月別アーカイブ: 2017年8月

木下武男氏・熊沢誠氏が熱き思いを語る」シンポジウム

大阪労働学校・アソシエ、後期(10月1日~)から開催予定の木下武男氏・熊沢誠氏による「労働運動の歴史に学ぶ」連続講座開催に先立ち、お二人に連続講座の主旨、日本の労働運動に寄せる思いを語っていただきます。

 

木下氏は、「労働組合は資本主義のもとで貧しい虐げられた者たちが身を守り、生きるために闘う武器としてつくられた。10日1日からの「労働運動の歴史に学ぶ」連続講座は、労働運動の歴史のなかから労働組合の理論を学び、その理論にもとづいて、この日本で、新しい「本当の労働組合」を創造するための手立てをつかみ取ることにある。」

 

また熊沢氏は、「競争の労働市場にまずは個人として投げ出される労働者にとって、なぜ労働組合運動が不可欠な組織になるのかという「原論」からはじめます。その上で、現在の日本での労働運動の現状を批判的に論じ、私たちの明日にとって必要で可能な労働運動の組織的な試みはなにかを提示することにしましょう。」と語っておられます。

 

そしてパネルディスカッションには、お二人に加え、武建一氏(関西生コン支部委員長、大阪労働学校・アソシエ代表理事)に参加していただき、日本の労働運動をどのように強化するか。産別労働運動のあり方と今後の展望などを語ってもらいます。

 

是非、ご参集ください。

 

「連続講座『労働運動の歴史に学ぶ』開催に際して、木下武男氏・熊沢誠氏が熱き思いを語る」シンポジウム

・と き 8月26日(土) 午後1時30分~4時30分

・ところ 大阪労働学校アソシエ 学働館(06-6583-5555)

(大阪市西区川口2-4-2)

※地下鉄中央線・千日前線「阿波座」駅より徒歩10分

 

・報告者:

木下武男(元昭和女子大教授/労働社会学者)

熊沢 誠(甲南大学名誉教授/研究会「職場の人権」顧問)

*パネルディスカッションには、お二人に加え武建一氏(関西生コン支部委員長、大阪労働学校・アソシエ代表理事)も参加。

 

・主 催:大阪労働学校アソシエ

・協 賛(順不同):

おおさかユニオンネットワーク、研究会「職場の人権」、全日本港湾労働組合関西地方大阪支部、全国金属機械労働組合港合同、管理職ユニオン・関西、なかまユニオン、全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部、全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部、全日本建設運輸連帯労働組合近畿地区トラック支部

・呼びかけ人(順不同):

福島みずほ(参議院議員・社会民主党副党首)、木村真(豊中市議会議員)、

中島光孝(弁護士・大阪労働弁護団代表幹事)、

服部良一(社会民主党大阪府連合代表・元衆議院議員)

公開市民講座のレジュメ公開

大阪労働学校・アソシエでは、さる7月29日に第3回公開市民講座「私たちの内なる優生思想を問う」を開催しましたが、NPO法人青空会議が法人発行のミニコミ誌『月刊青空』8/9月号(NO.105)で、この公開市民講座の報告を特集として編集・刊行してくださいました(全24ページ)。公開市民講座で報告をおこなった6名のパネラーの報告要旨がすべて『月刊青空』に掲載されています。講読を希望される方は、下記までお問い合わせください。頒価は500円です。なお、同NPO法人は昨年9月に設立。心・生活・文化・自然、そして平和をめぐって、ミニコミ誌発行やコミュニティー活動を行っています。

 

NPO法人青空会議
〒557-0031 大阪市西成区鶴見橋3-10-30
TEL06‐7163‐0177
sora@shore.ocn.ne.jp

「グローバリゼーションのエレファントカーブ」の意味するもの

帝国主義の世界支配からのパワー・シフト

愛知連帯ユニオン 佐藤隆

 

1、グローバリゼーションのエレファントカーブ

昨今注目されている「グローバリゼーションのエレファントカーブ」とは、ブランコ・ミラノヴィッチ氏がその著書「大不平等」(邦訳 みすず書房)において描いた象の鼻のような形状の曲線である。それは横軸を世界所得分布の百分位でとり(左から右へ豊かになる)、縦軸は1988年以降の20年間にそれぞれの所得階層で何%所得が増えたかをプロットしたものだ。象の頭頂部(A点)は、「グローバル中間層」(所得分布の中央値付近20%)、鼻の垂れ下がったU字底(B点)は75~90百分位で豊かな国の中間層、象の跳ね上がった鼻先は最も豊かな世界上位1%(C点)をさす。
因みにこの統計は各国家計調査の組み合わせ、ICP(国際比較プログラム)事業のPPP(購買力評価)を使って実質所得を推定している。

 

1988~2008年までの20年間に、ミラノヴィッチが「グローバル中間層」と命名したA点では約80%の所得の伸びを示し、最も富裕な上位1%C点でも70%近い伸びを示している。しかし、B点の先進国の下位中間層の所得は停滞して取り残されているのである。この流れは2008年金融危機(大西洋経済不況)を経て今日まで強化されている。
A点は、中国をはじめとするアジア新興国の人々で、中国では農村部と都市部で実質所得がそれぞれ3倍と2.2倍になっている。インドネシア・ベトナム・タイでも所得は2倍に及んでいる。
C点は世界上位1%で半分は米国、あとはヨーロッパ、日本、オセアニアが占める。B点の豊かな国の下位中間層の停滞と比較すると、豊かな国で格差が拡大していることが解る。
因みに富の絶対増加でみると、20%を上位1%が、44%を上位5%が受け取っており、先進国の「下位中間層」の所得が「グローバル中間層」に回ったわけではないことが解る。世界上位1%の税引き後の年間可処分所得は約7.1万ドル、豊な国の下位中間層の可処分年間所得は約5000~1万ドル、グローバル中間層の可処分年間所得は約1400ドル、世界の下位5%の最貧困層の可処分年間所得は450ドルに満たない。
それでも1988年~2011年までの23年間で、米国の下層20%と中国の都市部の比較では、実質所得が6.5:1 から1.3:1へと変化している。

 

豊かな国の経済格差の拡大と世界経済における新興国の台頭という変化がはっきりと見

て取れる。

 

2、クズネッツ波形という概念と豊かな国の不平等の拡大

クズネッツは、1950年代~70年代の国の工業化の中で、「最初は不平等が拡大して後には不平等は縮小する
という逆U型曲線を描くという仮説を提起した。実際、先進国では産業革命(1844年頃)以降から20世紀初頭まで不平等が拡大し、それ以降、1970~80年頃まで不平等が縮小する過程に入っていた。
近年注目を集めるピケティは、1980年代以降の脱工業化―新自由主義経済での豊かな国における格差の拡大を指摘してクズネッツの仮説を批判、資本主義は一般に格差を拡大するが20世紀の格差の縮小は例外的に社会主義や政治闘争、社会政策が影響したものだと指摘した。
これに対してミラノヴィッチは、視野を産業革命以前と世界全体に広め、経済は不平等を拡大する過程と縮小する過程の波を繰り返す(クズネッツ波形)とした。これは一種の弁証法であると思う。そこで、ミラノヴィチは、産業革命以後では不平等を拡大することのできるスペースができたとし、不平等を押し下げる力には悪性の力(戦争・内戦・疫病)と良性の力(社会主義と労組・教育・社会政策・高齢化・技術変化)があるとし、また、経済的な力と政治的な力の相互作用を指摘して、政治闘争は所得の分配を巡って争われるがそれはずっと幅広い経済環境の中で起こる、とした。そして、20世紀初頭からの先進国での不平等を縮小させた力については、経済的要因として都市部への人口集中や教育の向上を上げ、政治要因としては、ピケティの指摘した点に先行して、イギリスでの労働貴族の登場や帝国主義の競合としての戦争があったとする。

 

3、各国間の不平等と移民

世界全体に目を転じると1820年頃から1980年まで不平等は一貫して拡大していく傾向にあった。19世紀には産業革命が欧州で起こったことにより、次いで20世紀には帝国主義の支配によって。そこで貫かれたのは植民地主義である。ポール・バイロックは植民地契約について「植民地は本国とのみ、本国の船で輸送される商品のみ取引ができ、また、工業製品を作ることができない」と指摘している。エンゲルスはイギリスの植民地搾取と工業的独占を労働貴族の発生の原因とし、ブハーリンは植民地搾取による労働貴族の発生が第二インターの崩壊とその戦争協力の要因であるとした。第2次世界大戦後の旧植民地諸国の政治的独立も、周辺国の豊かな国への経済的従属を解消しなかった。
植民地搾取の結果、発生したのが市民権レント(市民権プレミアム)だ。1820年には不平等の要素は階級が80%で場所が20%であったが、豊かな国と貧しい国の不平等の拡大により19世紀半ばまでにはこれが逆転し、不平等の80%は生まれた場所で決まり、階級で決まるのは20%になった。現在では、最貧国コンゴの所得に対し、米国は9200%、スウェーデンは7100%、ブラジルは1300% イエメンは300%となっている。貧しい国は労働時間が長いにもかかわらず、同一職業の賃金差は、「ニューヨーク・ロンドン」:「北京・ラゴス・デリー」で比較すると、建設作業で11:1、熟練工で6:1、エンジニアで3:1となっている。

