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現在でこそ通用する『1984年』(ジョージ・オーウェル)

講演テーマ「スマホ時代の恐ろしさ」に向けて
本学学長 本山美彦
2017年6月3日(土)13時半~15時半 於:学働館・関生4F

 はじめに

 オーウェルの掲げたテーマは、「(1)戦争は平和なり、(2)自由は隷従なり、(3)無知は力なり」である。
 もちろん、彼はそれが実現されなければならない課題であると言っているのではない。逆である。このような社会が来ようものなら断固拒絶されるべきである。しかし、社会主義革命前の社会がそうであったことは言うまでもないことだが、革命後の社会も、この倒錯が人々の脳裏を支配しているのではないだろうか。それは、「スターリン」を批判すれば克服できるものではない。「ヒトラー」を批判しておけば済むものでもない。それは、私たちが住まねばならない現実社会の宿痾、業病ではないのか?人間はこのような地獄の社会を真に克服できるものであろうか?それは確かに克服されなければならない悪しき病である。しかし、克服するには、私たちは、あまりにも無知で、単純すぎる。私たちは「早く大人になるべきである」。ではどうすればいいのか?オーウェルの課題はここにあった。

 1 手書きがなくなった

 日本ではもとより、米国でも、最近の若い人たちの中で筆記体が書ける人が少なくなってしまった。
 筆記体、つまり、英語の草書体は、米語で’cursive’ 英語で’joined-up writing’と呼ばれる書き方のことである。タイプライターが普及するようになるまでは、公式の文書は、筆記体が使われていた。
 以前は、日本では、筆記体は、原則必修であった。日本の中学校では、長い間、「ブロック体」(活字体)と「筆記体」の両方が教えられてきた。当時の文部省が定めた昭和37(1962)年4月の「中学校学習指導要領」には、「アルファベットの活字体及び筆記体の大文字及び小文字」を学習させるべきであると明記されていた。中学校で筆記体の書き方を学ぶのは当たり前のことで、私も、きれいな筆記体に憧れて何度も練習したものである。ほとんどすべての生徒がそうであったと思う。
 この流れを変えたのが、いわゆる「ゆとり教育」であった。筆記体を教えるかどうかは、現場の教師の判断に委ねられたのである。平成14(2002)年のことである。同年4月の「中学校学習指導要領」では「アルファベットの活字体の大文字及び小文字」が学習されるべき字体とされ、筆記体は削除された。ただし、教えてはならないというのではなく、「文字指導に当たっては,生徒の学習負担に配慮し筆記体を指導することもできること」という奇妙な一文が付け加えられた。基本的にブロック体だけでよいが、教師の裁量で筆記体を教えてもよいということになった。
 「脱ゆとり教育」が叫ばれるようになった現在でも、平成24(2012)年4月の「新学習指導要領」には復活されていない。
このため、平成元(1989)年4月以降に生まれた人(中学入学が2002年4月以降の人)は、学校の授業で筆記体を習っていないのが普通である。実際にはその2年前からすでに移行措置として「筆記体の指導を省略することができる」という告示が出されているので、昭和62(1987)年生まれでも習わなかった人もいる。
 米国でも、同じような現象が起きている。アメリカでは小学3年生で筆記体を習うケースが多いようだが、コンピュータの普及によて、手書き文字の指導に以前ほど力を入れなくなってきたようだ。そのため、若い人たちの間では、筆記体が使われなくなってきた。 ”msnbc.com”というウェブサイトがある。それによると、米国の高校生が受験するSAT(大学進学適性試験)の答案を筆記体で書いたのは、2007年度の全受験生の約15%にすぎなかったという。
  同じく筆記体の衰退について書かれた米『TIME』誌の記事(英語)は,「大文字のZを筆記体でどう書くのか思い出せない」という記者自身の言葉で始まっていた。
 AP通信によると、筆記体の授業が小学校に復活しつつあるという。筆記体の授業が、いつ頃からなくなり始めたのか定かではないが、2010年に多くの州によって採用された”Common-Core Standards”(共通の教育基準)には、筆記体の習熟が含まれていないという。
しかし、2016年に、アラバマ州とルイジアナ州は、公立学校において、生徒の筆記体の習熟を図ることを義務付ける法案を可決。また、2016年秋より、全米最大規模となる110万人の生徒を抱えるニューヨークの公立学校システムにおいても、小学校3年生の授業で筆記体を教えることを推奨している。
 筆記体が書けず、読むことすらできないということは、高い過去の文化に触れる機会が少なくなることである。つまり、文化水準の後退である。
 現在のブロック体で印刷されていない過去の膨大な文献や手紙類を若い世代は読むことができない。このことの文化的喪失の大きさは図り知れない。
 日本人も偉そうには言えない。私も含めて、現代の日本人は、第二次世界大戦以前の漢字の草書体を読めない。古文書の類いはおろか、床の間の掛け軸や、道端の石碑一つを読むことができないのである。
 スマホに依存する人たちが爆発的に増えたことが原因と考えられるが、私たちの周囲で、文字を手書きで書く習慣がますますなくなりつつある。その余波で、漢字を書くことはおろか、読めなくなっている人が増えてきているのではないだろうか?
 1947年、つまり、いまよりも70年も前に書かれたオーウェルの『1984年』は、今日の状況を見通したかのように、主人公のウィンストン・スミスが日記を手書きできなくなった事態を文章にしている。
 「彼は手書きに慣れていなかった。とても短いメモ類は別として、何でも口述すれば印字できる器械に頼るのが普通だった」。
 音声を吹き込めば、活字になるというソフトは、つい最近になってコンピュータに搭載されたばかりのものである。
 小説では、日記を書くという行為自体が「死刑か、最低25年間の強制労働収容所送り」という厳罰を受けるというのが、小説の中で説明されている。
 小説の舞台は、「オセアニア」という「ビッグ・ブラザー」によって独裁的に支配されている「疑似社会主義国」である。この国には、明確な法律はない。法律に明示された罪はない。法律がないから何をしても罪にならないどころか、権力者の胸三寸で何ごとも犯罪にされてしまう可能性があらゆる領域にわたってあったのである。
 日記には、権力者たちが過去を捏造することを難しくする力がある。日々の記録が付けられるということは、過去を隠蔽するのが権力を維持する最良の手段であるという権力者の意図を挫くものである。権力者は、自分に不都合な過去をつねにねじ曲げるというのが、小説の重要な主張点の一つである。

 2 憎悪の対象が繰り返し放送される

 小説では、「テレスクリーン」が町中だけでなく、家庭の各部屋に設置されて市民のすべてが監視されているだけでなく、この装置を通じて、市民の思考内容が操作されている。
 「テレスクリーン」の画面で、「人民の敵」とされた「反革命」の陰謀家「エマニュエル・ゴールドスタイン」を憎む「憎悪の二分間」が放映される。この二分間は毎日用意され、すべての市民が、職場で、学校で、街角で参加しなければならない義務的習慣である。
 「ゴールドスタイン」は、以前は革命を成功させた社会主義政党の指導者の一人で、「ビッグ・ブラザー」と並ぶ地位にあった。しかし、その後、反革命運動に加わり、党によって死刑を宣告されたものの、忽然と人々の前から消えた。市民の誰も彼を目にしたことはない。
 彼を憎む時間が「憎悪の二分間」である。彼は、破壊活動、逸脱行動、陰謀等々、あらゆる憎むべき行動を取っている。彼を市民は心の底から憎まねばならない。そのために、毎日、巨大なテレスクリーンに彼の憎々しげな顔を大写しに登場させ、党の教義をいつも攻撃している。しかし、彼を実際に見た市民は誰もいない。街角の至る所で爆薬を用いた破壊行為は繰り返されている。大写しになった彼の背後には、市民の母国である「オセアニア」の敵国である「ユーラシア」の軍隊の行進風景が配置され、否応なく市民の憎悪を駆り立てる。
 ちなみに、小説では、世界は、小説の舞台である「オセアニア」(汎大西洋諸国プラスオーストラリア大陸)、「ユーラシア」(ユーラシア大陸プラス東ヨーロッパ)、「イースタシア」(中国プラス太平洋西岸)の三つの大国に分割され、これら三国は年中行事のように、小さな諍いを繰り返している。
 小説では、「憎悪の二分間」で、ものの三〇秒も経たない間で、テレスクリーンに見入る人たちから怒号が湧き起こった。スクリーンに映る「ゴールドスタイン」の得意満面の卑しい顔とその背後で行進する「ユーラシア軍」の猛々しい姿に観客たちは足を踏みならしながら、口々に憎しみの声を挙げていた。正確には、周囲と同じような怒号を発しなければ当局から危険分子と目されるので、周囲といやいやながら同調しているうちに、洗脳され、人々は周囲の人々と心から同じになって同じ怒号を発する精神状態に作り上げられることになったのである。
 「憎悪の二分間」が経過すると、画面は「ビッグ・ブラザー」の慈愛に満ちた顔に変わる。ここで、観客は、「我らの指導者、ビッグ・ブラザー」に寄り添う心を醸し出される。しかし、市民の誰一人として、「ビッグ・ブラザー」も現実に見たことはないのである。
 その後は、必ず、「(1)戦争は平和なり、(2)自由は隷従なり、(3)無知は力なり」のスローガンが画面に登場する。そして、観客は、「ビッグ・ブラザー」の愛称である「B・B」という合唱をする。それとともに、個人の感情は消えて、集団ヒステリーに同化する。顔付きも全員同じものに整えられてしまう。姿勢も同じになる。
 小説で描かれている市民の反応は、いま私たちの眼前で進行していることと寸分も変わらない。現在の各国には、憎むべき対象がある。暴力による威嚇がある。町中で敵国や人民の敵が起こすテロがある。陰謀集団の真実の顔を現代の世界市民は誰も見ていない。あるのは、敵とされた国や集団への見事に組織化された憎悪だけである。
 主人公の「ウィンストン・スミス」は日記に書いた。
 「未来へ、あるいは過去へ、思考が自由である時代へ、個人個人では異なっているが人がそれぞれ孤独ではない時代へ、真実が存在し、なされたことがなされなかったことに改変できない時代に向けて。画一の時代、孤独の時代、『ビッグ・ブラザー』による独裁の時代から、・・・挨拶を送る」。
 なんといまの日本の状況に似ていることか?第二次世界大戦で日本軍がアジアの人々を蹂躙してしまった過去は、記憶から消されようとしている。公務員たちは有力政治家の意に反することが許されなくなっている。森友学園の問題も、加計(かけ)学園の真相は、元高級官僚の反乱や、大衆の抗議行動にもかかわらず、隠蔽され、歴史だけが間違ったものに書き換えられている。
 主人公のこの日記の叙述の後、オーウェルは、美しい文章を添えている。それは、思想犯で幼い主人公の眼前で海に沈められて行った母の慈愛に満ちた眼差しなど、遠くになってしまった過去の記憶を呼び覚ましながら、主人公が抱いた感情を説明したものである。
 「彼は理解した――悲劇は古い時代のもの、プライバシーや愛や友情が存在していた時代のものなのだ。そうした時代にあっては、家族が互いを支え合うのにその理由を知る必要などなかった。・・・とにかく、母は、絶対に譲れない個人的な誠実という思いに自らを捧げたのである。今日では、そうしたことは起こりえない。今日あるのは恐怖であり、憎悪であり、苦痛である。気高い感情や複雑な悲しみは存在していない。こうしたことすべてを、水深何十メートルもある緑色の水中から、沈下を続けながら彼を見上げていた母と妹の大きな目の中に、彼は読み取った気がした。」
 過去を管理できると未来を管理できる。現在を管理できると過去も管理できる。必要なことは現在に真実であると公認されたものは、過去も未来にも真実であると支配者が市民に思い込ませることである。このために、作り出されたのが「ニュースピーク」という極端に意味を狭く限定された言語と、矛盾を矛盾として受け取らず、矛盾するものを統一させる「二重思考」である、というのが権力者が生み出した市民支配の道具であった。
 小説は、権力がスポーツと犯罪と星占いくらいしか掲載していない屑新聞を発行し、煽情的で安っぽい、セックス描写だらけの小説や映画を大量生産していた。そうしたメディアほど、強烈は愛国精神を市民に呼びかけていた。
 現在の日本でも同じである。露骨なポルノ記事を掲載するエログロナンセンス紙ほど、保守思想の強力な宣伝を嬉々としてばらまいているのである。
 小説は、政治犯が裁判にも掛けられずに消されている様を描いている。党の不況を買った人間はただ姿を消し、以後まったく消息不明になる。身近にいた人も、「あの人はどうなった?」と問い合わす自由すらない。人はひたすら沈黙して身を守らねばならない。

 3 戦争は平和なり

 反革命分子と敵視されている「ゴールドスタイン」の文書が、「ビッグ・ブラザー」のくびきから逃れることを決心した主人公に同情した風を装って、近づいてきた当局の大物スパイの「オブライエン」から渡された。権力側は、独裁政権批判のモデルもちゃんと作っていたのである。当局の作ったこの文書に主人公は心を奪われて、「オブライエン」に心情を吐露して、結局は、この大物スパイの手によって処刑されるのであるが、この偽文書の内容は、現在の私たちの目を通しても、権力の持つ複眼的な支配の見事さに慄然とさせられてしまう。
 手渡された「エマニュエル・ゴールドスタイン」作とされる文書の表題は『寡頭制衆参主義の理論と実践』であった。
 世界が三つの超大国に分裂することは、二〇世紀の半ば以前から十分に予測されていたことである。
 ロシアがヨーロッパを併合して「ユーラシア」国を創る。アメリカ合衆国が大英帝国を併合して「オセアニア」国を創る。最後の数十年にわたる混迷きわまる争いを経た後に、ようやく現れてきたのが、「イースタシア」である。
 「ユーラシア」は、ポルトガルからベーリング海峡までのユーラシア大陸を支配する。「オセアニア」は南北アメリカ大陸、イギリス諸島を含む大西洋の島々、オーストラレーシア、アフリカ南部を支配する。「イースタシア」は、西の国境線を曖昧にしたまま、その東、中国、東南アジア、日本列島、満州、モンゴル、チベットを支配する。
 これら三つの大国は、相互に敵視するが、過去に見られた死に物狂いの壊滅戦争には決して突入しない。本格的な戦争は互いが死滅することをよく知っているからである。イデオロギー上の内乱で内部崩壊することもない。支配下にある弱小国家は往々にしてそういうこともあるが、支配的な大国は、国内反体制勢力を十分に抑えきる力を権力者が保持しているからである。
 にもかかわらず、過去の大戦争を彷彿とさせるような戦争ヒステリーが、権力者によって大衆の中に常時植え付けられている。
 現代の戦争、それも局地戦争の目的は、権力者によって慎重にコントロールされている。
 国民の生活水準を全般的に上げずに機械によって生み出された製造品を消費してしまうことが、戦争の最大の目的である。現在その傾向はさらに顕著である。もし、世界で紛争地域がなくなれば、つまり、シリアの紛争がなくなれば、軍需生産でGDP を維持している米国は、たちまちに過剰生産恐慌に見舞われるであろう。いまでは、膨大な資本が軍需産業を通じて年々費消されている。これが、体制の安全弁になっている。
 統計的には、今日の先進諸国は、膨大な生産力を抱えている。食料も消費財もふんだんにある。しかし、蓄積された資本が生活財を生産し続ければ、必ず、そうした財の市場は満杯になってしまう。過剰生産を発現させないためにも、権力は過剰気味の資本を無駄な軍需生産に誘導しなければならない、軍需生産こそ、世界のどこかで紛争を起こせば、たちどころに市場を見出せるのである。
 戦禍による阿鼻叫喚の地獄で、逃げ惑う民衆の背後で、巨万の富を掴む軍需産業と、その部門に投資した金融業の哄笑が聞こえる。これが、現在の「不透明な世界」と称される「作り出された戦争」なのである。
 重要なことは、過去も現在も、支配的な形態は特権階級が権力を独占しているという実態である。現在の高度の発達した科学技術でもってすれば、人は飢えから解放されているはずである。富が平等に分配され、すべての人が短時間で働くだけで、食料を含む生活必需品を手に入れ、余暇と安定に恵まれると、これまでは貧困のせいでままならなかった読み書きや、自分で考える習慣を持つようになることは間違いない。
 しかし、このことは、現在の一部の権力者が特権を独占している階級社会を破壊してしまうであろう。十分な判断力を身につけた大衆は、不合理な権力者の特権的社会を覆すであろう。
 過去、反体制勢力はつねに真に平等な社会の実現を運動の目標に設定してきた。しかし、権力をまだ手に入れていない運動のリーダーが、権力を持ってしまった後の、独裁者への転化は、これまで例外のない歴史的事実である。
 「結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、成立しないのだ。」「大昔の農耕社会への回帰を夢想した者もいたが、実際的な解決策ではなかった。」それは軍事力を弱体化させて国家の消滅を招くからである。「工業面で立ち後れた国は、軍事的に無力となって、工業化の進んだ敵国から直接、間接に支配されてしまわざるをえない。」だからといって、大衆を極端な貧困状態に置くということも体制維持にはよろしくない。
 「問題は、世界の実質的財産を殖やさずに、いかにして産業の車輪を回し続けるかにかかっていた。」「これを実現するには、最終的に、絶え間なく戦争を行うという手段に訴えるしかなかったのである。」
 戦争に関する小説の叙述は秀逸である。
 「戦争に不可欠な行為と言えば破壊である。それは、人命に限られない。人間の労働が作り出した製品の破壊も含まれる。戦争とは、大衆に過度な快適さを与え、それによって、ゆくゆくは彼らに過度な知性を与えてしまいかねない物質を、粉々に破壊する・・・手段である。」
 「兵器が実際に破壊されていない場合でも、兵器の製造は、消費物質を生産せずに労働力を使い切るための便利な一手段である。たとえば、浮動要塞の中には数百隻の貨物船を建造するのに十分な労働力が閉じ込められてきた。」
 最近の北朝鮮を威嚇する米国の艦隊などがその実例となる。2017年5月、西太平洋に派遣された米国の原子力空母は、まさに浮動要塞の最たるもので、士官・兵員が3,200名、航空要因が2,400名も乗船している。
 これら要塞は、なんらかの物質的利益を生み出すものではない。人々はその製品を食べるわけでもない。
 「戦争の続行は、民衆の必要をかろうじて満たした後に余剰があれば、その余剰のすべてを消費し尽くすように計画されたものである。」
 歴史の冷厳な事実は、階層間の入れ替わりはあるが、三層構造はつねに再生産されてきたことである。
 ただし、いつの時代にも社会の各層間の不平等の存在は意識され、その意味付けが絶えずなされてきた。
 善行を積めば死後に天国に行けるというのがもっとも慇懃無礼な説得であり、宗教がその役割を担ってはいたが、下層の反抗心の芽生えを刈り取ることが上層の政策の常套であった。
 中間層は、権力を求めて戦うために、「自由」、「正義」、「友愛」といったスローガンを利用するのが常であった。19世紀がその時代であった。
 20世紀初期の社会主義が、古代の奴隷の反乱以後、その概念を実現させた最終形態となった。
 しかし、社会主義になってからの権力者たちは、口先だけで、古いスローガンを唱えるが、過去と同じように、上層に成り上がった権力を維持・拡大する方向に勢力を注いでいる。
 下手をすれば、機械の発達によって、真の平等が実現してしまうかも知れない。しかし、そうしたことが実現してしまえば、上層は権力を失ってしまう。
 いまでは、権力者にとって、「人間の平等は、もはやそれを目指して努力すべき運動ではなく、避けるべき危険となっている。」
 「公正で平和な社会など実際にはありえなかった原始的な時代には、それを信じるのはかなり簡単なことであった。悪法がなく、野蛮な労働もない社会、人間が友愛で結ばれた状況で生きて行ける地上の楽園が実現されるという考え方が、何千年にもわたって人間の夢となっていた。」
 しかし、それは幻想であった。「この幻想は、歴史的な変化があるたびに、一定の利益を得てきた人々をも虜にしてきたものである。」
 フランスの人権宣言、英国のマグナカルタ、米国の奴隷解放宣言は、人間の平等を求める人々の魂の拠り所になっていた。「人権」、「平等」、「自由」は必ず実現される真理だと多くの進歩的な思想を持つ人々が信じてきたものである。
 「しかし、20世紀も40年を過ぎる頃には、政治思想の主流はもっぱら権威主義に関するものばかりになってしまった。地上の楽園は、まさにそれが実現可能となったその瞬間に、誰も見向きもしないものになっていた。」「新しい政治理論は、いずれも階級性と厳格な統制化に立ち戻って行った。」
 これらの古い時代の教義が「十分に考え抜かれた政治理論として姿を現したのは、国家間の戦争、内線、革命やら反革命やらが世界各地で十年間続いた後のことだった。しかし、それらの理論は、今世紀初頭にすでに出現し、一般に全体主義という名で呼ばれている様々な体制を下敷きとしていたし、永く続いた混沌から現れる世界の大枠も、ずっと以前から見えていたものである。」
 「新しく台頭してきた貴族階級は、官僚、科学者、技術者、労働組合の幹部、宣伝のエキスパート、社会学者、ジャーナリスト、職業政治家がその大部分を占めている。これらは、元々中流階級に属する給与生活者か、労働者階級の中の上層を占めていた人々で、産業の独占化と統治体制から」結合してきた人々である。
 彼らには、過去の権力者に比べると金銭的な強欲はなく、贅沢にそれほど頓着はしない。しかし、過去の権力者よりもはるかに権力に魅力を感じ、敵を叩きのめすことに意欲を掻き立てる人たちである。
 この権力への熱意ということが最重要な点である。彼らに比べれば、過去の専制君主たちの統治方法はきわめて非効率的なものであった。かつての権力者たちは、民衆の行動にあまり注意を払わなかった。ところが現在の新しい権力者たちは、民衆のすべてに監視の目を注いでいる。
 逆に言えば、過去の権力者たちには、全民衆を監視下に置く意志も技術もなかった。ところがいまはどうだろう。
 印刷物、映画、ラジオ、テレビ。一つの機器で受信と発信とが同時に可能である新技術。
 プライバシーなどいまは絵空事である。オーウェルは70年も前にここまで言い切ったのである。
 まさに現在のスマホ時代、SNS時代の恐怖を非常に正確に予測していたのである。
 オーウェルは断言した。
 「国家の意思に完全に従わせるに止まらず、あらゆる事柄についての意見を完全に画一化するという可能性が、初めて生まれたのだ。」
 1960年代の革命の時代を経て、社会は新しい上層、中間層、下層に編成替えされた。新しい上層は権力を保持する仕方を完全に把握している。従来よりもはるかに少数者のグループに富を集中させる技術がそれである。持てる個人の数は過去に比べるとはるかに少ない。しかも、少数者への富の集中度は過去に例を見なかった空前のものである。この形は、自分たちのグループに権力を委譲、保持できる非常に巧妙なやり方である。

 4 無知は力なり
 
 党のメンバーは私的感情を持たないように訓練されている。しかし、熱狂状態から醒めてはならないようにも訓練されている。敵国、自国の裏切り者に対する憎しみ、勝利への歓喜、党の権威に対する自己卑下的な賛美、そうした感情が複合し沸騰した熱狂状態にあることが常時求められている。自分の生活上の不満は、背徳者への「憎悪の二分間」で効果的に雲散霧消させられてしまっている。
 幼児時代から党員たちは、反体制、党への懐疑を持つことへの嫌悪感が植え付けられてきた。少しでも党への反抗的な言動を持ちそうになると、「犯罪中止」と名付けられた、犯罪を未然に中止するという感覚がそれである。それは、危険思想を懐きそうになったときに、その一歩手前で踏み止まる能力である。論理的に類推することを止める能力である。異端に導く思想に接すると嫌悪の感情を生み出す能力でもある。敵に対しては、黒を白と言い張る反射神経である。党が望めば、黒を白と信じる習慣でもある。
 党員はもとより、党員ではない一般市民もつねに現代こそが正しいと思い込まされている。現在と異なる過去の存在を知ってしまえば、市民は、現在を過去と違うという形で相対的に見るようになってしまう。したがって、過去は、現在のものと辻褄が合うように書き直されてしまう。現在、市民が属している「オセアニア」という国が「ユーラシア」と戦争していて、その戦争は、過去からずっと続いてきたものであると、市民が思い込まされたら、たとえ、過去には「オセアニア」は「イースタシア」と戦争していたのが真実であったとしても、過去も「ユーラシア」と戦争していたと歴史が書き換えられてしまうのである。あらゆる文献がその方向で書き直される。
 過去は、人々の記憶の中にある。その記憶はつねに権力が望む内容でなければならない。記憶は不確かなので、記録に頼るしかない。しかし、記録を作成する権限は権力者にのみある。つまり、現在を正当化するために、過去はつねに書き改められるのである。
 現在の生活水準が、過去よりもはるかに高いところに来ているという捏造を人々に信じ込ませるためにも、それに併せて過去が非常に貧しかったという書き換えがなされる。
 党の指導はつねに正しい。その正しさは人々の記憶によって裏付けられる。記憶は過去の記録によって証明される。しかし、肝心の記録が改竄されるのである。
 小説で書かれた世界は絵空事ではない。現在の日本でも中国を侵略した日本陸軍による中国人の虐殺、関東大震災の際の朝鮮人の虐殺の記録は政府の公式文書から除外されることになった。
 ただし、記録を改竄した人の記憶がある。この記憶を消し去る心理が要る。これが「二重思考」である。当事者が意識せずに、記憶を抹消し、党が要求するものを「真実」と思い込む精神作用が必要になる。それは、統制された狂気から生み出される。
 過去のいかなる権力も、環境変化に対応できず、高い革命的意識に目覚めた人々によって打倒された。権力が生き延びるためには、人々の意識の深層を管理しなければならない。これが「二重思考」という哲学であり、「ニュースピーク」という言語の開発である。これは、放送技術の発達によって、歴史上初めて可能になったものである。『1984年』は、たんに「監視社会」を遠くから、つまり、絵空事の物語として面白可笑しく語ったのではない。現在の技術水準からすれば、人間の精神が権力によって操作されることが可能になっている。人類は初めて真に恐ろしい時代に入り込んだことをオーウェルは主張したのである。

 5 自由は隷従なり 

 小説は、権力が人々の思考をコントロールする最高の手段として、人々が、日常的に使う従来からの言語そのものを、時間をかけて新しい言語「ニュースピーク」に変える手法を説明している。この小説の最も大事なポイントである。新しい言語が完全に普及するに要する時間は1984から2050年までのじつに70年間である。
 馬鹿なことをと私たちは一笑に伏すことのできぬ現実が、目の前には進行している。つまり、SNSの世界がそれである。私たちが、そしてとくにSNSに嵌まる若い人たちが使う言葉は、急速に幼児化し、単純化されようとしている。
 「きらきら名前」などはその典型である。過去の読み方では考えられない音が漢字に与えられている。意味不明の音のみが名前を形成している。SNSで使われる用語は大人たちにはまったく理解不能である。SNS用語を駆使する若者は、そうした言葉を使えない大人たちを軽蔑する。
 しかし、SNS用語には、歴史を語り、社会を語る単語が、非常な勢いで消失させられてしまっている。その結果、SNSの世界は単純化し、複雑な思考は遠ざけられている。
 「ニュースピーク」は使われる言葉を単純化して権力に反抗する考え方を排除する意図で、多くの心理学者、言語学者、哲学者等々を動員して新しく作り出される言語体系である。
 一つの単語には、単純明瞭な発音と意味しか付与されない。表向きの意味とは違った深い隠された意味がある場合、その種の意味は徹底的に排除される。
 たとえば、”free”という言葉からは「政治的に自由」である、「解放される」という意味には使われない。「この畑は雑草から自由である」という意味、つまり、余計なことからは「免れている」という意味においてのみ使われる。
 表題に掲げた「隷従」も屈辱的に権力に屈服するという意味ではない。「余計なことから免れて党の正当性に寄り添うこと」という意味である。「自由は隷従である」とは「党を信頼して、邪悪なものから逃れよ」という意味になる。
 「ニュースピーク」は、日常生活用の「A群」、政治用語である「B群」、科学・技術用語である「C群」から成る。
 「A群」は、品詞間の区別をできるかぎりなくし、名詞がそのまま動詞にもなる。たとえば”think”は、動詞の「考える」だけでなく「考え方」という名詞にも使う。逆にいえば、”thought”という語はなくされている。”knife”は「ナイフ」でもあり、「切る」という意味でもある。したがって、”cut”という単語はなくなっている。「切る」は「ナイフする」で代用されている。
 名詞に”-ful”を付けるとそのまま形容詞になる。”speed”を”speedful”にすれば、「速い」である。「速い」という昔の単語は「スピード」でこと足りる。
 反対語は、すべて”un-“という接頭語を付ける。「暖かい」は”warm”ではなく、”uncold”である。”bad”という単語はなくなった。”good”を基礎として”ungood”と表現される。「悪い」という反抗的な感情を呼び起こす表眼は徹底的に廃棄されている。
 現在、「フェイスブック」を読んだ感想を表す言葉には、「駄目」がない。「いいね」だけである。オーウェルを読んだ後の感想から言えば、「いいね」しかないのには、なんらかの「罠」がありそうに思われる。
 形容詞や副詞は不規則変化をさせず、”-er”、”-est”を付ける。”good”、”better”、”best”ではなく、”gooder”、”goodest”である。
 動詞の過去形も”ed”を付ける。先に見た”think”は”thinked”である。
 その他、発音のしやすさが重要な指針となっていた。
 「B群」という政治用語の説明に移ろう。
 政治用語としての「B群」は、発音しやすいように創られた合成語である。”goodthink”は、「正統」、「正当的に考える」、「良い考え方」である。「古い思想に支配されている人」は”oldthinkers”である。
 消された言葉も多数ある。「名誉」(honour)、「正義」(justice)、「道徳」(morarity)、「国際主義」(internationalism)、「民主主義」(democracy)、「学問」(sicience)、「宗教」(religion)等々、過去の理想を表す用語のほとんどは消し去られた。
 音節も例外なく3音節以内に縮められた。
 「ニュースピーク」は思考の範囲を狭めるために、年々言葉の数を少なくして行った。音節を少なくすることで、リズムを持つ言葉になったが、音楽的に心地よく響く言葉は思考を単純化させるものである。
 オーウェルは言う。
 「(言語の)選択範囲が狭まれば狭まるほど、何かを熟考しようとする誘惑は小さくなる。」「明瞭な発音と簡単なリズムから成る言葉は、高次の頭脳中枢を活動させることなく喉頭から垂れ流されるだけになると期待された。」
 「C群」は、昔からあった科学用語をすべて「ニュースピーク」で置き換えられたものである。一般社会では使われない専門家集団の言葉である。しかし、古い意味がすべて抹消されたために、現代人は過去のすべての文献を読めなくなってしまった。過去の文献は、「ニュースピーク」で書き換えられた。その結果、過去の人々の社会改革の提案のすべては読めなくなってしまうか、まったく別の意味に置き換えられた。たとえば、「オールドスピーク」で”All men are equal”と書くはずのものは、”men”でなく”mans”である。その上で、「すべての人間は等しい」という表現から人権を想定させる内容はすべて剥奪されてしまっている。「等しい」には、権利の言葉はない。同じ背格好、同じ皮膚の色、同じ体重、等々の意味にしか読めないように訓練されている。
 「ひとたびオールドスピークがニュースピークに取って変わられると、過去との最後の絆も断たれることになったはずである。」「過去の作家たちの書物がニュースピークで翻訳され終わった後には、オリジナルな過去の文献は廃棄処分に伏されるはずであった。

