 『詩経』は、中国最古の詩集とされ、紀元前9世紀から紀元前7世紀にかけての詩 305編を収める。孔子が門人の教育のために編纂したものと儒教では解釈されている。「風」(黄河地方の民謡)、「雅」(周朝廷で謳われた詩で、建国伝説が含まれている)、「頌」(しょう、皇帝の盛徳を誉めて神に告げる詩)の三つに区分される。詩の形式は4言で1句,4句で1章となる。「詩」のテキストには流派の差異があったが、前漢の「毛」家のものが支配的となって、後世の定本となったらしい。
 「切磋琢磨」という有名な熟語は、『詩経』(「衛風」(えいふう)・「淇奥」(きいく))の「切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如く」とあるのに基づく。「切」とは獣の骨や角などを切り刻む、「磋」は玉や角を磨く、「琢」は玉や石を削って形を整える、「磨」は石をすり磨くことであり、言うまでもなく、この四字熟語は、「励まし合って、共に向上する」という意である。
 『書経』
 『書経』は、『詩経』と並ぶ古典の中の古典である。古代中国では単に『書』と呼ばれていたが、前漢以後『尚書』(しょうしょ)と呼び方に変わり、宋代になってから、『書経』と称されるようになった。編者は孔子とその関連の人であると言われている。上古からの歴代史官の文書を基に、堯(ぎょう)、舜(しゅん)、夏(か)・商(殷、いん)、周3代の帝王の事蹟をまとめたものである。神話や伝承が多いが、儒教では、この書を帝王による統治の普遍的法則を示すものとされている。
 『書』も、秦の「始皇帝」の「焚書坑儒」と項羽による「咸陽の焼き討ち」で、一旦は、姿を消したが、前漢の初めに復刻された。現行の『書経』は初期の100篇を超える分量から58篇にまで整理されている。
 『易経』
 『易経』は、宋代になる前には、『易』とか『周易』と呼ばれていた。宋代に入って、儒教の『経書』に挙げられたことから『易経』と称されるようになった。
 「易」の語源については、多くの解釈がある。「易」という語には、「変化」の意味もあって、過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとする試みであったという説は説得的である。「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする 解釈も有力なものである。「太陰」(月)と「太陽」(陽)とで「陰陽」(おんみょう)を代表させ、太陽、月、星の運行から運命を読み取る占星術でもあった。
 伝統的な儒教の考えでは、『周易正義』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」(かわる)、「不易」(かわらぬ)、「簡易」(たやすい)の 「三易説」が採られている。
 「八卦」(はっけ)という占い用語も、この『易経』のものである。「爻」(こう)という名の造形の組み合わせで占うという方法から出た言葉が「八卦」である。「まじわる」と訓読みする「爻」は「陽」とされる長い横棒(—)と、「陰」とされる2つ横に並べた短い横棒(- -)の組み合わせである。説明を楽にするために長い横棒を「1]、短い2つの横棒の形を「0」としよう。この記号を並列して3桁に並べると8つの組み合わせができる。そのことから「八卦」という用語が産み出されたのである。
 たとえば、「陽」ばかり3つ並べると「111」になる。この並び方が「乾」(けん)であり、「天」(てん)である。
 以下「110」は「兌」(だ)・「沢」(たく)、である。以下同様の手続きで「101」が「離」(り)・「火」(か)、「100」が「震」(しん)・「雷」(らい)、「011」が「巽」(そん)・「風」(ふう)、「010」が「坎」(かん)・「水」(すい)、「001」が「艮」(ごん)・「山」(さん)、「000」が「坤」(こん)・「地」(ち)である。これら8つの形が、森羅万象すべてを表現するものと見なされている。そして、「乾~坤」の各項と「天~地」の各項の組み合わせ、64通りを「六四卦」という。
 よく言われている「乾坤一擲」とは、この「易経」から生まれた言葉である。
 「乾」は「天」、「坤」は「地」、「乾坤」で「天地」の意味。 天地を賭けて、乗るか逸るかの勝負に出ることをいう。「韓愈」(かんゆ、768~824年)の詩「鴻溝を過ぐ」には、「一擲を成して乾坤を賭せん」とある。「一擲」とは、すべてのものを一挙に投じることである。
 『春秋』 