市民権レントが生み出すものが移民である。97%の人は生まれた国で暮らすので移民は3%
2億3000万人であるが、増加率2.2%と人口増加率の倍となっており、そして移民を望む人は7億人15%に及ぶ。そこで貧しい世界と豊かな世界が接する世界各地域には築かれている。
発達した社会保障のある国(スウェーデン等)は低スキルの移民を引きつけ、流動性の高い国(米国?)は高スキルの移民を引きつける。そこで受け入れ側の国は、「資格を満たした移民」の受け入れや一定金額(米国なら100万ドル等)を投資した移民の受け入れの政策をとっている。しかし、グローバルな視点からはこれは極めて差別的で、貧しい国の高スキルの流出として不平等を拡大する。付言しておけば、実際の移民は、社会サービスや社会移転を得る以上に納税しているのに、である。

ところが、1988年以降、産業革命以後にしてはじめて各国間の不平等が縮まっている。世界のジニ係数は、1988年72.2から2008年70.5、2011年67へと推移している。
豊かな世界の停滞とそれ以外の地域(特にアジア)での成長がその原因だ。2000以降の成長率は新興国で4.7%、豊かな国で1%となっている。米国と中国・インドの1人当たりGDP比は、1990年の20:1から2010年の4:1へと変化している。

 

4、帝国主義の世界支配からのパワー・シフト

この1988年以降の世界経済のパワー・シフトをミラノヴィッチの視点(家計)とは違う視点から見てみよう。「日経新聞」によれば、G7メンバー(日本、米国、英国、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ)は、名目GDPで見た場合、そのシェアはピークの1980年代後半に70%近くあったが、G7のGDPシェアはそこから下降線をたどる。90年代~2000年前半までは60%台をキープしていたが、08年のリーマン・ショックを経て、2014年には50%を切っている。 一方、存在感を高めたのが新興国で1994年と2014年の20年間の変化を見ると、G7が50%を切ったのに対し、「BRICS」各国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)のGDPシェアは7.3%から21.9%に上がった。14年の世界シェアでは中国だけで世界全体の約13%を占めた、という。

1988年とは、世界のひとつの転換点であった。1980年代に始まった新自由主義、1989年のベルリンの壁崩壊、1991年ソ連崩壊、1993年中国の社会主義市場経済導入と続く現在のグローバリズムの始まった時期である。

20世紀初頭に形作られた世界経済の体制をホブソン、ヒルファーディング、レーニン、ローザらは「帝国主義」と呼んだ。レーニンは「帝国主義は、資本主義一般の基本的属性(競争)の発展の直接の継続として生じながら、一定の段階でその若干の諸属性がその対立物(独占)に転化しはじめたときに発生した」とし、その定義として「帝国主義とは、独占体と金融資本との支配が形成されて、資本の輸出が顕著な意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、最大の資本主義諸国による地球の全領土の分割が完了した、そういう発展段階の資本主義」と記した。
ところが、1980年代、帝国主義はその基本的な属性を維持しながらも、「独占」は再び「競争」に転化し、「分割」されていた世界は経済的にはグローバリズムで「ひとつ」に結び付けられた。そこから帝国主義の世界支配の下で停滞を余儀なくされていた旧植民地諸国が経済発展の軌道に引き込まれつつあると言える。
もうひとつの指標を示す。2017年、米国は世界最大の純債務国(947兆2074円)に転落している。米国は1982年頃には恒常的な経常赤字になり、1987年頃に対外純債務国に転落した(IMF)。正に帝国主義の基軸中の基軸が「資本を輸出する」側から「資本を輸入する」側へと変化したのだ。

もちろん、「豊かな国の停滞と新興国の成長による経済の収束」というこの四半世紀の現象は単純に続くと予想できない。ミラノヴィッチによれば、アフリカが成長の軌道にのることが必要だが、現在はまだそれは見通すことができない。アフリカはこの1世紀、紛争・内戦・天然資源の物価変動によって経済の急成長と急降下を繰り返した。コンゴとマダガスカルの所得は80年前と同じである。
また、新興国の経済成長の内実をみても豊かな国の金融緩和と深く結びついていて、来る次回の金融ショックは、2008年と違って新興国を巻き込んだ世界的なものになりかねない。
これもミラノヴィッチが指摘していることだが、経済の予想は予想当時のトレンドを拡張するに過ぎないが、時間の経過はトレンドの転換をもたらす。また、特異な予想できない出来事がその後に大きな影響を与える。かくして経済の予想は裏切られる。
それでも150年以上続いた世界の不平等と植民地主義が綻びを開始したことだけは間違いないと信じられる。

 

5、富めるものが支配する社会での我々の課題

先進国の不平等の拡大の方に戻って米国を例にみてみよう。
1980年代以降の新たな情報技術革命(通信・薬学・金融)とグローバリゼーションでは資本所得が増大、米国では上位1%が全株式の38%を、上位10%が81%を所有している。資本と労働の両方から高所得を得る者も増えている。労働所得上位1%が資本所得で上位10%に入る可能性は1980s年代で50%未満であったが、2010年には63%になっている。これが不平等に「実力主義
という装いを与えている。
金持ち同士の同類婚の広がり、また、サービス部門の不均質業務での賃金のギャップが拡大している。小単位に分散した労働では労組の組織化が困難となり、1999から2013年でOECD平均の労組組織率は21%から17%となった。民間部門で組織率低下が著しい。
可動性資本への課税が困難になって資本への減税が進み、富裕層に有利な政策が横行している。2012大統領選では26億ドルが使われ、選挙費用は2000年の40億ドルから2012年の60億ドルへと跳ね上がっている。その結果、米国議員は富裕層の関心事に下位中間層の関心事より5~6倍反応する。所得上位10%の投票率80%なのに対し、最下位10%の投票率は40%、有権者の2%が選挙権を剥奪され、その33%がアフリカ系である。左右の過激思想を避ける中間層が没落し、1979年に中央値を挟んだ所得50%の人数は33%であったが、2010年には27%となっている。
ミラノヴィッチは、近年の米国の「富める者の独裁
はインド、ギリシア、フィリピン、パキスタンと変わらないと断じている。
本来、このような現状は大衆の階級的反乱を準備するものだが、「虚偽意識」の創出と左翼政党の崩壊や中間政党の右傾化により、不満がポピュリズムや移民排斥に転嫁されている。

だが、矛盾は拡大している。社会を変革する力は労働者階級が自らを組織する力にかかっている。歴史が示すように労働者側は個々の戦闘で敗北しても、労働者側の力は次第に抑えがたいものになっていく。それを確信し、「一つの世界」へ向かって共に進もう。

ケインズの自家撞着

-黄金欲からの解放はいかにして可能となるのか?

 

斉藤日出治(大阪労働学校・アソシエ副学長)

 

はじめに

資本とは価値の無限増殖の運動である。この運動は、近代を貫く長い歴史を根底で突き動かしている力の源泉とも言えるが、こんにちのグローバリゼーションは、この資本の運動に歯止めをかけるのではなく、その逆にこの運動を全開して発動させ、そのエネルギーを経済成長につなげて、豊かさを達成できるという幻想によって推進されてきた。

その結果が、グローバルな富の集中と貧困の増大であり、国家間・社会階層間のすさまじい格差の拡大であり、深刻な環境危機である。そして、この無放縦な価値増殖の運動がもたらす社会の不安や混乱を主権国家へのひきこもりや強化によって乗り切ろうとする反動が世界各地で巻き起こっている。

資本主義は、価値増殖の衝動の爆発と主権国家によるその反動とのせめぎあいの歴史を、二〇世紀前半にすでに経験している。国際金本位制を維持して自由貿易を推進し経済的自由主義を貫こうとする動きが深刻な長期不況を招いたとき、資本主義は主権国家の力に頼って、この危機を切り抜けようとして、全体主義を招来し、世界大戦を引き起こした。

この長期不況と世界戦争の時代に、それでもなお資本主義の将来に明るい展望を読み取っていたひとりの経済学者がいた。ジョン・メイナ-ド・ケインズがそのひとである。ケインズは、当時の資本主義の運動を突き動かしている価値増殖の衝動を「呪うべき黄金欲」と呼び、その黄金欲を是とする社会道徳を厳しく批判するが、にもかかわらず一〇〇年後の孫たちはこの黄金欲から解放され、新しい道徳を身につけた暮らしを送るであろう、と予言した(「わが孫たちの経済的可能性」)

ケインズのこの予言から八〇年以上が経過しその時期が近づきつつある現在、ケインズの予言が実現する可能性は遠ざかり、その逆に黄金欲がますます世界に根を下ろし、自由時間よりも過剰労働時間と失業時間が蔓延している。

だが、ここで問題にしたいのは、ケインズの予言の破綻をあげつらうことではない。ケインズのこの予言の中には、「呪うべき黄金欲」がはらむ社会の道徳問題の深刻さ、および「呪うべき黄金欲」から解放された生のありかたについて、瞠目すべき考察がはらまれている。本論では、そこに焦点を当てて、この予言を再検証してみたい。

 

1 成長からの解放と孫たちの将来展望

ケインズは、資本主義の活力の源泉を不平等に基づく蓄積衝動にもとめる。第一次世界大戦が終わった直後の一九一九年に執筆した「平和の経済的帰結」において、ケインズは、一九世紀資本主義の富の原因をこの視点からふりかえっている。一九世紀の資本主義においては、富の分配の不平等が著しく、富が富者に極度に集中した。富者は手にしたその富を、自分の享楽のために消費せずに、蓄積した。この蓄積によって、不平等な富の分配は「社会全体の利益」(「平和の経済的帰結」邦訳一四頁)へと転換することになる。