 6 中間的結びとして

 ジョージ・オーウェルは、多くの人から「スターリン」の独裁を揶揄した作家で、当時の反共イデオロギーに媚びた人品卑しい作家だとのレッテルを貼られてきた。確かに、独裁者「ビッグ・ブラザー」は「スターリン」を想像させ、その敵である「エマニュエル・ゴールドスタイン」は「トロツキー」を思い起こさせるという危うさはある。
 しかし、オーウェルはけっしてそのような卑しい作家ではない。本名「エリック・アーサー・ブレア」として、1903年にネパール国境に近いインド・ベンガル地方の密輸出向け阿片の大栽培地で生まれた彼は、阿片商人の片棒を担ぐ英国官吏の父に反抗して育った。
 1934年に彼は「フランコ」と戦うために、スペイン内戦に参加した。ここで、彼は反ファシズムの本物と偽物との違いを思い知らされた。以降、彼は、広い意味での全体主義を拒否して「民主社会主義」を追い求めるようになった。つまり、自らを「反体制的左派社会主義者」に位置づけた。これは、当時の文脈では、英国の労働党とその左派との決別を意味していた。彼にとって、「スターリン」的社会主義も、英国労働的社会主義も、資本主義の打倒を叫びながらそのじつ、自らの権力の確立とその永続化に腐心する俗物に思えた。大衆は、理想主義に満ちていた。階級格差の存在に怒りを持っていた。しかし、彼らはその理想主義と怒りをうまく利用され、裏切られ続けた。
 敵の砲弾にさらされていたソヴィエト社会主義を揶揄することは卑怯であると当時のオーウェル批判者たちは考えていた。しかし、ソ連と対峙するチャーチル戦時内閣も「スターリニスト」と同じ穴も狢のファシストであった。報道は統制され、賃金や価格は凍結されていた。人々の移動は制限され、市民的自由などはまったくなかった。英国労働党は、権力を取った。しかし、内実は底の浅い官僚主義と金権体質の日常化であった。
 当時の社会主義者は、「スターリン」の強制収容所の存在を知りながら、そこから目を背け、その体制への忠誠を誓っていたことにオーウェルは怒りを抑え切れないでいた。
 「スターリン」の悪を「やむをえない」と受け取った当時の社会主義者は、小説の中の「二重思考」に支配されていたのである。そこから、おそるべきことが始まった。「言葉の幼児化」である。
 (原著は、1948年に出版されている。本稿は、高橋和久訳の『1984年』新訳版、早川書房、epi文庫、2009年を下敷きにしている。)

 7 D. トランプ現象

 電車の車内では、半分以上の乗客がスマホの画面に見入っている。本を読んでいる人はほとんどいない。
 若者の多くが、語彙の少ない短縮表現を使うようになった。モバイル・メディアの蔓延が、そうした風潮を醸し出したのは間違いない。2、3行の短いメッセージが発信され、受け手がそれに納得すると、「シェア」という謳い文句で他人にそれを流し、そうした安直な知識を流布させることが、「拡散」させると表現される。
 正確に経験したことを、正確に理解し、正確な言葉で、正確に他人に認識してもらえるように工夫する、というこれまでは当たり前にあった習慣が、周囲から急速になくなっている。
 こういった風景は、人ごとのように「情けない」といって済ませるものではない。組織や社会がバランスを欠いて、極端な方向に二分されてしまう要素が、このありふれた現象に示されているからである。
 「フレッシュ・キンケイド」(Flesch-Kincaid)という手法がある。1975年前後に開発されたらしい。文章の長さや、使用されている語彙(ごい)の平均音節数で、文意の難易度を測るものである。この判定手法によれば、短くて、少ない音節の語彙が使用されている文が、分かりやすいとされる。
 AFP.comというウェブサイトが、このフレッシュ・キンケイドの指標を用いて2015~16年の米大統領予備選挙における各候補者の演説を評価した。世界のメディアの話題となったので、多くの人が知るようになったが、それによると、すべての候補者の中で、ドナルド・トランプ候補の演説がもっとも分かりやすかった(Mouren [2015])
 同サイトの報告(AFP)は、2015年12月15日、ラスベガスで行われた共和党の大統領候補討論会における9人の候補者が使った言葉の特徴を分析した。使った語彙の少なさにおいて、ドナルド・トランプが際立っていた。トランプの使った語彙のほとんどは3音節以内の極端に短いものであった。4音節以上のものは、全体のわずか7%にすぎなかった。これは、9~10歳の子供でも、彼の発言を理解できることを意味するのだという。
 トランプが圧倒的な頻度で使った単語は、「良い」(good)、「悪い」(bad)、「すごい」(great)など、単純で短いものである。
 「もし私が大統領に選ばれれば、われわれは再び勝てる。われわれは勝ち続け、すごい、すごい国となり、以前よりもそのすごさを増すだろう」と発言したり、中東情勢を語るときには、シリアのバッシャール・アサド大統領を「悪い奴」だと表現した。
 つまり、幼児のような言葉遣いであった。
 トランプは、簡潔で、繰り返しの多い言葉遣いによって、大衆の単純な直感に訴えかけ、
彼らの心を掴むことに成功した。しかも、彼は、単純な言葉を使う自分が正直者であり、逆に複雑な言葉を使いたがる既成の政治屋たちは、聞き手を騙す技術に長けている「悪い奴」だと大衆に思い込ませ、トランプ流の言葉の魔術に取り込んだ。
 「良い」、「悪い」、「馬鹿」という、あまりにも単純な言葉の乱発で聴衆が興奮の坩堝(るつぼ)に引き入れられたということは、非常に恐ろしい事態である。
 米国におけるトランプ現象は言うに及ばず、すでに、過激な発言を武器とする超保守主義者が世界中で増殖している。このまま行けば、あらゆる社会、あらゆる組織の集団が、極端な方向に向かうことになってしまいかねない。
 ただし、候補者たちの演説で使われた語彙を「フレッシュ・キンケイト」の手法を用いて判断するのは、厳密には正しくはない。この手法は、書かれた文章を対象として開発されたもので、話し言葉を対象としたものではないからである。
 この限界を意識して、メロン大学のエリオット・シューマッハーとマスキン・エスケナージは、’REAP’ という手法を用いて、2016年の米国大統領予備選挙の候補者たちの演説をランキングづけた(Schumacher & Eskenazi [2016])
. ‘REAP’ とは、カーネギー・メロン大学で開発され、現在でも改良中の言語習得プロセスの改善技術のことである(http://reap.cs.cmu.edu/)。話し手の使う言葉を、人に伝達しやすく、しかも内容あるものに上達させていく方法を、ネット上に登場した膨大な言語データから獲得しようと試みるこうしたプロジェクトは、主として、カーネギー・メロン大学のスタッフによって行われている(Heilmann, et. al. [2008])
 誤解を避けるために、急いで述べておかねばならないことがある。
 この研究者グループは、たまたま、米大統領選を素材に取り上げた報告を出したものであって、けっして個人攻撃をするのが目的ではない。このグループは、現代社会において、聴衆の心に響く言葉のデータ分析していたところ、たまたまマスコミの網に掛かってしまって、そのトランプ批判に使われたのである。
 ちなみに、いささか横道に逸れるが、「カーネギー・メロン大学言語研究所」のこのプロジェクトと「デール・カーネギー・トレーニングセンター」のプロジェクトとは、同じ「カーネギー」という名前を使っているが、相互に関係のない、まったくの別物である。
 カーネギー・メロン大学のアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)と超ロングセラーを刊行したデール・カーネギー(Carnegie [1937])との間にはまったく姻戚関係はない。一度、騙(かた)りの汚名でヨーロッパに逃避していたデールは、米国に帰国後、本名のカーナギー(Carnagey)をカーネギー(Carnegie) 表記に変えた(1922~29年のどこかで)。デール・カーナギーは、鉄鋼王として著名なアンドリュー・カーネギーにあやかったのである。活動拠点も本物の「カーネギー・ビル」に置いた。以後、彼は、マーケッターとして大成功を収めることになった(Watts[2013])
 カーネギー・メロン大学言語研究所の上記二人らは、2016年の米大統領予備選挙に打って出た大統領候補者の中から5人、過去の大統領から5人を選び、選挙演説で使われた語彙の「分かりやすさ」(readability)の平均にランクをつけた。語彙ランクの平均でもっとも分かりやすいランクを1、もっとも難しいランクを12とした。
 2016年の候補者の5人とは、テッド・クルーズ、ヒラリー・クリントン、マルコ・ルビオ、ベニー・サンダース、ドナルド・トランプ。過去の5人の大統領とは、エイブラハム・リンカーン、バラク・オバマ、ジョージ・W・ブッシュ、ビル・クリントン、ロナルド・レーガンであった。
 10人を比較すると、語彙ランキングでは、レーガンがもっとも高く11ランク、トランプがもっとも低くて7ランク(同報告、第1表)であった。
 カーネギー・メロン大学のこの調査は、「フレッシュ・キンケイド」による計測も同時に行っているが、それによると、サンダーズがもっとも高くてランクは10、トランプはわずか4であった(同、第2表)
 人格的にはともかく、トランプの発言の仕方だけを切り離して、彼の知的レベルが低いと断定してしまうことは当を得ていない。彼が大統領選に勝利したのは、「ネット社会」の特徴を熟知していたことによるものだったと理解すべきだろう。
 大統領就任後も、トランプの語り口は変わっていない。
 大統領就任演説で米国製造業の停滞を表現するのに使った「大虐殺」(carnag)。NAFTA(北米自由貿易協定)を批判したときの言葉「完全な大失敗」(total disaster)。女性司会者を侮辱した「軽量級」(light weight)。女優のメリル・ストリープを揶揄した「過剰評価された」(over rated)奴、等々。
 他方、褒める時も大袈裟な表現を多用している。「君たちはすばらしい」(great people)がその例。
 『日本経済新聞』(2017年2月1日付、朝刊)は以下のような感想記事を掲載している。
 「感情的で単純な単語を連ねる語り口が<非エリート層>の心に響いたのは確かだ。だが難解な事象も短文で表現する言動は、すべての物事を短絡化させかねない。怒れる白人の中・低所得層を味方に付けたトランプ節はそんな危うさをはらむ」。
 「マサチューセッツ工科大学(MIT)の人工知能(AI)研究グループに所属するブラッドリー・ヘイズ氏は昨年(2016年)3月、トランプ氏のようにつぶやくAIの開発に成功した。『トランプ氏の語り口調は平易なので、AIの訓練に要した基礎データはシェークスピアの15%で済んだ』という。基礎データ完成後、数時間の訓練でAIはトランプ風の短文を書き始めたそうだ。・・・今も’@Deep Drumpf’’というツイッターアカウントで<偽トランプ節>をつぶやき続けている」(ニューヨーク、清水石珠実記者)

 8 ジョージ・オーエル『1984年』が怖れた言語の劣化=「ニュースピーク」(再論)

 重要なことなので、本稿第5節に再論を追加したい。恐ろしい監視社会を描いたジョージ・オーウェルの小説『1984年』(Orwell [1949])が語る「ニュースピーク」は、近年のAI社会をすでに透視していた。
 小説の中の専制国家「オセアニア」は、以前は、民衆の幸福を実現させる崇高な目的で革命を実現させた社会主義国家であった。しかし、革命当初は、いかに心の美しい革命家であっても、権力が彼を腐敗させてしまう。革命政権を打ち立てたこの指導者を打倒して、新たに権力を握った「ビッグ・ブラザー」が、「イングソック」という擬似的社会主義国家を創った。
 「ニュースピーク」は、元々の言葉の意味内容から外れて、極端に分かりやすく、短い音節からなる、リズム感に溢れたものに替えられた言葉である。新言語には、単純で無内容な語彙しか許されなかった。映画も、歌も、絵画も、分かりやすいということが絶対的使命にされた。言語は、単なる符号である。そこにはいかなる意味でも、権力批判の思想が入る込む余地はない。
 人口のほぼ90%を占める「プロレ」(旧プロレタリアートから労働者階級という意味を剥奪された言葉)と言われる庶民には、低水準の笑い、下品な芸能、単純なリズムで踊りたくなるような大音響の演奏、あくどいポルノ映画、等々、愚民化政策を狙った娯楽がふんだんに提供された。
 この階層は徹底的にものごとを深く考えない享楽的なミーハーにされてしまっていて、「ビッグ・ブラザー」の権力機構を支える基盤になっていた。
 「党内局」と呼ばれる、ごく少数者のみが権力を保持しているのだが、彼ら(権力側)がもっとも怖れているのは、「プロレ」(庶民)と「党局内」との間に位置し、人口当たり数パーセントの「党外局」(中間層)であった。これら中間層は、権力の代行者であるが、その思考能力の深さによって、反権力に向かう可能性をつねに秘めていた。「ニュースピーク」は、主としてこれら中間層を対象にして開発されたものである。
 現在こそが、オーウェルを怯えさせた「ニュースピーク」の時代なのである。
 こうした、極端に単純化された「ニュースピーク」に「二重思考」の教育が加わる。
 「民主主義は善である」、その民主主義を護るためには、それを破壊する異端分子たちを抹殺しなければならない。したがって、民主主義を標榜する国家権力が、反対勢力を弾圧しても、それは容認できる、と考えるのが「二重思考」である。国家は民主主義の擁護者であると同時に、反体制派への弾圧者でもある。博愛と弾圧との間には大きな溝がある。この溝を超えるものこそ、「愛」、小説では「国家への愛」である。「愛」こそが、絶対的な対立を乗り超える「善の心」である(日本讃美が保守的ナショナリズムを増幅させている現在を想起されたい)
 このように、「ニュースピーク」の時代では、反対物が相互に克服されて新しい次元の世界を拓くという意味における旧来の弁証法的歴史意識に根差す「止揚」は、独裁政権によって、都合よく変形されて、愛による心の「合一」に落とし込まれる。
 小説の主人公は、「ビッグ・ブラザー」の支配をはね除ける潜在力を持つ層が、「プロレ」であるはずだと自らに言い聞かせ、密かに改竄された社会主義革命の真相を調べて行くうちに、信頼していた人に裏切られて投獄され、「二重思考」の秘術を徹底的に施されて、「心の底から」、「ビッグ・ブラザー」を「愛」し、銃殺される喜びに浸ることになる。
 芥川龍之介の「羅生門」のテーマがそうであった。「生きるためには」、「悪」と承知しつつも悪人の老婆の身ぐるみを剥いだ小心な下人が、典型的な「二重思考」の持ち主である。
 AIロボットや車の自動運転技術の開発に鎬
(しのぎ)を削るIT専門家たちは、自分たちの輝かしい頭脳が、人々から多くの働き口を奪い去ることを心の底では怯えながら、それでも、技術開発を止めないであろう。彼らの多くは、この「二重思考」によって、良心の呵責から逃れているからであると思われる。
 科学者たちは、そもそも原爆という悪魔をこの世に送り出すべきではなかったのに、競って開発に勤しんだ。彼らが開発に遅れを取れば、敵によって自国が壊滅される。それならば、まず核兵器の開発を先行させなければならない。その後で、自分たちは「核兵器」の使用反対という「平和活動」をすればよい。そう意識していたのであろうし、いまもそうであろう。

 9 AIでなく、IAを夢見ていたハーバート・サイモン

 現在、AIに関する将来の夢が数多く語られている。しかし、AIの方向ではなく、IA(インテンシヴ・アビリティ=人間の能力拡張)について論議されることは多くない。しかし、この方向こそが人間の将来を豊かにするものであると私は思う。 
 AIの提唱者であったハーバード・サイモンなど、初期のAI開発者には、IAを夢想する人たちが結構多かった。
 ジョン・マッカーシーは、米国の認知科学者であったマーヴィン・ミンスキーと並ぶ初期の人工知能研究の第一人者で、AIという用語の創始者である。
 1961年、マッカーシーは、MIT100周年記念の一環として、ダートマス会議を開き、AI開発の重要性を人々に認識させた(第1次AIブーム)
 ダートマス会議では、アレン・ニューウェルとハーバート・サイモンによって、初めての人工知能プログラムと言われる「ロジック・セオリスト」のデモンストレーションが行われた。これは、コンピュータが四則演算等の数値計算しかできなかった当時では画期的なことだった。
 サイモンは、1978年の「ノーベルを記念するスウェーデン銀行賞」(通称、ノーベル経済学賞、ノーベル記念財団の賞ではない)の受賞者である。彼は、多くの同賞受賞者を出したシカゴ大学出身(上記のカーネギー・メロン大学でも研究した)である。彼の研究分野は、経営学、経済学だけでなく、人工知能、認知心理学、コンピュータ・サイエンス、政治学と広い分野にまたがっていた。
 サイモンは、行動する主体の意思決定には、辻褄(つじつま)の合わない要素が必ず含まれるという「限定合理性」論を展開した人である。総じて、意図した成果が現れることは難しい。したがって、組織は、実施内容の範囲を限定した上で、合理性を実現するという仕組みを試行錯誤的に絶えず作り直すという作業をしなければならない。これが、サイモンの言う「限定合理性」である。
 この「限定合理性」について、サイモンは、1969年初版の『システムの科学』で、「アーティフィシアル・サイエンス」という視角から説明した(Simon [1969])
 「アーティフィシアル」(人工的)という表現は、「アート」(芸術)から派生したものである。人間社会は、なんらかの設計図に従って展開してきたものではない。アートとは「寄せ集め」(プリコラージュ)である。
 たとえば、ありふれた「布切れ」。布切れにとっては、服に縫い上げられることが「自然の流れ」である。布切れを寄せ集めて、ちぎり絵を作るのは、自然の流れに反する。しかし、自然の流れに反しても、まったく別のものを創り出す能力が人にはある。その能力を活かして、その場、その場の寄せ集めを編成することで人間社会は進展してきた。
 「人工的」という言葉には、そういう意味が含まれている。本来の用途とは違う方向で使う物や情報を生み出すことが人工的なのである。人工的をこのように解釈することは、構造の「多様性」の認識に結びつく。
 進化は、予め作られた設計図に基づいてゼロから行われる「エンジニアリング」によって実現したものではない。そうではなく、既存の系統に対して用途の変更や追加を行うことによって実現してきた。その結果、進化は必ず複雑性を増してきた。挑戦と挫折、試行錯誤の繰り返し、そして、脈絡のないところから突然にやって来るヒラメキ、そうしたものが、ないまぜになって、概念(認識)が形成される。
 人間の知的な側面は単純である。ところが、人間の行動は複雑極まりない。人間が様々なものを「寄せ集めて」、ものごとを企画(デザイン)してきた。複雑な人間行動を理解するためには、人間が描いてきたデザインを研究しなければならない。人間固有の研究領域はデザインの科学に他ならない。
 デザインこそ、「アーティフィシアル・サイエンス」である。「秩序」を求めながら、現実にはそこから大きく逸れてしまうというパラドックスを理解するには、各人が描く多様なデザインに注目しなければならない。
 サイモンと同じく、AIはIAへと進化させるべだと、AIの第1次ブーム時から力説していたのが、ダグラス・エンゲルバートであった。彼の熱い心はいまでもIT研究者の中には生き延びている(Markoff [2015]. 邦訳、21~23頁)

 10 沈黙のスパイラル

 本稿7節のはじめで触れたように、3行そこそこの短い情報が、「シェア」という言葉で人を動かし(圧倒的な数のフォロワーズという名の観客の動員)、「拡散」という要請を出し、単純化、過激化したスローガンで人々の集団意識を意図的に増幅させている(違いの排除)
 その手法が、権力者(市場の支配人)に擦り寄る目端の利く情報の仕掛け人に持ち上げられた無邪気な情報関連技術者たちによって開発され続けている。手を替え、品を変えても、同じ中身の情報が、これでもかこれでもかと流され、人々の意識が一色に染め上げられている。仕掛け人は、受け手の細かい個人情報の収集技術を高度化させ、意図通りに、人々の意識を一定の方向に誘導する。
 情報の垂れ流しは、けっしてメディアの放逸さから生じているのではなく、国家・組織・個人の機密情報を盗み出す米国情報当局によるものであることを告発したのが、米国の支配地域から逃亡したエドワード・スノーデンであった(Harding[2014])
 IT業界は、大衆受けする無料のアプリ開発に余念がなく、そのアプリが大化けすれば、企業や各種団体等から多額の広告収入を得ることができる。
 トランプ米国大統領の過激で突飛な発言が世界の人々の注目を集めた2017年初の環境をチャンスにして、世界中のメディアが視聴率を稼ぎ、フォロワーズを激増させている。トランプ批判者たちの怒りの抗議行動が全米各地で大きくなり、それに対抗するトランプ擁護派の動きも激しさを増す。そして、全米を二分する対立の相乗効果が、「サイバー・カスケード」(情報という連続する多段状の滝)の威力を巨大なものにしている。
 トランプは、メディアの中でも、「ツイッター」を愛用することで知られ、初の「ツイッター大統領」であると言われている。大統領就任後も、トランプは、メディアの「不当な報道」を批判し、「ツイッターなら自分の言葉をそのまま伝えられる」と強調し続け、大統領の公式アカウントではなく、個人アカウントを使い続けると言い放った。しかし、多くの人が眉をしかめているように、トランプのツイートは、大統領としての考えがリアルタイムで反映されるだけに、物議を醸すことも多い(http://www.cnn.co.jp/tech/35095093.html、2017年2月1日にアクセス)
 トランプ現象は、「プラットフォーマー」としての「ツイッター」の情報収集力をますます強力にさせるであろう。「プラットフォーマー」とは、情報の発信・受信の大元である。彼らが提供するプラットフォーム(吸着場所)は、大きくて、広ければ広いほど、多くの情報を集めることができる。
 しかし、プラットフォームが、ますます特定のIT企業に集中してしまう結果、本来、多様であるべき世論が、声の大きい多数派に流れてしまう。昨今の日本における「嫌中」、「嫌韓」などに、そうした気配が見られる。国政選挙にしても、投票は、その時々の話題をさらった政党や候補者に集中してしまう。昔からそのような傾向はあった。しかし、最近では、サイバー空間が、世論の大きな流れを生み出す主たる要因になっている。
 いろいろな流れを集めて、大河にも大津波にもできるからである。権力は、この流れを作り得たグループによって握られている。権力者がその波に乗って、大きな声で叫べば叫ぶほど、「大衆」は歓呼の声を挙げてついてくる。
 そして、少数派で、力の弱い「観相者」たちは、大きな流れに連動する大声に抗した反論はせず、黙ってしまいがちとなる。
 そういうことから、世界は「全体主義的」社会に向かって漂う、という危険性を訴えたのが、旧西ドイツの政治学者、エリザベート・ノエレ=ノイマンであった。『沈黙のスパイラル』(Noelle-Neumann[1984])がそれである。
 ノエレ=ノイマンは、同書で、社会における少数派が、同調を求める多数派の圧力によって沈黙を余儀なくされていく過程を描いた。
 同氏は言った。自らを社会の少数派であると思っている人は、多数派に属する人々が発する同じ内容の言葉の大合唱によって、脅迫されているような感覚に陥り、孤立を恐れて自分の意見を表明しなくなる傾向があると。
 このような現象は、「長い物には巻かれよ」という旧い格言が示すように、はるか以前から存在していた。しかし、マスコミが発達するにつれて、この現象はますます広がりを見せるようになった。そして、スマホが登場した。スマホに熱狂する人たちが巨大な層を形成するようになって、沈黙状態は、また一段と進展してしまった。スマホに代表されるSNS社会の怖さは、この一点にある。
 ここで注意しておきたいのは、「沈黙」とは、反対者たちが、自らの自発的意思によって黙して語らないことを意味しない、ということである。そこには、有形無形の暴力が存在する。
 威嚇を背景とした大声だけが、すべての人の声のように社会では響いてしまう。反対者たちは、ウェブ社会で血祭りに上げられる。血祭りに上げられている人を救おうとする人が、多数者と反対の書き込みをしようものなら、その人への批判が無数に押し寄せてきて、その人のブログはウェブ上で瞬時に炎上してしまう。その結果、威圧的な言葉に同調する人たちのみが社会の大部分を占めるようになる。
 ジャーナリストの森健は言う。
 「ある集団で意見が極端な方向へ傾くという集団分極化は、ウェブの世界、とりわけブロゴスフィアやSNSのようなパーソナライゼーションが起きている場では、しばしば見られる現象だ。ブログやSNSのコミュニティで、ある発言者に対して明確な反論を述べるような人は(一般的な著名人の場合は別として)、多くない。・・・その発言者と対立する考えをコメントすることは、論争を招く要因になる。副次的に感情的な面倒を抱えることになり、いろいろとやっかいな話にもなる。であるなら、コメントなど返さずに黙って流してしまった方が楽だからだ」(森[2006]、225頁)
 SNSは、人と人との繋がりを促進・サポートするコミュニティ型のウェブサイト、つまり、知人の間でのコミュニケーションを円滑にする手段や場を提供し、趣味や嗜好、居住地域、出身校、あるいは「友人の友人」といった繋がりを通じて、新たな人間関係を構築する場を提供する会員制のサービスである、というのが建前としての謳い文句である。しかし、現実は、そのような歯の浮くような綺麗事にはなっていない。
 ノエレ=ノイマンが指摘した「沈黙のスパイラル」という負の現象は、今日でも、スマホの競争部面で確認される。現実に、過去のメディアよりもはるかに激烈な闘いが、情報を載せるプラットフォーム間で展開されている。アップルも、グーグルも、そしてアマゾンも、いまや新しい類の「コンテンツ配信エンジン」になろうと懸命になっている。その帰結は、世界中の膨大な視聴者にコンテンツを配信し、巨大な財務基盤を作り、コンテンツを見る人も作る人をも支配するようになる情況の出現である。

 おわりに

 スマホの世界では、異様な行動を取り、過激な言動を発するユーザーは、検索機能などを通して瞬時に発見される。その存在が社会に知れ渡るようになり、氏名や所属先などの個人情報もすぐに特定されてしまう。常識的には、情報拡散の速さに萎縮して、そうした目立つ行為は影を潜めるはずだが、ネットの世界ではそうではない。馬鹿馬鹿しさに悪乗りして動画として投稿する目立ちたがり屋のユーザーが後を絶たず、ネット上では、その行為への反響が爆発的に増殖する。その反響が特定の主張を繰り返す特定の人への反感として大きくなった時、その人のブログは使えなくなる。つまり、「炎上」する。このようなことが今では、日常茶飯事に生じている。過激で極端な行動と言動が、劇画を見るように面白く、自分たちも面白い劇画の参加者になってしまう。その流れに、毅然として異を唱える人は、はしゃぎ回る目立ちたがり屋によって、ネット上で、身辺に危険を覚えるほどの激烈な攻撃の生け贄にされてしまう。
 ネットが普及すれば素晴らしい世の中になると、かつては言われていた。しかし、実際には、過激な行動、過激な言葉、過激な攻撃的脅迫が、闊歩するようになっただけのことである。
 ネット上では、簡単に自分をアピールできることが、異常な行為をSNSに氾濫させるようになった大きな理由の一つである。現実世界の欲求不満がネット上でのバーチャルな世界にぶつけられる。
 スマホは、ネット依存症をも激増させている。いつでも、どこでも、容易にインターネットにアクセスできてしまうために、ネットが生活の中心になってしまっている「ネット依存症」に陥っている人が、年齢を問わず、増えている。
 総務省情報通信政策研究所が、2013年6月に発表した調査結果によると、小学生から25歳までのスマホ所有者の半分にネット依存傾向があるということであった(総務省[2011])。いまでは、れっきとした中高齢者が「VR」(ヴァーチャル・リアルティ)に嵌(は)まっている。
 「ネット住民」が、「バカッター」的に付和雷同する傾向が、ネット社会によって強められているという事態が、「集団の過激化」の温床になっていると言い切ってもよい。
 多くの情報が競って、大きな滝のような流れを作り、その滝が人々の話題に上れば、似たようなテーマでまた新しい滝の流れが作られていく。多くの人は、これら滝の流れの連鎖を鑑賞することで、自分が大きな流れに沿っていることを確認し、自己満足してしまう(Sunstein[2001])。情報の流れが「情報のカスケード」を作り、カスケードが「共同了解の感覚」(同じように反応してしまうこと)を生み出す。
 SNS社会では、「共同了解」から離れることに臆病な人が多い。
 政治の世界でも、保守政党がほとんどの場合に政権政党になるというのは、政策の正しさがそれを可能にしたというよりも、保守政党が共同了解と同じ役割を担うからである。社会のエリートとして人々の上に君臨するには、つねに多数派に身を置かねばならないのである。
 労組という組織もこの傾向から逃れることは難しい。その傾向こそ、「過激化」、「極端化」である。

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学長通信(第14号)

1 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第10回)
 大塩平八郎の乱(4)
 「孔孟学」
 大塩平八郎が塾を開いていた屋敷には、「読礼堂」という講堂があった。その西側には、前回(第9回)のコラムで説明したように、「王陽明」(1472~1529年)の「立志、勧学、改過、責善」の額、東側には「呂新吾」(呂坤、りょ・こん、1536~1618年)の格言の額が掲げられていた。
 「呂新吾」(呂呻)は、政治家であり儒者でもあり、有名な『呻吟語』という独白を残した人である。「呻吟語」は、明(1368~1644年)時代の世の中の、あまりにも理想と掛け離れた状況を憂いて、「呂新吾」が「呻吟」した言葉を綴ったものである。この著作は、改革を提案する度に非難されたことに抗議して、下野した硬骨漢、「呂新吾」の深い思索と洞察を重ねた人生論である。大塩平八郎は、これを座右の書としていた言われている(幸田成友『大塩平八郎』)
 『呻吟語』には以下のような珠玉の名言が散りばめられている。「貧しさは恥ではない」、「志のないことが恥である」、「地位の低さではなく、能力の低さこそが卑下されるべきである」、「老いを羞じることはない、老いて何もしないことが恥である」、「老いて無目的に生きることは恥である」、「死して何も残さぬことを嘆け」、「政治の責任は上の者にある」、「感情を爆発させず、ひたすら耐えよ」、「知恵とは読書である」等々、「王陽明」の姿勢と同じものである。
 大塩平八郎は、当時の人々からは「陽明学」を学ぶ人として見られていた。しかし、彼は、塾の学問を「陽明学」であると標榜することを控え、学んでいるのは、「仁」を求める「孔孟学」であると説明していた。おそらくは、「朱子学」しか許されなかった当時の江戸時代の雰囲気からすれば、異端であった「陽明学」を信奉する自らの姿勢を隠す意味があったのだろう。
 彼にとって、「孔孟学」は、「孔子」(紀元前552~紀元前479年)・「孟子」(紀元前372頃~紀元前289年)の教えをただ学ぶというのではなく、死も辞さぬ思いで、その教えの真髄を心の中に埋め、字義通りに行動する人間を育てる手段であった。学んだことを行動に移すということが塾の目的であると彼は宣言している。いささか長くなるが大塩の言葉を現代文に直して引用しておこう。
 「私の学びの方向は、『大学』、『中庸』、『論語』を修めることである。『大学』、『中庸』、『論語』は、孔子の教えを顕したものである。『孟子』も修めたい。『孟子』は孔子を引き継いだ書である。また『六経』も孔子が不要な文章を削除し、悪い個所を訂正(刪定、さんてい)したものである。そういうこともあって、私の学ぶものを『孔孟学』と名付けたい。・・・『四書六経』はじつに多くのことを語ってくれる。それらで説かれている『仁』のもつ重要さは計り知れない。『仁』による『徳』を求めるには、『考』が必要である。『考』のみがそれを成し遂げてくれる。したがって、私の学は『考』の一字に言い表せる。『考』こそが、『四書六経』の真理に辿り着けるものである。私の力は足りない。知識も足りない。しかし、『四書六経』の『理』(ことわり)を心の中に求め、心の中の『理』を極めるべく、まさに、生命を賭してこれら書に説かれているものを実践したく願う。そうした意味を込めて、私の学を『孔孟学』と称したいのである」(『洗心洞学名学則井答人論学書略』より)