 次に、『五経』の1つの『春秋』のことに触れよう。
 『春秋』は、紀元前722~紀元前481年までの魯国で起こったことを、年次・季節・月・日ごとに記録したものである(日だけは干支で書かれていた)
 たとえば、君主(魯公と表現されていた)の即位2年目の出来事として、「二年・秋・八月庚辰」の日付には、「公及戎盟于唐」(隠公は唐で戎と盟を交わされた)というようなごく短い記事が書かれているが、その文章には、孔子の正邪の判断が加えられているとされる。つまり、事実を淡々と述べながらも、そこに、価値判断を入れて書く書き方で、「春秋の筆法』と称されている。
記事は、王(魯公)や諸侯の死亡記事、戦争や同盟といった外交記事、日食・地震・洪水・蝗害(こうがい、トノサマバッタなどによる被害。日本のイナゴとは異なる)といった自然災害に関する記事などが主たるものであった。
 『春秋』は、「獲麟」(かくりん)という言葉で終えられているので、後世、「筆を断つ」とか「臨終」という意味で「獲麟」という熟語が使われるようになった。
 古代の中国では、「麒麟」は想像上の「聖獣」であった。鹿に似ているが、それよりも大きく、顔は龍、牛の尾、馬の蹄、頭に角、背毛は五色。神聖な幻の動物。千年の寿命、鳴声は音階、歩いた跡は正確な円。
 この「麒麟」を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされる。
 誤って麒麟が捕えられ、恐れおののいた人々によって捨てられてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって、『春秋』の記述は打ち切られている。「孔子」は、「西に狩りして麟を獲たり」の句で筆を絶って死んだとされている。
 『楽経』 
 『四書五経』の最後の説明として、これを加えれば『六経』とされている『楽経』について述べておこう。
 「朱子学」の基本となる書は、『四書六経』である。つまり、一般的な『五経』に『楽』が復活させられていた。「朱子学」に気を遣う大塩平八郎は、そのために『六経』と記したのであろう。
『楽経』は、音楽の書であったと言われているが、秦の「始皇帝」の焚書坑儒に処せられた。儀礼に付けられた儀式音楽であったものとか、『詩経』に付けられた音楽であったという説などが入り乱れていて正確なところのものは分かっていない。『楽経』の注釈書である『楽記』(がっき)が前漢の「戴聖」(たいせい)によって『礼記』に収められている。
 「戴聖」は、前漢時代の「梁」(りょう、河南省)の学者。叔父の「戴徳」(たいとく)は「大戴」、「戴聖」は「小戴」と呼ばれている(生没年未詳)
 大塩平八郎に戻ろう。門弟に対する平八郎の接し方は非常に厳しいものであった。「洗心洞」塾の『学則』には八つのことが明示されていた。
 ①聖人の学問を尊敬して学業に励むこと、②低い内容の俗書を遠ざけること、③『詩経』よりも先に『経書』を読むことを日課とすること、④俗人と交わって、悪い遊びに染まらないこと、⑤ みだりに塾の外に出ないこと、⑥家族に異変があれば、まず大塩平八郎に相談すること、⑦家族の吉凶は必ず平八郎に報告すること、⑧犯罪を行えば容赦はしないこと、以上。
 塾生は、自宅から通うのではなく、先生宅での寄宿生活を義務付けされていた。③については、すぐ後で述べる。平八郎の価値観からは外れる心の緩みがあれば長幼の区別なく、鞭を実際に揮ったという(吉見九郎右衛門の取調での訴え)。塾生は、睡眠中も、平八郎が見回りにきた時には、必ず、起きて挨拶をしなければならなかったという。
 講義は、平八郎が朝五つ(午前8時)に役所に出勤する前の時刻(後述のように、たいていは午前5時)に1回あった。平八郎は昼八つ(午後2時)に役所から帰宅し、2回目の講義があった。さらに夜にかけて2~3回の講義が行われた。講義内容は、『経書』の内容に照らして、当時の政治が如何にずれて間違っているかを批判するものであった(幸田成友『大塩平八郎』による)
 また、横道に逸れるが、江戸時代の時刻の表示について説明しておこう。時刻は午前と午後にかけて四つから九つまである。三つ以下はない。九つが上限である。しかも、数え方は、小さい数字から順に大きくするのではなく、逆である。九つ、八つ、・・・四つとなる。現在の午後11時が九つ。それから2時間毎に八つ、七つと数える。午前9時が四つとなる。それから2時間後の午前11時が九つとなる。一刻(いっとき、2時間)を半分にして半刻(はんとき、1時間)、さらに半分にして四半刻(しはんとき、30分)となる。午前0時は、「夜九つ」という。つまり、午後11時の九つではなく、わざわざ午前0時を表すのに、「夜九つ」と呼んだ。