もしも富が平等に分配されていたら、分配を受けた多くのひとびとはその富をみずからの消費のために使ってしまい、固定資本の蓄積など起きなかった。生産されたパイの多くが富者に分配され、富者がそのパイを自分の享楽のためではなく、投資に用いたことこそが社会を豊かにしたのだ、と。

「「貯蓄」の義務が美徳の一〇分の九となり、ケーキの成長が真の宗教の目的となった」(「平和の経済的帰結」邦訳一四頁)

ケーキの成長の追求を目的とする宗教とは何か。それこそ、ケインズが毛嫌いしたピューリタニズムである。ピューリタンは、現在の享楽を断念してその享楽を明日に引き延ばして、節欲と勤勉に励むことを美徳とし奨励する。そして、その見返りとして、ピューリタンには、来世における神の救済が約束される。周知のように、マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、この倫理が資本蓄積を推進する精神と結びつき、ヨーロッパに近代資本主義を出現させたものであることを洞察した。

そしてこの貯蓄と投資の連鎖が高い成長を保証することによって、将来世代はその実りある成果を享受することになるであろう、ケインズはこのように将来を展望する。

「もしケーキが、切り分けられず、・・・幾何級数的な比率で成長していくことが許されさえすれば、恐らく、遂にはみんなに行きわたるほど十分になり、子孫がわれわれの労働を享受しうるようになる日が到来するに違いない」(同、邦訳一五頁)

この将来展望は、「平和の経済的帰結」から一〇年後の「わが孫たちの経済的可能性」においてくりかえされることになる。(ただし、ケインズはそこで将来に対する二つの懸念を挙げている。一つは、人口が蓄積を上回って増えることであり、もうひとつは、蓄積された富が戦争によって破壊されてしまう、ことである。人口過剰と戦争は、経済成長の成果を相殺してしまう恐れのあるものとして警戒された。そしてこの後者の懸念は、二度目の世界大戦となって現われ、不幸なことに、ケインズの懸念は的中することになる。)

この評論において、ケインズは技術革新と資本蓄積が追求され生産性の上昇が続くならば、「進歩的な諸国における生活水準は、今後一〇〇年間に現在の四倍ないし八倍の高さに達する」(「わが孫たちの経済的可能性」、邦訳三九二頁)であろう、と予言する。そうなると、ひとびとの生活のために働く時間が著しく短縮され、余った時間をほかの目的のために使うようになるだろう。

この予言を踏まえて、「わが孫たちの経済的可能性」では、ひとが直面する新しい課題について言及がなされる。経済問題が解決され、人類は、生活に必要な手段を手に入れるために労働するという「その伝統的な目的を奪われる」ことによって、「人間は真に恒久的な問題に・・に直面するであろう」(同、邦訳三九五頁)

それは、「経済上の切迫した心配からの解放をいかに利用するのか、科学と指数的成長によって獲得される余暇を賢明で快適で富裕な生活のためにどのように使えば良いのか、という問題」(同、邦訳三九五頁)である。

まず確認しなければならないのは、ケインズにとって、不平等にもとづく資本蓄積と「幾何級数的な成長」は、それ自体が目的なのではなく、幸福を実現するための手段であり、むしろ成長を必要としなくなる世界、成長から抜け出した世界こそがケインズの望む世界であった、ということである。ケインズが「わが孫たち」に期待したのもそのような生き方である。

真の豊かさは、経済成長の直線上に連続して生まれるのではなく、経済成長とすっかり手を切ることによって生み出される。ケインズが理想としたのは、成長あるいは蓄積から解放された社会であった。

 

2 成長の原動力としての黄金欲

ケインズは成長あるいは蓄積から解放された社会を実現することによって、人類の「道徳律に大きな変化が生じる」(同、邦訳三九七頁)、と言う。それは黄金欲からの解放である。

経済成長を推進する原動力となった道徳律、それが黄金欲である。この道徳律において、貨幣は、生活に必要なものを手に入れるための手段ではなく、それ自体が目的となる。ひとびとは貨幣財産そのものをためこむことを目的として経済取引に専念する。「人生の享受と現実のための手段としての貨幣愛とは区別された―財産としての貨幣愛」(同、邦訳三九七頁)が、成長と蓄積を推進する道徳律となる。

しかし、ケインズは、この黄金欲が成長と蓄積の原動力であることを認めつつも、その黄金欲がひとびとの心にとりつき、異様に肥大化している動きを懸念してもいる。

「近年、呪うべき黄金欲は、性とか宗教の領域においてさえ未だかつてお目にかかったことがないほど、ひどく尊厳振った装いを身につけようとしている」(「呪うべき黄金欲」邦訳一九二頁)

この貨幣財産をためこもうとする欲望は、生活の必要性から解放された世界においては、当然、放棄されるようになる。自由時間を享受する暮らしにおいて、黄金欲はむしろ病的で、犯罪的な社会慣習とみなされるようになるだろう。それは、「いまいましい病的なものとして」「精神病の専門家に委ねられるような半ば犯罪的で半ば病理的な性癖の一つと」(「「わが孫たちの経済的可能性」邦訳三九七頁)みなされるようになるだろう。

この黄金欲は、今日でも「守銭奴」「吝嗇」として語られる場合には道徳的に非難されるべきもの、不健全なものとみなされる。だがケインズは、この黄金欲の内面化され合理化された価値規範が崇高な宗教倫理としてたちあらわれていることに目を向ける。

快楽を禁じて節欲と勤勉を規範とするピューリタニズムの倫理は、黄金欲が信仰として内面化され合理化されたものであり、資本蓄積を推進する経済道徳に直結している。とりわけピューリタンの厳格な性道徳は、性行為の快楽を禁じ、性行為を危険なものとみなし、性行為を生殖という目的に限定して、性的なエネルギーを経済活動にふりむける回路にほかならない。ピューリタンにとって、同性愛は犯罪行為にほかならない。ケインズはこの宗教倫理に激しく抵抗する。

グローバリズムが浸透し尽くした現代において、黄金欲は身体と意識の内面にまで深く浸透している。所得の多寡をひとの能力のたまものとして評価する能力主義的な思考のうちに、教育投資によって、みずからの労働能力に付加価値を付け、教育のコストと生涯所得を天秤にかける人的投資論の思考のうちに、黄金欲は潜んでいる。

 

3 黄金欲の時間と「野の百合」の時間

この黄金欲は、近代社会における時間概念に決定的な作用を及ぼす。ケインズは黄金欲に拘束された時間意識についても、鋭い言及をしている。

限界をもたない無窮動的な貨幣の追求は、現在の時間をつねに未来に先送りし、ついには自己の時間を永遠の未来に葬り去る。ケインズは、「わが孫たちの経済的可能性」において、学校教師のために服を仕立てた仕立屋がその代金の支払いを学校教師に迫ったとき、学校教師からもう一年待てば支払いを倍にしてやると言われて、もう一年待つことにした、というエピソードを紹介し、そこに黄金欲が現在の時間を永遠の未来へと先送りする時間意識を見て取る。貨幣の増殖を自己目的として追求する者は、「自分たちの行為の遠い将来の結果にたいして、強い関心」を抱く。だが、この関心は「自分の行為にたいする自分の関心を将来に押し広げることによって、自分の行為にたいして見せかけだけでごまかしの不朽性を手に入れよう」(同、邦訳三九七頁)とするものにほかならない。貨幣はこのごまかしの不朽性をひとびとにあたえることによって不死の幻想をまきちらす。

だが、貨幣は不死の幻想を、永遠の生の幻想をふりまくことによって、じつは死をひそかに引き寄せることになる。ケインズがミダス王の神話を好む理由がそこにある。ミダス王はデュオニソス神から、手に触れるものすべてを黄金に変える力を授けられる。だが、手に触れるものすべてが黄金に変わることによって、ミダスは飲み物も、食べ物も手に入らなくなることに気づく。黄金欲は、ミダスの生の存続を不可能にし、死を招き寄せるのである。

この時間意識は、自分が愛する対象を永遠の未来へと遠ざけることを意味する。

「彼が可愛がろうとしているのは、自分の猫ではなく、その仔猫、いや実際にはその仔猫でもなく、仔猫の仔猫・・という風に、猫族の果てるまで永久に求めつづけていくのである」(同、邦訳三九七三九八頁)

この「ごまかしの不朽性」を宗教的理念にまで高めたのがピューリタニズムである。

「不朽不滅の約束を宗教の核心と本質のなかにもっともよく組みこむことのできた民族が、複利の原理にも最も大きく寄与してきた」(同、邦訳三九九頁)

直接の快楽を禁じて節欲と勤勉に励むことを神の救済の条件としたプロテスタンティズムこそ、黄金欲の「不滅不朽の約束」を崇高な倫理にまで高めた宗教であることを、ケインズは見抜いたのである。

このような現在の時間を未来に先送りすることによって現在の時間を失う、という時間のありかたは、近代世界の成立と同じ歴史を有している。それは、利子の貸し付けを合理的なものとみなし、価値増殖の運動を日常意識に根づかせた近代世界とともに生まれた。

古代、中世の社会が利子を禁じていたのは、利子を生む時間が特定の個人の私的利益を生む時間になることに対する批判と抵抗のためであった。古代・中世における時間は、神によって創造され万民に平等にあたえられた時間であって、その時間を個人の私的な利益のために利用するということは許されることではなかった。