 『四書五経』
 『四書』
 余計なことであろうが、ここで、整理のために、『四書五経』(ししょごきょう)について説明しておきたい。
 人口に膾炙している『四書五経』とは、儒教の教典で重要な9種の書物のことを指している。『四書』は、『論語』、『大学』、『中庸』、『孟子』の4つの書である。『五経』は、『礼記』(らいき)、『詩経』(しきょう)、『書経』(しょきょう)、『易経』(えききょう)、『春秋』(しゅんじゅう)の5つの『経』(規範となる書)である。
 大塩平八郎が『四書六経』(ししょりくけい)と言っている『六経』とは、『五経』に『楽経』(がっけい)を加えたものである。『楽経』は、秦の「始皇帝」(紀元前259~紀元前210年)による「焚書坑儒」によって早くから失われていた。
『五経』、または『六経』は、すべて「孔子」以前からの書物であるが、伝統的な儒教の理解では、「孔子」の手を経て現在の形になったものと考えられている。
 宋代(960~1279年)に「朱子学」が興って、儒教を体系的に学ぶために経典が整理された。そして、『論語』が中心に置かれた。さらに、それまでは、『礼記』の中の章であった『大学』と『中庸』を、『礼記』から独立させ、その上に、儒教思想について多く書かれていた『孟子』を加えて『四書』としたのである。つまり、『四書五経』とは「朱子学」の基本文献として定められたものである。
 『論語』 
 『四書』のうちの『論語』は、孔子と彼の高弟の言行を、孔子の死後、弟子たちが記録した書物で、現在の定本の形式としては、「上」、「下」20篇の構成である。著者に挙げられている本人が実際に書いたものではない書物の常として、著名な定本にはいくつかの異本がある。
 一つは、魯国に伝わった『魯論』20篇で、前漢(紀元前206~紀元後8年)・後漢(紀元後25~220年)代を通じて定本となった。現在、『論語』とされているのは、この『魯論』(ろろん)を指すのが通例である。
 魯(ろ)は、孔子の母国(現在の中国山東省南部を本拠)で、周代(紀元前1046頃~ 紀元前256年)、春秋(晋、斉、楚が争った)時代(紀元前770~紀元前403年)、戦国時代(紀元前403~紀元前221年)に亘って存在した歴史の長い王朝であった(紀元前1055~紀元前249年)。当然、魯は、周囲の大国からの支援を受けたり、圧迫に苦しめられてきた歴史を持っていた。
 二つは、斉国で伝承されていた『斉論』(さいろん)で、『魯論』より多い22篇から成る。斉(紀元前1046~紀元前386年)は、周代、春秋時代、戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した国で、周の建国に貢献した太公望(呂尚、りょしょう、紀元前11世紀の伝説上の軍師)によって建てられたと伝承されている。『斉論』は、後漢時代には衰退していた。
 三つは、古文字で書かれた『古論』。前漢時代に孔子の家の壁中から発見されたと言われている。『魯論』より1つ多い21篇である。
 異本があるということは、いわゆる『論語』と孔子とを同一視することの危険性を語るものである。実際には、『論語』が、いつ誰によってどのように作られてきたのかの詳細は不明である。少なくとも言えることは、『論語』は、一人の手によって、一挙に書かれたものではなく、前四世紀初頭から前三世紀中期まで、百数十年に亘って、何度かの編集・再編集・潤色・補遺等が繰り返され、地域的にも平行して編纂されたという点である。
 『大学』 
 先に進もう。『四書』のうちの『大学』とは、修身から治世の心構えまで、人間のあるべき道を諭すことを目的としている。ただし、当時の時代背景の産物として、人間一般ではなく、権力者が目指すべき理想像を述べたものである。完結した本ではなく、紀元前430年頃に書かれた『礼記』(こうじゅつ)の中の一編である。前漢の「武帝」(紀元前159~87年)が、紀元前136年に、儒教を国教と定めて、その教育機関として長安に「太学」(日本の大学の語源)を設置した際、その教育理念を示したものが『四書』の一角を構成する『大学』であるとされている。
 『大学』は『礼記』の中の一篇であると上で触れたが、『礼記』のことを説明する前に『経』の用語の意味についても述べておこう。『経』は、通常『経書」と呼ばれている、儒教の基本的な古典で、儒教の根本法則を著した本という意味である。中国の戦国時代末期には、『詩』、『書』、『礼』、『楽』、『春秋』、といった『経』がほぼできていた。漢代に儒教が官学となると、これらの総称が『五経』となった。
 儒教では、『四書』のうち、『大学』が入門書で、『中庸』が最後に読む深淵な書とされた。日本の少年、二宮金次郎(1787~1856年)が薪を背負いながら読んでいたのは『大学』である。
 日本の会社経営者が好んで引用するのが、『大学』の節である。
 その触りを見よう。
 「上に悪む所、以て下を使う毋れ」(上司が自分を使うのに嫌なところがあれば、自分が部下を使う時に、それと同じことをしてはならない)
 「賢を見て挙ぐること能わず、挙げて先んずること能わざるは命(めい=怠慢)なり」(優秀な人間を見て登用することができず、登用しても先に立てることができないのは怠慢である)
 「朱子学」には、『大学』のさらに前の入門書がある。『小学』と『近思録』である。
 『小学』とは、朱熹が編纂した儒教のもっとも初歩的な入門書である。その節の題は、明治以降の日本人には馴染み深いものである。
 『小学』の「序」から順に題を掲げる。「立教」(子育ての心構え)、「明倫」(教育の心構え)、「敬身」(人と接する心構え)、「稽古」(善を積む心構え)、「嘉善」(教師と師弟の心構え)、「善行」(身を治める心構え)などの節は現代人にも馴染み深い。「身を慎み、華美を遠ざける」というのが、この書の結論である。
 『小学』の次の段階での入門書は、『近思録』である。『近思録』は、「朱熹」(「朱子」のこと)たち、「宋学」の達人たちが編纂して、1176年に刊行された「朱子学」の入門書で、14章から成る。日本では、江戸時代後期に各地の儒学塾で講義されていたと言われている。
 「道体」(宇宙や世界の捉え方)、「為学大要」(学び方)、「格物窮理」(物事の道理を極めること)、「存養」(心の根本を養い育てること)、「改過遷善克己復礼」(過ちを改め、善をめざし、人欲を去り、天理に則ること)、「斉家之道」(家庭の有り様)、「出所進退辞受之義」(正しい出処進退の有り様)、「治国平天下之道」(国を治め、天下を太平にする方法)、「制度」(社会制度の整備)、「君子処事之方」(君子としての対応の仕方)、「教学之道」(教育のあり方)、「改過及人心疵病」(過ちを見つけ、心の悪い点を改めること)、「異端之学」(異端の教学とは何か)、「聖賢気象」(先人の聖人や賢人)等々の題も有名である。
 『小学』、『近思録』、『大学』の順で学ぶことを「朱子学」では掟としているが、日本の保守思想家たちが、現在の世の風俗の乱れを嘆いて、「修身教育」の必要性を声高に叫ぶ有力な根拠の一つが、「朱子学」にあることは説明するまでもないだろう。「陽明学」も「君子」が「将軍」から「天使」に代わっただけのことで、権力側から見た「臣民」を統治するイデオロギーで固められたものであることに変わりはない。
 『中庸』 
 『四書』の一つである『中庸』は、紀元前430年頃成立していたと言われている。上で説明したように、『中庸』は、『礼記』に含まれる一篇であったが、南北朝(後漢末期から随の成立までの時期、184~589年)時代に独立した一書になったとされる。『大学』とともに宋代に入り儒教の重要文献として尊崇されるようになった。中庸とは偏り無く永久不変のものという意味である。「朱熹」(しゅき、朱子のこと、1130~1200年)によれば、「中」とは偏らないこと、「庸」とは易(か)わらないことを意味する。
 孔子は説明している。
 『君子は中庸をす、小人は中庸に反す』(徳行の備わった人は偏らず、つねに変わらないのに対して、徳の無い小人物はそれが出来ない)
 『中庸は能くす可からざるなり』(中庸の徳を実行することは難しい)
 『孟子』
 『四書』の一つとされている『孟子』は、「孔子」の弟子・「孟子」(紀元前372頃~紀元前289年頃)による『論語』を真似た言行録で、当時の儒家の標準的理解が記述されている。とくに、「仁義」の思想に重きが置かれている。
 上の者が「仁」を持つなら、下の者は「義」で報いるべきだとした。「孟子」はこれを「仁義」として「仁」と「義」を重ねた。
 『孟子』については、上田秋成(うえだ・あきなり、1734~1809年)の『雨月物語』が刮目すべき見方を出している。「革命論」を秘めている『孟子』は日本では真の意味では読まれなかったというのである。松岡正剛はこの見方を称揚し、大塩平八郎などの「陽明学」や「国学」が力を持つようになって、初めて『孟子』が革命という明確な意志によって読まれるようになったのであると(『松岡正剛の千夜千冊」、「孟子」、http://1000ya.isis.ne.jp/1567.html)
 次に『五経』についても、話を進めよう。

 『五経』
 『礼記』 
 『五経』の一つである『礼記』とは、主に礼の倫理的意義について解説した古説を集めたものである。前漢初期には『礼の記』131編のほか、種々の礼(習俗、制度、宗教)に関する古記録が出回っていたが、紀元前1世紀に、「戴徳」 (たいとく)という学者がこれらを整理・縮小して『大戴礼』 (だいたいれい) 85編を編集し、次いで甥の「戴聖」(たいせい)が、それをさらに整理して49篇の『小戴礼』(しょうたいれい)という著作にまとめた。これが、唐代(618~907年)以後の正統な経書『五経』の中の『礼記』となった。内容は、ほぼすべてが孔子による解釈であるとされている。
 『詩経』
 『詩経』は、中国最古の詩集とされ、紀元前9世紀から紀元前7世紀にかけての詩 305編を収める。孔子が門人の教育のために編纂したものと儒教では解釈されている。「風」(黄河地方の民謡)、「雅」(周朝廷で謳われた詩で、建国伝説が含まれている)、「頌」(しょう、皇帝の盛徳を誉めて神に告げる詩)の三つに区分される。詩の形式は4言で1句,4句で1章となる。「詩」のテキストには流派の差異があったが、前漢の「毛」家のものが支配的となって、後世の定本となったらしい。
 「切磋琢磨」という有名な熟語は、『詩経』(「衛風」(えいふう)・「淇奥」(きいく))の「切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如く」とあるのに基づく。「切」とは獣の骨や角などを切り刻む、「磋」は玉や角を磨く、「琢」は玉や石を削って形を整える、「磨」は石をすり磨くことであり、言うまでもなく、この四字熟語は、「励まし合って、共に向上する」という意である。
 『書経』
 『書経』は、『詩経』と並ぶ古典の中の古典である。古代中国では単に『書』と呼ばれていたが、前漢以後『尚書』(しょうしょ)と呼び方に変わり、宋代になってから、『書経』と称されるようになった。編者は孔子とその関連の人であると言われている。上古からの歴代史官の文書を基に、堯(ぎょう)、舜(しゅん)、夏(か)・商(殷、いん)、周3代の帝王の事蹟をまとめたものである。神話や伝承が多いが、儒教では、この書を帝王による統治の普遍的法則を示すものとされている。
 『書』も、秦の「始皇帝」の「焚書坑儒」と項羽による「咸陽の焼き討ち」で、一旦は、姿を消したが、前漢の初めに復刻された。現行の『書経』は初期の100篇を超える分量から58篇にまで整理されている。
 『易経』
 『易経』は、宋代になる前には、『易』とか『周易』と呼ばれていた。宋代に入って、儒教の『経書』に挙げられたことから『易経』と称されるようになった。
 「易」の語源については、多くの解釈がある。「易」という語には、「変化」の意味もあって、過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとする試みであったという説は説得的である。「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする 解釈も有力なものである。「太陰」(月)と「太陽」(陽)とで「陰陽」(おんみょう)を代表させ、太陽、月、星の運行から運命を読み取る占星術でもあった。
 伝統的な儒教の考えでは、『周易正義』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」(かわる)、「不易」(かわらぬ)、「簡易」(たやすい)の 「三易説」が採られている。
 「八卦」(はっけ)という占い用語も、この『易経』のものである。「爻」(こう)という名の造形の組み合わせで占うという方法から出た言葉が「八卦」である。「まじわる」と訓読みする「爻」は「陽」とされる長い横棒(—)と、「陰」とされる2つ横に並べた短い横棒(- -)の組み合わせである。説明を楽にするために長い横棒を「1]、短い2つの横棒の形を「0」としよう。この記号を並列して3桁に並べると8つの組み合わせができる。そのことから「八卦」という用語が産み出されたのである。
 たとえば、「陽」ばかり3つ並べると「111」になる。この並び方が「乾」(けん)であり、「天」(てん)である。
 以下「110」は「兌」(だ)・「沢」(たく)、である。以下同様の手続きで「101」が「離」(り)・「火」(か)、「100」が「震」(しん)・「雷」(らい)、「011」が「巽」(そん)・「風」(ふう)、「010」が「坎」(かん)・「水」(すい)、「001」が「艮」(ごん)・「山」(さん)、「000」が「坤」(こん)・「地」(ち)である。これら8つの形が、森羅万象すべてを表現するものと見なされている。そして、「乾~坤」の各項と「天~地」の各項の組み合わせ、64通りを「六四卦」という。
 よく言われている「乾坤一擲」とは、この「易経」から生まれた言葉である。
 「乾」は「天」、「坤」は「地」、「乾坤」で「天地」の意味。 天地を賭けて、乗るか逸るかの勝負に出ることをいう。「韓愈」(かんゆ、768~824年)の詩「鴻溝を過ぐ」には、「一擲を成して乾坤を賭せん」とある。「一擲」とは、すべてのものを一挙に投じることである。
 『春秋』 
 次に、『五経』の1つの『春秋』のことに触れよう。
 『春秋』は、紀元前722~紀元前481年までの魯国で起こったことを、年次・季節・月・日ごとに記録したものである(日だけは干支で書かれていた)
 たとえば、君主(魯公と表現されていた)の即位2年目の出来事として、「二年・秋・八月庚辰」の日付には、「公及戎盟于唐」(隠公は唐で戎と盟を交わされた)というようなごく短い記事が書かれているが、その文章には、孔子の正邪の判断が加えられているとされる。つまり、事実を淡々と述べながらも、そこに、価値判断を入れて書く書き方で、「春秋の筆法』と称されている。
記事は、王(魯公)や諸侯の死亡記事、戦争や同盟といった外交記事、日食・地震・洪水・蝗害(こうがい、トノサマバッタなどによる被害。日本のイナゴとは異なる)といった自然災害に関する記事などが主たるものであった。
 『春秋』は、「獲麟」(かくりん)という言葉で終えられているので、後世、「筆を断つ」とか「臨終」という意味で「獲麟」という熟語が使われるようになった。
 古代の中国では、「麒麟」は想像上の「聖獣」であった。鹿に似ているが、それよりも大きく、顔は龍、牛の尾、馬の蹄、頭に角、背毛は五色。神聖な幻の動物。千年の寿命、鳴声は音階、歩いた跡は正確な円。
 この「麒麟」を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされる。
 誤って麒麟が捕えられ、恐れおののいた人々によって捨てられてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって、『春秋』の記述は打ち切られている。「孔子」は、「西に狩りして麟を獲たり」の句で筆を絶って死んだとされている。
 『楽経』 
 『四書五経』の最後の説明として、これを加えれば『六経』とされている『楽経』について述べておこう。
 「朱子学」の基本となる書は、『四書六経』である。つまり、一般的な『五経』に『楽』が復活させられていた。「朱子学」に気を遣う大塩平八郎は、そのために『六経』と記したのであろう。
『楽経』は、音楽の書であったと言われているが、秦の「始皇帝」の焚書坑儒に処せられた。儀礼に付けられた儀式音楽であったものとか、『詩経』に付けられた音楽であったという説などが入り乱れていて正確なところのものは分かっていない。『楽経』の注釈書である『楽記』(がっき)が前漢の「戴聖」(たいせい)によって『礼記』に収められている。
 「戴聖」は、前漢時代の「梁」(りょう、河南省)の学者。叔父の「戴徳」(たいとく)は「大戴」、「戴聖」は「小戴」と呼ばれている(生没年未詳)
 大塩平八郎に戻ろう。門弟に対する平八郎の接し方は非常に厳しいものであった。「洗心洞」塾の『学則』には八つのことが明示されていた。
 ①聖人の学問を尊敬して学業に励むこと、②低い内容の俗書を遠ざけること、③『詩経』よりも先に『経書』を読むことを日課とすること、④俗人と交わって、悪い遊びに染まらないこと、⑤ みだりに塾の外に出ないこと、⑥家族に異変があれば、まず大塩平八郎に相談すること、⑦家族の吉凶は必ず平八郎に報告すること、⑧犯罪を行えば容赦はしないこと、以上。
 塾生は、自宅から通うのではなく、先生宅での寄宿生活を義務付けされていた。③については、すぐ後で述べる。平八郎の価値観からは外れる心の緩みがあれば長幼の区別なく、鞭を実際に揮ったという(吉見九郎右衛門の取調での訴え)。塾生は、睡眠中も、平八郎が見回りにきた時には、必ず、起きて挨拶をしなければならなかったという。
 講義は、平八郎が朝五つ(午前8時)に役所に出勤する前の時刻(後述のように、たいていは午前5時)に1回あった。平八郎は昼八つ(午後2時)に役所から帰宅し、2回目の講義があった。さらに夜にかけて2~3回の講義が行われた。講義内容は、『経書』の内容に照らして、当時の政治が如何にずれて間違っているかを批判するものであった(幸田成友『大塩平八郎』による)
 また、横道に逸れるが、江戸時代の時刻の表示について説明しておこう。時刻は午前と午後にかけて四つから九つまである。三つ以下はない。九つが上限である。しかも、数え方は、小さい数字から順に大きくするのではなく、逆である。九つ、八つ、・・・四つとなる。現在の午後11時が九つ。それから2時間毎に八つ、七つと数える。午前9時が四つとなる。それから2時間後の午前11時が九つとなる。一刻(いっとき、2時間)を半分にして半刻(はんとき、1時間)、さらに半分にして四半刻(しはんとき、30分)となる。午前0時は、「夜九つ」という。つまり、午後11時の九つではなく、わざわざ午前0時を表すのに、「夜九つ」と呼んだ。
 江戸時代の人々は朝6時には仕事を始めていた。この午前6時のことを「明け六つ」という。単に「六つ」というと、午前5~7時になるが、これに「明け」をつけると「半刻」後の午前6時になる。同じように、「暮れ六つ」は午後6時である。
 ただし、現在の時間表示と江戸時代の時刻とはずれる。日の出を「明け六つ」、日没を「暮れ六つ」というのは、季節毎の日の出、日没を基準としてので、季節によって現代の時計時間からすれば、江戸時代の時刻は大まかなものであった。
 江戸時代の時刻を干支(えと)で表現したものも説明しておこう。
 1日24時間を12等分して、上記と同じく1刻を2時間とした。「子の刻→丑の刻→寅の刻→卯の刻→辰の刻→巳の刻→午の刻→未の刻→申の刻→酉の刻→戌の刻→亥の刻」となる。
 1刻の前半の1時間を「上刻」、後半の1時間を「下刻」と呼ぶ。1刻の中央を「正刻」(中刻)という。
 ふたたび、大塩平八郎の塾のことに戻る。
 塾生は、毎朝「卯の上刻」には起床させられた。つまり、夜明け前の午前5時という早朝である。起床後すぐに書を読み、内容が分かるまで、十数回読み、理解できれば筆写する。それが終われば「詩」を詠む。
 「詩」とは『詩経』のことであろうが、ただ、その詩の美しさを愛でるためではない。書く文章に心地良いリズムを与えることを生徒に生得させるためである。「詩」の韻音(いんおん)と「平仄」(ひょうそく)の規則性を身に付けさせるのである。
 韻音とは、たとえば、「閑」(kan)と「山」(san)の語尾の「n」のように同じ音が重なることを言う。漢詩の韻の作り方は100種類以上あり、5言詩(1行が5文字)の場合、偶数の句(行)が、韻を踏まねばならないというのが漢詩の約束事である。
 漢詩には、さらに「平仄」(ひょうそく)という決まりがある。
 漢字には、中世の古語に限定されるが、現在とは異なった音の「四声」(しせい)があった。四声とは、中国語の声調を、4種類に分類したもので、「平声」(へいせい)、「上声」(じょうせい)、「去声」(きょせい)、「入声」(にゅうせい)をいう(現代中国語では、「入声」は失われ、逆に「平声」が二つに分かれているため、「陰平」(第一声)、「陽平」(第二声)、「上声」(第三声)、「去声」(第四声)となっている)。
 「平声」の「平」とは、文字通り「たいらな」という意味であり、抑揚のない長音である。それに対して、残りの3つの音はいずれも傾きがあり、しかも短いので、「仄」(かたむき)がある音という意味で「仄声」という。つまり、「上」、「去、「入」の3声が一括して「仄声」と呼ばれる。
 そして、漢詩においては「平声」と「仄声」の音を交互に置くことによってリズムや音の調和が作り出されるのである。
 日本人の作る漢詩は、当然ながら、中国人の韻を踏むことなど不可能である。したがって、日本では、「平仄を整える」と言う使われ方がなされてきたが、この場合は、「(てにをはを)整える」という程度の意味である。「平仄する」という使われ方もされてはいた。しかし、その意味は「矛盾点を訂正する」程度のものであった。「平仄が合わない」という言葉もある。これは、「辻褄が合わない」という意味で使われた。
 このように見てくると、大塩平八郎が、「詩」を重視したのは、議論する際の言葉のリズムを重視していたからであると思われる。
 「洗心洞」の塾生は、「酉の中刻」(暮れ六つのこと)に「臥床」(がしょう=就寝)しなければならなかった。日没とともに就寝しなければならなかったのである。これはこれで塾生にとっては苦行であっただろう(「洗心洞入学盟誓」より)
 以上、今回は、横道に長々と逸れてしまったが、それには2つの意図がある。1つは、この拙文を読まれた方々はすぐに気付かれたと思うが、現代の日本人の語彙は、想像以上に儒教の学問の影響を強く受けているということである。現在の私たちの言葉の劣化は、あまりにも簡単に『経書』を遠ざけてきたことと無縁ではないだろう。
 ただし、私は儒教の「学」を両手を挙げて讃美しているわけではない。「太古には、優れた社会統治を行った王朝もあった。そうした優れた統治(人格の陶冶も含む)を記録した『経書』の理想からは、現代社会は大きく外れてしまっている。だからこそ、現代社会は太古の理想的な政治体制に戻らねばならない」と訴えるが保守思想であろう。
 しかし、そこには致命的な欠陥がある。「社会は変化し続けるものであり、社会改革とは、変化の過程で新しく産み出された力を生かして、最重要である人間の尊厳が保障される社会を新しく創造することである」という歴史的視点が保守思想にはない。私にはそう思える。これが私の2つ目の意図である。

学長通信(第13号)

 目次
1 2017年4月の講義
2 シリーズ、地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(12)、大塩平八郎の乱(3)
3 学生レポート 学生C

1 2017年度4月の講義
 新年度より、「働きながら学ぶ」という労働学校の趣旨に則って、開講は週2回(前期の昼の部は火・木曜日。夜の部は月・水曜日)、1限目は13:30~15:00、2時間目は15:30~17:00、夜の部は18:30~20:00と、前年度より大幅に変更しましたので、ご注意ください。
 講義は、①基礎ゼミナール、②実践講座(ただし、後期開講の予定。労働運動の歴史に学ぶ、社会運動の経験に学ぶ)、③読み書き話す基礎教養講座、④公開市民講座(不定期で土曜日の昼)、⑤労働を支える会員労組の労働講座、の5本柱からなります。

①基礎ゼミナール 
前期火曜日、昼の部、4月4、11、18、25日。
大賀 正行
(部落解放・人権研究所理事、社会変革の古典を読む)
1時間目(13:30~15:00)
田端 稔
(唯物論研究会・『唯物論研究会』編集長、マルクスのアソシエーション論)
2時間目(15:30~17:00)

前期木曜日、昼の部、4月6日、13日、20日、27日。
斉藤 日出治
(大阪産業大学経済学部元副学長・本校副学長、『資本論』で現代資本主義を読む)
1限目(13:30~15:00)
佐藤 正人(海南島近現代史研究会、歴史を読み直す)
2時間目(15:30~17:00)

③読み書き話す基礎教養講座 
前期月曜日(ただし隔週)、夜の部、4月3、17日。
山本 哲哉
(大阪大学大学院・哲学、弁論・提案・文章・読書・課題報告)
3限目(18:30~20:00)
前期水曜日(ただし隔週)、夜の部、4月5、19日。
富永京子
(立命館大学産業社会学部准教授、コミュニティ・オーガナイズの手法)
第3限(18:30~20:00)

⑤労働を支える会員労組の労働講座
前期水曜日(ただし隔週)、夜の部、4月12、26日。
山元一英
(全港湾大阪支部前委員長、毛沢東の『実践論』)
第3限(18:30~20:00)。
  
2 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第10回)

 大塩平八郎の乱(3)
 王陽明

 天満与力・「大塩平八郎」の屋敷は、五百坪もの敷地であった。幕府から与えられた土地である。現在の感覚からすれば大きな敷地であるが、江戸末期の与力としては標準的な広さであった。病弱な彼は若年で、養子への家督を継がせる願いを許され(38歳)、余生は私塾を開いていた。敷地には、塾室、講堂、書斎、家族の住居と、それぞれ独立した棟があった。
 講堂には、「立志」、「勉学」、「改過」、「責善」の四つの言葉からなる扁額が掲げられていた。
 この四つの言葉は、「王陽明」(1472~1529年)が、左遷されて蟄居していた「龍場」(地名)で弟子たちに教え込んだ内容が凝縮されたものであるとされている。
 大塩平八郎を論じるに当たっての予備知識として、王陽明について、ごく一般的に紹介しておきたい。
 王陽明は、中国明代の儒学思想家、高級官僚、武将であった。読書のみによっては、真理に到達することはできない。仕事や日常生活という実践を通して真理を求める心を育むことこそ重要であるという考え方を、彼は、流布させた。「実践儒学陽明学」と呼ばれているものがそれである。
 「陽明」は号で、「陽明洞」(地名)に住居を置いたことから来ている。「大塩平八郎」の塾名「洗心洞」は、平八郎の「王陽明」への憧れを表したものであると言える。
 科挙試験を首席で合格し、「竜山公」として高級官僚の誉れ高かった父の下で、これまた秀才として育ち、「王陽明」も科挙試験に三度目(二八歳)で合格している。
 二六歳の時、異民族の侵入に苦しめられている明王朝を護ろうとして兵法を修めた。三五歳の時、宦官「劉瑾」の独断的な政治を批判する上奏文を、皇帝「武宗」に提出したが、「劉謹」の恨みを買って、僻地の「貴州省龍場駅」の役人に左遷された。ここでの苦しい自活生活の末に会得したのが、「龍場の大悟」と言われる四つの言葉であった。
 その後、「劉瑾」の専横が明らかになり、彼が追放されると、「王陽明」は県知事に任じられた。後は順調に出世階段を上り、武勲も積み上げた。江西巡撫、南京兵部尚書、江西・復福建省南部の農民反乱や匪賊の鎮圧、寧王の乱の鎮圧、広西の反乱鎮圧、等々である。最後の遠征の帰郷途中の船中で、持病の結核の発作を起こし病死した。
 「王陽明」の思想は、「宇宙の根本原理」(「理」)が唯一の真理であると主張する「陸九淵」(1139~92年)の「一元論」を受け継いでいる。
 陸の一元論は「朱子学」の二元論から脱しようとしたものである。「宋学」とも呼ばれているように、「朱子学」は、宋代に興った儒教の学派で、宇宙万物の形成を、「理」(宇宙の根本原理)と「気」(物質を形成する原理)の一致として説明する「理気二元論」である。中国の古来から伝承された宇宙論的存在論を南宋の「朱熹」(朱子)が完成させたとされている。ただし、重きを「理」に置くか、「気」に置くかで、朱子学内部でも対立が連綿と続けられてきた。それは、西洋哲学における「観念論」と「唯物論」との対峙と同じものと見なしてもいいだろう。
 「王陽明」は、真理は心の中のみにあるという考え方を基本としていた。「事物の理は自分の心の中のみにある。心の外に、事物の理を求めても、それはできない」という「心即理」を主張し、自己の心の中には、「天地の理を判断できる力(「良知」)があるとする「致良知」(良知を致す)説、さらには、知と行を切り離して考えるべきでないという「知行合一」説を主張した。真理とは、「孔子」などの古代の「聖人」の心と同じ心を持つようになることである。その心に達する道は、「学問」だけではなく「行い」(実践)を伴うことが必須であると、「王陽明」は説いたのである。
 「大塩平八郎」の塾の扁額の字、「立志、勉学、改過、責善」に戻ろう。
 「聖人」に近付くべく、これら四つの言葉を実践すべしというメッセージがこの扁額には込められている。
 ①まず「立志」。立派で完全な人間になろうとの「志」を「立てる」こと。
 周知のように、「立志」とは孔子の『論語・為政』の言葉を源としている。
 「子曰く、『吾、十有五にして学に志し(「立志」)、三十にして立ち(「自立」)、四十にして惑わず(「不惑」)、五十にして天命を知る(知命)』」。
 ②「勉学」。常に学びとろうとする、謙遜と勤勉を身につけること。
 ③「改過」。自分の過失を常に意識し、常に改善する努力をすること。
 ④「責善」。人に善を勧めること。ここでの「責」は「人を責める」という意味ではなく、「勧める」という内容である。「四書」の『孟子』の一節「責善朋友之道也」(善を責(すすめる)は朋友の道なり)を意識したものであろう。
 王陽明の代表的な考え方をおさらいしておこう。
1. 「心即理」。「王陽明」が意識していた倫理観。朱子学の主題である「性即理」を克服しようとした考え方。「朱子学」では、心を「性」と「情」に分けていた。「性」とは天から賦与された純粋な善という性である。「情」とは感情(心の動き)である。「情」は卑しい欲望に傾きがちであるので、「朱子」は卑しくなり得る「情」を見下し、「性」のみが「理」に辿り着くとした。
 しかし、「王陽明」は、「性」と「情」を合わせた「心」そのものが「理」に到達できると考えた。その意味において、心を動かす実践が重視されたのであろう。
2. 「致良知」。「良知」とは、誰もが持つ先天的な「道徳知」であり、生命力の源である。「王陽明」は、この生命力に最大級の重要性を付していたと思われる。
 理は善悪を超えたものであるべきだが、心は善と悪との間で揺れ動く。人は、「良知」によって、善悪の区別を知り、悪を正すことができる。その手続きとして、人は絶えず「無」の境地になる必要がある。その際、既成の善悪の観念から自由にならねばならない。
3. 「知行合一」。「知」とは、上記の意味の「良知」(認識)。「行」とは「実践」。外的知識によるだけでは、「理」に辿り着けない。認識と実践は不可分の関係にある。「知」が先にあって「行」が後になるのではない。
 「王陽明」の考え方は、「陽明学」と称され、明治維新の思想的原動力として大きな影響を及ぼした。三宅雪嶺の『王陽明』、雑誌『陽明学』などが、日本人の道徳観を涵養させる試みであり、日本人に大きな影響を及ぼした。
 幕末の維新運動も「陽明学」を基礎に置いている。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山がそうであり、本稿の主題である「大塩平八郎」が、日本の保守派の政治家たちから讃美されるのも、日本的「陽明学」のなせるものである。
 戦後初期の保守政党の首領たちの師であった安岡正篤も、彼流に解釈し直した『王陽明研究』を武器としていた。
 「大塩平八郎」への拘りのない讃美論に足を掬われないために、今回は王陽明を説明した。
 王陽明の思想は『伝習録』、『朱子晩年定論』、『大学問』に凝縮されている。
 以下は「王陽明」に関する参考文献。
荻生茂博「陽明学」『日本歴史大事典 3』小学館、2001年。
三島由紀夫『行動学入門』文藝春秋、1970年。文春文庫、1974年。
王陽明、山田準・鈴木直治訳『伝習録』岩波文庫、1936年。
王陽明、溝口雄三訳『伝習録』中央公論新社・新版中公クラシックス、2005年。
王陽明、島田虔次訳『中国文明選6、王陽明集』朝日新聞社、1975年。
島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書、1967年。
王陽明、島田虔次訳『大学・中庸』朝日文庫(上下)、1978年。
荒木見悟『陽明学の位相』研文出版、1992年。
吉田公平『日本における陽明学』ぺりかん社、1999年。
吉田公平『陽明学が問いかけるもの』研文出版〈研文選書〉、2000年。
大橋健二『良心と至誠の精神史―日本陽明学の近現代』勉誠出版、1999年。
大塩平八郎『(古本)大学刮目』玄武洞文庫、1891年(中之島図書館所蔵)
井上哲次郎『日本陽明学派之哲学』富山房、1900年(国立国会図書館所蔵)
三宅雪嶺『王陽明』政教社、1893年(国立国会図書館所蔵)

3 学生レポート
学生C
2017年2月14日
「保守系の経済学のどこが間違っているのか?」の講義で学んだこと(講義ノート)
感じたこと、考えたこと」

目次
1,学んだこと(講義ノート)
 (1)まずはマルクス経済学を批判的に読む
 (2)経済学は人々の生活や将来に影響をあたえる
 (3)ケインズの主張とフリードマンの主張の理解(その1 ケインズの主張)
 (4)ケインズの主張とフリードマンの主張の理解(その2 フリードマンの主張)
 (5)ショックドクトリン的手法(その1 ラテンアメリカでの実験)
 (6)ショックドクトリン的手法(その2 日本におけるショックドクトリン)
 (7)19世紀から20世紀初頭(戦間期)にかけての変遷(その1 国際金本位制)
 (8)19世紀から20世紀初頭(戦間期)にかけての変遷(その2 再建金本位制)
 (9)アメリカ発の世界金融危機の内実(その1 アメリカの回転ドア人脈)
 (10)アメリカ発の世界金融危機の内実(その2 サブプライムショックの仕組み)
 (11)アメリカ発の世界金融危機の内実(その2 恐慌の仕掛け人)
 (12)トランプ米大統領誕生の本質(その1 トランプ大統領誕生の歴史的背景)
 (13)トランプ米大統領誕生の本質(その2 パックスアメリカーナの終焉)
 (14)トランプ米大統領誕生の本質(その3 エスタブリッシュメント対非エスタブリッシュメント)
 (15)トランプ米大統領誕生の本質(その4 東アジアの行く末)
 (16)トランプ大米統領誕生の本質(その5 米中関係の行く末)
 (17)ユーロ危機の本質(その1 ソブリン危機に至る背景)
 (18)ユーロ危機の本質(その2 ギリシア危機の真相)
 (19)右傾化する欧州の行く末
 (20)アジア通貨危機など恐慌の真相
 (21)日本のバブル景気(その1 バブル崩壊の背景)
 (22)日本のバブル景気(その2 狙われた日本の銀行)
2,感じたこと
3,考えたこと 