 江戸時代の人々は朝6時には仕事を始めていた。この午前6時のことを「明け六つ」という。単に「六つ」というと、午前5~7時になるが、これに「明け」をつけると「半刻」後の午前6時になる。同じように、「暮れ六つ」は午後6時である。
 ただし、現在の時間表示と江戸時代の時刻とはずれる。日の出を「明け六つ」、日没を「暮れ六つ」というのは、季節毎の日の出、日没を基準としてので、季節によって現代の時計時間からすれば、江戸時代の時刻は大まかなものであった。
 江戸時代の時刻を干支(えと)で表現したものも説明しておこう。
 1日24時間を12等分して、上記と同じく1刻を2時間とした。「子の刻→丑の刻→寅の刻→卯の刻→辰の刻→巳の刻→午の刻→未の刻→申の刻→酉の刻→戌の刻→亥の刻」となる。
 1刻の前半の1時間を「上刻」、後半の1時間を「下刻」と呼ぶ。1刻の中央を「正刻」(中刻)という。
 ふたたび、大塩平八郎の塾のことに戻る。
 塾生は、毎朝「卯の上刻」には起床させられた。つまり、夜明け前の午前5時という早朝である。起床後すぐに書を読み、内容が分かるまで、十数回読み、理解できれば筆写する。それが終われば「詩」を詠む。
 「詩」とは『詩経』のことであろうが、ただ、その詩の美しさを愛でるためではない。書く文章に心地良いリズムを与えることを生徒に生得させるためである。「詩」の韻音(いんおん)と「平仄」(ひょうそく)の規則性を身に付けさせるのである。
 韻音とは、たとえば、「閑」(kan)と「山」(san)の語尾の「n」のように同じ音が重なることを言う。漢詩の韻の作り方は100種類以上あり、5言詩(1行が5文字)の場合、偶数の句(行)が、韻を踏まねばならないというのが漢詩の約束事である。
 漢詩には、さらに「平仄」(ひょうそく)という決まりがある。
 漢字には、中世の古語に限定されるが、現在とは異なった音の「四声」(しせい)があった。四声とは、中国語の声調を、4種類に分類したもので、「平声」(へいせい)、「上声」(じょうせい)、「去声」(きょせい)、「入声」(にゅうせい)をいう(現代中国語では、「入声」は失われ、逆に「平声」が二つに分かれているため、「陰平」(第一声)、「陽平」(第二声)、「上声」(第三声)、「去声」(第四声)となっている)。
 「平声」の「平」とは、文字通り「たいらな」という意味であり、抑揚のない長音である。それに対して、残りの3つの音はいずれも傾きがあり、しかも短いので、「仄」(かたむき)がある音という意味で「仄声」という。つまり、「上」、「去、「入」の3声が一括して「仄声」と呼ばれる。
 そして、漢詩においては「平声」と「仄声」の音を交互に置くことによってリズムや音の調和が作り出されるのである。
 日本人の作る漢詩は、当然ながら、中国人の韻を踏むことなど不可能である。したがって、日本では、「平仄を整える」と言う使われ方がなされてきたが、この場合は、「(てにをはを)整える」という程度の意味である。「平仄する」という使われ方もされてはいた。しかし、その意味は「矛盾点を訂正する」程度のものであった。「平仄が合わない」という言葉もある。これは、「辻褄が合わない」という意味で使われた。
 このように見てくると、大塩平八郎が、「詩」を重視したのは、議論する際の言葉のリズムを重視していたからであると思われる。
 「洗心洞」の塾生は、「酉の中刻」(暮れ六つのこと)に「臥床」(がしょう=就寝)しなければならなかった。日没とともに就寝しなければならなかったのである。これはこれで塾生にとっては苦行であっただろう(「洗心洞入学盟誓」より)
 以上、今回は、横道に長々と逸れてしまったが、それには2つの意図がある。1つは、この拙文を読まれた方々はすぐに気付かれたと思うが、現代の日本人の語彙は、想像以上に儒教の学問の影響を強く受けているということである。現在の私たちの言葉の劣化は、あまりにも簡単に『経書』を遠ざけてきたことと無縁ではないだろう。
 ただし、私は儒教の「学」を両手を挙げて讃美しているわけではない。「太古には、優れた社会統治を行った王朝もあった。そうした優れた統治(人格の陶冶も含む)を記録した『経書』の理想からは、現代社会は大きく外れてしまっている。だからこそ、現代社会は太古の理想的な政治体制に戻らねばならない」と訴えるが保守思想であろう。