ケインズは、この黄金欲に拘束された時間からの解放を未来の孫たちに託そうとする。なかば病的でなかば犯罪的な黄金欲から解放された高潔なひと、徳のある人は、「明日のことなど少しも気にかけない人」であり、「この時間、この一日の高潔で上手な過ごし方を教示してくれる人」である。それは、生活のために「物事のなかに直接のよろこびを見出すことができる人、汗して働くことも紡ぐこともしない野の百合のような人

 (同、邦訳三九九頁)だ、とケインズは言う。そして、黄金欲にとりつかれたひとではなく、「野の百合」こそが、真に個体的な存在である、と言う。

ケインズにとって、株式市場で株を取引するひとびとに個体性はない。かれらは他人が何を考えているかについてつねに耳をそばだて、風評や平均的世論を探り出し、それを基準にしてみずからの行動を決定する、という意味で、模倣欲望に感染した群衆であって、「野の百合」とは対極の生き方をするひとびとである。

現在の時間を未来に先送りすることなく、未来を思い煩うこともなく、現在の時間をかぎりなく充実した時間として享受する生き方こそ、ケインズがわが孫たちに求めるものであった。

 

4 ケインズの自家撞着

しかし、ケインズは多くのひとびとがそのような生き方を実現することの困難さも自覚していた。ケインズは、年老いた掃除婦がみずからの墓に刻んだつぎのような墓碑銘を紹介する。

「私のために嘆き悲しまないで、友よ、私のために涙を流さないで、私は、今後は永久に働かないでもよくなるのだから」(同、邦訳三九五頁)

人生を日々の労働に駆り立てられて過ごしてきた貧者にとって、死とはその苦役からの永遠の解放であり、永遠の安らぎの場なのだ、と。

だが、掃除婦は言う。

「賛美歌と快い音楽が天国に響きわたっていることでしょう、しかし私は歌うことに縁がないのです」(同、邦訳三九五頁)

貧者は死んで安らぎを得ても、天国で賛美歌を歌い、音楽を享受する能力すらもちあわせていない。だから、ケインズは慨嘆する。「われわれのうちで歌うことができる者は何と少ないことだろう!」(同、邦訳三九五頁)、と。

そこでケインズは、社会の富裕層が、病的で犯罪的な黄金欲からみずからを解き放ち、現在の時間をかぎりなく享受する生き方を徐々に習得して、わが孫たちの暮らしの導きの糸となることを期待する。

「富裕階級こそわれわれのいわば前衛」であり、いまだその準備が整わない「他の者に代わって約束の地を見つけ出し」(同、邦訳三九六頁)、ひとびとの「生活術そのものをより完璧なものに洗練し、生活手段のために自らを売り渡すことのないよう」(同、邦訳三九五頁)にする道を先導してくれる階級なのだ、と。

だが、ケインズは富裕階級によって先導されるこのような豊かな時代が到来するためには、すくなくとも今後一〇〇年のあいだ、黄金欲が牽引する経済成長を続けなければならない、と言う。われわれは黄金欲という不道徳な方法を利用してこそ、黄金欲から解放された世界にたどり着くことができるのだ、と。そのためには、あと一〇〇年間は「自分自身に対しても、どの人に対しても、公平なものは不正であり、不正なものは公平であると偽らなければならない。なぜなら、不正なものは有用であり、公平なものは有用でないからである。貪欲や高利や警戒心は、いましばらくなおわれわれの神でなければならない。なぜならば、そのようなものだけが経済的必要というトンネルから、われわれを陽光のなかへと導いてくれることができるからである

< span style=”font-family: Times New Roman,serif;”>(同、邦訳三九九頁)

だがケインズ自身が洞察しているように、現在の享楽を未来へと先送りし続けることによる見せかけの不朽性の追求は、享楽を手に入れることを永遠に不可能にすることを意味する。ケインズはそのことを承知していながら、この先送りの道の追求が一〇〇年後のわが孫たちの経済的必要性からの解放を保証するために欠かせない条件だ、と言い張るのである。

このケインズの自家撞着によって、ケインズの主張は楽観論から恐るべき悲観論へと反転することになる。貨幣に対する貪欲な追求はとどまるところを知らないままに永遠に追求され先送りされる。フロイトはここで先送りされるものが「死の欲動」であることを感じ取った(拙論「世界の終わりと経済学」『象』八七号を参照されたい)。フロイトから学んだケインズも、やはりかぎりない黄金欲のうちに死の予兆を読み取っている。

つまり、未来のジャムや猫を求めてかぎりなく反復される行為は死を招く。現在を未来へと先送りし続けるわたしたちは、「わが孫たち」の死という未来の他者に出会うことになる。  すでにわたしたちはそのことをうすうす感づいている。赤字の国債をたえず発行し続け財源を確保し、その負担を未来の世代に先送りしたり、原子力発電を再稼働して、廃棄物の処理と放射能汚染を未来の他者に委ねる現在の時間のありかたは、死の予兆を物語る。

それでも、ケインズはこう言い張る。経済成長とともに、「経済的必要性の問題から実際に解放された人々の階級や集団が次第におおきくなる」(邦訳四〇〇頁)、と。ケインズの楽観論はここにきわまる。富を独占する今日の最富裕層は、今日でもなお、「野の百合」のような暮らしを求めるどころか、黄金欲を追求するグローバル競争の先頭を走っているというのに、ケインズのこの底抜けの楽観論は、いったい何を根拠にしているのであろうか。

黄金欲に突き動かされた生き方から「野の百合」のような生き方への転換は、道徳律の転換をめぐる巨大なヘゲモニー闘争を必要としている。このヘゲモニー闘争は、精神的諸観念の変革はもとより、社会制度の転換、技術のありかた、人間と自然のかかわりかた、といったものの総体的な構造転換を必要とする。ケインズは富裕階層の<善意>に期待することによって、この社会闘争の広大な過程に目を向ける道をみずから閉ざしてしまったようである。

参考文献

J.M.ケインズ[1919]『ケインズ全集2・平和の経済的帰結』、中山伊知郎編集代表、東洋経済新報社、1977)

J.M.ケインズ[1930]「わが孫たちの経済的可能性」『ケインズ全集9』、中山伊知郎編集代表、東洋経済新報社

J.M.ケインズ[1930]「呪うべき黄金欲」『ケインズ全集9』・説得論集、中山伊知郎編集代表、東洋経済新報社、

ドスタレール・ギル[2005]『ケインズの闘い

哲学・政治・経済学・芸術』鍋島直樹ほか訳、藤原書店、二〇〇八年]

Dostaler G./Maris B.[2009],Capitalisme et pulsion de mort,Albin Michel,

(名古屋同人誌『象』88号、2017年夏、からの転載)

わたしたちの内なる優生思想を問う

-いのちの選別を求める社会と向き合う

はじめに
7月27日、学働館・関生において、上記のテーマで、第3回大阪労働学校アソシエ公開市民講座が開催されました。本市民講座は、以下のような趣旨で呼びかけられました。

「原発事故による放射能の汚染は、わたしたちに不安と恐怖をあたえました。政府はその不安と恐怖に対して救済の手をさしのべるのではなく、自主避難している人々を「自己責任」と突き放しました。このような国家の棄民政策は不安をさらに増幅します。
原発災害が発生したとき、「障害児を産むのではないか」という妊娠女性の不安が煽りたてられ、出生前診断が急増しました。染色体異常がみつかった妊婦は中絶を求めます。このようにして、生命を選別する意識がわたしたちのなかに密かに浸透していきます。
原発災害の発生から数年を経た1916年7月26日に、障害者施設で働いていたひとりの青年が、みずからが介護していた障害者に刃を向けて、19人の命を奪い去りました。かれは「障害者は不幸を作ることしかできません」、とその理由を記しています。同じ発言は、すでに東京都の行政責任者によっても発せられました。「ああいうひとっていうのは、人格があるのかね」と。
原発災害を契機とした出生前診断の増加、そして障害者を社会から排除しようとする動きは、ひとの生命を能力や効率を基準にして振り分け切り捨てるこの社会の深部から発生する動きであり、わたしたち自身のこころのありように深く根ざしています。わたしたちの日々の暮らしのなかに命を選別する思考が浸透していることを物語っています。
この2つの出来事を通して、わたしたちの日常生活を見直し、自分の日常感覚を問い直し、わたしたちの関係のありかたを変えていく道筋を探るために、このシンポジウムを開催します。
わたしたちといっしょに考え討論していきませんか。」

 


参加者は、労組関係、一般市民をふくめて80名ほどでした。
以下に紹介するのは、その市民講座で報告した6名の報告レジュメです。

 

優生思想と向き合って

古井正代(脳性まひ者の生活と健康を考える会)
1. 障害者運動のはじまり――私たちは殺されて当たり前なのか?!
1970年代の「日本脳性まひ者協会青い芝の会」の話からいたします。
1970年代初めに、母親が脳性まひのわが子を殺すという事件が多く報道され、それがきっかけで、子殺しの親に同情して刑を課すなという減刑嘆願運動が盛んになり、その事がマスコミを賑わしていました。その時「神奈川青い芝の会」は、「親は、きちんと子殺しの罪を負うべきだ。そうでないと、自分たち障害者の人権が侵害される。私たちは、殺されて当たり前なのか?!」と抗議したのです。
私達脳性まひ者は小さい時から、親から「あなたを殺そうとした」と、何回も事ある毎に「あなたの将来のことを思って、これだけ愛しているから、殺そうと思った」と言われ続けてきました。私達は、いつ、親に殺されるかと恐怖を持っていました。
1972年に、原一男監督の「さよならCP」という映画が制作されました。この映画は、全国で放映されました。その中に、脳性まひ者が、初めて優生問題に対して、意見を言った姿が映し出されていました。
殺された子どもの命の尊さについて考えられていないという、殺される立場からの訴えは、当時のタブーに触れるセンセーショナルな出来事として捉えられました。