1,学んだこと(講義ノート)
(1)まずはマルクス経済学を批判的に読む
経済学は新古典派経済学だけにあらず、また、新古典派経済学に対置する経済学もマルクス経済学だけでない。経済学は多様であることを学んだ。
保守派の経済学はどこが間違っているのか。縮めていえば経済学批判である。
左派の多くは、経済学ないし経済学批判についてはマルクスの専売特許であり、マルクスを学ぶことだと主張する。それは教条的教えである。まずそこを疑わなければならない。
剰余価値論は正しい。数学的に証明できる。しかし、そのままでは活かすことができない。なぜならマルクス経済学での剰余価値論の元になっているのは労働価値説だからだ。労働価値説は交換の理論としては成り立たないる。つまり商品の交換価値の説明にはならないのである。どうしても労働で量ったときの価値と価格はずれてしまうである。平均値にもならない。よって経済学の説明にはならないのである。搾取は説明できるが、交換が説明できないのである。
資本主義の全体系を解き明かすには搾取の仕組みだけでは足りず、交換についても説明しなければならない。現在においては色々なテクニックがあり、主流派経済学によらなくても交換の説明が可能である。だから経済学批判をたて直すことができるのであって、またそれが必要なのである。
しかし、運動の世界のみならず学者の世界においても、それを批判的に読み直す精神が弱まってしまっている。経済学批判をするときは、マルクスから出発するということを自明の前提にしないことが肝要であり、それがこの講座の目的でもある。
マルクスは社会心理を射程に入れていなかった。そして貨幣の理解も足らず、マルクス経済学をもとにして貨幣、金融を理解しようとしても理屈が足らないのである。なぜなら生産現場のみで考えた価値論だからである。
マルクスが資本論を書いていた頃は、これから国際金本位制が成立しようとしていた時期であった。国際金本位制の成立は1870年代以降であり、資本論は1867年である。だから貨幣、金融から見た資本主義をとらえ損ねている面がある。マルクスの言葉で現在の経済は語れない。抽象的には語れるが、データは示せない。なぜならマルクスの時代と現代とでは状況がまったく違うからである。
「マルクス、レーニン主義」はスターリンがつくったものである。スターリンが、自分が正当な後継者であるということを装うためにつくったようなものである。だから中身はスターリニズムである。そして批判すべきはスターリンの個人批判だけでは足りない。スターリンはマルクス主義が生みだした負の遺産であると総括しなくしてはならず、それなしにマルクス主義は受け入れてもらえないのである。ソビエトはマルクス、レーニンを錦の御旗にしてきたのであり、もって社会主義、共産主義を受け入れるということはソビエトに加担し協力するものと解釈されているからである。
毛沢東はフルシチョフのスターリン批判(個人崇拝批判)を批判した。自分にとって都合が悪かったからである。その後、中ソ論争がおこり、国境紛争へと発展していった。毛沢東も批判され、断罪されなければならない存在である。
社会主義が、資本主義を打倒できなかったのは、スターリン主義に変質させられた結果である。社会主義、共産主義は信用されていないのである。
(2)経済学は人々の生活や将来に影響をあたえる
二つ目には、経済学は他の学問と違い社会に与える影響が大きいこと。人々の生活や将来に対し大きく影響を与えることなどであることを痛感した。
例えば戦後から1970年代ごろにかけて、世界の多くの国々おいては(ケインズの本意を汲んだものであったかという点は別として)財政政策などをもって有効需要を増大させ完全雇用をめざすという経済政策がとられていた。この政策の要は大量生産、大量消費による好循環を生み出すことにある。そのため労働者に対する一定の配慮、つまり、労働組合の容認、最低賃金制度及び社会保障政策等の福祉政策拡充など労働者に対する一定の政策的配慮などもあわせて行われてきており、先進国の多くにおいては、福祉政策が充実し、分厚い中流層が存在するという状況となっていった。このような発展様式を「フォーディズム的発展様式」という。
しかし、1973年にチリでピノチェト(ピノシェ)政権が樹立して以降、世界的にミルトンフリードマンなどが主唱するマネタリズムの発言力が強まり、イギリス、アメリカ、日本などの先進国の多くで新自由主義的な経済政策がとられるようになっていった。
この新自由主義的な政策転換が世界的に広まったことによって、世界的に不安定雇用の労働者や賃金の低廉な労働者が増大し、また、世界各国間、あるいは各国国内においても所得や貧富などの格差が拡大していったのであった。
事実、日本の(生鮮食料品や原油・エネルギー等の価格変動の激しいものやディスカウト店のPOSデータ等は除外されており不正確さは否めないが)消費者物価指数、いわゆるCPIを見る限りにおいては、1970年代頃から物価が右肩下がりに下がり続けるというデフレ状態に陥っている。これは単位労働コストが下がり続けていることを意味する。つまり1970年代頃から労使の力関係が資本側の方へと傾きだし、労働者の賃金が抑制される傾向になっていることを示すものである。すなわち階級闘争において労働者側が後退局面にある、そういうことを物語っているのである。
(3)ケインズの主張とフリードマンの主張の理解(その1 ケインズの主張)
三つ目には、ケインズとフリードマンそれぞれが提唱した経済理論の違い学んだ。
ケインズの経済理論は、大きな政府を志向するもの、つまり雇用を重視し、政府が積極的に財政政策を発動することで有効需要を増大させて完全雇用及び物価の安定をはかるものである。また、労使間の力関係を単位労働コスト(能率賃金)という概念をもって意識し、物価変動などを説明するものでる。
そしてケインズは、古典派経済学の雇用決定論を『一般理論』において「雇用の特殊理論」と呼び批判したのであった。
古典派経済学は、労働市場の価格メカニズムによって常に労働需給均衡が達成されると主張する(セイの法則)。つまり、失業というものはあったとしても「自発的失業」(自ら働かないことを選択する失業)、あるいは「摩擦的失業」(転職や自己都合による一時的な失業)など労働者の自発的なものであって労働市場のメカニズムから生じたものではないとし、それを(実質賃金率をy軸、労働需要量をx軸にした場合)右肩に下がる労働需要曲線と、(実質賃金率をy軸、労働供給量をx軸とした場合)右肩に上がる労働供給曲線などの関数グラフをもって説明した。両曲線が交差した点が古典派経済学のしめすところの完全雇用である。
それに対しケインズは、失業というものを自発的失業や摩擦的失業のほかに「非自発的失業」(現行賃金の水準で働くことを望む労働者が、就職機会がなく失業にある状態)の存在を定義した。そして、それを供給関数と需要関数の関数グラフにおいて、需要曲線の存在は認めつつ、労働供給曲線については独自の理論を展開したのであった。それは、労働者は実質賃金率に応じて労働供給量を変えたりはしない。つまり労働者は(生活がかかっているので)一定の現行賃金をもらえさえすれば真面目に働き、さらなる賃下げに対しては断固として闘うものである。よって企業においては不況時でもさらなる賃下げができず、もちろん賃上げもしないというものである。この理屈を曲線で示すと不完全雇用時の労働供給曲線は右水平に動き、完全雇用に達したところから垂直に上昇するというものである。そして需要曲線と供給曲線が交わった点から完全雇用に達した点、つまり労働供給曲線が垂直上昇する点までの間における失業が非自発的失業にあたると説明したのであった。
なお、ケインズの発見については、一般的に有効需要の原理のもと雇用量の拡大かつ生産量引き上げ策としての公共投資の有効性を主張する部分のみが取り沙汰されることが多い。しかし、ケインズはそれだけでなく、国内物価水準の安定を維持するための方策として、通貨と信用の供給を調整する方法、いわゆる「管理通貨制度」なども提唱しており、財政政策などによって有効需要を積極的に喚起するだけでなく、管理通貨制度なども駆使し、その時々の社会情勢や経済状況の変化に応じて臨機応変かつ柔軟に対応し、経済の安定をはかることを提唱していたのであった。
(4)ケインズの主張とフリードマンの主張の理解(その2 フリードマンの主張)
フリードマンはマネタリズムを主唱する経済学者である。マネタリズム、いわゆる「貨幣数量説」については、マネーサプライコントロールによって物価を調節することをめざすものである。また、フリードマンはリバタリアン、いわゆる自由至上主義の旗手でもあり、アダム・スミス以来の自由放任の考え方を信奉する人物でもあった。
しかし、(お金の量を減らせばインフレの抑制になるのは事実ではあるが)貨幣数量説については、現実にそぐわない面があることは否めない。なぜなら中央銀行ができるのはマネーサプライ、マネタリーベースまでの関わりであり、核心部分のマネーストックをコントロールすることは叶わない。なぜなら、それについては銀行が貸し出しを行うか、あるいは渋るかによって決まるからである。1990年代の日本においては、日銀の量的緩和政策によってもたらされた過剰資金の多くは実体経済には向かわず、株式や不動産などへの投資(投機)にまわされ大規模なバブルを引き起こしてしまったことは記憶に新しいところである。
このフリードマンという人物であるが、経済学者ではあるもののその活動については政治的な意図を強く感じる。なぜならフリードマン自身が、マネタリズムはレトリックであるといい、貨幣数量説ではマネーストックにコントロールが及ばないことを暗に認めているふしがあるからである。
また、フリードマン的マネタリズムの内実は、マネーコンサプライトロールによる(投資家の心理に働きかけるという)金融市場操作であり、それによって恐慌という経済的暴力を生じさせる手段、つまりフリードマン的にいうとショックセラピー、いわゆる人々に不人気な政策を実施するための暴力的手段という政治的な側面の方が強いように感じられるからである。
(5)ショックドクトリン的手法(その1 ラテンアメリカでの実験)
四つ目にはショックドクトリンの手法、つまりミルトンフリードマンが主唱するマネタリズムやネオリベラリズムなどが「ショック」とう暴力をもって政治経済体制を一変させる手法を具体的に学んだ。
フリードマンたちはこの手法を「ショックセラピー」といい、これはCIAの尋問マニュアル(ショックによって人格を変え供述をとったりするための手法)を個人心理にではなく、社会心理に対し効果を生むよう発展させた手法である。その趣旨は、国民に不人気な政策をショック(大きな天災、社会変動等)を起こし(または生じたときに)、人々が茫然自失しているうちに実行してしまうというものである。
 まず、手始めとしては1970年代初頭にチリが狙われた。当時チリでは世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権が生まれた。それがアジェンデ政権である。ラテンアメリカにおける社会主義の力拡大を懸念したアメリカは危機感を募らせ、CIAを使って反アジェンデ派が多い軍部に働きかけてクーデターを起こさせたのである。それによってアジェンデ大統領は自殺に追い込まれ、凶暴な軍政のピノシェ政権が成立したのである。
ピノシェ政権は、公営企業の民営化、社会保障の民営化、外国資本導入の促進など新自由主義的な政策を暴力的に推し進めた。チリ版構造改革を展開したのである。この民営化と外国資本の導入は一時的な活況を見せ、「チリの奇跡」と称され、長らくラテンアメリカのモデルとされてきた。その具体的手法は、軍人を囲い込み、政権を握らせ新自由主義的な経済政策を実行させて、もって米系企業に権益を独占支配させるというものである。また、債務問題につけ入り、IMFなどに介入させて経済を徹底管理するものである。この手法による新自由主義的な政策転換がラテンアメリカの国々ですすめられ、以後、ラテンアメリカ諸国においては深刻な貧困問題から抜け出せない状態に陥っていくのである。
このチリの政変以降、シカゴ学派の若い学者たち(シカゴ・ボーイズ)の新自由主義的な政策による経済再建成功が世界的に脚光を浴び、1980年代のイギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権、日本の中曽根内閣などの先進諸国などにおける各国政府の経済政策に対し大きな影響を及ぼすこととなった。いずれの国においても「小さな政府」を掲げ公営企業の分割民営化、規制緩和などが大々的に行われていたのであった。
それが21世紀に入り一変する。ショックドクトリンにより新自由主義政策の実験場となったラテンアメリカ諸国において、過酷な収奪に曝された民衆の怒りが爆発し、ベネズエラなどでは反米左派のチャベス政権が誕生し自国の石油利権を国有化して、その石油利権で得た資金を格差解消や貧困層支援にまわすこという政策を断行したのである。その後、ベネズエラは隣国キューバやボリビアなどと連携し反米体制を築いていった。
しかし現在、ラテンアメリカでは逆転現象が起きている。ベネズエラなどではチャベス大統領が不自然な死をとげ、当面、強硬な左派政権ができる見込みがなくなった。また、キューバなどはアメリカと和解をし、ブラジルにおいては左翼政権が汚職で転覆しかかる状態にある。いまラテンアメリカにおいてアメリカの方向へのゆり戻し現象が起きている状態にある。反米気運が停滞する見通しとなっている。
しかし、一時期、ラテンアメリカは反米一色に染まっていたのである。
そしてショックドクトリンの一番の例がソビエト連邦、東欧諸国である。ソビエトが崩壊し東欧諸国が挙って西側になだれ込んだときにもアメリカ人を中心とした経済学者などがショックセラピーという言葉を使い社会主義経済を一気に資本主義へと転換させるため暗躍していた。ソビエトなどでは、ソビエト崩壊に乗じてKGBをはじめとする官僚機構やマフィヤなどが国有企業や国有資産を私物化した。これにはアメリカ、イギリスの後ろ盾があったと囁かれている。特にエリツィン政権時代の急進的経済改革で最悪な状態に陥っていった。現在のプーチン政権が成立して以降、規律が回復し、新興財閥や寡頭資本家、いわゆるオリガルヒに私物化された石油利権などが次々と国有化されていっているのである。
(6)ショックドクトリン的手法(その2 日本におけるショックドクトリン)
日本におけるショックドクトリンのはしりは中曽根内閣による国鉄分割民営化、国労つぶしであった。電通をはじめとするマスコミ各社はこぞって国鉄の累積赤字を批判し、そのうえで国鉄職員の横柄な接客態度、勤務時間中の入浴や昼寝など緩みきった職場規律、ブルートレイン検査係の添乗手当を「ヤミ手当」ボ-ナス日の早退などを「ヤミ休暇」、病欠などを「ポカ休」、合理化による雑業務の従事を「ブラ勤」などといい、マスコミを挙げて国鉄批判キャンペーンをおこなったのであった。要は過剰雇用や莫大な累積赤字などが攻撃の的、ショックドクトリンを引き起こすきっかけにされたのである。
しかし、そもそも国鉄は過剰雇用だった。それは敗戦後の膨大な復員者(軍関係300万、民間300万)の雇用の受け皿になったためである。20万人もの復員者を雇用し、戦後の物流を一手に担い復興の柱となっていたのである。わかった上で過剰雇用にしていたのである。また、累積赤字については国鉄が所有する膨大な不動産資産の売却で返済することは可能であった。
つまりこの国鉄批判キャンペーンは虚構のものであり、まさにショックドクトリンによって国民を誘導するための欺瞞工作であった。中曽根首相のブレーンたちは、国労の分割・民営化反対ストに対し自衛隊出動まで検討していたほどであった。仮にスト現場に自衛隊が配置されていたならば、そのショックの与える効果は計り知れないものであったと思われる。
その真の狙いは国労解体であり労働組合弱体化であった。このショックドクトリン的手法による国鉄批判キャンペーンで、資本側はまんまと国鉄の分割民営化、最盛期57万の「最強の労組」国労を衰退させたのである。これに呼応するように財界においても日本的経営をかなぐり捨てて、正社員は幹部候補生のみ、あとは使い捨ての非正規労働者というあらたな雇用慣行を打ち立ていったのである。
2005年11月20日、NHKのテレビ番組の中で中曽根元首相は「55年体制(自社体制)崩壊は意識的にやったのか」というNHK側の質問 に対し、「意識的にやった」「国労が総評の中心だった。いずれこれを(国労を)崩壊させなきゃいけない。民 営化で、国労が崩壊し、総評が崩壊し、そして社会党が崩壊した。一連でやったこ とで意識的にやった」との後日談を述べている。
ちなみに国鉄批判キャンペーンの先頭に立った電通の本社ビルなどは汐留貨物駅跡地に建設されている。
また、1990年代のバブル崩壊というショック、つまりそれまで日本人が抱いていた永遠なる経済発展、地価上昇という幻想の崩壊、例えば日経平均などは36000円台を記録ところ(現在は16000円台)、それがいきなり五~六分の一に急落するというバブル崩壊というショックドクトリンで選挙区が小選挙区にかえられ、それによって社会党が消えて、(ネオリベラリズムを唱えるもうひとつの保守の党を標榜する)民主党が誕生し、労働組合組織も総評が解体され連合におきかえられた。これまで日本の労使の力関係においては、戦後長らく拮抗する状態にあったが、この出来事を境に大きく資本側に傾いていくのであった。
その後においても小泉の「国民に痛みの伴う構造改革なくして成長なし」というキャッチフレーズを旗印におこなわれた規制緩和については、左派までが難なくそれを受け入れてしまうという事態となった。この小泉構造改革の要は規制緩和であり、規制緩和の二本柱は労働・雇用の規制撤廃と金融規制の緩和であった。
日本においてはいまだショックドクトリンの波が打ち続ける状況にある。
日本のマスコミは年に数回、日本の借金1000兆円を越え、国民ひとりあたりに換算し直すと国民ひとりあたり800万円云々と報道する。これこそ騙しの脅しである。まず、借金が1000兆円あるという部分であるが、それはあくまでも租債務のことを指す。現在、政府の金融資産が500兆円ほどあるので正味の純債務としては500兆円程度ということになる。
また、日本の借金の多くは政府債務であり、その債務形式についてはほとんどが国債である。さらに国債の残高については700兆円~800兆円というところであり、その多くは日銀、または、ゆうちょなどが所有している。海外向けは1割程度しかない。つまり、ゆうちょや日銀においては国民の預貯金を資金としているものであり、よって、国民は間接的な政府債務の債権者ということになる。決して債務者ではない。この政府債務を国民一人あたりの額に換算し直すという報道が全くもってと騙しであり脅しなのである。このショックドクトリンの狙いは、消費税増税など大多数の国民に不人気な政策を実施することにあることはいうまでもない。
(7)19世紀から20世紀初頭(戦間期)にかけての変遷(その1 国際金本位制)
国際金本位制が19世紀に成立してから20世紀初頭の戦間期に中断されるまでのの間における経済の移り変わりなども詳しく学べた。
いまから100年前にもグローバリゼーションのもとで現代の生活に勝るとも劣らない華々しい幸福な社会生活が営われている時代があった。あくまでも一部の者たちの身の上の出来事という前提ではあるが。「1914 年8月に終わりを迎えたその時代は、人類の経済進歩において何と驚異的な出来事だったことだろう!」、これはケインズの出世作『平和の経済的帰結』の一節であり、1870年から1914年まで続いたイギリスを頂点とする国際金本位制が確立していた時のできごとである。
金本位制ではインフレ、つまり輸出超過による輸出インフレに対する「自動調節作用」がはたらき貨幣価値(平価)が安定すると目されていた。その仕組みは、輸出超過→金流入→貨幣発行量増→インフレ→物価高(貨幣数量説)→輸出減少という具合にはたらくものであり、要は貿易黒字になっても結果的に物価が高騰することで貿易赤字に転落する。そうなると金が国外に出て行き、国内貨幣量は減少する。それによって国内の所得は減り、かつ物価も下がる。すると為替の関係で輸入が減り輸出が増えるというものである。このはたらきが金本位制の自動調節作用とうたわれているものである。また、自動調節作用は「物価正貨流出入メカニズム」とも呼ばれている。これは学説でいうところの貨幣数量説にもつづくものであり、つまり貨幣量が少ないからデフレがおき、多ければインフレになるという理屈から成り立っているものである。いまでも経済政策に関する学説においては主流となっている。昨今の日本においては日銀・黒田総裁がデフレ克服のためと踏み切った異次元の金融緩和、量的緩和などもこの理論を拠りどころとしたものであった。
この貨幣数量説は、すでに16世紀ごろから唱えられており、ジョンロックなども貨幣数量説の創始者の一人であった。
しかし、現実には貿易決算において金の移動はほとんどおきていなかった。なぜなら金が移動する前に中央銀行が高金利・信用制限政策、いわゆる「不況化政策」を行い単位労働コストなどを抑え、貨幣を呼び戻していたからである。このように実際には貿易黒字国に対する経済的力学、すなわち金本位制の自動調節作用は何らはたらいておらず、逆に貿易赤字国が一等国の栄誉を保つため、苦肉の策として意図的に不況化政策を行い調整していたのが実態であった。
※「信用制限政策」については、銀行を貸し渋りの方へと誘導するもの理解する。