 しかし、そこには致命的な欠陥がある。「社会は変化し続けるものであり、社会改革とは、変化の過程で新しく産み出された力を生かして、最重要である人間の尊厳が保障される社会を新しく創造することである」という歴史的視点が保守思想にはない。私にはそう思える。これが私の2つ目の意図である。

世界の終わりと経済学-「資本主義と死の欲動」

大阪労働学校講師 斉藤日出治

「セカイノオワリ」という人気上昇中の四人組バンドがいる。この名前は、発達障害に苦しんだボーカルのメンバーが自分の直面した精神的危機の経験から生まれたものだそうだ。だから、それは新しい世界の始まりを孕んだ希望の言葉でもあるらしい。だがわたしには、エンタメの世界に出現したこの言葉が、今日の世界のひとびとの深い精神的・文化的・経済的な苦悩を刻印しているように思われてならない。
 人工知能の進歩が象徴するように、身体の内奥から身体外のすみずみまで情報検索と情報処理が進み、人間の自然に対する制御が極限にまでゆきつくかにみえるとき、その世界が内部から自己崩壊を遂げ破局を迎えるのではないか、という漠たる不安の意識が密かにひとびとのうちに浸透している。
 ところが、経済学の言説は、この漠たる不安の意識からまったく無縁のところで存立している。経済学には危機や恐慌の概念はあっても、破局の概念はない。経済学は市場の均衡と成長によって永遠に続く世界を想定している。経済学が描く世界には終わりも破局もないのだ。偶発的に外からの衝撃で一次的な撹乱が生じたとしても、やがて世界は均衡と安定を回復するものとみなされる。
だがきわめて逆説的なことであるが、世界の終わりを予兆させる漠たる不安を孕んだこの現実の世界は、ほかならぬ均衡と成長が永続すると想定する経済学の言説によって生み出された世界なのである(そういえば、マルクス経済学でも、『資本論』とは資本主義が永遠に続くものと想定して資本の運動法則を描いたものだとみなす研究者がかつていた。マルクスが語ろうとしたのは資本主義の不可能性であった、というのに)。
この逆説に気づいた数少ない経済学者のひとりが、カール・ポランニーであった。かれは『大転換』(一九四四年)において、市場の価格変動を通して需要と供給を自動調整する機能を社会全体にゆきわたらせることによって組織される社会を「市場社会」と呼び、経済学者がイギリス産業革命以降、この市場社会を理念系として社会を組織しようとしたと言う。だがこのような市場社会を構築するためには、連帯と相互扶助にもとづく共同体的な諸制度を解体して、諸個人を孤立させ、無産者にして、賃金労働者として労働市場に赴くように強いるという巨大な文化破壊行為が必要とされる。ポランニーは、このような文化破壊行為が西欧資本主義の内部だけでなく、非西欧社会に対する植民地支配を通して強力に行使されたことを看破している。市場の自己調整機能によって社会を組織するという経済的自由主義の思考には、社会を破局に導く暴力がはらまれている、このことをポランニーは察知していた。事実、この市場社会は二〇世紀に入って、全体主義と世界戦争という狂気の破局をもたらすことになる。
二一世紀の今日、わたしたちが直面している破局の危機も、経済的自由主義の言説が新自由主義という装いをまとって復活し築き上げた世界に起因している。
 加藤典洋が『人類が永遠に続くのではないとしたら』という、やはり世界の終わりを予兆させる評論集を出した。その冒頭で、加藤は原発の損害賠償保険を引き受けてきた損害保険会社グループが東京電力福島原発の重大事故以後、原発のリスクがあまりにも巨額に上ったため保険を引き受けられず、契約を更新しないと東京電力に伝えたという新聞記事をとりあげて、未来の保証が断ち切られたこと、産業社会が未来に向けて約束していた無限の可能性が断ち切られたことに着目している。
 この未来の崩壊をもたらしたものこそ、原子力を市場で取引するビジネスである。原子力発電は、私企業が市場で電力を商品として取引するというシステムのなかで稼働している。原発は電力コストが安いことを売り物にして市場に取り入れられている。だが、原発は炉心溶融という重大事故を起こすことによって巨額の費用を発生させた。放射能汚染は、ひとびとと動植物の生存と生命を不可能にする被害をもたらす。それは現在の人間や他の生命体の生存を脅かすだけでなく、未来の生命を不可能にする。原子炉を廃炉にし、放射性廃棄物を未来永劫にわたって管理する方法についても解決策が決まっていない。
 原発事故は、近代社会がもたらした科学技術がはらむはかりしれないリスクを浮き彫りにした。西谷修[2011]は、核技術の性格をつぎのように語っている。