 

2. 産科医療補償制度について
次に、2009年1月1日に施行された「産科医療補償制度」についてお話します。
これは、脳性まひ者だけをターゲットに、生まれた子どもが「脳性まひ」と診断された時に、最大3000万円が補償されるという「脳性まひ」限定の保険制度です。これには、全ての産婦人科医院等が入ることになっていて、その掛け金を妊婦からお産の費用に上乗せして取るという仕組みです。この保険は、脳性まひの存在を、いかに、否定するかを強調するものです。だいたい、脳性まひという障害の発生をリスクとして、任意保険を分娩機関にかけさせ、結局は妊婦が入ることと同じ事になった自体、私達を「あってはならない命」と決めつけています。
この時も、多くの脳性まひ者が集まって抗議行動をしました。厚労省に行ったり、国会議員を個別に回って抗議文を手渡し産科医療補償制度をやめるように訴えましたが、施行されてしまいました。
こういう制度を作ること自体が、社会の中にいろんな人を受け入れる構造へ切り替えるのではなく、脳性まひ者の人格を認めないということにつながると思います。私達は、もともと、施設のなかにあっても、支援学校のなかにあっても、全身性障害であるということで、より健全者からかけ離れた存在として差別を受けてきました。健全であることが人間の在るべき姿であるとするような、社会全体の差別構造の中で、このような制度が作られたと思います。

 

3. 原発と母体血検査
2011年3月11日に起きた福島第一原発の事故によって、放射能が拡散されてしまいました。
私は、2011年4月から福島県に入りました。いろんな状況を見たり、福島の要介護者の人達がどのような状態にあるのかを把握したいと思って行きました。
その時、口にされている言葉の中で「結婚できない」とか「子どもを産めるでしょうか」という言葉が飛び交っているのを聞きました。反原発を訴えている人たちの中でも、そのような言葉が飛び交っていました。その言葉のなかにあるのは、障害者が生まれたら困るということだと思いました。私は、長年、私たちの心の中にある優生思想と闘う活動をしてきましたが、福島原発の事故によって、優生思想が爆発するのではないかという危機感にとらわれました。現実にベラルーシでは、国家が強制的に胎児検査で障害が判ると堕胎させているということを、松本市長の菅谷昭さんに聞きました。
そして、原発事故後、すぐに解禁された母体血検査によって、日本をベラルーシのようにしてはいけないと思いました。
被曝すればDNAが傷つけられます。放射線被曝に詳しい河野益近氏によれば、チェルノブイリ以降、ヨーロッパ全域でダウン症児が急激に増えているといいます。今、日本で行われている母体血検査は、ダウン症をターゲットとして調べていると報道されています。そして、技術の進歩は、それ以外にもいろんな障害や個性をターゲットにできるでしょう。現在、障害はあってはならないものと思わされており、障害児が誕生してもなかなか受け入れられない社会です。そのような中で、新しく親になる人たちは、余計に悩んでしまうのではないか。そして、結果として、多くの人が、障害の可能性のある子は産まないという選択をする/させられるのではないか。そういう仕組みが、原発事故後の母体血検査をめぐる一連の動きの中にあると感じました。
2016年の相模原で起きた障害者施設での、大量殺人殺傷事件は、特殊なものとして捉えられていますが、私達障害者に対する否定的な価値観が存在している限り、胎児も含めて、いつでも殺される立場なのです。

 

4. 障害は、すべての人に潜在している
私の知り合いに、100歳を超える迄、「いつ死んでも恥ずかしくないように、家は整理整頓をいつもしておくこと」を心がけて、90歳で転ける迄自転車もさっそうと乗って、一人暮らしをしてきた方がいました。彼女はいつも「自分の事は自分で、人に迷惑をかけない」を生きるモットーに、自分自身にも、子ども達にも厳しく、背筋を伸ばして生きてきました。彼女自身、子ども4人をひとりで、借り店舗で小さな花屋をしながら育てました。子どもたちも新聞配達やいろいろなアルバイトを掛け持ちしながら夜間高校を出て、やがて4人とも結婚し家庭を持ちました。家業の花屋は息子に譲り、早朝から仕出し屋の清掃を午前中いっぱい働いて86歳迄現役で生きてきました。だから、私のような障害者を見れば、可哀想にというのが彼女の口癖でした。ところが、102歳で骨折をして彼女自身が車椅子生活になったら、親の背中を見ていた彼女の子どもたちに、人里離れた施設に入れられました。彼女にとっては思い掛けない状態だったので、戸惑い「家に帰せ」,「殺せ」と言って暴れたようです。施設の中では手に負えないと判断され、ベッドの上から出してもらえなくなり、オシメをされ、1日中ベッド上で隔離されてしまいました。「自分の事が出来なくなったら、おしまい」という思想が子どもたちの間にも静かに深く浸透していて、彼女が帰る家さえも無断で処分されてしまいました。懸命に働きに働いて生きてきたのに、いったい何故でしょうか?怪我をしたからでしょうか?借家だったからでしょうか?この彼女の例は、これからの全ての人の人生の終末に繋がると思います。
障害者はいないほうがいいのでしょうか?健常と思われている人達も、年を追うに従って障害をもつものではないでしょうか?全ての人達が生きていけるような社会を形づくらなければ、一定の人を切り捨てるような社会では、どの“いのち”も幸せにならないと思います。

 


優生思想を根づかせているもの

――インクルーシブな社会を求めて――
山中多美男(社会福祉法人ノ-マライゼ-ション協会理事長)

1 優生思想とは
① 遺伝子学的に「劣等」な者を減らし「優秀」な子孫を増やすことにより、民族全体としての健康を向上させようとする考え方で、ルーツは英国の科学者ゴルトン(ダーウィンのいとこ)が、家畜の品種改良と同様のことが、人類に対しても可能ではないかと夢想し、次第に知識人を中心に広がったといわれています。

 

2、優生思想に基づいて強制的な中絶や不妊手術が
① 1907年世界で最も早く、米国のインディアナ州で「断種法」が制定され強制的な中絶が行われ、精神障がい者などに対して不妊手術が行われました。
2 第二次世界大戦(1939年)が始まるとヒトラーの「T4作戦」(安楽死政策)により一説には数十万人を殺害したといわれています。さらに「遺伝病子孫予防法」も制定され強制的な中絶や不妊手術が行われました。
3 日本では1940年「国民優生法」が制定され、「悪質な遺伝性疾患の素質を持つ者」に対する中絶や不妊手術を促しました。戦後の1948年「優生保護法」に変わり、さらには「ハンセン病」患者や精神病患者にも適用され戦前よりも拡大されました。
4 1996年「母体保護法」に改定されましたが、この間行われた不妊手術は15 6千件以上にのぼるといわれていますが、被害者に対する謝罪や補償はいまだなされていません。
★ ちなみにスエーデンでも不妊手術が行われましたが、謝罪と保障措置がとられたと言われています。

 

3 優生思想は多くの人の心の中に潜んでいる
① 優生思想は今も根強く多くの人々の心の中に潜んでいます。東京都の知事であった石原慎太郎氏は当時、障がい者施設を訪問した時「あの人たちは生きている意味があるのかね」と言ったという報道がありました。また、最近では茨城県教育委員の「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。」(日動画廊副社長)との発言も報道されていました。
2 また近年出産以前にダウン症などの「染色体異常」を見つける技術が進み、母親の血液だけで検査できるいわゆる「新型出生前診断」によって過去3年間で3万人以上が受診し「陽性」と判断された人のほとんどが中絶を選択したといわれています。当然親たちは苦渋に満ちた決断をしたのではと思いますが。
3 では貴方はどうなのかと言われたとき、命の選択はしないと毅然といえるでしょうか。相模原事件の容疑者のような一度に多くの人の命の選別と、中絶による一人の命の選別との違いはあるにせよ優生思想の共有性は無いといえるでしょうか。

 

4 優生思想を根づかせるもの=競争主義と効率主義
① 今の社会は労働生産性を重視する価値観(競争主義)が支配的です。そこからは効率よく何事も早く出来る人は素晴らしいと評価されます。こうした効率主義、競争主義の価値観からは、障がい者は無能で社会にとって無駄な存在としてとらえられ、健常者中心の社会に居てはならない存在として長い間排除され隔離されてきました。排除と隔離によって、障がい者の特性が健常者に理解されず、予断と偏見(変わった人、気持ちの悪い人、不気味な人、危険な人、怖い人、しつこい人、無能な人、前世で悪い事をした人、悪い血筋を受けた人など)が社会意識として定着してきました。
② そして社会意識は、子どものころからいつとは無く誰からとはなく刷り込まれ、障害のある人の心も障害のない人の心もとらえ、障害のある人やその家族に劣等感を植え付け、障害のない人には蔑む感情を植え付け優生思想が根づいたと思うのです。

 