金本位制では国内均衡、つまり国内の労働者階級の賃金・雇用・福祉などよりも、外国との約束、つまり為替レート安定や借款の返済といった国家間の約束を重視する国際均衡優先の政策であった。そこには社会を安定させるという政治的意図は微塵もなく、あるのはエリート層の盤石な支配体制の維持、あるはエリート同士の国際的結びつき、一等国としての「栄誉」というものだけであった。
金本位制の第一条件は、エリート支配の維持、雇用を犠牲にして金利を引き上げられる強権体制の確立である。金本位制の内実は、金本位制の維持よりもそれを実現なしうる体制の確立、維持の方に目的があるものと考える。
(8)19世紀から20世紀初頭(戦間期)にかけての変遷(その2 再建金本位制)
19世紀、世界は大英帝国を中心としたピラミッド状の支配体制。軍事力によるパワーバランスで大英帝国を中心に安定していた時代である。まさに大英帝国の黄金時代であった。
しかし、第一次世界大戦でそれが崩れた。それは大戦を戦いぬくため、イギリスをはじめとする参戦各国においては保有する金以上の紙幣を発行して戦費を確保し、その結果、莫大な借金を抱えてしまっていたからである。
第一次世界大戦後の1923年、いわゆる戦間期に再度イギリスを中心とした金本位制が復活された時期があった。ケインズは反対したがイングランド銀行の総裁モンタギュー・ノーマンと当時イギリス蔵相であったウィンストン・チャーチルなどが強硬に推し進めたのである。この時期の金本位制を「再建金本位制」という。
ケインズは、金本位制がうまく機能したのは表面的なものであり、脅しと欺瞞によってつくられた不安定な社会心理に支えられていたと論じ、再建金本位制を強く批判した。また、小冊子『チャーチル氏の経済的帰結』を発刊し、高金利・信用制限政策などを根本的に批判し、金本位制復活に反対していたのである。
その後まもなく再建金本位制は崩壊。それは1937年のできごとである。再建金本位制は不安定かつ短命だった。なぜならイギリスには以前のようなパックスブリタニカと称されるほどの力がなくなっていたからである。第一世界大戦では、フランスと組んでもドイツには勝てそうになく、アメリカを引き込んでやっと勝利できたという状況であった。また、19世紀末には工業生産高でアメリカに抜かれ、さらに20世紀初頭においてはドイツにも抜かれるという始末であった。そして第一次世界大戦後においては、世界の金融センターはロンドンのシティだけが独占するものではく、フランス・パリ、アメリカ・ニューヨークの三か所となり、もはやイングランド銀行の利上げオペだけでは、イギリスに金は寄らなくなってしまっていたのであった。
そしてイギリスをはじめとする欧州各国においては民主化がすすみ、普通選挙や婦人参政権などが認められ、労働者の団結権(労組)なども確立し、労働者の政党まで出現する事態となっていた。このような民主化の発展で、金本位制を守る政策(失業の脅しを演出すための金利引き上げ政策)が打てなくなり、政府においては利上げ政策よりも国内の雇用や福祉などの政策を重要視せざるを得なくなったのである。それは金本位制を支えていたエリート支配層が没落したということを意味する。
国際政治学者のウォルターは、「ある社会階級の者が他の階級の者よりも多く享受し、支配的エリート層が社会の他の集団に経済的不安定性のコストを転嫁できるということ、その面における国家介入の可能性を否定するある種のコンセンサスが存在していたからである」と述べ、民主化すると金本位制は維持できないということを説いたのであった。
然るにチャーチルなどは、金本位制を復活させるとイギリスが以前のようなパックスブリタニカに戻ると勘違いしていた。つまり、戦前はイギリスに力があったから国際金本位制が実現、維持できたのであって、完全にこの点を取り違うという致命的なミスを犯していたのである。
それに対しケインズは、時代状況の変化や、あらゆる経済主体がもつポリティカルパワーないしバーゲニングパワーなど力関係を重視し、外国との関係よりも(為替相場などよりも)国内、つまり雇用を重んじることを主張していたのであった。
(9)アメリカ発の世界金融危機の内実(その1 アメリカの回転ドア人脈)
アメリカ発の世界金融危機の内実も学ぶことができた。
アメリカ発の世界金融危機は人為的に引き起こされた恐慌であった。ウォール街の連中は自らを救済するため「100年に一度の危機」と吹聴し騒ぎたてて皆を狼狽させ、まんまと時の政権にGDPの何割という単位の巨額資金を自らの救済のために拠出させたのでる。
この世界金融危機を「資本主義の必然性」と理解することは早計であり、ウォール街の連中を免罪することにつながる。自分たちに都合のいいようルールを変え、バブルを生じさせそこで大儲けし、それがはじけて(危機で)窮地に立たされると、またもや自分たちの都合でルールをつくり、もって莫大な公金を使い、最終的に自分は勝ち逃げした連中、まさに恐慌を引き起こした張本人たちが「100年に一度の恐慌だ」と皆にすりこんだのである。まさにショックドクトリンであった。
アメリカの政治と金融はごく少数の人物が動かす状況にある。
例えば、ゴールドマンサックスの共同会長であったロバート・ルービンはクリントン政権時に財務長官に「あま上がり」をし、1999年、「金融サービス近代化法」(グラム・リーチ・ブライリー法)を成立させグラス・スティーガル法を廃止に追い込んだ。金融サービス近代化法とは銀行業、証券業、保険業等の兼営を解禁するものである。そしてルービンは財務長官を務めた後、シティグループの会長となった。彼の年間報酬は約4000万ドルであったといわれている。
このシティグループは1998年に銀行業のシティコープと保険業のトラベラーズ・グループの合併によって誕生した。その当時においては、グラス・スティーガル法が健在であって同法により銀行業と保険業の兼業については禁じられる状況にあった。グラス・スティーガル法は、1929年に始まった世界大恐慌の時にルーズベルト政権が成立させたものである。恐慌は、銀行が証券業を兼業するから生じたもの。大衆から集めた預金を株などに突っ込み、その結果バブルが生じ恐慌に至ってしまったとの反省からつくられた法律である。
しかし、シティーグループは同法の抜け穴(2年間の猶予期間に保険部門を売却することを条件に銀行業と保険業との合併を認める)を巧みに使い合併を成し遂げたのであった。その合併の立役者がルービンであったことはいうまでもない。
そしてオバマ政権においてはルービンの子飼いたちが重要閣僚に就任していた。それがローレンス・サマーズとティモシー・フランツ・ガイトナーである。サマーズはクリントン政権時代、財務長官であったルービンを補佐する立場であり、ルービン辞任後はそのポストを継いだ人物である。ガイトナーはクリントン政権時代、国際担当財務次官としてルービンやサマーズの以下ではたらいた人物である。オバマ政権ではガイトナーが財務長官に就任し、サマーズはNEC(国家経済会議)議長に就任していたのであった。
このオバマ政権は世界金融危機の尻拭い、つまり危機を引き起こした連中の利益擁護のため成立させたような政権であった。
まず最初に、米国議会において金融安定化法が可決し、不良資産救済プログラム(TARP)が創設された。これに対して米国政府はGDPの約5%にあたる7000億ドルの公的資金を用意された。このTARPは政府が直接資本注入をする。よって、破たんを回避するため連邦政府の介入の可能性のある制度でもあった。
そして危機が一息つくとウォール街は政府監視のおまけが付くTARPから、FRBによる量的緩和政策(QE)に乗り換えた。このFRBによるQE1~QE3はウォール街の金融機関から国債や紙くず同然となったMBSなどを買いとるプログラムである。
QE1は2008年から実施されMBSの買い取りが主であった。使われた資金は約2兆ドルである。QE2においては2010年11月から同年6月までの8カ月間にわたり実施された。使われた資金は1カ月あたり約750億ドル、合計6000億ドルであり、米国債などの購入にあてられた。QE3においては2012年9月から(雇用が改善されるまでという前提で)2年間実施され、MBSと国債の買い取りに充てられ、ひと月あたり850億ドル(MBS400億ドル。国債450億ドル)の資金が投入された。
時の政権は危機を起こした当事者を何ら処罰せず、骨抜き法をとおすのみで金融規制の強化なども行わなかった。その救済についてはウォール街のみで、多くの倒産した企業、路頭へと放り出された沢山の人々を見殺しにしたのであった。今日のウォール街占拠運動など大衆の抵抗はそれに対する鬱積した怒りが爆発したものであった。
この事例から見てわかるようにアメリカの政府人事は「回転ドア」人脈である。回転ドアというのは日本における「天下り」が、省官庁から、民間企業や独立行政法人の外郭団体への「天下り」という上か下への「一方通行」であるのに対して、アメリカにおいては政権が替わると約3000の主要ポストが総入れ替えになる。その度各分野のエキスパートたちが回転ドアのごとく、官庁(政府要職等)と民間(企業経緯者等)との間を往来するそういう人脈をさしているのである
この仕組みこそが利権の温床となり、恐慌などを生じさせる背景をつくりだしていたのであった。
最近、とあるサイト(http://www.mag2.com/p/money/5378)に海外の富裕層向けセミナーの紹介動画がアップされていた。それはロバート・ルービン元米財務長官、ヘンリー・ポールソン元米財務長官、ティム・ガイトナー前米財務長官など3名の元アメリカ合衆国財務長官が座談会を行うもので、サイトの動画紹介記事には、「中間層が消え、富裕層だけが繁栄を享受し、貧困層がますます増加する一方の現実社会について質問されたヘンリー・ポールソン元米財務長官は、こらえきれずに破顔一笑「俺たちが格差を広げてしまったぜ」と大笑い。司会者も、他の出席者も、会場の聴衆たちもつられて大笑いした」などと書かれていた。
世界金融危機の事実は、ルービンたち首謀者たちは回転ドア人脈を活かし、バブルを仕掛け、バブルが崩壊すると公的資金を兆単位で引き出し、それを借金の穴埋めにして勝ち逃げしていたということであった。このように世界金融危機には「資本主義の必然性」など何ら存在していないのである。
(10)アメリカ発の世界金融危機の内実(その2 サブプライムショックの仕組み)
現在のアメリカの金融市場においては、商業銀行の存在感が一層薄まり投資銀行一色の状況にある。それは1980年代におけるアメリカの金融市場の大きな変化に端を発するものと考える。いうなれば世界金融危機の素地がこの時点において形成されたといえる。
1980年代、アメリカの金融市場では、企業金融につき株式、社債等の証券発行による資金調達形態が発達していった。つまり直接金融の比重が拡大する状態にあった。間接金融、つまり銀行借入などが相対的に縮小する状況にあったのである。また、1990年のバーゼル合意(BIS規制)については、日本の銀行のみならずアメリカの商業銀行にも少なからず影響を与え、BIS規制により商業銀行においては最大でも12.8%の資金枠でしか融資を行えなくなっていた。それに対し、投資銀行(最大30%だが)などでは傘下のファンドなどを使って幾らでも投資できることが可能であった。それらの状況変化が投資銀行の勢力を伸ばすきっかけをつくっていたのであった。
そして、(この点はサブプライムローンとも関連するが)モーゲージローン(不動産抵当借入)など貸付債権等の金融資産の証券化による流動性回復、つまり商業銀行にとってのリスクヘッジや新たな資金調達の手段としてのローンの証券化が急速に進展していったのであった。つまり1980年代、アメリカの金融市場においては資金フローにおける証券体系化がすすんだのである。
さらに1990年代ごろからの金融自由化と時の政権の経済政策などに後押しされる形で、投資銀行が株式、債券、MBS、デリバティブ等の証券金融の取引を効率的に行うことができる環境が整っていったのであった。そのような流れで今回の世界金融危機が生じていったのである。現在、金融が独り歩きし、カジノ化している現状にある。そこにはメカニズムなどは存在しない。
(11)アメリカ発の世界金融危機の内実(その2 恐慌の仕掛け人)
サブプライムローンはウォール街の仕業であった。
アメリカの住宅ローンはモーゲージローンである。日本の住宅ローンは銀行の住宅ローンであり、それは集まった預金を資金源として住宅購入者に資金を貸し付ける仕組みである。これに対しモーゲージローンは、預金を資金源とするのではなく「証券化」という形の資金源をもって住宅ローンを貸し付けるというものである。
また、アメリカの住宅ローンはノンリコースローンである。それは、住宅ローンの借り手が最悪、債務不履行に陥った場合においても担保(当学住宅)を供すれば済むものであり、仮に当該住宅の価値が融資残高に満たなかった場合においても残債につては免責されるというものである。よって日本のように住宅ローン地獄には陥ることはない。なのでアメリカの住宅ローンにおいては優良客(プライム層)が顧客対象であり、審査が厳しいというのが通説であった。
しかし、アメリカでは日本と違って住宅(不動産)は資産として考えられており、住宅の価値は下がらないとものとするのが一般的な考え方である。また、2001年ごろからの住宅バブルを背景に信用の低い人たち、すなわちサブプライム層の信用の低さを住宅担保とあわせて高金利などでカバーするタイプのモーゲージローン、つまりハイリスク・ハイリターンなモーゲージ債が開発されたことで住宅ローン貸出競争が激化していき、さらに、それに拍車をかけるように金融工学を駆使したデリバリブ商品等の再証券化技術の発達によって、サブプライムローンが様々な金融商品に組みこまれ世界中にばらまかれることとなっていった。もってサブプライムローンの残高も激増していったのである。デリバティブ取引のピーク時においては、残高が総額800兆ドル(8京円)ほどあるといわれていた。その売りはノーベル賞級の数学者が金融工学を駆使してつくったデリバティブであるというブランド化と格付け会社の高格付けによるものであった。
ちなみにMBSとはモーゲージ債のことである。CDOとは社債など各種債券やモーゲージ権などで構成される資産を裏付けとして発行される証券のこという。つまり複数の福袋が入った福袋を最後まで封を開けないまま、取引に取引を重ねられるというものである。一種のギャンブルのようなものであった。
CDSとは社債や国債、貸付債権などの信用リスクに対し、保険の役割を果たすデリバティブ契約のことをいい、主にAGIなど保険会社が扱う商品である。その仕組みについてはいたって簡単で、債権の貸し倒れが発生した場合、元利金の支払いを第三者に保証してもらう。その代わりに銀行は保険料を払うというというというものであった。2008年ごろまでにはCDS残高が60兆ドルを超えていたといわれている。それは全世界のGDPと同じ額に相当するものである。
著名投資家のウォーレン・バフェットなどは、CDSについて「金融版の大量破壊兵器」と呼んだ。
最終的には、アメリカの不動産バブル崩壊をきっかけに滞納率が急増したサブプライムローン問題が顕在化しリーマンショックへと発展していったのであった。
アメリカ発の金融危機後、政府資金で事実上破産したAGIなどを救済し、また、FRBは紙屑同然のMBSを現金で買い取ったのであった(量的緩和、QE1~3)。これらの行為は二重の詐欺にあたるといえるものである。
(12)トランプ米大統領誕生の本質(その1 トランプ大統領誕生の歴史的背景)
トランプ大統領誕生の本質なども学べた。
昨年6月23日、イギリスがEUを離脱した。また、昨年11月8日には非エスタブリッシュメントの共和党大統領候補、トランプ氏が大統領に当選した。「エスタブリッシュメント」とはエリート層と富裕層を掛け合わせた「支配層」のことをさす。
このトランプ氏の大統領選勝利については「トランプ現象」と称されている。それは、ポピュリズム的ナショナリズムの席巻を意味するものであり、トランプ氏が過激な発言やパフォーマンスで格差や貧困拡大に怒る大衆の心をつかみ、泡沫候補から見事、米大統選に勝利した状況、つまりアメリカの右傾化、国家主義化する世論のことをさす。このような状況はアメリカだけに限らず、イギリスではEU離脱という形で、また欧州各国において右傾政権が次々に誕生するという形で、そして世界でいち早く右翼政権=安倍内閣が成立する形で日本などにおいても同様な現象が起こっていたといえる。
トランプ氏の大統領選勝利については大統領選をとりまく範囲だけの情勢をみるのではなく、歴史の流れを追うとトランプ氏勝利の理由が浮き彫りになってくる。
戦後、長らくアメリカは「パックスアメリカーナ」と呼ばれる繁栄期を迎えていた。それは、東西冷戦構造の時代、すなわちソビエトをはじめとする社会主義陣営との軍備拡張競争と米ソ代理戦争の時代でもあった。アメリカは朝鮮戦争など世界のいたるところで生ずるイデオロギー対立戦争に莫大な戦費をもって加担し(あるいは仕掛け)、また、ソビエトと競うように援助外交なども展開していった。1970年代の泥沼化するベトナム戦争などにおいては7380億ドル(現在レートで約73.5兆円)もの戦費を費やしたといわれている。そのためアメリカは、1970年代までにはドルの発行額が極端に膨らみ財政赤字とインフレに悩まされることとなった。さらに貿易収支においても赤字に転落するなどアメリカ経済も行き詰まりをみせた。そして1971年、ドルと自国産業を防衛するためニクソン大統領はドルと金の交換停止を発表した。いわゆるドル危機、ニクソンショックである。これによりブレトンウッズ体制の世界秩序は崩れ、世界は変動為替制へ移行していったのであった。
そういった状況のもとアメリカの世界支配が一旦綻びを見せる。OPEC(石油輸出国機構)諸国がカルテルを組み石油価格を1バレル5ドルから1バレル7ドルへと値上げしたのだ。いわゆるオイルショックである。これは資源ナショナリズムを振りかざした資源国の反抗ともいえる。
このアメリカによるドルの垂れ流しとオイルショックによる石油価格高騰などで世界経済は混乱する。日本においては物価高騰という形で、また自動車産業など輸出産業の海外移転による産業空洞化という形で現れた。
そして、この1970年代頃からフリードマンらの発言力が強まるっていく。フリードマン曰くケインズ的政策はインフレ強める。それよりマネーストックをコントロールするべきである。このように貨幣数量説による金融規制緩和を説いったのであった。
フリードマンらシカゴ学派は、1970年代におてチリなどラテンアメリカで暴力的にマネタリズム的政策を実践し、1980年代においては先進国でもマネタリズム的政策を非暴力の形をもって推し進めていった。イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、日本の中曽根などの政権もマネタリズム的な政策を実践していった。このころからアメリカでは(世界では)中間層が消滅し、大多数の貧困層と少数の富裕層に二極化の方向へとすすんでいくのである。このような歴史的背景がイギリスのEU離脱やトランプ米大統領の誕生に結びつくのである。
しかし、トランプ米大統領は、最終的に庶民を裏切りウォール街と手を組む可能性が強い。ただ、ペンタゴンとは距離をおくと思われる。
そして、日韓中に対しては経済面で嫌がらせをするであろう。また、日韓に対しては軍事面においても嫌がらせをするであろう。もって米国民の溜飲を下げ、そのうえでウォール街優先、格差拡大型の政治を行うものと思われる。
(13)トランプ米大統領誕生の本質(その2 パックスアメリカーナの終焉)
今回の米大統領選ではグローバリズム支持のヒラリー、反グローバリズム支持のトランプが対峙した。ヒラリー側にまわったのが軍産複合体とウォール街、メディアなどであった。エスタブリッシュメントが反グローバリズムに対抗した形である。
トランプ氏の当選を意外と感じた人はマスコミを妄信している。マスコミはエスタブリッシュメントの一員であり、意図的に事実を歪め、情勢を歪曲し報道していたのであった。メディアがトランプを叩けば叩くほど有権者の多くは、マスコミの世論調査に対し正直に答えなくなっていった。なぜなら「トランプ支持」と答えるとまわりから叱られたり、説教される懸念があるからである。
トランプ氏当選ならドル安、円高、株は暴落すると皆が予想した。開票日の11月9日にはまさにそうなった。円は105円/ドルから101円/ドルに上がった。しかし、翌日以降においてはニューヨークの株式市場では株価が上がり、為替もドル高にゆり戻った。なにか大きな資金の大きな流れがあったものと推測される。
トランプ氏の勝利は、Gゼロの世界の到来を意味する。また、今後の世界は中国とアメリカで差配するという形のG2となる可能性も否定できない。いずれにしてもアメリカ主導の世界秩序の終わりであり、これで正式にパックスアメリカーナが終わったということである。
これは、アメリカが超大国ではなく、ただの大国になることを意味する。今後においては、世界の力関係においてアメリカはロシア、中国、EU、インドなど普通の大国と並び立つ普通の大国となる。
ロイター通信のブレーマーは、トランプ米大統領は孤立主義ではないといっている。というよりもトランプ米大統領には政策やポリシーなどはなく、あるのは不動産ビジネスで培ったビジネス感覚だけである。もって同盟国の安全保障などもビジネスとして取り扱っているのである。いままでアメリカは理念や価値観で動いてきたと述べる。それゆえ世界から信用されアメリカ中心の世界平和、いわゆるパックスアメリカーナが築かれてきたのだと主張する。
トランプ米大統領は外交政策をビジネスにしていくであろう。アメリカは、ただの大国になり下がった。もってG0の世界が到来するのである。
これを多極化という。アメリカの代わりに世界をリードとする国などは現れない。世界は政治的に不安定となる見込みである。
(14)トランプ米大統領誕生の本質(その3 エスタブリッシュメント対非エスタブリッシュメント)
トランプは孤立主義といわれているがそうではない。孤立主義とはモンロー主義とも呼ばれており、昔、アメリカ大統領モンローが打ち出したヨーロッパ大陸との相互不干渉の政策をさす。当初、アメリカの勢力圏は自国のみといっていた。しかし、後に南北アメリカ大陸と言い直した。つまりアメリカはヨーロッパ大陸には干渉しないのである。アメリカは建国以来の大部分においてそういう政策をとってきたのであった。
しかし、イギリスは、アメリカのモンロー主義に反対してきた。自国の衰退をアメリカに補完させるためである。
19世紀の大部分においては、世界の要衝はほとんどイギリスのものだった。しかし、第一次世界大戦においては英仏だけでも勝てず、アメリカに参戦してもらいやっと勝てたとう状態であった。
第二次世界大戦でも同様であった。しかし、第二次世界大戦においてはソビエトが闘いの大部分を引き受けていたのであった。
第二次世界大戦後、イギリスはアメリカを欧州にとどまらせるためのあらゆる手立てをとった。その柱となったのがソビエトの存在である。つまり冷戦構造を画策したのであった。第二次世界大戦後のアメリカの選択肢は複数あった。5つの常任理事国が各大陸に並び立ってバランス良く調整するやり方、つまり多極化構造である。そして二極化、つまり世界を東西に分けてアメリカとソ連が対峙するという東西対立の構造である。
当初トルーマン米大統領はソビエトに対して「共存共栄」という多極主義的な考えをもっていた。それに対しイギリスは、「アメリカとイギリスとは特別な関係」だと称してアメリカを二極化の方向へと誘導していったのである。1946年、アメリカ、ミズーリ州・フルトンにおいてチャーチル元首相に「鉄のカーテン演説」を行わさせた。フルトンはトルーマン米大統領の地元である。チャーチル元首相は、欧州大陸にはソビエトによる鉄のカーテンがおろされており、共産主義圏と自由主義圏の分断が始まっている。そのようにソビエトの脅威論を説いたのであった。
そして、そのイギリスの誘いに、第二次世界大戦が終わり右肩下がりとなっていた軍産複合体が飛びついたのであった。その後、民主党は中間選挙で共産主義に対し強硬論を打ち出す共和党に大敗した。かのアイゼンハワー元米大統領は退任演説のときに、この国は軍産複合体に支配されていると述べていたのであった。
戦後の冷戦構造は、アメリカのエスタブリッシュメントがイギリスの誘導にまんまと乗せられた結果つくられたものである。
戦前はドイツ、戦後はソ連、冷戦後はテロとの戦争。アルカイダの次はIS。アメリカ軍産複合体は常に仮想的をつくってきた。アルカイダとはデータベースのことである。元々、アルカイダはサウジアラビアに存在していた。アルカイダは、アメリカがアフガンでソ連と戦う者に対し武器を供与するためつくられた組織である。(だれに渡してよいかわからないから)。2001年の同時多発テロはテロリストの犯行とされているが、その容疑者のほとんどが生き残っており、他の者がやったなどと証言している。アメリカが警察としてテロリストと戦う現在の構図は非常に胡散臭い。
イラク戦で懲りたイギリスは、議会においてアメリカとの特別な関係は終わりである旨決議した。現在、イギリスは中国、ロシアなどに媚をうり接近している。イギリスの後釜を狙っているのが日本の安倍政権なのである。
今回米大統領選に落選したクリントン候補は、ウォール街と軍産複合体に深く食い込んでおり、エスタブリッシュメントの支持を受けていた。だからトランプは孤立主義だと批判されていたのである。
(15)トランプ米大統領誕生の本質(その4 東アジアの行く末)
トランプ米大統領はTPP脱退を表明した。また、トランプはFTAなどにも反対しており、もって今後においても非公式協議を好むと思われる。
   なぜならTPPはエリート層、つまりエスタブリッシュメントたちの国際的取り決めを優先するからである。TPPはその典型であり、その秘密交渉は連邦議員ですら見ることが叶わない。また、TPPではグローバル企業に対する内国民待遇を求める。国内企業並みに扱うことを要求するのである。しかし、国内企業は国内法規に規制されるが、グローバル企業に対しては内国民待遇でありながら国内法規は適応されない。
そして、TPPの交渉文章は妥結または決裂後、4年間公表されない。覚書などについても連邦議員レベルまで秘密とされている。他方、アメリカの上位600社の企業顧問に対しては常時アクセス可能であり、ルールブック自体がアメリカの上位600社の注文を受けてつくられたものであるといってもよい。
トランプ米大統領は、日本に対してはこれまでのやり方、つまりルールなどを非公式協議で取り決めしてきた経緯をそのまま継承すると思われる。例えば、TPP交渉中に担当者同士で往復書簡のみをもって取り決めが結ばれ、それが日米間のルールとなったこともあった。韓国に対しても概ね日本と同じような扱いをすると推測される。
トランプ米大統領は、アメリカの雇用を日中両国が奪っていると主張する。しかし、米中の経済摩擦は深刻化する模様を呈しているが武力衝突の可能性は低いと考えらえる。なぜなら中国は米国債を1兆1157億ドルほど(昨年10月末)保有しており、経済的、あるいは政治的に相互依存度が高いためである。
アメリカが日本から撤退すると中国との紛争が生じる可能性がある。東アジアの覇権を追求する中国は日韓の防衛を無条件に担わないというアメリカの方針をよしとし、南シナ海などでの行動を活発化させると思われるからである。それに対し、東アジア(特に日本)におけるアメリカの軍事プレゼンスを必要と考える安倍政権はチャンスとみなし、アメリカを引き留めるため工作として意図的に中国との武力衝突を生じさせる可能性がある。
オバマ元米大統領は、尖閣は日米安保の範囲といっていた。しかし、日米安保については日本が「施政権」を有する場所のみの適応であり、一旦占領され施政権を失ってしまうとその場所においては適応されない。よって尖閣が中国に占領された場合、日本が自力で奪い返さなければならないのである。
安倍首相は中国との間の戦争について局地戦を想定している。しかし、そうにはならない公算の方が大きい。中国人は皆、過去、日本人に2000万人の同胞が殺されたことを知っており、未だ反日感情は強い。局地戦であったとしてもひとたび戦端が切り開かれてしまうと2000万人の同胞を殺された恨みで中国は徹底抗戦し、核兵器の使用も可能性も否定できないのである。また、中国共産党などは日本が完全にひれ伏すまで戦う方針をとり続けるであろう。
いま安倍政権はそのような火遊びをしているのである。
安倍政権樹立とトランプ大統領の誕生によって南シナ海における武力衝突の可能性が増してきた。そういった意味で安倍首相とトランプ米大統領との組み合わせは最悪なのである。
(16)トランプ大米統領誕生の本質(その5 米中関係の行く末)
日本、中国が不公正な貿易をして、さらにメキシコに工場を建ててアメリカの製造業や労働者を苦しめるとキャンペーンを行う。これは、時代ごとのマイナスイメージをごちゃ混ぜしているものである。日本との貿易摩擦については1980年代のできごとであり、メキシコの工場化については1994年の北米自由貿易協定(NAFTA)によるものであった。
トランプ氏の大統領当選で、為替が105円/ドルから101円/ドルに高騰した。しかし現在は120円/ドル台で落ち着いている。
今後の為替相場については、トランプ政権は早速、シンボル的な政策を実行しており、旧来の貿易摩擦のイメージをもって中国、日本たたきを行っている。よって国際的資金は円高に向かうであろう。また、トランプ大統領がドルが高すぎることで雇用を失っていると強調するとドル高の是正に向かうと思われる。つまり円高になるのである。
そして逆にFRBが利上げする可能性あるのだ。利上げをするとドルが強くなる。つまり円は安くなる。要は、為替の行く末についてはどっちの力が強いかで来まる。
日本はドルが強くなり円安になったら製造業は大丈夫である。しかし、中国の立場からいえばどちらでも困るのである。つまり製造業が叩かれたら困るし、利上げをされたら中国のバブルを支えるドル建ての借金を投資家が中国から引き揚げる可能性があり、中国のバブル自体が終焉を迎える可能性があるからだ。
2015年の夏、中国の株式バブルは終わった。しかし、中国政府は株を暴落させなかった。強権をもって株の売買を制限したのである。今後、投資家たちは、中国株には手を出さない状況になるであろう。なぜなら自由に売り買いできないからである。
現在、株市場から流出したマネーが不動産市場に流入しており、今後も中国の不動産バブルは継続する見込みである。
中国のバブルは海外からのドル建ての資金で回っており、ドルの金利が上がると中国バブルはしぼんでいくのである。これは中国がいくら国内で強権を発動しても阻止できない。資金は皆、中国から逃げ出していくのである。
トランプ米大統領の中国に対するイメージは混乱している。「為替操作国」として中国を叩こうとしているのである。現在においても中国は完全な変動レートにはしていない。人民元は中国政府のもとでちょっとづつしか動かない。それは中国経済が輸出依存型であるからであり、ある程度、元安である必要があるからである。よって中国政府は人民元を完全なる変動相場へ移行させず、準変動相場制の政府管理下にしたのであった。それでも中国経済の好調でじりじり人民元が上がっていたのである。
ところが一昨年あたりから人民元が下がり出した。中国政府は下がりすぎれば資金が海外に逃げると焦り、人民元が下がりすぎないよう介入していたのであった。かつては人民元を安くするため元売り介入をしていた。つまりドル買い介入していたのだ。このことをトランプ米大統領は為替操作と批判しているのである。しかし現在の中国がやっていることはまったく逆のことであり、人民元安抑制のため人民元買いの介入をしている。中国が持っているドルを売る。つまり米国債を売りながら(外貨準備高を急激に減らしながら)人民元を買い支えているのである。
トランプ米大統領は、人々がそういった中国の動きを察知しないととたかをくくり、実際とは逆のことを言っていたのであった。虚実取り交ぜていたのである。
そしてアメリカがもう一段、金利を上げると人民元がもっと弱くなる。中国はさらに買い支えなければならなくなる。そうなると中国はさらに外貨準備高を減らしてしまいう。資金が海外に逃げることになる。今はその瀬戸際である。
しかし、アメリカは中国と本気で喧嘩は出来ない。中国が米国債を一気に売るとアメリカは財政危機に陥る可能性がある。根本的な敵対関係にはなれないのである。
(17)ユーロ危機の本質(その1 ソブリン危機に至る背景)
ユーロ危機などヨーロッパの現在情勢を知ることができた。
2009年、ギリシアでの政権交代により(ユーロ危機につながる)ギリシア危機が始まった。ギリシアでは政権交代によっていままでの政権が行っていた悪事が明るみとなったのである。その暴露の中にはギリシアが赤字財政を粉飾していたことなども含まれていた。その暴露がギリシア危機を誘発させたのである。
ギリシアの赤字財政粉飾の発端はユーロの仕組みにあった。元々バラバラの通貨をつかっていたユーロ諸国が集まって一つの通貨をつくった。それがユーロである。条件を満たさなければ参加ができない。条件は財政赤字の状況やインフレ率などであった。財政赤字大きいと参加させてもらえない。また、加入国にあっても財政赤字が続くと罰金等の処罰が下るのである。
そして赤字の規模についてはGDPに比べて累積赤字が60%以内、毎年の赤字が3%以内と決まっている。日本については完全にアウトの水準である。日本は100%を超えている。
ギリシアはユーロに参加するにあたり粉飾という不正行為を行っていたのだ。それは2000年ごろ、ゴールドマンサックスから指南をうけていたのである。2009年ごろ赤字財政の粉飾が明るみとなった時、当のゴールドマンサックスは先頭にたって「ギリシアは危ない」とギリシヤ国債を売り始め、空売りなどもしていた。それがもとでギリシア危機が生じたのであった。
その後、ギリシア危機の影響を受け、南欧諸国やアイルランドなど財政基盤が弱い諸国の国債が売られ始め、国債が暴落し始めた。それらの国は独自通貨を使っていた頃インフレが酷かった国でもある。
また、ギリシア国債はCDS投機の対象にもなっていた(最初のCDS投機の対象はGMの社債であった)。ゴールドマンサックスはギリシア危機による影響で瀕死となったAGIを国に救済させて、難なく金儲けができたのであった。
欧州債務危機とは、「欧州ソブリン危機」や「ユーロ危機」とも呼ばれ、ギリシヤ危機を発端とした債務危機がアイルランド、ポルトガル、スペイン、イタリアなど南欧に飛び火し、そしてユーロ圏、欧州全域へと連鎖的に危機が拡散した一連の経済危機のことをいう。これは欧州全体の金融システムまで揺るがす事態となったのであった。
マーケットにおいては、当時、債務問題の中心となった、ポルトガル(P)、アイルランド(I)、イタリア(I)、ギリシャ(G)、スペイン(S)を「PIIGS諸国」、つまりブタ諸国と呼んだ。
ギリシア危機においては、格付会社によるギリシア国債の格下げにともない、ギリシア国債に対するCDS取引が活発化しプレミアムが急上昇して皆、デフォルトリスクが高まったと受け止めるようになっていった。投資家は挙ってギリシア国債を投げ売りしたのであった。そして、それを契機にCDS投機が殺到し、財政危機がさらに悪化し、それがさらに南欧諸国及びアイルランドに飛び火する結果につながったのであった。
 金融市場は心理や確立、予想が動かしているのである。つまりギャンブルであり、賭けごとである。
   例えば、ケインズの「美人投票」の話が参考になる。これは、投資家の行動パターンを表す例え話しである。たくさんの写真(株)の中から最も容貌のもの(高値になるもの)を選ぶというものであり、自分(投資家)がそう思っていてもその写真(株)を選らばず、他の人たち(他の投資家)の予想を予想し、どの写真(株)にするかを検討するという話である。実際の金融市場では予想の予想の予想・・・などと4~5次元ほどの予想を重ねて売り買いされているのが一般的である。皆が同じ予想をするときは暴落するときである。株式、金融市場においては将来の予想が現在を決めているといっても過言ではない。
一旦こういった状況に見舞われた国においては、何ら逃れる手立てはない。
結局、ギリシア危機については、EUが緊急的に創設した基金をもって鎮静化するに至った。南欧諸国やアイルランドがブタ呼ばわりされたのも何らかの意図が働いていたと思われる。
(18)ユーロ危機の本質(その2 ギリシア危機の真相)
メディアは、ギリシア危機についてはギリシアの国民に非があり、債務不履行に陥った場合、ギリシア人が支払うべきとキャンペーンをはり、いつの間にかそんな国際的風潮が出来上がってしまっている。
しかし、その報道については騙しと脅迫の手段に他ならない。例えばドイツ人は週40時間未満しか働かない。それに対しギリシア人は週60時間働く。労働時間から見るとドイツ人よりもギリシア人の方が勤勉だったのである。また、累積赤字にてついてもギリシアの国民がつくったものではなく、時の政権の失政によるものである。
ギリシア危機の本質は、単位労働コストの伸びをみることで理解できる。(2010年~2011年)の単位労働コストの伸び100%とした場合、ドイツは100のまま横ばいである。これは生産性上げてきたが賃金は抑制が続いていたという状態を示す。
そしてギリシアは1.4倍である。実はこれをつぶすために仕組まれたのがギリシア危機であった。また、アイルランド、イタリア、スペイン、ポルトガルはなどがPIIGS諸国=ブタ諸国と呼ばれ叩かれたのも同様であり、それらの国々においてのきなみ端労働コストが1.3倍の伸びを示していた。生産性伸び悩んでいた割には賃金要求が激しかったのである。ようはアイルランドや南欧諸国は労組、労働者が強く、それを叩くため、労働者の力をそぐために仕掛けられたのが一連の欧州債務危機であると推測する。
(19)右傾化する欧州の行く末
昨年12月4日、イタリアでの改憲を問う国民投票が行われた。投票では改憲反対派が優勢であり、レンツィ首相は昨年12月5日未明、「結果を受けて責任を取る」と辞意を表明した。改憲の中身はイタリアの国内問題であったが、問題なのはレンツィ政権が崩壊することである。そうなると今後、イタリアでは五つ星運動など極右政党が政権につく可能性が出てくるのである。ヨーロッパにおいて極右政権がドミノ的に増える可能性が増えるのである。
イタリアは大手銀行が不良債権を抱えているという危機的状況にある。政権がいかにして銀行をつぶさないよう救済するかの瀬戸際なのである。総選挙において極右政党が勝つ公算が高く、仮にそうなった場合、皆、銀行が潰れると不安がる。ただ、マーケットにおいては実際にそうなる前に(ケインズのいう)群集心理が働く可能性が大である。つまり将来に対する予想が現在価値を決めることになる。皆が将来は悪くなると予想すると危機につながる。例えば皆が「株価、ユーロが下落する可能性がある」と考える。すると皆、「ギリシア危機のようにイタリアも危機に陥る可能性がある」と考えだすのである。
欧州における政治情勢であるが、昨年12月4日、オーストリア大統領選では極右政党の、自由党のホーファー候補が「反エスタブリッシュメント」「反難民」を訴えて選挙戦を闘ったが、僅差でリベラル系の「緑の党」ファン・デア・ベレン候補に敗退した。今後、3月にはオランダで総選挙があり、4月にはフランスで大統領選、6月にはフランスで国民議会選挙、今秋にはドイツで連邦議会選挙がある。トランプ氏の米大統領選勝利で排外的極右が伸びる可能性がある。そうなった場合、ユーロ解体論が大々的に浮上し、欧州全土の排外的活動が活発化することが予想される。
(20)アジア通貨危機など恐慌の真相
アジア通貨危機などの真相も知ることができた。
1997年~1998年にかけて東アジア諸国(韓国、マレーシア、インドネシア等)が通貨・金融危機に陥った。日本においては山一証券が倒産した時期にあたる。
きっかけは、タイ・バーツの暴落であった。投資家たちはタイに似ている国は危ないと連想した。そう予想した投資家らが一斉に資金を引き揚げた。自分は危なくないと思っていても、他の投資家が危ないと思うと予想の予想をして逃げ出すのである。その結果、アジア諸国から資金が流出していったのであった。
それまでは東アジアの諸国には資金が集中し、IMFなども危機の二週間前まで「アジア諸国の経済は健全である」とのレポートを出していたほどであった。
しかし、危機後においては皆、危機は東アジア諸国の「クローニー資本主義」が原因と批判するようになった。クローニー資本主義とは権力者の縁故や家族関係が大きな力を持つ経済体制のことである。新古典派の経済学者や国際機関から、アジア通貨危機を誘発した構造的な問題として批判されることとなった。インドネシアのスハルトやフィリピンのマルコス政権などがよく引き合いに出されている。
このことについては投資家のソロスとマレーシアの首相マハティールが論争を繰り広げたのであった。
アジア諸国は国際的な資金と比べ経済規模が小さく、一度目をつけられると防ぎようがない。投資しているエリート層は国境を超え、介入してくる。資本側の国債連帯は頑強である。これは国際的な階級闘争ともいえる事態でもある。
(21)日本のバブル景気(その1 バブル崩壊の背景)
日本において生じたバブル景気の仕組みなども学べた。
バブルは何れも過剰金融で起きている。その時々のバブル経済においては、その時々に新たにできた技術が使われる。皆が、今度こそ暴落しないと錯覚してしまう。
ハーバード大学教授のケネス・ロゴフ氏が金融バブルの歴史本を書いた。題目は「今回は違うぞ」である。17世紀にオランダで起きたチューリップバブルのことから書かれている。
日本においては1990年代、バブル景気、平成景気と呼ばれるバブル経済が発生した。それは、「プラザ合意」に端を発している。1980年代前半は250円/ドル台だった。その当時、レーガン米大統領が強いアメリカつくると、軍拡(強い米軍)と高金利政策(強いドル)を実施していた。また、日本は1980年代が製造業のピークを迎えており、逆にアメリカは貿易赤字の一途を辿るという状況であった。
1985年9月、アメリカ・ニューヨークのプラザホテルで先進5か国 (G5) 蔵相・中央銀行総裁会議が行われ、アメリカの要請で過ぎたドル高を是正するため参加各国が提携してドル安協調介入することが合意された。いわゆるプラザ合意である。日本を含む参加各国は皆協調してドル売り介入に転じ、2年の内に120円/ドル台へと下がり、円の価格が二倍となった。
それに対し、日本の製造業は売値を二倍にすることなく耐えしのび、例えば売値が5000ドルのものだったら6000ドル程度に抑えつつ、円高対策として大急ぎで生産工場をアメリカに建設をした。その結果、日本の製造業の空洞化を招いたのであった。さらに日銀はプラザ合意に金融緩和が含まれていたことや日本経済の成長が鈍化していたことなどを鑑み、金利の引き下げを行った。以降、約20年間にわたり日本においてはアメリカより低い金利が続いたのである。
この副作用がまさに平成バブルなのでああった。
東京の賃料や地価は軒並み高値を呈しており、多数の者が転売を狙いの土地ころがしなどを行っていた。それは不況対策などで金利を引き下げたことによる過剰金融が原因していた。1989年、三重野氏が日本銀行総裁に就任する。当時はバブルのピークであった。同年12月、日経平均株価は3万8915円という史上最高の高値をつけていた。大都市圏では不動産価格や家賃が急騰し、1億円を超える住宅などの販売も続出した。そして資産を持つ者と持たざる者の格差が拡大し、持たざる者からの悲鳴、怨嗟の声が上がっていた。
三重野氏は就任直後から急激な金融引き締めに踏み切る。同年12月に公定歩合(当時の政策金利)を3.75%から4.25%に引き上げた。その後、1990年3月に5.25%、同年8月には6%に引き上げた。三重野総裁はバブル退治に邁進する「平成の鬼平」ともてはやされた。
大幅利上げで株価も地価も下降に転じる。日経平均株価は1990年に入ると急落し、同年10月には一時2万円を割り込んだ。地価などの騰勢も鈍化し、1991年をピークに長期の下落基調に転じた。いわゆるバブルの崩壊であった。
その後、バブル崩壊の副作用が日本経済を襲う。不動産担保の融資は担保割れし、銀行の不良債権が急増した。日銀は同年7月、さらなる利下げに転じたが、土地や株などの資産価格の下落は止まらなくなっていた。それを境に日本経済は低迷期に入っていったのである。
平成景気の崩壊後、日本では確かに住宅は再び庶民の手が届く存在になった。しかし、急激な金融引き締めは日本経済長期低迷の要因の一つともなっていった。三重野氏のバブル退治の功と罪である。
(22)日本のバブル景気(その2 狙われた日本の銀行)
1990年、商業銀行に対する世界的な規制、BIS規制がつくられた。
それは、国際業務を行う銀行の自己資本比率に関する国際統一基準であり、「バーゼル合意」ともいう。BIS規制では、G10諸国を対象に自己資本比率の算出方法や、(自己資本比率8%以上の)最低基準などが定められた。BISとは国際決済銀行のことである。スイスに所在する。そのはたらきについては各国間における中央銀行相互の決済をするものであり、銀行の監督などをしている組織である。
このBIS規制の真の意図は、日本の銀行に向けられたものである。1980年代、日本の景気はバブル景気にあり、日本の大手銀行は挙って預金獲得競争をしていた。1980年代ごろまで日本の銀行の評価基準は預金量であった。バブル景気の最中、日本の銀行は膨大な預金をもって外国資産などを買いあさっていた。それに目を余した欧米が日本の銀行叩きとして行ったのがBIS規制である。
欧米ではいつでも引き出せる預金は不安定資金と考えられている。自己資本率とは、銀行が持っているお金は大きく分けて「自己資本」と「他から借りているお金」の2つに分類できる。自己資本とは、銀行が自分で株を発行して調達したお金(資本金)、これまでの利益の蓄積、株などを買ってそれが値上がりして得た利益、所有している土地や建物など他人に返さなくてもいい自分のお金のことである。「他から借りているお金」 とは、銀行が国民から「預金」という形で集めたお金や、日本銀行から借りたお金をさす。他から借りているお金(企業などに貸し出しているお金なども含む)と保有している株などの資産、自己資本などを合わせたものを「総資産」という。つまり自己資本÷総資産×100=総資産に占める自己資産の割合を自己資本率というのである。
例えばある銀行の自己資本が8億円で、貸し出している金額・保有株の総額が合計で92億円だとすれば、この銀行の総資産は100億円で自己資本率は8%となる。
それが、BIS規制があるため、自己資本が少ない銀行はあまり貸し出しすることができない。それでも企業などに貸しているお金が戻ってくれば、銀行は別の企業などにお金を貸すことができる。しかし、バブル景気崩壊後においては、融資を受けた企業は銀行に借金を返すことができない。ということで銀行は貸し出す資金を枯渇させていったのであった。
銀行がお金の貸し出す量を増やすということは、その分のお金を 「預金」 、あるいは 「日本銀行から」 という形で借りなくてはならない。しかし、銀行が他からお金を借りるということは、総資産(他から借りているお金+自己資本)が増えることになり、自己資本は変わらないので、自己資本率を減らすことになる。
さらに、銀行は不良債権を処理して、戻ってこなくなったお金は自己資本で穴埋めしなくてはいけない。なぜなら自己資本が減ったとしても預金者に対してはきちんと預金の引き出しには応じなければならないからだ。 
その結果、自己資本比率はさらに下がる。不良債権の処理は、銀行の自己資本率を減らすのだ。
自己資本率を増やす方法は2つ。①株価などが上がらない限り、銀行の自己資本は増えない。不景気の世の中、株価が上がるのは期待できない。そこで、日本政府が銀行に資本注入する。②分母の総資産を減らすということは、他から借りているお金、つまり銀行が貸し出しているお金を減らすということだ。だから、銀行が貸し出す量を減少させる。それは貸し渋りを意味する。そして預金などを集めて余ったお金を日銀に返済する資金にまわせばよいのである。
その結果、日本経済は平成不況と呼ばれる長い不景気の時代に入っていくこととなった。そして日本経済は新自由主義の方向へと大きく舵を切っていくことになるのである。