「核技術は、核分裂や核融合を引き起こし、一定程度それを制御することはできるがその結果生ずる現象に関しては「自然に任せる」しかない」(一三五頁)。
 技術は特定の目的に従ってそれがめざすものを実現できても、特定の目的を実現した結果が生み出す副次的効果に対して制御が働かない。原発事故は、この副次的効果が人間による制御をはるかに超えた重大な破局をもたらした典型的な出来事であった。
 経済学は核技術が孕むこのはかりしれない副次的効果を「市場の外部効果」というかたちで処理しようとした。社会を破局に追いやり、ひとびとの生存と生命を不可能にするリスクを「市場の外部効果」とすることによって、経済学は破局という概念をみずからの言説の責任の埒外に置いたのである。社会的費用の経済学は、この外部効果を費用計算して、市場の内部に取り込んで処理すべきだと主張する。だが、保険会社による原発事故の保険契約更新の拒否は、そのような市場の内部化が不可能になったことを意味する。東京電力は、「市場の外部効果」に対する社会的責任を放棄する。東北地方だけでなく全国に、さらには全世界にまき散らされた放射能を「無主物」と呼んで、自己の責任の範囲外にあることを宣言している。
 原子力発電という未来を不可能にするリスクを孕んだ商品が市場で取引され、そのリスクが炸裂したときに、企業も、政府も、経済学者も責任を拒絶する。その結果、わたしたちは世界の終わりという事態に直面することになる。
 市場の経済システムを均衡と成長によって描き出し、未来を喪失し世界を破局に追い込む事態を自己とは無縁なものとして排除する経済学の言説のなかに、じつは破局をもたらす恐るべき暴力が内蔵されているのではないか。
 この視座から経済学の言説を再考した一書を紹介したい。フランスで二〇〇九年に刊行されたG・ドスタレとB・マリという経済学研究者による『資本主義と死の衝動』がそれである。本書の序文は、本書刊行の前年の二〇〇八年に発生した世界金融恐慌に言及している。著者たちはこの恐慌を一九二九年の大恐慌の再来としてとらえ、その根因を資本主義における生産のための生産の追求、飽くなき貨幣蓄蔵への衝動に求める。資本主義の現実を突き動かしているこの衝動は、経済空間を平穏な均衡状態にあるものとみなし貨幣を実体経済の中立的なヴェールとしてとらえる経済学の言説では説明することのできないものである。金融恐慌が世界の破局をもたらすほどのものになったのは、このようなかぎりなき利潤の追求と貨幣の蓄蔵の欲動に起因している。経済活動は均衡と安定を望むにもかかわらず、利潤の追求と貨幣の欲望はこの願望を成長へと先送りし、やがて死を招くほどの極限まで突き進み、そして破局へと至る。この経済活動の際限なき欲望の増殖が世界の破局と死滅を招く。
それゆえ、求められているのは、そのような破局へと向かう動態をすくい取る経済の認識、貨幣の認識である。正統派の経済学が視野の外に置いたこの動態的運動を省察の対象とした思想家として、二人がとりあげるのが、ジークムント・フロイトとジョン・メイナ-ド・ケインズである。
フロイトは人間の根源に潜むエロス(生の欲動)とタナトゥス(死の欲動)との葛藤において、資本主義の経済活動をとらえる。フロイトにとって、タナトゥスはエロスと切り離された欲動ではなく、エロスのうちに住まい、エロスとともに膨張していく。一方で、エロスはタナトゥスを支配し利用し従属させようとする。文化とはエロスがタナトゥスを抑制し支配し利用する様式である。だが文化は同時に、死の欲動を先送りし迂回させる回路でもある。生の欲動は死の欲動を先送りし、そうすることによって死の欲動をさらに巨大なものへと育て上げていく。
資本主義とは、このエロスとタナトゥスが運動する文化的な様式であり、死の欲動を先送りし成長へと転移させ、迂回させる装置である。そうやって、資本主義は死滅に向けた運動をかぎりなく増幅させていく。
このフロイトの方法視座によって、生産、消費、資本蓄積といった資本主義の経済活動に独自の意味があたえられる。資本の蓄積や技術の進歩とは、死の欲動を迂回させる回路にほかならない。技術の進歩や資本の蓄積がもたらす巨大なリスクは、生の欲動によって迂回させられ増幅した死の欲動が発現したものにほかならない。
資本の蓄積とは、目の前にある直接的消費を断念し、快楽を先送りすることである。それは、「より多くの将来の破壊のために現在の破壊を延期することである。」(Dostaler G./Maris B.,p.34.)