5、優生思想の克服を目指してインクルーシブな社会を
① 障がい者に対する偏見を取り除き、優生思想を根づかせないためにも、「障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会(障害者権利条約や障害者基本法)」を実現しなければなりません。障がい者が社会のあらゆる場に社会参加する機会が増えれば増えるほど、健常者の障害者理解が深まり障がい者の社会的存在価値が見えてくると思うのです(小池知事宛ての手紙参照)。
そうした社会をつくり出して行くためには、まだまだ不十分ですが「障害者差別解法」で求められている「合理的配慮(調整)」の出来る人間になるための取組みを障がい者と一緒に考えていただきたいのです。
2 もう一つは、子どものころから障がい児と健常児が共に学ぶインクルーシブ(包摂)教育の強化であります。いまや北欧やヨーロッパではインクルーシブ教育はあたりまえになっています。日本の文科省は「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システムの構築」という方針を出していますが、現実は「特別支援学校」がどんどん増え小学部・中学部・高等学部の12年間一度も地域の学校へ行くことのない子どもが増加しています。
インクルーシブ教育の中で健常児は障がい児を奇異な存在としてではなく、居てあたりまえの存在として接するようになり、障害を持っている一人の仲間として受け止め、障がい児の特性を理解し特性に合わせた対応(合理的配慮)を学びとります。
違いを認め違いを活かし合い、多様性を包摂する(インクルーシブ)教育によって、障がい者に対する偏見を受け入れない人間性を育む教育の推進が重要です。
またインクルーシブ教育は、違いを排除の対象にする「いじめ」を克服する力を育成する教育でもあり、グローバル社会において多様な人々との人間関係を豊かにするコミュニケーション力を高める教育でもあります。

 


生まれてくる生命の選別

――膨張する出生前診断技術

利光惠子(グループ生殖医療と差別)

1. 「いのちの選別」技術をめぐる歴史的経緯
(1)「優生保護法」のもとでの強制不妊手術と羊水診断の導入
まずは、出生前診断(検査)技術がどのように登場し、導入をめぐってどのような議論が行われたのかを振り返ってみましょう。
日本では、1948年に「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的に掲げた「優生保護法」(1996年に母体保護法に改定)が公布され、障害やハンセン病を理由とした不妊手術や人工妊娠中絶が合法化されました。特に、障害を理由に、本人の同意を得ずに行われた強制不妊手術は、統計に表れているだけで約16500件、その7割が女性を対象としたものでした。
1960年代半ばから、高度経済成長をすすめるにあたって、人口の資質向上とともに、「福祉コスト削減のために障害児の発生を予防すべき」という方向が示され、その施策の一環として、全国で「不幸な子どもの生まれない運動」が展開されました。この運動に取り込まれる形で普及したのが、1968年に日本に初めて導入された羊水診断です。不妊手術の強制にみられるように、「不良な子孫の出生防止」を行うために「障害児を産む可能性のある親」に向いていた視線が、胎児に直接、注がれるようになったわけです。1970年以降、各自治体の障害児の出生防止対策に羊水診断が取り入れられていきました。
羊水診断の普及を背景に、1972年には、障害のある胎児の中絶を合法化しようとする「優生保護法改定案」が国会に上程されました。これに対して、「青い芝の会」をはじめとする障害者運動は、出生前診断に基づく選別的中絶は、障害者を「本来あってはならない存在」とみなし、生存権を否定するものだとして強く反対しました。また、産む/産まないの自己決定、中絶の自己決定を求めた女性運動に対しても、選別的中絶も自己決定権に含まれるのかと鋭く問いかけました。女性運動はこれを受け止め、話し合いを重ね、障害者運動との共闘を模索していきます。
このように、1970年代はじめの障害者運動が、出生前診断は優生学の実践であり障害者差別であると明確に提示したこと、同時に、出生前診断が個人の自己決定という形で作動する優生学をも含むものであると指摘した意味は大きいと思います。この時期の障害者運動から発せられた優生思想への強い批判は、その後の出生前診断に関する社会や医療側の対応に影響を与え、医療界も出生前診断の開発や普及に慎重な態度をとるようになりました。

 

(2)母体血清マーカー検査をめぐる論争

出生前診断についての日本独自の経緯として、母体血清マーカー検査をめぐる動きがあります。1994年から96年にかけて、米国や国内の検査会社が、母体血清マーカー検査の受注を開始しました。妊婦からの採血だけという手軽さに加えて、医療機関も検査会社も共に利益を得ることから、商業ベースで一気に普及する可能性がありました。懸念すべき重大な問題とされたのは、簡便さゆえに、不特定多数の妊婦を対象とするマス・スクリーニング検査(ふるい分け検査)として普及するのではないかという点でした。これに対して、障害者団体、親の会、女性団体等は、「障害者への不充分な支援体制、差別・偏見といった現状のもとでは、検査の周知はそのまま勧奨につながり、社会としての障害者のふるい分けになる」として強く反対しました。
1999年、厚生省は「医師は妊婦に対し本検査の情報を積極的に知らせる必要はなく、本検査を勧めるべきでもない」という「母体血清マーカー検査に関する見解」を出しました。「見解」が出されたのを機に、検査の実施件数は減り、急速な普及には至りませんでした。
以上のような歴史的経緯を背景に、日本では、出生前診断の導入や一般診療としての実施は、慎重かつ抑制的に進められてきたといえます。出生前診断の実施件数も、1990年代から2000年代にかけては、ほぼ横ばいから微増の状態で推移してきました。しかしながら、2000年代終盤から徐々に実施数が上昇し、2010年頃から現在にかけて急激な伸びを示すなど、新たな局面を迎えています。

 

2. 網羅的な遺伝学的検査の時代に
(1)新たな局面――新型出生前検査をめぐって
では、今、どのような局面を迎えているのか、そのひとつの例として、新型出生前検査(母体血胎児染色体検査/NIPT)についてお話します。新型出生前検査は、妊婦の血液検査だけで、胎児の障害の有無の可能性が分かる検査です。「次世代シークエンサー」といわれる高速で大量の遺伝子配列を一気に読みとる機器を用いて、妊婦の血液中に含まれる胎児のDNAを検査し、ダウン症など3種類の染色体変化をもつ可能性を調べます。妊娠10週から、相当高い精度での診断が可能だとされています。
日本では、2013年4月から、臨床研究として15施設で開始されました。2016年9月までの3年半で約37500人がこの検査を受け、陽性と告げられたのが673人。羊水診断を受けて、胎児に染色体の変化があると確定した508人のうち、9割以上が中絶を選択したといいます(NIPTコンソーシアムHPより)。実施施設は、今年4月の時点で83施設まで増えています。

 

(2)出生前診断のこれから――マス・スクリーニング化と商業化
2010年代以降、遺伝医学の検査技術は爆発的に進展しており、わずかな検査試料から、様々な遺伝学的な変化について同時に調べることができるようになってきました。自動化・機械化が進んだことで、大量の検体を短時間に調べることができ、かかる費用も安くなっています。
新型出生前検査の導入は、この急激に進展しつつある網羅的な遺伝子解析・検査手法を、子どもを産むか産まないかの選択の場に導入したということです。しかも、妊婦の血液検査という非常に普及しやすい形です。日本では今のところ、高齢妊婦など一部の人を対象に、3種類の染色体についてのみ調べる検査ですが、米国では、年齢に関係なく希望する全ての妊婦を対象に、わずかな欠損も含めて全ての染色体の変化、性別、性染色体の変化(ターナー症候群など)についても調べるなど、適用範囲は急速に広がっています。複数の遺伝病についても検査できるようになってきました。日本でも、いずれ、多くの妊婦を対象に、胎児の広範な遺伝学的変異を検査するマス・スクリーニング検査(ふるい分け検査)として用いられるようになると考えられます。
出生前検査の商業化も大きな問題です。現在は、「臨床研究」として、日本医学会の「認定・登録委員会」の審査・認定を受けた施設でのみで行われていますが、その枠を取り払い、全ての医療機関で実施できるようにしようという動きも強まっています。既に、「掟破り」の形で、国内外の民間の検査会社やクリニックによる新型検査の商業ベースでの売り込みも始まっています。
また、実施にあたって、女性(カップル)の「自己決定」に委ねることが強調され、それを支えるものとして「遺伝カウンセリング」の整備が進められています。しかし、出生前検査を受けるかどうか、胎児に障害があることが判明した際に妊娠を継続するか否かの意思決定は、社会が障害者をどのように受け入れているかに大きく左右されます。「遺伝カウンセリング」が意味を持つとすれば、障害児を産み育てることを支援する社会資源の充実など、しっかりとした社会側の受け皿があってこそだということを強調したいと思います。

 


みんなちがって、みんないい-生権力と優生思想を超えて

斉藤日出治(大阪労働学校アソシエ)