2,感じたこと
(1)経済理論については、何か一つの学説や通説をもってすべての社会や経済を説明し語るなどということは叶わない。そう感じた。なぜならそれぞれの理論にはそれを提唱したそれぞれの人が生きた時代状況、立場、価値観、視点などが大きく関係しているからでる。
   例えばアダム・スミスには、アダム・スミスの生きた境遇や環境、時代、社会がある。重商主義的政策により金の蓄積することが国富であるとの風潮が色濃く残る大英帝国に生まれ、まさに産業革命がいま始まり漸進的派展を遂げていくという中で「本当の富とは何か」という視点を追求し自身の経済理論をつくりあげたのであった。
マルクスにおいては資本主義が成長する過程、つまり西欧においても未だ資本主義が成熟していない状態の中、封建的風潮が色濃く残るプロセイン王国に生まれ、産業革命と資本主義革命の風が巻き起こる西欧に生き、多くの人々が搾取と貧困に喘ぎ、かつ自身も弾圧によってドイツ、フランス、イギリスなどを転々せざるを得ないという状況の中で、生産現場に焦点をあてて経済理論をつくり発展させたのである。
ケインズは大英帝国が没落する中、二度の大戦を経験し、大恐慌の嵐が吹き荒れる中で自身の経済理論をつくりあげた。フリードマンにはフリードマンの、ピケティにはピケティのそれがあるのである。だからそれぞれの理論においては違いや齟齬、ズレなどがあって当たり前なのである。
これからは、拠り所とするような自明な理論などは持たず、学ぶべき経済理論については、その理論そのものだけではなく、俯瞰的視点をもちその理論が提唱された時代や背景事情などについても理解を深めていきたい。
(2)この世の中の在り方は経済によって左右されている。そう痛感した。
18世紀までの封建社会までは、誰が支配者で、誰が被支配者なのかはっきりしていた。しかし、18世紀の市民革命を経て成立、発展した近代民主主義の世の中では、それが見えにくくなってしまった。
現代民主主義においては、立憲主義や議院内閣制のもと個人の権利・自由の保障がうたわれ、いかにも市民社会が成立しているような様相が整っている。しかし、その内実については、いまだ19世紀の国際金本位制における支配構造が継続しているように思える。つまりケインズのいう投資家階級、企業家階級、労働者階級による階級社会にあり、いまだに投資家階級による支配が続いているように感じる。それをいま風にいうとエスタブリッシュメントによる支配である。
19世紀においては、国際金本位制が安定し機能する中で、イギリス、シティの投資家階級が利潤・利子・配当金など不労所得を求め、挙ってインドなど植民地やアメリカ、アルゼンチンなど発展途上への資本輸出に興じていた。その利潤を生みだし、可能とする社会体制を確たるものにしていたのが覇権や脅迫、欺瞞、偽り、つまり帝国主義や国際金本位制だったと考える。
現在においてもその支配の構図は変わっていない。国際社会体制やエスタブリッシュメントの顔ぶれ、そして搾取のやり方、覇権のあり方、脅迫、欺瞞、偽りの仕方などが変貌しているだけである。要は、その連中は金融で儲けている。というか金融でこの世の中を食いものにしているのである。それがもとで被支配者側の人々、すなわち労働者は、連中の金儲けによって引き起こされる景気の浮揚、後退、恐慌、戦争、政変、格差、貧困などアクシデントに都度、苛まれてきたのである。
それを例えると18世紀までは「封建権力の物語」であり、18世紀以降において「金融権力の物語」が始まり紆余曲折(一次大戦まで、戦間期、二次大戦後から70代まで、70年代以降)を経ながらも、現在もなおその物語が続いているのである。
それを本講義で国際金本位制の仕組みや世界金融恐慌などバブル景気の背景、ショックドクトリン的手法の実態や全容などを学ぶ中で痛感させられた。
(3)これからはマルクス経済学も批判的に読んでいこうと思っている。というよりも「これは正しい」とのお墨付きがあるものに対しては特にそうしていこうと思う。
また、いままで語られてきた「マルクス、レーニン主義」がどういうものであったか、その本質を理解する必要があると感じた。そのためにアイザック ドイッチャーの「トロツキー伝三部作」を読んでみようと思う。
(4)10月17日の第3講の中での「マルクス経済学の剰余価値論の元になっているのは労働価値説であり、商品の交換価値の説明にはならない」との説明については、よく理解できなかった。
現在においても資本論についてはまともに読めておらず、もって交換価値や使用価値について理解が浅い面がる。ついては、「経済学批判」や「資本論」「賃金労働と資本」、「平和の経済的帰結」「雇用、利子および貨幣の一般理論」などの解説本、そして先生の「貿易・貨幣・権力―国際経済学批判」(既に購入済み)などを読んで自分なりに考えてみたいと思う。

3,考えたこと
(1)これからの自分の研究テーマは「貨幣」と「金融」に絞ろうと考えている。まずは一番根源である貨幣、つまりお金というものを考えていきたい。
現在、JPモルガン新興市場部門ヴァイス・プレジデントという立場で世界金融危機などを体験したカビール・セガール氏が書いた「貨幣の『新』世界史」という本を読んでいる最中である。この本は、経済史、生物学、心理学、脳科学、人類学、宗教、芸術などあらゆる分野にわたる最近の研究を駆使して貨幣について語るものである。
この本を読みながら、そもそも交換の道具であったお金がなぜ人々を貨幣蓄蔵の衝動に駆りたてるのか。そして、そもそもお金はどのようにして生まれ、どのように成長を遂げてきたのか。これからどう発展していくのか、などを想像している。
それを解き明かし、理解するためのカギは、(進化の過程で行ってきた生物の交換行為なども含んだ広義な視点からみた)「交換」というものの理解と人間の表象的思考やホモエコノミクスに影響を与えてきた「側坐核」の発達過程やそのはたらきの理解などだと考える。とりあえず、貨幣や金融などに関する書籍などを読みあさろうと思う。
(2)そのうえで銀行家「ヒャルマル・シャハト」について研究していきたい。
   現在までに評論家の武田智弘氏が書いた『ヒトラーの経済政策』、『マネー戦争としての第二次世界大戦』などの書籍を読み、シャハトの「国際経済に一人勝ちはない」(ケインズも一方的な黒字貿易を「近隣窮乏政策」であるとして批判している)、「経済政策とは理念でなく、現実である」という言葉に感動をおぼえ、また、シャハトのレンテンマルク発行による事実上のデノミ政策、労働手形の発行による財政政策、特別マルクを発行し貿易量を拡大させた「ニュープラン」、物々交換による貿易圏の確立、拡大など数々の華々しい施策について感銘をうけた。
   しかし、シャハトがそれら政策を行い成功させたという事実は書かれてるものの、なぜ成功したのか、その具体的な事由や理屈などについては書かれてはいなかった。
   本来、経済というものは「經世濟民」するためのものである。シャハトの思考や数々の神がかり的な施策はそれを追求したものであり、それを理解することで、經世濟民を叶える経済はどういったものなのかがみえてくるような気がする。そのためにもシャハトについての研究をしていきたいと考える。
以 上

学長通信(第12号)

大阪労働学校・アソシエ学長、本山美彦

目次
はじめに
1.2017年度のカリキュラム(予定)
2.地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第9回)
3.学生レポート

はじめに
 講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のおつきになる時間に、1コマでもいいので、ご参加下さい。場所は、学働館3階・講義室・図書室です。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、昨年の11月から「労働講座」が、各労働組合の自主的な運営で開始されています。ここにも、組合員以外の方々の聴講をお待ちします。2月14日(火)と28日(火)の18時半~20時に山元一英講師による講座が開かれます。
 労働学校側の講義は、2月、3月にはありませんが、土曜日に公開市民講座を予定しています。

1.2017年度のカリキュラム(予定)
設置講座

1 基礎ゼミナール
前期

社会変革の古典を読む 大賀正行
『資本論』で現代資本主義を読む 斉藤日出治
マルクスのアソシエーション論 田畑稔
歴史を読み直す 佐藤正人、金静美
後期
社会変革の古典を読む 大賀正行
世界を動かしている力を探る  本山美彦
社会経済論―新しい文明を求めて 津田直則

2 実践講座
後期

労働運動の歴史に学ぶ 木下武男、熊沢誠
社会運動の経験に学ぶ 津田道夫、杉村昌昭

3 基礎教養講座
前期・後期

読み書き話す基礎教養講座 山本哲哉
* 受講生の弁論・提案能力を育て、文章指導、読書感想、課題報告をおこなう
社会運動をオーガナイズするための基礎教養講座 富永京子
コミュニティ・オーガナイズの手法、オルグの手法の学習実践を学ぶ

4 通常講座以外の企画
①公開市民講座
 連帯経済、侵略犯罪の歴史、優生思想、沖縄、原発、地域、差別、改憲、健康問題などの実践的テーマは公開講座として、土曜日の午後の時間帯で設定する。
②会員労組の労働講座(山元一英講師)は労働学校と別枠で設定し、労働学校が協力する 
③連帯労組などを対象に、パソコンを活用した遠隔討論、遠隔授業を実験的に実施する

講師陣
本山美彦(京都大学名誉教授)
斉藤日出治(元大阪産業大学副学長)
大賀正行(部落解放・人権研究所名誉理事)
田畑稔(季報『唯物論研究』編集長)
津田直則(桃山学院大学名誉教授)
木下武男(昭和女子大学名誉教授)
熊沢誠(甲南大学名誉教授)
加藤哲郎(一橋大学名誉教授)
佐藤正人(海南島近現代史研究会)
金静美(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
山本哲哉(大阪大学大学院・哲学)
津田道夫(地域アソシエーション研究会)
富永京子(立命館大学産業社会学部准教授)
山元一英(労働講座講師)

時間割
前期

昼の部
火曜日 1時間目 13:30-15:00 大賀正行
    2時間目 15:30-17:00 佐藤正人、金靜美
木曜日 1時間目 13:30-15:00 斉藤日出治
    2時間目 15:30-17:00 田畑稔
夜の部
月曜日 18:30-20:00 山本哲哉
水曜日 18:30-20:00 富永京子・労働講座(山元一英)

後期
昼の部
火曜日 1時間目 13:30-15:00 津田直則
    2時間目 15:30-17:00 津田道夫・杉村昌昭
木曜日 1時間目 13:30-15:00 大賀正行
    2時間目 15:30-17:00 本山美彦
夜の部
月曜日 18:30-20:00 山本哲哉・富永京子
水曜日 18:30-20:00 木下武男、熊沢誠
 4月以降も学生(本科生、選科生)を募集しています。単発での聴講でも結構です。ご希望の方は、上記の事務室にご連絡下さい。

2.地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第9回)

大塩平八郎の乱(2)

はじめに

 天保8(1837)年2月19日の早朝、大坂東町奉行所の元与力、大塩平八郎(1793~1837年)が乱を起こして、300人ほどの人数で、天満の自宅から大坂城に向かって、「救民」の旗を掲げて行進したが、わずか半日で鎮圧され、本人は自害した。
 多くの民衆が飢饉に喘いでいるのに、幕府の役人と大坂の豪商が癒着して、数々の不正を冒したことを糾弾する失敗覚悟の蜂起であった。蜂起に参加したのは、平八郎が開いていた陽明学の塾で、平八郎を尊敬していた、与力、同心、その師弟、近隣の農民たちであった。乱の最中に火災が起こり、「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失するという大火になった。
 乱は、簡単に鎮圧されたとは言え、平八郎が配布した「檄文」は大名から民衆まで密かに写され、幕藩体制に大きな衝撃を与えた。幕藩体制が崩壊する30年前のことであった。乱の参加者のほとんどは捕らえられ、獄中で死亡した。
 名著『大塩平八郎』の執筆者、幸田成友(幸田露伴の実弟で、不朽の名作『大阪市史』の編纂者)は、乱の衝撃の大きさについての文を、著書の冒頭に掲げている。
 「大阪は天下の台所である。しかり台所であって書院または広間ではないが、台所の一小事は一家の煩いとなり、大阪に生じた異変は海内に波動する」(創元社、1942年)
 大塩平八郎に関する研究は多く、私のエッセイで付け足せるものがあるかどうかは、甚だ覚束ないが、地誌を探訪するために、既知のものも厭わず、書き綴っておきたい。

1 与力
 乱を起こす前、まだ大坂東奉行の現役の与力であった頃から、世の中の堕落・不正を糾弾してきた人として、頼山陽などの賞賛を得た平八郎による破戒僧の島流しについて今回は述べておきたい(ただし、ほとんどは幸田成友の前掲書に依存している)。  
 今回は、平八郎が断罪した数々の腐敗の一つである、破壊僧侶を島送りの刑に処した背景を述べよう。
 事件は、文政13(1830)年3月に起こった。大坂在住の僧侶たちのあまりにも堕落した姿に対して、平八郎は、再三再四、警告を出していたが、僧侶たちに悔悛の念なしとして、彼らのうち10数名に遠島を申し渡したのである。これは、上司の大坂東町奉行・髙井山城守(たかい・やましろのかみ、1763-1834年)との相談の上で決めた断罪であった。
 髙井山城守が東町奉行に赴任したのは文政3(1820)年11月のことで、文政13(1830)年10月に転勤している。髙井山城守は、前回(大塩平八郎の乱1)で紹介したように、平八郎を使って、自分の配下でなく、西町奉行配下に属する(西組)与力の「弓削新右衛門」を汚職の罪で追放している(転勤の前年)。当時の上層役人であった現役与力と、同じく当時の特権階層であった僧侶たちを切り捨てたことへの幕府権力側から掛かった圧力は相当大きかったものと想像される。転勤させられた背景にはそうした事情があったものと想定される。
 平八郎は、上司の髙井山城守に心酔していた。山城守が東町奉行から転出を決意するともに、平八郎は、同年、与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲っている。後は、陽明学の塾に専念していた。
 ここで、破壊僧侶の説明から少し横道に逸れて、当時の町奉行、与力、同心の身分の高さを記しておこう。
 大坂町奉行は、江戸幕府が大坂に設置した役職で、東西の大坂奉行所(東町奉行、西町奉行)の2つがあった。町奉行(江戸の場合、江戸町奉行とは言わない。単に町奉行と称された。北町奉行、南町奉行)と同様に、1か月ごとの月番制を取っていた。配下の与力はそれぞれ東組、西組と呼ばれていた。奉行は老中の支配下にあり、で大坂城下(当時は大坂三郷のこと)及び摂津・河内の支配を目的としていた。
 大坂町奉行の知行は1,500石(江戸の半分)であった。しかし、これは名目額であり、実質はその4割、つまり、600石、それに役料として米の現物600石が支給されるので、計1,200石の年収であった。
 奉行の下に与力があった。各奉行は東西で30騎(人数のこと)ずつ、計60騎、与力の給与は200石であった。
 さらにその下にそれぞれ50人(同心は騎と呼ばない)、計100人の同心があり、10石3人扶持であった(幸田成友『江戸と大阪』冨山房、1934年)
 ここで、注意しておかねばならないことは、知行の石とは付与される領地から上がる米の量である。1石は1人の年間の食い分(米)、扶持とは家の従者(家僕=かぼく)の扶養に必要な年間の米の量。当時、米1石は現在の貨幣価値に換算するとほぼ8.8万円であったという説に従うと、1,500石という奉行の年収は1.3億円程度になる、とてつもない高給であった。与力の200石でさえ、2,600万円という高給である。ただ、多くの家僕を屋敷で養わなければならないので、これらの高給を家族だけで消費できるわけではないので、実際にはその3分の1から5分の1程度の懐具合であっただろう。
 町奉行は、幕命で交代するが、与力と同心は慣例として世襲で、家屋敷もそのまま占有できる(「居付き」という)。与力は500坪、同心は200坪の敷地を持つ屋敷を幕府から貸与されていた(前掲、幸田『大塩平八郎』)
 つまり、大塩平八郎は、当時のかなり地位の高い高級官僚だったのである。

2 戸籍制度が生んだ僧侶の堕落
 豊臣秀吉の没落後、大坂城主になった松平下総守忠明(まつだいら・しもふさのかみ・ただあきら、1583~1644年)の手によって、大阪の大規模な整理・拡張が行われた。「道頓堀」の名付け親であることから見ても、今日の大阪の基本的な設計は彼によって進められたのである。
 彼は、寺院を天満(てんま、大川の北側の台地)の北隅(川崎村、北野村)と上町(うえまち、大川の南側の台地)の東南隅(谷町、寺町)に集合させた。これは、外敵の侵入を防ぐ意図が込められていた。天満の北隅については、寺町橋(秀吉が掘削した天満堀川に架かっていた橋、いまは道路になり形だけが残っている)の東西両側が「東寺町」、「西寺町」になっている。
 元禄8(1695)年の記録によれば、寺の数は西本願寺派がもっとも多くて94寺、その次が浄土宗知恩院派の85寺、東本願寺派の54寺、等々、総計422寺であったという。西本願寺派だけが三郷の城下内に居を構えることを許されたが、他は、郊外に押し込められていた。
 仏教では、四天王寺(してんのうじ)のみが幕府からの援助を受けていた。
 四天王寺は、駅名「天王寺」の由来になった寺である。一時を除き、特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
 四天王寺以外の寺院は、すべて檀家の喜捨のみで維持されなければならなかった。しかし、寺院、とくに浄土真宗系のものは経営に困らなかった。当時の戸籍簿に相当する「家持借家宗旨人別帳」によって、すべての民衆は、寺院のこの人別帳に記載されなければならなかったからである。
 禁教であるクリスチャンでないことを民衆は自己証明しなければ、クリスチャンと見なされて罪に問われていたのである。各寺院は、檀家の宗旨手形(宗旨請状)を町奉行に提出する義務を負わされていた。民衆は、なにがなんでも寺院に自己と家族の存在を登録しなければ、通常の社会生活を維持できないほどの苛酷な制度が人別帳によって形成されていたのである。
 宗旨手形がなければ、民衆は、移転も奉公もできなかった。人別帳には、戸主、家族の氏名、年齢が記され、戸主の氏名の上には、必ず「何宗何町何寺檀徒」という文字が書かれていた。
 檀家とは純粋に仏に帰依することにとって形成されたものではなく、戸籍登録するのに便利な近くの寺院が選ばれただけのことであると見なしてもいいのではないか。もちろん、そこには一定程度の宗教心はあっただろうが、ほとんどは習慣的、制度的なものであったと見なしてもいいだろう。この習慣と制度とが寺院の経営を大いに助けていたことは否めない事実である。そして、僧侶は、法会を主催し、説教するだけでなく、人別帳に記す側の権力を背景に、葬儀に参加すれば、かなり多額の金銭の謝礼を貰えたのである。
 葬儀には、僧侶は籠に乗り、長刀、合羽籠を従えるという俗物そのものの僧侶が巷には溢れていた(前掲『大塩平八郎』)
 上記のように、文政13年、山城守より命じられた平八郎は、再三触書を出して教訓を加えたのち、なお非行を改めない僧侶10数名を捕らえて遠島を申し渡したのである。

3.学生レポート

□EUの原点 ――欧州石炭鉄鋼共同体――

学生A

1952年にECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足し、前年のパリ条約に合意した西ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの六ヶ国が加盟した。ECSC設立の目的は、現在のEUのように経済的連携に重きを置くものではなく、戦争を防ぐために作られたことに注目したい。
石炭と鉄鋼がなぜ平和と関係しているのか。それは当時、石炭と鉄鉱石が国力を決める重要な資源として捉えられ、独仏国境にあるアルザス地方の石炭と鉄鉱石を巡ってドイツとフランスが戦争を繰り返していたことに由来する。ECSCの目的は、重要資源を六ヶ国で共同管理することで戦争の原因を永久に除去することである。
二度の大戦の主戦場は欧州であり、敗戦国のドイツは国土を東西に分断、連合国に分割占領されるだけでなく、領土を失うことで1500万人の難民を出し、200万人の犠牲者を出すに至った。イタリアも北アフリカから上陸する連合軍、イタリアを見捨て南下してくるドイツ軍の板挟みに遭い、半島全土が地上戦の舞台となった。フランスやベネルクス三国もヒトラーの軍隊に占領されながら抵抗したものの、レジスタンスは惨殺され、中にはオラドゥール村のように、村ごと滅ぼされた事例もあった。
 このように惨憺たる目に遭った加盟国が平和を望んでいたことは想像に難くないが、共同管理以外の方法があったのかを考えると、それ以外に「最善の方法」が思いつくものではない。パリ不戦条約は破られたら意味が無く、ルール占領のように敗戦国を痛めつけてもヒトラーのような国家主義者が支持される、武力での統一はヒトラーもナポレオンも既に失敗している。
 第一次大戦後に、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の汎ヨーロッパ運動、ジャン・モネの提言した独仏国境にある資源の共同管理は、実現されることなく世界恐慌を経て次の戦争へと突入してしまう。それがようやく、第二次大戦後、フランスのロベール・シューマン外相が、ジャン・モネの構想を実現すべくドイツに石炭と鉄鉱石の共同管理を持ち掛け、欧州統合は具体的に動き出した。

学長通信(第11号)

大阪労働学校・アソシエ学長、本山美彦

 講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のおつきになる時間に、1コマでもいいので、ご参加下さい。場所は、学働館3階・講義室・図書室です。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、昨年の11月から「労働講座」が、各労働組合の自主的な運営で開始されています。ここにも、組合員以外の方々の聴講をお待ちします。
 また、1月毎週木曜日第1限(10時半~12時)に、大賀正行・講師による「マルクス関係講義」を緊急追加しました。
 2月、3月には講義はありませんが、土曜日に公開市民講座を予定しています。

1. 2017年1月の講義

基礎ゼミナール 第1限(10時30分~12時)
 鈴田渉・講師「憲法を学ぶ」(毎週木曜日)
 本山美彦・齊藤日出治・講師「自由討論」(毎週金曜日)
 田淵太一・講師「保守系の経済学のどこが間違っているのか?」(毎週月曜日)

社会変革の古典を読む講座 第2限(13時30分~15時)
 大賀正行・講師「マルクス関係講座」(毎週月・木曜日)
 田畑稔・講師「マルクスのアソシエーション論」(毎週金曜日)

社会制度の改革を学ぶ講座 第3限(16時30分~18時)
 大野敦・講師「物流のグローバルチェーン」(16日(月)、20日(金))
 永島靖久・講師「国家機密法」(25日(水))

共生・協同社会建設を学ぶ講座 第4限(19時~20時30分)
 津田直則・講師「協同組合論」(23日(月))
 武建一・講師「労働運動論」(27日)(金))

労働講座 (18時30分~20時)
 山元一英・講師 (24日(火))

2. 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第8回)
 大塩平八郎の乱(1)

 現在の大阪には、天保山(てんぽうざん)という地名がある。
 江戸時代、安治川において、淀川が運ぶ大量の土砂を浚渫(しゅんせつ)したことから、その土砂を積み上げて作り出された人工的な山(実際には山でなく、土砂の塊)が天保山である。天保2(1831)年から約2年間、安治川では「天保の大川浚」(大川とは淀川のこと)呼ばれる浚渫工事が行われた。
 「大坂町奉行」(後述の予定)の指揮の下、延べ10万人以上の労働力が注ぎ込まれた浚渫工事で、浚渫された土砂が安治川河口に積み上げられた。それで出来た築山は約20mほどの高さがあり、安治川入港の目印となった。そのため当初は「目印山」(めじるしやま)と命名されたが、後世、築かれた時の元号から天保山と称されるようになった。
 天保時代は、大火や大飢饉で世の中は騒然となっていた。その時に、「大塩平八郎の乱」が発生したのである。
 天保8(1837)年に天下を騒がせた大塩平八郎の乱は、200年余り続いてきた幕藩体制の崩壊の兆しであった。その顛末については、幸田成友(こうだ・なりとも、幸田露伴の実弟)や森鴎外の有名な叙述があるので、衆知のことであろうが、この乱が浮き彫りにした大坂の町のことについては意外に知られていない。そこで、今回から数回にわたって大塩の乱を通して見える当時の大坂「町民」の生活ぶりを浮き彫りにしてゆきたい。
 大塩の乱を扱う意味は、この乱を通して地歴を眺めたとき、私たちの多くが、過去の人々の生活に関してかなり誤解したままであることを正すことにある。
 たとえば、私たちは江戸時代の庶民を武士ではない「町民」だと見なしてしまう。しかし、これは正しくはない。町民はいわゆる庶民ではない。町民とは、家・屋敷を所有する裕福な階層のことである。つまり、「家持」(いえもち)、大商人たちである。当時の住民は、武士や公家や僧侶以外では、借家住まいの人がほとんどであり、彼らは「借家・借地の者」と呼ばれていた(幸田成友『江戸と大坂』冨山房、1934年)
 町民、武士、僧侶はそれぞれ別個に棲み分けていた。江戸の「町地」(町民が一定の自治を委ねられていた地域)の市街地に占める比率は、江戸と大坂では対照的であった。
 明治2(1869)年に行われた維新政府の調査によると、幕末期の江戸は市街地の約6割も武家地によって占められていた。寺社地と町地は、それぞれ2割程度に過ぎなかった。政治の中心地の江戸では、町民を含む住人が、いかに狭い所に押し込められていたかをこれは示している。
 これとは対照的に、大坂の町地は、市街地のすべてであったと言っても過言ではない。武家屋敷は大阪城の周辺にわずかにあっただけである。大名の蔵屋敷などは町中(大坂三郷、後述する)に少数あったが、それでも、そのほとんどは町民名義の屋敷であった。寺社は後述するが上本町筋と天満の寺町筋に押し込められていた(幸田成友『江戸と大阪』冨山房、1934年)。名実ともに、大坂は「町民の町」、つまり、大商人の町だったのである。
 ここで、「大坂三郷」(おおさかさんごう)という言葉を使ったので、その説明をしておこう。
 大坂三郷は、北組、南組、天満組の3つ組の総称である。「組」というのは、町奉行の管轄領域である町の行政組織・地域のことを指している。
 江戸時代、「大坂の町」とはこの三郷を意味していて、本町通りの北を「北組」、南を「南組」、大川の西岸を「天満組」といった。三郷とは、現在の地名で言えば、大阪市中央区の大半・西区の東部・北区の南部を中心に広がり、浪速区・大正区・此花区・福島区・都島区の各一部にも及んでいた。
 本町通りを南北に横切った2つの川が掘られた。東側が「東横堀川」、西側が「西横堀川」という。この東西2つの横堀川に挟まれた地域が「船場」であり、西横堀川の西側が「下船場」と呼ばれていた 
 いまの「阿波座」はこの下船場に「土佐座」と並んであった。名の通り、阿波や土佐の人たちがこの地で市を開いていたのである。
 有名な道頓堀は、2つの横堀川を結び、木津川にまで続く東西方向の川で、河内久宝寺(かわちきゅうほうじ)の豪商、安井道頓が掘削工事を請け負ったことから付けられた名称である。これは元和元(1615)年に完成している。
 いまの堂島川が「北堀」と呼ばれていたことに対応して、道頓堀は「南堀」とも称されていた(前掲、『江戸と大阪』)
 大坂城落城後、戦乱で大坂外に去っていた商人たちを大坂に呼び戻して、商売を繁盛させるべく、三ノ丸を解放して市にし、その地に、まず、伏見商人たちを招致したのが、徳川家康の外孫、松平忠明(まつだひら・ただあきら)であった。これら、京都から招かれた伏見商人たちが、下船場に販路を拡大すべく開削したのが「京町堀」である。この堀の北には「江戸堀」、南には「阿波堀」が掘削された。元和3(1617)年前後である。阿波堀の南には「立売堀」(いたちぼり)があった。いずれも、「壊して新しく作る」大阪の伝統のせいで、いまでは、無惨にも埋め立てられて風情のないビルになり、地名だけが残っている。地名が残ればまだいい方で、大阪には頻繁に地名を改名するという困った伝統もある。
 いずれも、町民たちが開削した堀であった。
 三郷の各町からは、世襲制の「惣年寄」(そうとしより)がいた。身分は町民である。町奉行の配下で、町の行政を事実上差配していた。
 惣年寄の多くは、徳川時代に入って、河川を掘ったり、埋め立てたりするのに尽力した有力な開発町民出身であった。惣年寄の人数は、三郷で10~20人と少なかった。彼らは、名誉職で、無給であった。しかし、軒役(のきやく=家一軒に対して課せられた賦役を伴う諸税)を免除されていただけでなく、年頭や八朔(はっさく=旧暦8月1日の祭り=徳川家康が江戸城に最初に入城した日を記念する)などの祝いの日には、礼銭・祝儀を受けた。
 賦役の中には、惣会所経費・消防費などの諸費用の負担(公役=くやく)、町会所費用・橋の普請費用など、町の運営費の負担(町役=まちやく)が含まれていた。
 惣年寄は、こうした税負担を免(まぬが)れる代わりに、町奉行の最重要の手足となっていた。
 因みに「町」は、江戸では「ちょう」、大坂では「まち」と発音されていた。いまでもその名残は東京と大阪の地名に見られる。
 大坂の地名の特徴も記しておこう。街路の呼び方に大坂独特の特徴がある。街路は、大坂城の大手門(正面)が西向きであるところから、大手門に直角の向きの街路を縦(たて)とした。つまり、縦は東西方向である。この東西に延びる街路を大坂では「通り」と呼んだ。そして、横が南北方向になる。横向きの街路は、「筋」(すじ)と呼ばれた。
 現在の「御堂筋」は、江戸時代は「淀屋橋筋」と呼ばれていた。つまり、南北の「筋」の街路である。
 堀川も同じである。船場を挟む南北の堀川は、「横」堀川と名付けられ、それぞれ、「東横」堀川、「西横」堀川と称されたのである。
 町の施政の担当者の職名を列挙しておこう。大坂町奉行所からの触(おふれ)は惣年寄たちに伝えられ、惣年寄はそれぞれの惣会所で「町年寄」や「惣代」に伝達することになっていた。
 施政の役に就いた町民たちは、月番で惣会所に詰めて勤務していた。ある程度の自治は町奉行から認められていた。町年寄を補佐する「手代」、書類の作成に従事する「物書」、会所の書類を保管する「会所守」(かいしょもり)なども置かれていた。彼らを雇う「給銀」(給金)は各町の負担であった。
 少なくとも町民は、自らの才覚で日々の糧を得ていたのに、そうした町民にたかったのが町奉行配下の「与力」、そのまた配下の「同心」(これらについては後述の予定)、そして各藩から派遣されてきた「蔵屋敷」の武士たちであった。
 蔵屋敷で留守居を命じられた各藩の役人は、自国の物産を「蔵物」(くらもの)として売り捌(さば)き、そうした蔵物を抵当として、町民から借金するのが役目であった。こうした各藩の武士たちを、幸田成友は、「武士の町民」として揶揄している(同氏『大塩平八郎』東亜書房、1910年)
 「武士の町民」たちは、町民を屋敷に招いたり、逆に御茶屋で接待されたりして、町民と借金の交渉をしていた。彼らの間で賄賂の授受があったのも事の自然の成り行きであった。
 与力や同心もまた同じ穴の狢(むじな)であった。
 大坂の庶民たちには縁遠い武士階級と日常的否接触があるというだけで、武士に賄賂を送る町民は、特別の権威を町地で持つようになった。
 代表的な集団は、天満、天王寺、鳶田(とびた)、千日前に居住する輩であった。彼らは、「四ヶ所」と呼ばれるやくざ集団であった。頭(かしら)は「長吏」(ちょうり)と呼ばれ、配下には「小頭」(こがしら)、「若者」(わかもの)と称される、ならず者たちがいた。
 彼らは、徒党を組んで与力、同心たちの手先を務め、町内でなんらかの冠婚葬祭があれば、他の暴力集団から金銭要求を拒否してやるという名目の下に、様々の金銭酒食を強請していた。毎年の年末には、「節季候」(せきぞろ)、「鳥追」(とりおい=余所者を追い払うの意)、「大黒舞」(だいこくまい)等々の名の下に、町中の家持から心付けをせしめていたのである。
 与力や同心にとって、こうした四ヶ所のやくざ集団を使うことは、掏摸(すり)や窃盗犯人を捕まえるのには便利だが、四ヶ所自体が、犯罪人たちと馴れ合いの関係になっていたばかりか、つねに家持を恫喝するので、町民にとっては迷惑な強持(こわもて)のたかり集団以外の何者でもなかった。
 これら四ヶ所から莫大な賄賂を取っていた名家出身の「西組・与力」の弓削新右衛門(ゆげ・しんえもん)を、文政12(1829)年に、命を掛けて(後述の予定)失脚させた「天満・与力」の大塩平八郎の名声は一挙に高まった。頼山陽は、「大塩子起(子起は平八郎の字)の尾張に適(ゆ)くを送る序」で大塩平八郎を絶賛している。
 「大塩平八郎の乱」が歴史で語り伝えられるのは、平八郎の現役時代の数多い赫赫(かくかく)たる成果に負うところが多い。