生の欲動は死の欲動を抑圧するのであるが、それはもっと後により大規模なかたちで、より増幅されたかたちで死の欲動を発現させるためである。成長とは死の欲動の繰り延べであり、のちに破局へといたる回路にほかならない。
「フロイトにとって、問題は死の欲動を迂回することであった。自我の原初的破壊を外的世界に向けて迂回させることは、技術進歩をはぐくむ。死の欲動の抑圧が重要になればなるほど、労働におけるリビドー[性本能の力]の昇華はますます強くなり、病的傾向に加えられる抑圧がますます高まり、技術がますます強力になり、蓄積がますます重要になる。」(ibid.,p.36.)
この欲動は自然および人間に対する破壊的な暴力となって発現する。フロイトの視点からすると、新自由主義の規制緩和とは、致死のエネルギーを深くため込んでそれを無放縦に解き放つことを意味する。資本の蓄積と貨幣の蓄蔵に向けて迂回させられた死の欲動は、経済活動を通してひとびとの下意識に沈殿しためこまれ、その欲動が、今度はナショナリズムや排外主義や能力主義や人種主義や性差別というイデオロギーの回路を通して社会的弱者に向けた破壊的暴力となって発現する。性的・人種的マイノリティに対する攻撃、民族差別のヘイトスピーチ、難民の排除、障害者の虐殺はこの無放縦なエネルギーの発露である。それはすでに二〇世紀前半に全体主義と世界戦争として発現した暴力である。それゆえ、マルクーゼをはじめとするフランクフルト学派は、かつて強制収容所、ジェノサイドを近代以前の野蛮の復活としてではなく、近代資本主義および近代的技術の進歩がもたらした帰結として認識したのである。この暴力は二一世紀初頭の今日、沈静化するどころか世界の各地で再現されている。
文化は破壊の欲動をためこんで先送りし、さらに巨大な規模でその欲動を発現するための回路となる。科学技術はこの文化の主要な構成要因をなす。科学技術も、文化も、人間を苦悩から解放してくれる救世主のようにみえるが、その逆に死の欲動を増幅させ、その破壊的暴力を自然と人間自身に向けて発動する装置となる。
「文明は死の欲動を抑圧し、それを外部に向けて迂回させ、自然に抗して導く。だが、死の欲動は持続し、つねにより強力なものになる。死の欲動はいつの日かその目的に到達し、文明と人類に打ち勝つ。」(ibid,.p112.)
地球的規模における資本蓄積を推進するグローバリゼーションの過程は、それゆえ死の欲動を制御する運動であるかにみえて、その逆に人類の消滅に向ける動きを加速させている。
「だから、資本主義が導き入れる死に抗するすさまじい闘争は種の消滅を加速する手段にすぎない。蓄積が生存のための闘争に取って代わるということは、理性の狡知にほかならない。無へとゆっくりと歩んでいると思いつつ、じつはより急速に無へとせき立てられているのである。」(ibid.,p.91.)