1 日本の少子化はなぜ起きたのか
権力というと、労働者に劣悪な労働諸条件や低賃金を強いる資本の権力や市民の自由を束縛する国家の権力を思い浮かべますが、じつは近代の権力はひとびとの生命の再生産過程にそれと気づくことなしにひそかに介入しています。
日本の少子高齢化はだれもが周知の深刻な傾向ですが、この少子化はなぜ起きたのでしょうか。それはけっして自然に生じたものではありません。日本の合計特殊出生率が減少し始めたのは1970年以降のことです、そして、この合計特殊出生率の減少を引き起こしたのは、国家と企業がたがいに連携しつつ生命の再生産過程に介入した政治によって引き起こされたものなのです。国立人口問題研究所は戦後まもなく人口が急増する動きに警告を発して、人口過剰対策の必要性を訴えていました。この訴えに応えるべく1948年に優生保護法が制定され、1880年の刑法(堕胎罪)で禁止されていた人口妊娠中絶が条件つきですが合法化されました。1950年代に入ると、国立公衆衛生員が全国の女性に対して中絶防止のための受胎調節指導の運動を展開します。全国の農山漁村に「受胎調整モデル地区」を設置し、助産婦と保健婦を派遣して、避妊器具や薬品や洗浄剤を配布し、受胎調節と産児制限の指導と調査を推進します。この指導が「新しい日本を建設する」という道徳的理念を掲げておこなわれました。
さらに、政府は国民の家族計画運動にもとりかかります。性交渉を一夫一婦制度の法的婚姻関係に限定し、一組の夫婦が23人の子どもを育てる家族モデルを理想のモデルとして推奨する「新生活運動」が提唱されます。
この政府の提唱に答えるようにして、大企業が自ら雇用している従業員に対する受胎調節指導や生活指導を積極的に引き受けるようになります。日本国有鉄道、日本鋼管、日立造船などの大手企業は、助産婦・保健婦を雇用して従業員の家庭を訪問させ、従業員の妻に対する受胎調節指導や家族計画始動を推し進めました。これらの企業は社内新聞で、「新生活運動」を従業員にアピールし、「幸せな家庭」を築くために受胎調節をして少数の子どもを産み育てる家族計画の必要性を訴えます。
このような政府と企業が一体となった国民の私生活への介入の運動が「功を奏して」、1970年代以降、合計特殊出生率が減少し始めます。つまり、日本の少子化は、経済成長や国民生活の向上とともに自然発生的に生じたのではなく、そこに強力な政治が介入し、その介入によってもたらされたのだということがわかります(田間泰子『「近代家族」とボディ・ポリティクス』世界思想社、2006年、を参照)。中国の一人っ子政策は、明らかに国家権力による人口調整策ですが、そのような法的な強制によるのではなく、政府と企業による知的・道徳的な指導を介して、生命の再生産に政治が密かに介入したのです。

 

2 「理想のモデル」と優生思想
生権力は、生命の再生産の理想的なモデルを差し出し、ひとびとがそのモデルにしたがって生命の再生産活動を遂行することを求めます。また、その遂行に際して必要な技術を提供します。出産数を減らし、「優秀な」生命を産んで育てる、そのための技術がつぎつぎと開発されます。人工中絶、避妊、出生前診断、人工授精、精子銀行、そしてついにはクローン人間の可能性まで論じられるようになりました。
わたしたちは、政府や企業がつくりあげる理念的なモデルに自己を同化することをそれと意識することなしに自発的に推し進めます。優れた能力、美しい身体、高度な知性などについて、社会のなかで築き上げられた基準に自己を適合させることを無意識のうちに選択します。社会が押しつけた美の基準に合わせて美容整形し、社会のニーズに合わせた知識を習得し、周りの空気を読みながら思考し行動することを自分の人生訓とするようになります。
このようにして、権力が押しつけるのではなく、わたしたちはみずからの意思で権力に服従する罠に落ち込んでいきます。そのような意識のなかに、高い知的能力と優れた身体能力をもった子どもを産みたいという願望が芽生えていきます。「障害児を産みたくない」という意識がそこから帰結します。この社会の日常にひそかにはぐくまれた優生思想の意識が、原発事故が起きたときにひとびとの不安の感情となって一気に噴出しました。染色体異常を事前に検査する出生前診断がそこから必然的に増加し、異常が発見された胎児は生命を断たれます。
市場競争の原理によってすべてのひとをランクづける思考は、障害者を「社会のやっかいもの」とする意識を生み、排除すべきリスクとみなす思考を育てます。その「不幸な存在」を抹殺しようとして相模原事件は起きました。
このようにして、わたしたちは他者がつくりあげた画一的なモデルに自己を適合させる生き方を自発的に選択することによって、生権力の加担者となり、優生思想の実行者になっていきます。
この道から抜け出すためには、わたしたちはそれぞれが自己自身の生き方と暮らし方を創造する力を育てなければなりません。一人一人がちがうことを尊重し合い、たがいに助け合い、その違いが社会の富となるような世界を作り上げていかなければなりません。
そのような社会のイメージを、金子みすゞがつぎのように歌っています。

 

私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても、           きれいな音は出ないけど、
お空はちつとも飛べないが、         あの鳴る鈴は私のやうに
飛べる小鳥は私のやうに、           たくさんな唄は知らないよ
地面を早くは走れない、            鈴と、小鳥と、それから私、
私がからだをゆすつても、          みんなちがつて、みんないい

 


優生思想を超えるつながりをどうつくるか

後藤由美子(真宗大谷派僧侶)

1「核家族」と優生思想
私の生まれた家庭は戦後の団地住まいで父母と子ども2人の核家族でした。その頃の記憶に「家付きカー付き『ばばぁ』抜き」、「3人目は恥かきっ子」という言葉があります。実際に団地の友人はほとんど同じ家族構成でした。「近代国家と家族モデル」(西川祐子著)を読み、家族モデルと住宅建設が戦後の経済政策の中で労働者確保の国策としてセットされ、まさにそれに乗っていたのが自分の家族であったと認識しました。幼い子どもの耳にさえ残っていた言葉はいったいどこから来たのかと言えば、戦前に「産めよ増やせよ」だった合言葉に変わる、人口調節のための言葉がTV等を通じて発信され「世間」の声として人々に浸透していたのだと考えます。「それはおかしい」という声を聞くことはありませんでした。
私の母は3人目を妊娠しましたが、気付かず流産しかけたのを薬で抑えたので「おかしな子が生まれたら困るから堕胎した」と言っていました。「恥かきっ子」に加えて「おかしな子」という障害への偏見、差別が、弟のいのちを奪うことにGOサインを出したのです。世間体、モデルとの不一致、自分の都合、誘導される社会の価値にしたがうことは心地よく、それから外れることは不安・不愉快で、わが子を殺すことでさえ正当化してしまう。我というものに裏打ちされた多層にわたる優生思想の働くありさまを自らの家族の中に見ました。
それに足並みをそろえるように、高度経済成長時代の「明るさ」と「一億総中流」という意識の中で行われる教育の、疑いなき上昇志向、数値化された能力の競争と、進路といえば偏差値による高校や大学の入学先でしかない、その狭さと一方向への追い込みを受け続け、どこまでも登らなければならない壁面にしがみつき、立つべき「大地」と切り離されるという結果をわが身に経験しました。

 

2 優生思想-という分断からの回復
仏教では六道輪廻という世界観が語られます。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という境界(きょうがい)です。私はこの世界観はまさに優生思想を表していると感じます。六道世界は地獄を底として積み上がり、天もやがては地獄へとつながって閉じられ輪廻するとされます。そこで生きるのは前世の因果等と固定化したのが、当時インドの他民族支配のための差別社会の掟(マヌ法典)であったのです。仏教はその差別社会をから出ることを説いた教えです。六道とは決して特別な世界ではなく、現実世界で私たちが生きる状況を表しています。例えば前述の私の家族の在り方は、主体性を持たない「畜生」(傍生)の境界です。たとえば戦争ではまさに地獄(苦痛,孤独)・餓鬼(餓え渇き)・畜生という状況に陥ります。その犠牲の上にそれ以上の境界が存在するという構造です。その世界を出る、出「世間」とは、唯一その世界に苦悩する「人」という境界において可能、つまりこの世、この身の実相を知り、苦悩することが出口であり、そうでないものを求めることが入り口となるということです。

私は親鸞の言葉を記録した「歎異抄」の、「地獄は一定すみかぞかし」という言葉に出会い、「地獄」に落ちることを恐怖することで苦しみを作り出していることに気づきました。地獄こそが自らの定まったすみかであるという言葉は、全く反対の方向性と底辺に立つ落着きを私に与えました。その他「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人でさえ救われるのであるから、悪人が救われないわけはない。)など、歎異抄に語られるのはいくつもの「世間」の価値を逆転させる言葉でした。私はそこに「それはおかしい」と言える足場を得たのではないかと考えます。
時を同じくして障害者解放運動をする自立障害者澤田隆司さんに出会い、自分の価値観を覆される経験を得ました。歩けないしゃべれない「かわいそう」な重度障害者の介護に行ったその相手が、私自身よりずっと自由に活き活きと生きていることに驚き、いのちがけで自分の人生を生きる姿に圧倒されました。澤田さんは私に、「自分の人生」という「大地」につながって生きることを身を通して教えてくれました。また、後に青い芝の運動と歎異抄との接点を知った時に、人間解放への願いの歴史的な合流を感じました。

 