学長通信(第10号)

大阪労働学校・アソシエ学長、本山美彦

 講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のおつきになる時間に、1コマでもいいので、ご参加下さい。場所は、学働館3階・講義室・図書室です。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、11月から「労働講座」が、各労働組合の自主的な運営で開始されています。ここにも、組合員以外の方々の聴講をお待ちします。
 また、12月毎週木曜日第1限(10時半~12時)齊藤日出治・副学長による「『資本論』を読む」講義を緊急追加しました。

1. 学生レポート

月曜日 第1限
「保守系経済学のどこが間違っているのか?」 田淵講師の講義に学ぶ
学生A
金本位制の自動調節作用は実在するのか
答えは「実在しない」
 金本位制を行う国があっても、「金」の移動はほとんど起きない。金が移動する前に、中央銀行が金利を調整することで解決している。物価が変動するレベルの金の移動は、歴史上、一度も起こってはいない。
 金本位制とは、金利を調整して金の流出を調整し、金に基づいた為替レートを安定させる仕組みである。為替レートの安定は外国との約束であり、金本位制を守れば、その国に安心してお金を貸せる、つまり信用を得るためにそれぞれの国のエリートが守っていた。
 金利を上げると、お金を借り難くなり、失業・倒産が増加する。金回りが悪くなり、経済活動が停滞する。ケインズは国内均衡より国際均衡を優先する金本位制を批判していた。1870年から1913年まで続いた国際金本位制は、あえて大幅に金利を引き上げ、労働者に失業の脅しをかけて、低賃金を受け入れさせるための制度である。
 国際金本位制を支えていたのは各国における「エリート支配」である。これはイギリスを頂点とし、欧米→日本・南米→植民地の順に構成されたピラミッドに例えると分かりやすい。
 世界で唯一の金融センターを持つイギリスは、負担を周辺国に転嫁できる。イギリスから見て、少し資金が出ている時は、少しだけ金利を上げるだけで資金が戻ってくる。そうすると周りの国は、もっと金利を上げないと自分の国には留まってくれない。
 金が流出しそうになる度に、国内の経済を無視して金利を引き上げる必要が出てくる。不況で金利を上げたら大不況になる。しかし、当時はどの国にも民主主義など無く、労働者階級がどうなろうと眼中にない権威主義的なエリート支配体制であった。ある国はインフラ整備や戦争の費用を賄うために、また別の国は「一等国の栄誉」を得るために、金本位制を守っていた。
 金本位制は第一次世界大戦と共に消えて無くなったが、1925年から再びイギリス主導で復活した。金本位制を復活させたらイギリスは再び繁栄するだろうと勘違いしていたが、本当は「イギリスが強かったから金本位制を保持できた」のである。
 この「再建金本位制」は1931年までの6年間しか保持できず、非常に短命に終わってしまった。これは、①金融センターがロンドンだけではなくなり、イギリスが金利を引き上げるだけでは解決できなくなった、②軍事力のパワーバランスが一次大戦以降崩れ、イギリスにだけ金を預ければ大丈夫という保証がなくなった、③民主化が進んで選挙権が拡大し、政府は新たな経済政策として「雇用政策」を打ち出す必要が出てきたことなどが挙げられる。
 巷では「金本位制は貿易収支を均衡させる作用を持っている」など説明されているが、そんな便利な制度がなぜ現在できなくなったのか。それは決して「ゲームのルール」を守らなくなったからではなく、ルールを守らせるためのイギリスを頂点としたエリート支配体制が失われたからである。

2. 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ(第7回) 

 1.トーマス・グラバーが残した事業
 武器を売る「死の商人」、薩長を結びつけた張本人「勤王の洋商」として知られているトーマス・ブレーク・グラバー(T.B. Glover 1838~1911年)は、73年の生涯のうち52年を日本で暮らし、2番目の「妻」は日本人のツルであった。明治政府から明治41年(1908年)に勲二等旭日重光章を授けられている。
 それから3年後の明治44年(1911年)に東京で逝去、墓は長崎市の坂本国際墓地。妻ツルと共に息子の倉場(クラバ)(トミ)三郎夫妻と並んでならんで眠っている。
 実父は子沢山で、グラバーはその第五男で、兄(第三男)のジェームズを文久元年(1861年)に長崎に呼び寄せて、自社に入社させている。
 ここで、グラバーの日本における事績を個条的に整理しておきたい。

 ①グラバー邸
 長崎市に現存する、あまりにも著名な「グラバー邸」は、日本最古の洋風木造建築である。文久3年(1863年)、山腹の山の手3番地(当時)という外国居留民に幕府が貸し出した土地に建設された。
 安政6年(1859年)、長崎・横浜・箱館(函館)の3港の開港に合わせて、長崎に着任(上海・香港のアヘン商社=ジャーディン・マセソン商会から派遣されて来日)したグラバーは、21歳の若者であった。若年にもかかわらず、長崎・大浦の外国人居留地の中でめきめき頭角を現し、グラバー邸を建てたのはまだ26歳の時であった。
 グラバー邸は、当時でも異彩を放ち、珍しい独特のバンガロー風であった。グラバーには、当初から社交の場としてそこを利用する意図があったと思われる。事実、維新政府の重鎮になる幕末の志士たちが、このグラバー邸に集っていた。すでに紹介したように、薩摩、長州の若者たちがグラバーの導きによって(すぐ後で見るが、実際には、「ジャーディン・マセソン商会」が世話をした)イギリスに密航し、ロンドンなどの大学に留学した。彼らは、グラバーの恩恵に報いるべく、明治政府の実力者になってからは、グラバー支援を行い続けたのである。
 しかし、グラバー邸は、紆余曲折の末、息子の倉場富三郎の代になって、第二次世界大戦中に三菱長崎造船所の所有になってしまった。

 ②長崎在住の外国商人による「商業会議所」
 来日した直後のグラバーは、ケネス・ロス・マッケンジー(1801~73年)の経営する「マッケンジー商会」で事務員として働いていた。マッケンジーも、「ジャーディン・マセソン商会」のエージェントであった。
 そのマッケンジーが、新たに開港された長江(揚子江)中流域の漢口(ハンカオ、現在の武漢市の一部、「ジャーディン・マセソン商会の拠点があった)で貿易取引を行うべく、文久元年(1861年)長崎を離れたことを契機に、同年、グラバーは、マッケンジーから「ジャーディン・マセソン商会」の多くの仕事を引き継いだ。グラバーは、同商会だけでなく、「デント商会」、「サッスーン商会」という当時の大商社の長崎におけるエージェントの権利も得た。
 「ジャーディン・マセソン商会」は、幕府から大浦2番地の土地を借り受けていたが、その土地も、エージェントであるグラバーの管理に委ねられた。グラバーはその地に事務所を構えた。
 同年、「オールト商会」や「ウォルシュ商会」など、英米の7つの商会(イギリス系5社、アメリカ系2社)の代表が集まり、「長崎貿易の促進と発展」、「不法取引の禁止」、「貿易報告書の発行」をスローガンに掲げて設立された「長崎(外国人)商業会議所」が設立され、グラバーは3名の代表運営者の1人となった。この会議所は、日本で最初の「商業会議所」であった。ただし、外国商人と言っても、長崎在住の西洋商社はまだ少なかった。1865年時点でも、この地に居住していた西洋人は、英国人63名、米国人37名、フランス人19名、その他の西洋人は25名と、合計しても150名に足りなかった。
 グラバーは、若造でありながら、このような重要な位置を獲得できたのも、当時、外国商人の間で大きな信頼を勝ち得ていたマッケンジーの後ろ盾と、「ジャーディン・マセソン商会」の威光があったからであろう。
 武器を扱う前は、グラバーだけでなく、他の西洋商社は、茶の輸出を行っていた。しかし、茶はすでに中国(清)人の商圏であったので、長崎の西洋人商会は、グラバーを通して「ジャーディン・マセソン商会」の交易網に頼らざるを得なかった。アヘン戦争で巨大な特権的権益を得た「ジャーディン・マセソン商会」のエージェントであったグラバーの対中コネクションの内容については、もっと調べる必要が日本の史学には残っている。そのこともあって、本節の流れからいささか逸れるが、「ジャーディン・マセソン商会」について、簡単に紹介しておこう。
 ○注「ジャーディン・マセソン商会」
 「ジャーディン・マセソン商会」は現在でも健在であり、香港に本店を置いている(ただし、バミューダ諸島のハミルトンで登記している)持株会社である(Jardine Matheson Holdings Limited)。いまでも、アジアに根を張る世界最大級のコングロマリットである。
 同商会は、1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社の元船医のウィリアム・ジャーディンと、貿易商人のジェームス・マセソンによって、中国の広州(沙面島)に設立された。広東語名は「怡和(Yee Wo)洋行」(現在の中国語と広東語とでは発音に大きな違いがある。中国語では香港はホンコンとは発音しない)。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出であった。同社は、1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関与していた。同商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は、9票という僅差で軍の広州への派遣を決定した。アヘン戦争後、1844年に上海の共同租界である「外灘」(バンド)で同商会は最初に土地を租借した外国企業である。
 1860年、同社は、横浜の居留地に支店を開設した。日本に進出した外資第1号である。
 長崎には、上述のように、安政6年(1859年)に進出した。同社のエージェントとして、グラバーは、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文といったいわゆる「長州五傑」や、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。薩摩や長州の若手の藩士たちのイギリス留学(もちろん密航)については、同商会横浜支店長やロンドン支店が細かい世話をした。
 今でも、香港のランドマークには「渣甸橋」(Jardine’s Bridge)や、「勿地臣街」(Matheson Street)、「渣甸街」(Jardine’s Bazaar)、「渣甸坊」(Jardine’s Crescent)、「渣甸山」(Jardine’s Lookout)、「怡和街」(Yee Wo Street)といった名称のものが残っている。

 ③蒸気機関車をお披露目
 グラバーは、慶応元年(1865年)、つまり、日本で鉄道が開通する5年も前に、長崎で実際の蒸気機関車を走らせた。
 グラバーは、上海で購入した小型の英国製蒸気機関車を自社の持ち船で長崎に運び,、数百メートルの線路を大浦海岸通りに敷設した。燃料の石炭は日本で産出したものを用いて、機関車を走らせた。多数の見物客が押し寄せたという。その時の模様は、ロンドンの『レイルウェー・タイムズ』(Rail Way Times)の1865年号(年刊誌)や大正7年(1918年)6月7日付『ナガサキ・プレス』(Nagasaki Press)で紹介されたという。
 因みに、日本で蒸気機関車が最初に走ったのは、新橋─横浜間で明治3年(1870年)のことであった。

 ④武装船と武器の売却
 文久元年(1861年)、薩摩の五代友厚(当時は才助)に蒸気船2隻の斡旋を依頼されたグラバーは「ジャーディン・マセソン商会」に照会したが、最初のうちは、適当な船が見つからなかった。それでも、薩摩藩は、五代に、そのまま御船奉行副役として、長崎常駐を命じた。文久2年(1862年)、売却可能な1隻が見つかり、長崎に回航されたが、公武合体運動で長崎を不在にしていた五代が今度は間に合わず、長州藩に、「ジャーディン・マセソン商会」を通してさらわれてしまった(壬戌、じんじゅつ丸)。
 その後になるが、同年に、グラバーの兄のジェームズが、アメリカ船籍のコロンビア号を入手し、筑前(福岡)藩に売り込んだ。「グラバー商会」による船の売却第1号であった。
 そして、薩摩藩は、同年、横浜で自藩の藩士がしでかした「生麦事件」の報復をイギリスから受けることを恐れて、武装船の購入を五代に急がせた。これも、ジェームズがドイツ船籍のサー・ジョージ・グレイ号を上海で見付けて、薩摩藩に売却した(靑鷹丸)。続けて薩摩藩は、グランバーよりアメリカ船籍のコンテスト号を購入(白鳳丸)している。
 文久3年(1863年)の薩英戦争の結果、イギリス軍が使ったアームストロング砲の威力に日本の各藩は目を見張った。薩摩藩は早速グラバーに同砲の入手を依頼した。グラバーは、本国政府に同砲を薩摩藩に売却していいかどうかを問い合わせたが、幕府への外交的配慮から本国は売却に同意しなかった。
 やむなくグラバーが取った措置は、同砲の密輸入であった。ポルトガル領マカオには、アメリカ製の旧式砲が89砲門あった。それらを「ジャーディン・マセソン商会」の香港本店のルートによって、鹿児島に運んだ(イギリス本国政府の預かり知らぬこと)
 周知のように、アメリカのいわゆる南北戦争は1865年4月に終わり、この年から不用になった大量の武器が市場に放出された。死の商人たちは、それらをせっせと日本の各藩に売りつけるようになった。
 そして薩英戦争が突発し、「青鷹丸」に乗船していた五代は、船ごとイギリス軍艦に拿捕され、捕虜となって横浜に連行された。しかし、薩摩藩はその事情についてはつゆ知らず、五代を敵前逃亡者として藩から除名してしまった。イギリスの監禁から脱出した五代は、薩摩藩士からも狙われ、途方に暮れていたが、探索してくれた薩摩藩家老に見つけ出されて、グラバー邸に匿われることになった。
 慶応元年(1865年)に五代が帰藩を許されたのは、小松帯刀が行ってくれた藩主への助命嘆願のせいもあるが、グラバー邸に匿われている間に五代が藩主宛に書いた上申書によるところが大きい。それは、貿易を梃子に据える富国強兵策であった。おそらく、五代は、グラバーと相談しながら書いたのであろう。
 薩摩藩は、米や海産物を上海に売って、その売上金で製糖機械を買う。その機械で砂糖を作り、これを内外に売り捌いて利益を得る。その利益を使って、若い藩士を海外に留学させ、同行した藩のしかるべき人物が、武器類や紡績機械類を購入して、藩の軍備増強と産業技術の向上を図るという内容の上申書であった。
 当然、そこには「グラバー商会」や「ジャーディン・マセソン商会」などの貿易商人の存在が暗黙裏に想定されていた。この点だけを見ても、グラバーが五代に入れ知恵をしたと容易に想像できる。
 そうした想像を裏付けるように、グラバーは、五代の活躍に呼応して上海や横浜に「グラバー商会」の支店を相次いで開設した。必要資金は「ジャーディン・マセソン商会」から借りまくった。
 文久3年(1863年)~元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間で戦闘があった。1863年、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。その報復としてアメリカとフランスの軍艦が、馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃した。しかし、長崎藩は海峡封鎖を続行し続けた。そして、1864年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合軍が、艦砲射撃や兵士の上陸などによって、長州藩の砲台を徹底的に破壊した。
 薩英戦争や下関戦争の様子を見た幕府や各藩は、外国と日本との武力差を思い知らされた。その結果、幕府や各藩は、競って軍艦や武器・弾薬を外国商社、とくに「グラバー商会」から購入するようになった。「グラバー商会」は数値上は空前の儲けを出すはずであった。しかし、結論を先に言ってしまうと、「グラバー商会」の台所は火の車であった。そもそも、外国人からの武器の仕入れは現金であったが、大名からの入金はなかった。当時の日本の大名取引の慣習によって、大名の買いは掛け買いであった。そうした習慣は、数年後の新政府による廃藩置県によって、大名が廃絶されるや否や「グラバー商会」を極端な資金難に陥れることになる。藩が消滅してしまえば、「グラバー商会」が破綻してしまうことは当然の成り行きであった。
 それでもグラバーは、新政府が成立するまでは、軍艦や武器を各藩に売りまくった。1864年の最後の3か月だけでも、グラバーは高価な軍艦を3隻も、肥後、肥前、紀州の各藩に売りつけたのである。

 ⑤「ソロバン・ドック」の建設
 グラバーが大量に売りつけた軍艦のほとんどは中古のものであった。いきおい、修理面での不自由さが目に余ってきた。そこで、グラバーは、慶応2年(1866年)に五代や小松帯刀と組んで、長崎の小菅(こすげ)の入江に大規模の修船場(ドック)建設を構想した。資材はグラバーの故郷、アバディーンの「ホール・ラッセル」社に発注した。グラバーの兄、チャールズ(長兄)が調達の責任を引き受けた。
 資材とは、巻き揚げ機、ボイラー、チェーン、レール等々である。チャールズは、そうした資材を長崎に輸送する快走帆船を、やはりアバディーンの造船所「アレキサンダー・ホール」社に依頼した。「ホール・ラッセル」社の技師が、できあがった帆船に、資材とともに乗って長崎にやってきて、修船場の建設の陣頭指揮に立った。
 明治元年(1868年)に出来上がったドックは1,200トン級の船を収容できる広さがあり、ソロバンの形に似ていたことから、地元では「ソロバン・ドック」と呼ばれた。
 この修船場も、最初こそグラバーの所有であったが、明治2年(1869年)に政府に買い上げられ、明治20年(1887年)、三菱長崎造船所の所有となった。

 ⑥高島炭鉱
 長崎港の入口近くに石炭が採れる高島という地があり、元禄時代から佐賀藩が石炭を採掘していた。しかし、この炭鉱は、幕末の開港時になっても、前近代的な手掘りであり、採掘量も微々たるものであった。工業化が日本でも進行するであろうことを読んでいたグラバーは、高島炭鉱の近代化の方針を佐賀藩主の鍋島直大と話し合った結果、慶応3年(1867年)、香港の「ジャーディン・マセソン商会」に乗り込み、高島炭鉱の近代化のための開発資金の融資を申し込んだ。さらに、アバディーンに足を延ばし、採炭機械の調達と技師の採用の手配をした。
 慶応4年(1868年)、「グラバー商会」は佐賀藩と契約を交わし、直ちに炭層の探査を始めた。幸運にも地下45メートルの当たりで広大な鉱脈を発見した。「ジャーディン・マセソン商会」から融資を受けた豊富な資金と、アバディーンから調達した機材、そして優秀な技師のお蔭で、良質な石炭の採掘は順調に進み、高島炭鉱の石炭は長崎港から内外に販売された。石炭の質は、イギリス産の石炭よりも硫黄分の少ない非常に良質のものであった。
 高島炭鉱は、明治2年(1869年)秋まで順調に操業を継続してきたが、明治3年(1870年)に入ると、スポンサーの「ジャーディン・マセソン商会」が、グラバーに対して、すべての債務の精算を迫った。困ったグラバーは、「オランダ貿易協会」に高島炭鉱を残すことを頼み込み、炭鉱の経営権を同協会に移し、すべての機材も同協会の所有に移し替えた。
 しかし、同協会─炭鉱経営には無頓着であった。グラバーも、炭鉱経営に従事はしていたが、資金的な決定権がないために、経営に毅然とした姿勢を示すことはできなかった。経営責任があいまいになり、資金難で労働環境が急激に悪化したことによって、不満を募らせた炭鉱労働者たちが、ついに、明治5年(1872年)、本格的な労働争議を起こすことになった。日本最初の大労働争議だと言われている。翌6年(1873年)には数十名もの炭鉱労働者の死者が出た。
 明治7年(1874年)、見かねた明治政府が、高島炭鉱の経営に介入することになった。グラバーに公的資金を渡して、高島炭鉱の所有権を「オランダ貿易協会」から、とりあえず買い戻させた。しかし、それは、グラバーを正式の所有者として確定させるためではなかった。一時的な名義切り換えにすぎなかったのである。
 同年、政府は「日本坑法」を国家で可決させ、外国人による日本国内の鉱山所有を禁止することにした。その上で、政府は、一旦渡した所有権をグラバーから取り上げて、土佐藩出身の後藤象二郎が経営する「蓬莱(ほうらい)社」に高島炭鉱を払い下げた。
 グラバーや、彼によってアバディーンから連れてこられた技師たちが炭鉱に留まることは、認められたが、膨大な債務は減少されず、不安的な経営状態はなお継続し、炭鉱労働者の不満は鬱積していた。
 所長の座をあてがわれたとはいえ、グラバーは、いたたまれず、明治13年(1880年)、福沢諭吉を動員して債務も精算してくれる大会社に炭鉱を身売りすることを画策した。
 炭鉱の経営、債務返済のすべてを引き取ったのが岩崎弥太郎であった。明治14年(1881年)のことであった。その後も、グラバーは、高島炭鉱の顧問として残っていたが、明治18年(1885年)、高島炭鉱から一切、手を引くことになった。
 その他、五代との共同事業であった大坂造幣局、あるいは麒麟麦酒の設立などもグラバーの大きな遺産であるが、ここでは割愛する。 
 それでも、少なくとも、繁栄する大三菱グループの下地は、グラバーによっても作られたものであったと見做すことは誤りではないだろう。

学長通信(第9号)

 講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のおつきになる時間に、1コマでもいいので、ご参加下さい。場所は、学働館3階・講義室・図書室です。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、11月から「労働講座」が、各労働組合の自主的な運営で開始されています。ここにも、組合員以外の方々の聴講をお待ちします。

1.  12月の大阪労働学校・アソシエの講義予定

第1限(10時半~12時)「基礎ゼミナール」
 毎週月曜日、田淵太一・講師「保守系経済学のどこが間違っているのか?」
毎週木曜日、鈴田渉・講師「憲法を学ぶ」
 毎週金曜日、本山美彦・齊藤日出治・講師「自由討論」

第2限(13時半~15時)「社会変革の古典を読む講座」
 毎週月曜日、大賀正行・講師「『空想から科学へ』購読」
 毎週金曜日、田畑稔・講師「マルクスのアソシエーション論」

第3限(16時半~18時)「社会制度の改革を学ぶ講座」
 5日(月)、鄭海東・講師「TPPと日本の農業」
 8日(木)、上原公子・講師「地方自治」
 12日(月)、仲村実・講師「戦後労働運動史」
 19日(月)、豊嘉哲・講師「EUの労働者」
 21、22日(水、木)遠藤敏幸・講師「韓国における格差問題」

第4限(19時~20時半)「共生・協同社会建設を学ぶ講座」
 12日(月)、津田直則・講師「社会的経済の革新と新たな文明」
 16日(金)、柳充・講師「実践・討論」

特別「労働講座」(18時半~20時)
 13日(火)、山元一英・講師「商品生産と価値法則について」

2. 地域との共生を模索して―地域史から学ぶ
 第6回 国際結婚についての明治新政府の規定
 1. 「戸籍」は日本だけのものである。

 前稿(第5回)で、私は、トーマス・グラバーの終生の妻・ツルが、(しばしば言われているように)グラバーの「戸籍」(不用意な通説であるが)に入らずに「日本国籍」になぜ留まったのか?つまり、なぜ正式に結婚しなかったのか?の問いを出し、多くの人がその点について誤解をしていると指摘した。このことの理由について、今回は、この文の末尾で、簡単に説明しておきたい(詳しくは次号で説明する)
 残念ながら、日本国内で不当な国籍・戸籍上の差別を受けるという哀しい経験をした人々を除いて、日本国籍を持つことが当たり前であると思っている人たちの多くは、戸籍についてあまりにも鈍感すぎる。世界中で、戸籍制度のある国は、厳密には、「日本」のみであるということすらほとんど知られていない。この事実だけでも、日本人の多くは自国の特殊性を知らなさすぎる証拠として十分であろう。
 例えば、「戸籍制度」という日本語に当たる英語はない。「戸籍」という英語を強いて探せば、「ジーニアス和英辞典」の’family register’が見つかるが、そこでは、コメントが付されていて、「米英など多くの国では戸籍制度はない」とある。
 「戸籍」の二つの漢字の「籍」の意味は分かる。しかし、「戸」とは何か?このことへの疑問すら日本人の多くは、懐いたことがないのではなかろうか?
 「戸」と「家」とはどう違うのか?これは、非常に重要な論点なのだが、このことの分析に立ち入ってしまうと、いたずらに訓古論になってしまうので、今回は説明しない。それでも、「戸籍」とは、「家」制度(筆頭者、配偶者、子供の序列、税負担に単位、等々)を前提としたもので、権力が支配しやすいように作り上げられたものであることだけは指摘しておきたい。
 「入籍する」、「入籍しない」という言葉の持つ怖い響き、「家」を中心に据えた昨今の「憲法改正論」。この持つ問題に人々はもっと多くの関心を寄せてもいいのではないだろうか。もちろん、家族の絆は大事にしたい。家族でなければ温もり合えない心の襞がある。しかし、心の自然な発露と、国家・社会支配の道具になってしまっている「戸籍制度」の維持とはまったく別問題である。「戸籍」などという排他的な制度になりがちなものは廃止して、欧米なみに、「個人」ごとに、住民・税金負担者として相互に認め合う合意を基盤とした「登録」慣習でいいではないか。
 個人的なことを言わせていただくが、私は競馬が大嫌いである。出走馬の父は誰、母は誰、兄弟・姉妹は誰といった競馬の予想記事に食い入るように見つめる競馬フアンを見ると、虫酸(むしず)が走り、哀しくなる。血統で私たちの人生は決まってしまうのか。そうであって欲しくない。つまらない横道に逸れて、失礼をした。
 現在の日本の「戸籍」は、昭和22年(1947年)12月22日(法律224条)を根拠にしたものであるが、その法律には、「戸籍」とは何か、についての定義はない。ただ、「夫婦と子供」を単位としたものであり、外国人と結婚した日本人は、家族とは離れた別の「戸籍」を作り、そこに本人と実子のみが「戸籍」として記され、配偶者である外国人は日本の「戸籍」には入れずに、付記されるだけである、といった手続きのみが述べられているにすぎない。そうすることになった論拠が、きちんと示されているわけではない。
 
 2. 日本の権力者は、人民への課税と「正しい」血筋を要求してきた
 多くの制度がそうであるが、「戸籍制度」も日本は中国を模倣してきた(現在の中国の戸籍制度は事実上有名無実なものになっている)
 古代、律令制度ができる前は、氏素性(うじすじょう)を「正す」ことと、課税のために、現在の戸籍に似たものが作られていたとされている(裏付ける文献はまだ発見されていない)
 きちんとした血筋のものであることが疑われれば、「盟神探湯」(くがたち)という、対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる、怪しげな(答えは初めからでているという意味での)儀式が行われていたという伝承がある。
 『日本書紀』に書かれている逸話には、「允恭(いんぎょう)天皇」(5世紀の人と言われている)が、「氏」(うじ)、「姓」(かばね)の「正しい」血筋を偽る輩を排除するために、この野蛮な儀式を行ったとされる。これにより、血筋を詐(いつわ)っている者は恐れて儀式を受けなかったので、正邪がすぐに分かったと、天皇の儀式を褒め称えていたのが、『日本書紀』である。
 「継体(けいたい)天皇」の時代にもあった。「任那(みまな)人」と「倭(わ)人」の間で子供の帰属を巡る争いが発生した際、「倭国」から派遣されていた代官が、「盟神探湯」によって判断を下した。当然だが、火傷を負って死ぬ者が多く、そうした紛争は沙汰止みになたという。酷い神話である。
 今回はこの辺で筆を措(お)くが、トーマス・グラバーの妻問題だけは先に結論を出しておこう。
 明治6年(1871年)3月14日の「太政官(だじょうかん)布告」第103号が、日本の歴史で初めて「国際結婚」の法的な決まりを外国政府に告知した。翻訳する。
 1. 外国人との結婚は政府の許可が必要である。
 2. しかし、外国人に嫁いだ日本の女性は、日本国籍を失う。
 3. 日本人に嫁いだ外国の女性は、日本の国籍を取らなければならない。
 4. 外国人に嫁いだ日本女性が日本国内で財産を持つことは許されない。たとえ、結婚前に本人名義で財産を取得していても、それを保有し続けることはできない。
 5. 日本人に婿養子に入る外国人は日本国籍を取らなければならない。
 6. 外国で、外国人と結婚する場合も現地の日本公使・領事の許可を得なければならない。
 お分かりになっただろうか?もし、ツルが英国の国籍を取られなければ、無国籍者になってしまうのである。
 しかし、逆の見方もできる。ツルが英国籍を取れば、当時の外国の締約国人に有利な不平等条約によって、日本の居留地(ツルは大坂西区川口近くの松島で育ったとの説もある)では特権的位置を獲得できたはずである。ツルはそれをしなかった。ここに回答の鍵がある。憶測で申し訳ないが、スコットランド人としてイングランドの法律に与したくないグラバーの矜恃(きょうじ)も、ツルの選択に見られるということを私は読み取りたい。

学長通信(第8号)

 後期以降、講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のつくときにご参加下さい。場所:学働館3階・講義室・図書室。
 聴講ご希望の方はお問い合わせフォームよりご一報下さい。
 また、11月から月2回、「労働講座」が始まります。ご参加・聴講をお待ちします。

 (1) 2016年11月の講義予定

第1限(10時半~12時)「基礎ゼミナール」
田淵太一(同志社大学商学部教授) 毎週月曜日(11月7、14、21、28日)
「保守系の経済学のどこが間違っているのか?」

鈴田渉(大学非常勤講師) 毎週木曜日(11月10、17、24日)
「憲法を学ぶ」

齊藤日出治(本学副学長)・本山美彦(本学学長) 毎週金曜日(11月4、11、18、25日)
「自由討論」

第2限(13時半~15時)「社会変革の古典を読む講座

大賀正行(部落解放・人権研究所名誉理事) 毎週月曜日(11月7、14、21、28日)
「『空想から科学へ』購読」

齊藤日出治(ご入院中の友永健三、部落解放・人権研究所名誉名理事の代行) 毎週木曜日(11月10、17、24日)
「『資本論』を読む」

田畑稔(『唯物論研究』編集長) 毎週金曜日(11月4、11、18、25日)
「マルクスのアソシエーション論」

第3限(16時半~18時)「社会制度の改革を学ぶ講座」

加藤哲郎(早稲田大学大学院政治学研究科客員教授) 11月7日(月)
「グラムシの機動戦・陣地戦論から21世紀情報戦論へ」

鄭海東(福井県立大学経済学部教授) 11月14日(月)
「中国の貧富格差」   

生田あい(『コモンズ』編集長) 11月17日(木)
「社会変革の闘い」

井上正夫(松山大学経済学部准教授) 11月18日(金)、21日(月)
「貨幣から見た日中交渉史」 

澤野義一(大阪経法大学法学部教授) 11月25日(金)
「日本国憲法の平和主義と各国憲法の平和・安全保障方式」

服部良一(元衆議院議員) 11月28日(月) 「原発問題」 

第4限(19時~20時半)「共生・協同社会建設を学ぶ講座」

津田直則(桃山学院大学名誉教授) 11月21日(月)
「労働者協同組合」

柳充(前関生支部副委員長) 11月25日(金)
「実践討論」

新設 「労働講座」 毎月第2、第4火曜日、18時半~20時 全12回(予定)
第1回 「生産関係について」 講師・山元一英(前・全港湾大阪支部長)11月8日(火)
アドバイザー・本山美彦(本学学長)