フロイトは、経済学の基本的概念である貨幣を死の欲動の視点から考察するため、貨幣の精神分析をこころみる。貨幣は、権力、セクシュアリティ、死と結びついた象徴的な次元を有している。貨幣は肛門愛と結びつき、糞便とつながる。古代文化、神話、おとぎ話、迷信では、貨幣が糞便とのかかわりで語られる。民話では、雌鳥が金の卵を産み、ロバが尻から金貨をひりだす。大便は、子どもが愛する両親に提供する最初の贈り物であり、子どもの大便を介した子どもと両親の嗜糞症状的交換関係は、贈与、交換、価格、富、貯蓄の経済的関係を存立させる根源にある。貨幣は抑圧された死の欲動を無意識にはらむものであり、ひとびとの欲望の対象であると同時に恐怖と死を内蔵するものである。
ケインズはフロイトのこの精神分析に敏感に反応する。ケインズはブルームズベリーという知的集団に所属し、ヴィクトリア朝の厳格な道徳主義とピューリタニズムに対する批判的精神をつちかうなかで、フロイトの精神分析を受け止めるようになる。
とりわけ、ケインズはひとびとの貨幣に対する異常なまでの執着を同時代の深刻な道徳的問題としてとらえた。つまり、貨幣愛は、ケインズにとって死の欲動を増幅させる回路にほかならない。貨幣の獲得をめぐる競争が万人の万人に対する闘争をひき起こし、暴力を発動する。貨幣は貨幣数量説が説くような、実体経済を媒介する中立的な道具でもなければヴェールでもない。
ケインズの貨幣概念は、古典派経済学、新古典派総合における価値尺度、交換手段といった中立的な機能的概念とはまったく異なる。ケインズにとって「貨幣とは欲望の対象であり、死をともなう恐怖である」(ibid.,p.62.)。
フロイトにとっても、ケインズにとっても、貨幣が富と所有の対象であると言うことは自明のことではなく、心理分析の対象にされる。貨幣は人間の苦悩や欲望や死の恐怖といった心理現象と密接に結びついている。
ただし、この心理現象は個人的な次元ではなく、集団的な次元で問われている。欲望は経済学に登場するホモ・エコノミクスという合理的な個人の欲望ではなく、ルネ・ジラール[1982]が言う対象をめぐって競争相手と争う模倣欲望=関係の欲望である。貨幣は合理的な計算が生み出した産物ではなく、非合理的な愛の対象なのである。
ケインズはミダス王の物語を好んで引用したと言われる。ミダス王は、黄金の呪われた欲求にとりつかれて、自分が触れるものすべてを金に変えるという願望を叶えてもらう。ところが、そのためにミダスは自分が触れようとする食べ物、水がすべて金に変わってしまうということに気がつき、恐怖におののく。山積みの黄金が死を引き寄せる。ここに貨幣の不合理な本性がみごとに語り出される。
ケインズはミダスの神話に死の衝動と肛門愛のフロイド的精神分析を読み取る。このミダスの精神は、今日の新自由主義の精神でもあり、株式、不動産、特許の所有者の意識のなかに住み着いている。
ケインズにとって、貨幣はたんに交換手段や価値尺度ではなく、それ自身が崇拝の対象となり、独立した価値として蓄積の対象となる。しかし、貨幣は何の役にも立たない。その貨幣をひとびとは追い求め、争う。そこに、ケインズは資本主義の糞便的で、小児病的な側面を読み取る。
ケインズは、守銭奴根性と吝嗇の貨幣蓄蔵欲望の内面化された倫理を節約と勤勉を有徳とするピューリタニズムとヴィクトリア朝の道徳精神のうちに読み取る。現在の消費を繰り延べし享楽を拒否する倫理は、将来のパイを増やす蓄積のためであり、それは死の欲動に向けてひとびとの行動を誘導する回路にほかならないものとみなされる。
「蓄財家はひとびとの共同体におけるあらゆる取引をねじ曲げる。蓄財家は迂遠させられた快楽のエネルギーおよび死の欲動に結びつけられたあらゆるエネルギーをむさぼり食うブラック・ホールである。」(ibid.,p.81.)