3 つながりの模索、「共生」の実践について
優生思想の土壌となる閉じられた狭い世界を形作る「我」と、その「我」を支える世界とのつながりを知ることはとても大切であると思います。他者・社会・自然環境・心身・過去未来という時間…といった様々な位相でのいのちのはかり知れない働きの中に、小さな「我」がそれに支えられて存在しているということです。それを認識できる大きな視点を持ち、私と切り離すことができない世界を大きな私と感得すると同時に、「我」は常に対立的に物事をとらえ、支配を好み、警戒、選別し、切り捨てる刃をふるう存在であることを深く自覚し続けることが大切です。「我」という漢字の成り立ちは武器を両手に持った形でその本質を表しています。しかしそれを排除するのではなく、自己を成り立たせる働きとして、大きな私が包摂する形で小さな「我」を位置づけることが重要です。世界の全体で成り立っているというリアリティー、大きな「私」に立つことで、世界に働きかける創造性を発揮する主体が与えられます。いのちの実相としてそれはごく自然なあり方だと考えます。
「我」は肥大化し権力となり、そのコントロールを個々の「我」が受け入れ「世間」の声となり、障害者を閉じ込め、子どもを閉じ込め、被害者を閉じ込め、感情を閉じ込め、自分を閉じ込め…内側にも外側にもさまざまな抑圧を試みますが、上記のリアリティーを生きる個は、「世間」にあって差別化の波には乗らず、抗い、既にある枠を緩める力となると考えます。そのような個の誕生する気づきと学びの場を開き、ネットワークとなることを願います。以下に具体的活動を記します。
○自立障害者の人たちが作り出した「共に生きる」をテーマとして掲げる社会福祉法人ひびき福祉会の、民主的な組織運営と社会への発信の試み。
○自分の子どもと「脱学校」し、ホームスクーリングをベースにデモクラティックスクールの立ち上げに関わり、自他の尊重と場の自治を経験できる環境を得ることで自分の人生を生きるベースを確実に育てていく子どもたちの姿に出会いました。「自分を生きる学校」緑風出版(10周年(2007年)記念出版)
○311原発事故後の社会で、封印される都合の悪い事実、それから生まれる犠牲という構造はまさにそのものが優生思想、封印しようとする力にあらがう行動をする当事者につながり、保養、避難移住支援、裁判にかかわる。子ども脱被ばく裁判(2014年~福島地裁)
○上記の構造が個々に、様々な関係の中に存在することを見つめ、アプローチする学習と助け合いのネットワークとして、ディープデモクラシー(深層民主主義)を提唱するプロセス指向心理学(POP)等の学習グループが活動、冊子の制作中。ディープデモクラシーとは、個々の内面や社会など多層にわたる抑圧された声に耳を傾け、対立に陥りがちな紛争解決に影響を与える葛藤解決の姿勢で、POP創始者であるアーノルド・ミンデルの提唱する概念。より深く広い民主主義。
○「浄土真宗」にある共生の思想を学び、話し合う場の開催。

 


歩けなくなったらおしまい-老いと内なる優生思想

古井 透(大阪河﨑リハビリテーション大学教授) 

1 穢れ「死んだほうが幸せ」
1990年、広島県のある町で「寝たきり老人ゼロ」をめざして家庭訪問をしていた時、若いころ農業普及のリーダーだった専業農家の70歳代の男性に出会った。60歳代に膀胱がんの手術をうけ、そのあと徐々に股関節が曲がらなくなり歩行困難で寝たきりの生活を送っていた。彼は「このまま天井を見て死ぬしかないと思っていた」と語った。実はこの言葉は、実際に寝床から出て車いすに乗って外出する体験、厳密には、大好きなお風呂にとっぷりと浸かった帰り道ではじめて語られた。人は絶望の淵にいると、何に絶望しているのかさえ感じられない程に全てに懐疑的になる。このような状態で孤立した人が、活動性を取り戻していくと、きまって出てくるのが「何のバチだか、こんな体になって」「このままなら死んだ方がまし」である。その言葉には、障害は(前世の因果や自らの業や何か邪悪な敵による)穢れであるという極めて感情的な障害観が滲み出ている。近づきたくない、見たくない、関わりたくない、なかったことに・・・。有能・無能、美しい・醜い、快・不快、など経験的・生理的価値のモノサシは、好き・嫌いのプリミティブな感情と親和性が高い。普段は表面には上りにくいが、一度この「障害は穢れ」の感情が浮上すれば、その対象が自分であれ他者であれ、いともたやすく「いっそのこと死んだ方が幸せ」になる。

 

2 無理心中未遂
私が43年連れ添っている古井正代がまだ1歳半だった1950年代は、確定診断ができる医療機関が少なく、生まれた街から何時間も汽車に乗って大都市の病院まで行く必要があった。そこで聞かされた診断名は「脳性まひ」で、そのうえ予命 11 年と言われた。そのころの「脳性まひ」という診断名の響きは、ほぼ死の告知に等しいようなものだった。これを聞いた母親は泣きじゃくり、その帰路に、目を腫らしながら走る汽車のデッキから正代を抱いたまま飛び降りようとし た。すんでの所で、祖父にそれを阻止され一命をとりとめた。こんな体験は、あの時代の脳性まひ者たちに珍しいことではない。だから、彼らは二重の意味で九死に一生を得た生存者だ。なぜ母親は無理心中を図ったか、障害は穢れであり、それを産んだ責めを負ってのことだったのか。当時は「こんな子どもができるのはお前の家の血が悪いからだ」と離縁された母親もいた。

 

3 「自分に起こらない」想定外
私の父古井豊は、大正生まれの満州育ちで当時大学院まで出たインテリである。その父が、私と正代の結婚に反対し「古井の姓は名乗るな」と言い、子どもができると「結婚は仕方がないが子どもは産むな」といい、二人目ができると「一人は仕方がないが二人目はだめだ」といい、三人目ができた時も「二人は仕方ないが三人目は無理だ」と反対した。穢れに対する人の態度とは、実に理屈にあわない感情だ。
退職後の終の棲家に清流の河畔に家を建て、足が弱い母を自動車に乗せ自分が面倒を看るのが父の未来予想図だった。だから自分だけはいつまでも元気で、障害者になるなど全くの想定外だった。ある朝、車を車庫から出そうと、運転席に座った時に脳梗塞が発症し、緊急入院となった。父には右片麻痺が残り、失語症もあった。父母の住む家は駅から自動車でも 15 分以上はかかる、バス路線もない辺鄙な場所だ。父の「家に帰りたい」という強い思いを実現するには、「杖歩行の自立」だけではどうにもならない。正代は「いくら立って歩けても、元の身体になるわけではないでしょう?限られた人生で自由に自分らしく生きるには、電動車いすを活用して、自己決定の機会を増やす努力をしてほしい。少なくても私の義父にはそうなってほしい。」と病院の担当者に訴えた。子供の頃からの障害者の立場で、自身の経験に裏付けられた主張には説得力があった。病院スタッフが院内外で日々電動車いすトレーニングを実施した。一時外泊等で自宅に帰った時や退院時には、駅までの経路を正代が先を走り、父が後をついての路上走行を何回もやって自信をつけさせた。当時母は網膜色素変性症で視野も極端に狭く、側溝に転落したりして下肢の外傷や骨折などが絶えなかった。だから退院後は、電動車いすで片道 30 分かかる道のりを買い物に行くことが、父の毎日の役割になり、父も二人の生活を支えた。言葉が出なくて も、母が書いた書き付けと「あ-」「うん」など少ない言葉を駆使し、スーパーのレジで代金の支払いを助けてもらう。当初の未来予想図とは随分違うが、父は障害と共生することで自律した老後生活を再び継続できた。

 

4 「母よ殺すな」娘のお陰で二度目の人生
正代の母親は 1996 年 8 月傘をさしたまま自転車で通院途中、赤信号で国道を横切ろうとして車に撥ねられた。救急車で搬送され、一命は取り留めたものの、頭蓋骨陥没と脳挫傷による後遺症が残った。大きな運動麻痺は残らなかったが、複視にともなう眩暈の訴えが強く、何事にも意欲が減退し抑うつ傾向になった。自宅退院してからは、父親が身の回りの介護に当たった。父親は、抑うつ状態のやる気のない人に対して、何もかも(寝たままでおしめも替えて、靴下もはかせて・・・)全てを代わりにしてしまい、やる気をますます奪った。人生の中で初めて「人の世話をする」父親にはそれが精一杯だった。「健常者のようにできないこと」がそのまま「非効率的」「かわいそう」「目障り」で「何もさせてはいけない」とどんどん過保護になった。根底に、障害=「できないこと」に対する拭いがたい感情的な障害観があった。ところが、介護していた父親自身がパーキンソン病と診断された。その日を境に途方にくれて「介護が大変だから」とショートステイを何度も使うようになった。母親は「このままでは姥捨て山みたいなところに行かされる」と不安になった。そこで、末娘である障害者のベテランの正代が、母親を引き取るよう父親に頼まれ、我が家での同居が始まった。
その結果、脳挫傷・うつ・脊髄麻痺・認知症と数多くの障害と共生しながら、電動車いすを駆り、第二の人生を謳歌し、娘に最期まで見送られ旅立っていった。無理心中していたらありえなかった母子50年後の逆転ドラマである。

 

5 歩けなくなっても人生は終わらない
障害を穢れのように思う感情的な障害観は「自分に起こらない」という盲信を生み、想定外の事態に遭遇すれば混乱・孤立をまねく。さらにこの感情によって、われわれは当事者の自律的な動きさえ、半ば反射的に「迷惑」「わがまま」と封じ込めようとする。「健全者が必要で障害者は不要」という常識は、自分も含め誰もが分かち持つ、理屈に合わない「一時の感情」にすぎない。有能・無能、美しい・醜い、快・不快、などの価値のモノサシにはその人の実体験が影響する。日頃から豊かな生活経験で広い視野を養えば、日常に潜むこの「一時の感情」を、もっと冷静に見抜けるのだろうか?
たとえ歩けなくなっても人生は終わらない。
これが他人事でなくなった途端、障害への態度・行動の変容がもとめられ、それなしには、われわれの老い先は真っ暗闇になる。皮肉にも、進化論のダーウィンが「最も強い者が生き残るのではない、最も変化に適応するものが生き残る。」と言っている。