レントつまり不労所得の増殖も、フロイドとケインズのまなざしからすると死の欲動の運動にほかならない。トマ・ピケティ[2013]はこのレントの増殖率が国民経済の成長率を上回るということを資本主義三〇〇年の統計データを使って立証したが、それは資本主義の歴史が死へと向かう欲動を確実に深化させていく過程であることを証すデータとも言える。そのために、ケインズは金利生活者を安楽死させようとし、自己増殖する貨幣の機能を廃棄するために、蓄蔵不可能な貨幣を導入しようとする。「スタンプ貨幣」、「溶解する貨幣」を提言するシルヴィオ・ゲゼルに対する高い評価がそこから生ずる。
フロイトとケインズによる貨幣の精神分析は、グローバリゼーションがもたらす現代の破局を貨幣認識の深層において鋭く洞察していることがわかる。ドスタレとマリは、グローバリゼーションの本質が貨幣を回路として増幅する死の欲動にあると警告する。
「われわれが「幸福なグローバル化」と信じているものは、狂乱の貨幣の度を超した動きであり、その破壊的な欲動にすぎないのである。
(ibid.,p.8.)
 ケインズのこの貨幣認識は、市場の認識と不可分に結びついている。ケインズは市場を、価格変動による自動調整の場としてではなく、ひとびとの模倣欲望を感染させ破壊的暴力を増幅する場としてとらえた。市場は合理的な判断力を有した個人=ホモ・エコノミクスがその判断にもとづいて価格情報を交換し需給関係を調整する場ではなく、大衆の非合理的な世評や虚報が飛び交い流言飛語が感染する回路である。
ケインズが株式市場を美人投票の論理で説明する理由もそこにある。株式市場では、ひとびとは自己の理性的な判断に依拠するのではなく、他者の判断を見抜こうとするゲームに参加する。そして平均的な判断を見抜いたものがこのゲームに勝利する。ケインズ以前にフロイトが群集の行動のうちにこの心理を洞察していた。フロイトによれば、群衆は多数者の平均的な判断に自己を合わせようとする心理をもっており、この判断がかぎりなく感染していく傾向をもつ。将来がまったく不確実な中で苦悩と死を避けようとする群衆は、もっとも平均的な世論を参照し、他者の欲望を模倣する。その模倣はかぎりなく感染して、群衆を特定の方向に導く。それが苦悩と死から逃れることのできる唯一の光だからである。ケインズにとって、株式市場はそのような社会心理によってうごめく空間であって、理性的な個人が自己の欲求を最大化するように合理的な判断をおこなう空間ではない。フロイトとケインズは、ルネ・ジラールの模倣欲望の論理をすでに先取りして提示していたのである。

        *         *
 一九九〇年代以降、社会主義体制を飲み込んで暴走する新自由主義の大波は、当初予測されたような、「歴史の終焉」や「資本主義の勝利」をもたらすどころか、世界の破局を、人類の終焉を招きつつある。それはほかならぬフロイトとケインズがすでに予見したことであった。
著者たちは言う。フロイトとケインズは生涯の最後に気がかりなメッセージを残した、と。「人類はみずから破滅することを望んでいる」(ibid.,p.110.)というメッセージがそれである。
 フロイトはナチズムの迫害を受け、一九三九年に亡命先のロンドンで末期がんに苦しみつつ生涯を終え、ケインズは第二次大戦直後の一九四六年に、戦後の国際通貨体制をめぐる米国との交渉に挫折して死を迎える。フロイトはファシズムのうちに、ケインズは国際通貨の将来のうちに、人類の自己破滅願望の不気味な予兆を感じ取ったのではないか。グローバリゼーションの末期的症状に直面しているわたしたちが思い起こさなければならないのはこのふたりの残した重いメッセージではないか。ドスタレとマリはこう問いかける。
(ドスタレ・マリの邦訳は藤原書店から刊行予定であり、今回は簡単な紹介にとどめるが、別稿で本格的に論じたい。)
参考文献
西谷修編[2011]『経済を審問する』せりか書房
加藤典洋[2014]『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社
カール・ポランニー[1944]『大転換』野口建彦・楢原学訳、東洋経済新報社、二〇〇九年
Dostaler G./Maris B.,Capitalisme et pulsion de mort,Albin Michel,2009
ルネ・ジラール[1982]『暴力と聖なるもの』古田幸男訳、法政大学出版局
トマ・ピケティ[2013]『二一世紀の資本』山形浩生ほか訳、みすず書房
                (名古屋同人誌『象』87号、2017年春、からの転載)