第2回 「商品生産と価値法則について」 講師・山元一英 11月22日(火)
アドバイザー・齊藤日出治(本学副学長)

 (2)地域との共生を模索して―地域史から学ぶ

 第5回 トーマス・グラバーの日本人妻に見る明治新政府の戸籍制度─外国人との結婚に関して(1)

 1. グラバー邸を三菱が購入

 グラバー商会は、1870(明治3年)に支払い不能で倒産した。倒産後もグラバーは日本に留まり、三菱の顧問などを歴任して広範な事業に取り組み、1863(文久3)年に建造した「グラバー邸」を1911(明治44)年に日本で逝去するまで手放さなかった。
 グラバー邸は、一度はグラバーの子供達(長男の倉場富三郎と長女のハナ)の共同所有になっていたが、最終的に倉場富三郎(クラバ・とみざぶろう)の単独所有になっていた。富三郎は、1939(昭和14)年に三菱長崎造船所へ売却するまで、妻のワカとここに居住していた。
 この売却は、太平洋戦争開始前に主力戦艦となる航空母艦の建造を理由としたものであった。合いの子として、戦争体制に突き進んでいた日本社会の冷たい目に耐えてきた倉場にとって、これは大きなショックであったろう。彼は、日本が敗戦した直後の1945(昭和20)年に自殺している。
 この間の事情を長崎市の観光案内は怒りを込めて叙述している。
「国際理解を深めるべく活動した富三郎の努力とは裏腹に、悲劇が起こる。・・・倉場夫妻は<グラバー邸>を三菱へ売却し、丘の麓にある南山手9番地へ引っ越す。戦艦<武蔵>建造中の造船所を一望できる<グラバー邸>に彼らにスパイ容疑がかけられたのだ。日本人として生きてきた富三郎にとって、それは耐えられない屈辱であった。そして、その苦悩から終戦直後、自ら命を絶ってしまう。彼が残した遺言には、街の復興のために莫大な金額を長崎市に寄付すると記されていた。グラバー一家のアルバムのなかで、富三郎は、父トーマスから顔をそむけている写真が目立つ。混血であるということ、また、何かほかにも、富三郎が父と心から向き合えない理由があったのだろうか。しかし富三郎は、仕事でも、社交界でも父グラバーの跡を継ぎ、死期が近づいた父のために出来る限りのことをした――― グラバーは南山手3番地の切り拓いた土地に植物を植え、花壇をつくった。グラバーが丹精込めて造りあげた庭園は富三郎へと受け継がれ、富三郎はこの庭花を愛し続けたのだった」(「グラバー邸のもう一人の住人、倉場富三郎」『ナガジン!』、http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1410/)
 三菱長崎造船所への売却について、三菱グループの広報誌(「マンスリーみつびし」三菱広報委員会、2004年5月号)は、以下のように語っている。
 「<長崎のグラバー邸はかつて三菱重工業のものだった>と言うと<へえ~>と反応する人は三菱の関係者にも多いと思う。長崎湾を見下ろす南山手の丘の上。文久3年(1863)に建てられた。プッチーニのオペラ『蝶々夫人』の舞台に擬(ぎ)せられている。ただしグラバーはピンカートンのように愛妻ツルを裏切っていないしツルは自害などしていない。ちなみに、初演から今年で100年目の由。
 グラバー邸は幕末には武器弾薬などきな臭い取引の舞台となったが、明治維新後は普通の外国人の別荘。昭和14年(1939)に三菱重工業がグラバーの子孫から購入した。戦後の昭和32年(1957)、造船所が長崎鎔鉄所として発足してから100年を迎えた記念に長崎市に寄贈された」(「三菱の人ゆかりの人」、「vol.01 トーマス・グラバー (上)」、https://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man01.html)
 グラバーの息子「倉場富三郎」の住んでいた屋敷を、「普通の外国人の別荘」と表現されている。
 歴史を辿っていくと、グラバーの先駆的な事業のことごとくを明治政府の介入によって、政府の管轄下に入れられ、その過程を経て、日本の企業に払い下げられてきた型の繰り返しに気付く。
 高島炭鉱、「そろばん式ドック」などを経営・発明してきたグラバーの事業を紹介した後、「そういうグラバーだったが<日本国内の政局の流動化を背景に…取引の重心をしだいに投機的かつ短期的性格の強い艦船や武器の取引にうつし… >杉山伸也『明治維新とイギリス商人』)一攫千金をねらうようになっていった」と、冷たくグラバーを突き放す歴史物も普通に見られる。
 長崎港を見下ろす南山手の丘に、「グラバー邸」が建てられてから153年の月日が流れた。この建物は当初、接客所として、住居として、また接客に使用した。現存する日本最古の木造洋風建築物として、1961(昭和36年)に国指定重要文化財に指定された。
貿易を目的に、各国から来航した外国人たちは、当初、古寺などに仮住まいしていた。彼らが幕府の命を受け造成された「大浦外国人居留地」に住居を建て始めたのは、第一次造成工事完了後のことであった。借地権を取得した外国人たちは、半永久的にその土地を借り受けることができる「永代借地権」を日本政府から与えられ、毎年末に借地料を支払うことが義務付けられた。南山手3番地に建てられた「グラバー邸」の永代借地者は、グラバーであった。

 2. 実母、養母ともに不明なグラバーの子、倉場富三郎

 富三郎の実母は、グラバーの妻、「ツル」ではないのではなかろうかとの見方がある。グラバー園名誉園長であり、長崎の外国人居留地時代を研究する第一人者でもある長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ(Brian F.Burke-Gaffney)教授の著書『グラバー家の人々』がそれである。詳しいことは分からないが、グラバーとツルが結婚したのは、グラバー商会倒産後であったらしい。五代友厚の紹介であったという説もあるが、その信憑性はない。ツルその人の出生も同じく分かってはいない。
 ツルと一緒になる前、グラバーは遊女であった「菊園」と暮らし、1861(文久元)年、男児「梅吉」が生まれたが、この子は幼くして亡くなっている。
 「グラバー商会」倒産直後の1870(明治3)年12月8日、「加賀マキ」という日本人女性との間に、もうひとり、男児「新三郎」を設けた。この子が、グラバーの長男、倉場富三郎ではないか、つまり、富三郎は「ツル」の子ではないという説である。「加賀マキ」についても、よく分かっていない。
 明治元年に作られた『外国人支那人名前調帳』というものがある。これは、長崎県立図書館に所蔵されている『幕末・明治期における長崎居留地外国人名簿』(郷土史料叢書, 2-4)に所収されたものである。
 それには、南山手甲壱番英マッケンジ借地の居住者に「トヲマス・ゴロウル 同妻」という名がある。「ゴウル」というのは、「グラバー」のことであろう。同妻というのが、「加賀マキ」であると推定されるのは、成人した「富三郎」自身が、自分の実母は「加賀マキ」であると書いているからである。
 その女性とグラバーは別れたが、ツルと一緒に住みようになって、グラバーは富三郎を引き取り、ツルも我が子として育てたらしい。
そして、「新三郎はツルの姓とされる「淡路屋」と「富三郎」という名を使うようになった。
 ツルは、グラバーとは正式に結婚していない。当時、日本人が外国人と正式に結婚するには、政府の許可が必要であったし、結婚してしまえば、日本人妻は、日本国籍を喪う上、日本国内での住民登録にも、外国人の夫の名前は記されないという戸籍法(1873年3月の「太政官布告」のこと)のせいで、詳しいことはほとんど分からない(この点については、次回に詳しく説明することにする)(ここまでの富三郎については、前掲、『ナガジン!』による)

 3. 淡路屋ツルについて

 1894(明治27)年に作成され、いまは長崎市役所に保存されているツルの戸籍によると、ツルは、1851(嘉永4)年1月9日、大阪市新町の「大月又助」の長女として生まれ、「淡路屋安兵衛」の養子に出された(河村瑞賢が開削し、本学校の側を流れている「安治川」は「あわじがわ」とも読める)
 しかし、この戸籍は信頼できるものではないと上記『グラバー家の人々」は叙述している。つまり、ツルの父の名前すら、いまのところ不明なのである。
 グラバーが死ぬまでツルを手放さず、しかも長男の倉場(淡路屋)富三郎の実業家としての令名が高かったということもあって、出生が不明であるツルを巡る覗き趣味的な説がまことしやかに流されることになった。
 曰く、大分の武士に嫁いだが、その藩が佐幕派であったために、勤王派の淡路屋が離縁させたとか、五代友厚がグラバーに紹介したとか、大阪西区の松島でグラバーと所帯を持ったとか、いろいろな説が現在でも入り乱れている。
 もっとも多くの話題を集めたのは、ツルの義理の曽孫(ひまご、そうそん)であると名乗り出た「野田平之助」なる人物が、ツルの略歴を新聞記者に語った内容である。
 それによると、ツルは、大分県竹田村岡城の御普請大工、「中西安兵衛
の娘であり、15歳で時岡町の「山村國太郎に嫁ぎ、「山村ツルになった。1863(文久3)年に娘、「センを産んだ。しかし、嫁姑の諍いと亭主の乱行のせいで離婚して大坂に行き、1年間ほど芸者をした後、長崎に流れ、そこでも芸者をしていた時、三菱長崎造船所の技術顧問をしていたグラバーと知り合い結婚した。49歳で、東京で亡くなった(『長崎日々新聞』1959年10月2日付)とされた。
 ところが、野田は、自著『グラバー夫人』(新波書房、1972年)では、新聞記者に語った内容を大幅に変更し、生まれは、大分の竹田でもなく、芸者でもないとして、大坂生まれ、竹田の殿様の参勤交代に同行し、竹田で結婚し、娘を得たが、明治政府への忠誠心から夫と娘を棄てて、大坂に戻ったとなっている。ただし、それを裏付ける資料を明示していない。
 実際に、くどいようだが、ツルに関しては、1876(明治9)年に娘、「ハナを出産し、1899(明治32)年に東京で死去したということだけが確かである。
 上記『グラバー家の人々』を下に引用する。
 「江戸時代に日本の近代医学に貢献したP. F. フォン・シーボルト(P. F. von Siebold)の日本人妻タキと同じように、淡路屋ツルはトーマス・グラバーの<妻>と呼ぶのが慣わしとなっているが、二人は正式に結婚しなかったというのが事実である。ツルの戸籍、英国領事館の婚姻簿や『内外人許婚人名簿』などの公的史料を見ても、トーマス・グラバーと淡路屋ツルが結婚を届け出た形跡はない」。
 「明治6(1873)年3月に公布された『太政官布告』が日本人と外国人との婚姻を初めて認め、外国人との男女関係を遊女に限るという封建時代の定めを改めた。しかし、この新しい法律には、<外国人ニ嫁シタル日本ノ女性ハ、日本人タルの分限ヲ失ウヘシ>という条項が盛り込まれていた。つまり、法律改正によって日本人女性が正式に外国人と結婚できるようにはなったものの、日本国籍の放棄という厳しい選択を余儀なくされた。
 ツルがこの条項に抵抗を感じ、内妻のままでよいと決意したのかもしれない」。
 『グラバー家の人々」の上記引用文のうち、前段部分は正しい。しかし、後段部分は、不正確である。そもそも、戸籍という概念は当時の西欧人にはなかった(戸籍法などなかった)し、現在でも戸籍制度が残る日本は、中国と並んで世界では例外中の例外であったし、いまもそうであるという認識はこの著作にはない。優れた研究者、ブライアン・パークガフニであっても、外国人である制約があったのであろう。彼の説明は間違っている。この点は、次号で説明する。

学長通信(第7号)

(1) 「大阪労働学校・アソシエ」10月1日より後期講義が始まります。
 後期以降、講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のつくときにご参加下さい。場所:学働館3階・講義室・図書室。
 聴講ご希望の方のお問い合わせは、お問い合わせフォームよりご一報下さい。
 (注 本年4月に公表してい講義時間割に若干の変更があります)。

(2) 第1回市民講座
 9月には、第1回市民講座が開かれました。この講座は10月にも続きす。9月いすでに終わったものも含めて、3回シリーズの市民講座を以下にご案内します。
 本校は、公開市民講座を、今後、不定期に開催します。第1回目は「日本が海南島で犯した国家犯罪を問う」というテーマで、3回にわたって、「学働館」4回のホールで開催します。入場料は無料です。
 日本は、現在、中国の保養地として有名になっている海南島を、太平洋戦争中の1939年2月から45年8月まで軍事占領をし、現地の人々を、軍隊に動員したり、虐殺したりして、大きな傷を現地に負わせました。しかし、日本政府はこの史実に対して、徹底的に眼を背けてきました。
 第1回市民講座では、本校の齊藤日出治先生(司会担当)がメンバーの1人として活動されている「海南島近現代史研究会」の佐藤正人氏から報告していただきます。講演だけでなく、「ドキュメンタリー」記録映画も上映します。
 第1回 9月10日(土)13~15時、学働館4階ホール。海南島における朝鮮人虐殺と現地住民の虐殺」、ドキュメンタリー「日本が占領した海南島で」(65分)と解説・討論。
 第2回 10月1日(土)13~15時、学働館4階ホール。「海南島月塘村の虐殺と死者の記録・追悼碑の建立」、ドキュメンタリー「海南島月塘村虐殺」(45分)の解説と討論。
 第3回 10月8日(土)13~15時、学働館4階ホール。「日本による海南島侵略史の世界史的意味について」、佐藤正人氏講演。
 ふるってご参加ください。毎回でなく、1回だけのだけのご出席でも歓迎します。

(3) 10月の予定講義のご案内

第1限(10時半~12時)「基礎ゼミナール」

田淵 太一(たぶち・たいち、同志社大学商学部教授) 毎週火曜日(10月3、17、24、31日)
「保守系の経済学のどこが間違っているのか?」

鈴田 渉(すずた・わたる、大学非常勤講師) 毎週木曜日(10月6、13、20、27日)
「憲法を学ぶ」

齊藤日出治(さいとう・ひではる、元大阪産業大学副学長)・本山美彦(もとやま・よしひこ、京都大学名誉教授) 毎週金曜日(10月7、14、21、28日)
「自由討論」

第2限(13時半~15時)「社会変革の古典を読む講座

大賀正行(おおが・まさゆき、部落解放・人権研究所名誉理事) 毎週月曜日(10月3、17、24、31日)
「マルクス、エンゲルスの古典」

大賀政行(ご入院中の友永健三、ともなが・けんぞう、部落解放・人権研究所名誉名理事の代行) 毎週木曜日(10月6、13、20、27日)
「観念論の克服」

田畑稔(たばた・みのる、『唯物論研究』編集長) 毎週金曜日(10月7、14、21、27日)
「マルクスのアソシエーション論」

第3限(16時半~18時)「社会制度の改革を学ぶ講座」

鄭海東(てい・かいとう、福井県立大学経済経営学部教授) 10月3日(月)
「中国の農村自由化政策と食糧大増産」

杉村昌昭(すぎむら・まさあき、龍谷大学名誉教授) 10月4(火)、11日(火)
「フランス社会の抱える諸問題」(現代国家のモデルケースとして)。
「ヨーロッパにおける新自由主義の問題」。

海勢頭恵子(うみせと・けいこ、近畿大学講師) 10月5日(水)
「沖縄問題」

服部良一(はっとり・りょういち、元衆議院議員) 10月17日(月)
「アジア外交」(北東アジアの平和構築の課題)

石井一也(いしい・かずや、香川大学法学部教授) 10月19日(水)、20日(木)
「平和学」

澤野義一(さわの・よしかず、大阪経済法科大学法学部教授) 10月28日(金)
「憲法問題」(立憲主義の意義、歴史、今日的課題)

金早雪(きん・ちょそる、信州大学経済学部教授) 10月31日(月)
「市民福祉革命の世界史的意義」

第4限(19時~20時半)「共生・協同社会建設を学ぶ講座」

津田直則(つだ・なおのり、桃山学院大学名誉教授) 10月24日(月)
「資本主義の矛盾と社会変革の方向」

武建一(たけ・けんいち、大阪労働学校アソシエ代表理事)・山元一英(やまもと・かずひで、全港湾大阪支部委員長) 10月28日(金)
「産別組合闘争・討論」

(4)学校周辺の地歴誌

第3回 現在の新古典派経済学と同じ!─150年前の駐日公使の自由貿易論

1. 開講後、事実上英国軍に支配されていた開港地

 島崎藤村『夜明け前』第2部上巻第2章では、幕末・維新の日本の役人による治安維持が不可能になり、列強、それも主として英国の武力によって、開港予定地の治安が辛うじて維持されるにすぎなかった状況が、淡々とした筆致で語られている。
 開講後、神戸に建造された「運上所」は、いわゆる「びいどろの家」であった。ガラス板を張った窓のある家は、まだ神戸界隈(かいわい)には見られない新奇な建物であった。この運上所が、神戸では、開港の記念としてできた最初の和洋折衷の建築であった。
 「鳥羽・伏見の戦い」の難を避けて、大坂の居館を去って兵庫の方に退いていた各国公使らは、1868年1月14日(新暦。旧暦では15日の元服の日)、それぞれの通訳を伴って、礼服着用で、運上所の二階の広間に集っていた。
 外国公使陣の中では、英国特派全権公使兼総領事・ハリー・スミス・パークス(1828~85年)が主役で、フランス全権公使、イタリア特派全権公使、プロシア代理公使、オランダ公務代理総領事、米国弁理公使たちの6人であった。新帝の元服を祝って、公使らが運上所に集まって、京都新政府の使臣をそこに迎えるという段取りであった。外国人公使たちが、新政府の重鎮たちを訪ねて東京の公定まで挨拶に行くのではなく、日本の重鎮たちを彼らが、自らの軍事力で支配していた神戸の地へ呼び寄せたという点が重要なことである。
 神戸港には、5隻の英艦と、3隻の仏艦と、1隻の米艦が停泊していた。
 そこへ、「ええじゃないか」の謡、囃子(はやし)が、三宮(さんのみや)方面から近づいてきた。群集は三宮神社から運上所までの、新しく開かれた区域にまで溢れ返っていた。公使らはいずれも声のする窓の方へ行って、熱狂する群集を眺めていた。
 そのうちに、新政府の参与兼外国事務「取調掛」(とりしらべがかり)の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ、1834~1912年)をはじめ、随行員として寺島陶蔵(てらじま・とうぞう→後の宗則、むねのり、1832~93年)、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ→後の博文、ひろふみ、1841~1909年)、中島作太郎(なかじま・さくたろう→後の信行、のぶゆき、1846~1899年)たちが応接室に入ってきた。言うまでもなく、新政府の重鎮中の重鎮たちであった。
 新帝の元服の日ということから、新政府の使臣、およびその随行員として来た人たちは、いずれも改まった服装をしていた。
 東久世通禧は、烏帽子(えぼし)、狩衣(かりぎぬ)、帯刀、紫の組掛緒(くみかけお)という公卿の扮装(いでたち)であった。その側には>羽織袴(はおりはかま)の伊藤俊輔が付き添って、東久世と公使たちとの会話を通訳していた。井上聞多(いのうえ・もんた→後の薫、かおる、1836~1915年)と共に英国へ渡ったことのあった伊藤は、髷(まげ)を切って断髪にしていた。断髪は、正使随行員の中でも伊藤一人だけであった。
 建物の外観は立派であったが、予算も時間もなかったことから、椅子などの設備は急拵え(こしらえ)の粗末な間に合わせものであった。
 新帝の言葉を読み上げる儀式は午前中に終わり、午後から、英国公使・パークスと東久世通禧が、三宮英人殺傷事件の処理に関する交渉を行った。パークスは、日本の殺気立った状況をよく認識していたので、事を荒げたくなかった。神戸の占領を解こうと言って、早速街道両口の木柵(もくさく)を取り払わせ、上陸中の外国兵をそれぞれの軍艦に引き揚げさせ、港内に抑留してあった諸藩の運送船をも解放した。ただし、真犯人を挙げて厳罰に処して将来の戒めとすることと、日本政府の陳謝を条件とした。
 そうした後、彼は兵庫にある仮の居館に公使兼総領事として滞在して、神戸の建設状況を観察していた。
 パークスは、部下を通して、東久世に次のように語った。
 「自分は京都新政府に好意を表するため、かくも穏やかな取り計らいをした。これは御国に対し懇切な心から出た次第で、隔意のある事ではない。他の外国が交渉談判を開くとはわけ違いである。もしこれが他の外国人の殺傷の場合ででもあると、なかなかこんなわけにはまいるまい」と(島崎藤村『夜明け前』第2巻上、新潮文庫より転載)。
 パークスは、かつては敵として戦った薩長両藩の人士と握手する位置に立ち、兵器弾薬の類まで援助を惜しまないという姿勢であった。
 その上で、パークスは、今日の新古典派経済学の自由貿易論を彷彿とさせることを語った。
 「今日の世界はすでに全く開けて、いずれの国も皆交際しないものはない。国と国とが交わる以上は、人情もあまねく交わらないわけにいかない。物貨とてもそのとおりであろう。交易の道は小さな損害のないとは言えないが、しかしその小さな損害を恐れてそれを妨げるなら、必ず大艱難を引き出すようになる。ヨーロッパ人はもう長いことそれを経験して来た。在来の東洋諸国を見るに、多く皆、旧くからの習慣を固守するばかりだ。貿易を制限するところがあり、居留地を限るところがあり、交際の退歩するところがある。我は開くことを希望するし、彼は鎖(とざ)すことを希望する。そんなふうに競い合って行って、彼も迫り我も迫って互いに一歩も譲らないとなると、勢い銃剣の力をかりないわけにいかなくなる。互いの事情を斟酌する必要がそこから起こって来る」(同上)。
 「何ゆえに日本はこんなに外国を嫉視(しっし)するのであるか。外人の居住するものは同盟条約の中について日本のためにならないことがあるのであるか。日本治国の体裁に害あることがあるのであるか。条約の精神が行き渡るなら、今日すでに日本国じゅうのものが交易の利を受けて、おのおのその便利を喜ぶであろう。決して今日のように人心動揺して外人を讐敵(かたき)のように見ることはあるまい。この排外は、全く今までの幕府政治の悪いのと、外交以来諸藩の費用のおびただしいとによっておこって来た。この形勢を打破するには、見識ある日本諸侯の力に待たねばならない。薩長両藩の有志者のごときは実に国を憂うるものと言うべきである」(同上)。
 これが、ラザフォード・オールコック(1809~1897年)以来の方針を押し進め、徳川の旧勢力に見切りをつけ、薩長勢力の伸張を期待するパークスの言い分であった。
 当然、米国公使は面白くなかった。
 米国は、この国への先着者である。米国が日本の固い殻をこじ開けた主役である。その先着者を出し抜いて、事ごとに先鞭を着けようとする英国公使の態度を米国公使・ロバート・ヴァン・ファルケンボルグ(1821~1888年)は、薩長と旧幕府との抗争から中立を宣言することによって、英国を牽制しようとしていた。英国は、半ば公然と、薩長に武器を販売していた。フランスは、旧幕府に軍用品を供給していた。
 これに対して、米国は局外中立を宣言していた。中立とは、御門(みかど)側(新政府)と大君(たいくん)側(旧幕府)の両者のいずれに対しても、兵士はもとより、武器、弾薬、兵粮、その他すべて軍事にかかわる品々の売買を自粛することを、米国は、各国に呼び掛けていた。それは、国際法の立場から当然であるとの立場を各国に訴えていたが、薩長の成功を見た各国は、米国の呼び掛けを無視していた。武器弾薬どころか、軍艦までもが売買されていたのである。
 英国による治安維持が保たれている神戸には、各国公使が滞在していた。そして、1868年2月、京都にあった新政府は、三宮事件に対する詫び状を各国の公使に届け、各国公使たちに、通商条約を結ぶために、京都に来ることを要請した。
 公使たちは、京都行きを承諾した。京都への行路として、陸路には治安面の不安がはあったために、各国公使は、それぞれ自国の軍艦を仕立てて大坂の天保山(てんぽうざん)まで行くことにした。

2. 特別な地位にあった西本願寺

 大坂の宿舎に使われたのが西本願寺の別院である。
 そもそも、西本願寺は幕末から長州の影響力が強く、勤王の志士たちが蝟集(いしゅう)する寺であった。幕府打倒に力があったとして、明治の廃仏毀釈(はいふつきしゃく)の難を逃れたのも、そうしたことが強く影響した可能性がある。大坂には、西本願寺の別院があり、北御堂(きたみどう)とか津村別院(つむらべついん)と呼ばれていた。ここに、大坂に来る予定の各国公使を迎えるべく、新政府の要人たちが控えていた。また、薩摩藩は、護衛兵を出して、小蒸汽船で安治川(あじがわ)の川口(がわぐち)に着く各国公使を出迎えるという手はずであった。接待の主役は、三宮事件でパークスと交渉した東久世通禧であった。
 東久世が公使たちを出迎える役目を押し付けられたのも、交渉係は公家でなくてはならないが、公家の中で、彼以外に西洋人と接触した経験のある者が、東久世以外にはいなかったからである。
 この東久世は、1867年の冬、五代才助(ごだい・さいすけ、後の友厚、ともあつ、1836~85年)の斡旋で3週間ほど長崎にいて、オランダや英国の商人に会っていた。オランダ人で米国から派遣された宣教師のグイド・フルベッキ(1830~98年)とも接触している。
 そもそも、東久世は強硬な攘夷派の公家であった。そうした人物を外国公使との条約締結交渉の主役に選ばなければならないほど、朝廷には、外交に明るい人材がいなかったのである。
 いずれにせよ、公使たちは薩摩兵の一隊を先頭に、鉄砲で武装した外国兵に護衛されながら、川口に到着した。川口には、大坂運上所から、居留地、新大橋にかけて、公使の一行を見ようとした人たちが黒山を築いていた。
 1868年2月14日、各国公使の一行は無事に北御堂に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一行一二人の外交団であった。会見の席上、公使たちは、新政府が徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、最後の徳川幕府将軍、1837~1913年)追討の兵を京都から出したことへの不安感を表明し、一刻も早く大坂を発って、横浜の居留地の同胞の安全を守りたいと東久世に迫った。米国公使のファルケンボルグは、イタリア、プロシァの公使とともに、大坂を発ち、横浜に向かうとまで息巻いていた。
 翌、15日の夕方、フランス公使の招待で、交渉団は北御堂で夕食会を開催した。宴会のはじめは、京都には18日に参上することが話し合われ、会は和やかな雰囲気であった。しかし、宴の最中、堺港でフランスの軍艦デュソレッキ号の乗組員7人が土佐藩士に殺害され、遺体は海に投げ込まれたらしいとの情報がフランス公使に入り、宴会は中止された。
 フランス公使は、自国の軍艦・ウエストに引き上げ、17日朝までに死体を軍艦まで運べ、それができなければしかるべき措置をフランス政府は取るとの強硬な抗議文を日本側に送ってきた。死体の発見、収容、届けるという差し迫った任務は五代に押しつけられた。五代は任務を無事に果たした。朝廷は、フランス公使の恫喝に動揺し、ただちに条約の締結に入ると17日のうちに各国公使に伝えた。
  2月28日、結局、米国、イタリア、プロシァの公使たちは京都に寄らず、大坂から横浜に直行した。京都に参内したのは、英国、オランダ、フランス公使だけだった。英国のパークス一行には、薩摩の小松帯刀(こまつ・たてわき、本名は、清廉、きよかど、1835~70年)と五代才助という重鎮が陸路で同行した。
 フランスとオランダの一行は、川口から艀(はしけ)に乗り、深みに停泊していた小蒸気で伏見まで遡上し、伏見から陸路で御所に向かった。
 英国公使陣は、大坂から陸路で御所を目指した。既に見たように、大坂から京都までは小松と五代の護衛があった。京都に着いてからは、薩摩藩士の中井弘蔵(なかい・こうぞう、後の弘、ひろし、1839~94年)と土佐藩士の後藤象次郎(ごとう・しょうじろう、後の元曄、もとはる、1838~97年)が伏見稲荷の辺まで出迎えた。
 東山の知恩院の旅館に宿泊した翌朝、参内にむかった一行を見物していた群衆の中から赤い軍服を着けた英国の護衛兵(いわゆる赤備兵)を目がけて、2人の攘夷派の武士が斬りかかった。1人は後藤が切り捨て、2人目によって、中井が傷付けられた。襲撃者は、兵によって取り押さえられ、後方にいたパークスは無傷であったが、参内は直ちに中止された。
 御所の紫宸殿(ししんでん)では、パークスを含む3人の外国公使に対して、新帝は、かつての幕府のような尊大な姿勢はなく、親しげに接待したという。
 後で、パークスへの襲撃事件を知ったフランス公使は、知恩院に駆け付けて、兵庫に引き帰そうとパークスに進言したが、パークスは動じなかった。

3. 五代友厚を利用した英国

 私たちの学校(大阪労働学校・アソシエ)は川口2丁目にある。隣の3丁目には、「川口運上所」があった。「運上所」とは、神戸の運上所でも説明したが、現在の税関とほぼ同じ業務であるが、関税自主権のなかった時代の運上所は、外国人公使や、外国の政府高官、有力な外国商人たちのサロンでもあった。
 開港後に設立されたのであるが、最初の運上所は兵庫(1858年)。その後、箱館(1859年)、神奈川(1859年)、長崎(1963年)、築地(1867年)、川口(1867年)、新潟(1869年)と続く。1872年11月28日、これら運上所は、「税関」と一斉に名称変更されている(この日が、今日でも「税関記念日」になっている)。川口運上所の初代の長官は五代友厚であった。職名は「長官」ではなくて「外国官判事」であった。このことからも、運上昇は、税関業務よりお外交を主たる業務としていたことが分かる。
 1920年には大阪税関の本体は大阪市港区築港(ちっこう)に移転され、川口には富島営業所が残されていたが、ここも現在では営業していない。
 じつは、明治新政府の貨幣である硬貨は、重要な種類のものは「造幣寮」(いまの造幣局)によって鋳造されたものであった。両でなく円、1円=100銭という十進法を制定したのは、日本側ではなく、香港のオリエンタル銀行であった。このオリエンタル銀行が、明治初期の日本の本位貨幣(基本貨幣)のすべてを、自行が連れてきた英国人技師の手で鋳造していた。英国人技師たちは、豪勢な住居を川口の外国人居住区にあてがわれ、川口から特別に作られた「鉄道馬車」で造幣寮に通勤するという破格の待遇であった。オリエンタル銀行の支店、「オリエンタル銀行大坂支店」は川口運上所の中に設立されていた。
 しかも、西日本初の電信局だと喧伝されている「川口電信局」は、オリエンタル銀行が神戸支店との間で通信を専用的に授受できるだけのものであった。これも、川口運上所に設置されていた(1870年)。
 幕末に、英国人との接触が深かったのは、薩摩藩の五代友厚であった。1856年、藩命で、江戸幕府が創設していた「長崎海軍伝習所」へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学んだ。
 1862年、薩摩藩主に懇願するも、外国への渡航を拒まれた友厚は、26歳の時、水夫として、敵方の幕府艦・千歳丸に乗船して上海に渡り、藩のために戦略物資を買い付ける傍ら、主として英国人たちから情報収集をしていた(この時、長州藩の高杉晋作と出会う)。
 1863年7月、生麦事件によって発生した「薩英戦争」では、3隻の藩船ごと松木弘安(まつき・こうあん、後の寺島宗則、てらしま・むねのり、1832~93年)と共に英国海軍の捕虜となるが、横浜において、英国艦を脱出、江戸に入る。 国元では英国の捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をしていたが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀(のむら・もりひで、1831~73年)の取り成しによって帰国を許された。
 大阪の経済は、五代友厚抜きには語れないが、五代の軌跡を追うには、膨大な紙面を要するので、詳細は後述するとして、ここでは、話題を転じて、「死の商人」として多くの日本人から侮られているトーマス・グラバー(1838~1911年)こそが、明治の幕藩政治の基礎を提供した人であったことを急いで語ろう。

4. 薩長政府の産みの親=トーマス・グラバー

 薩摩と長州が、幕末・維新の時代に、日本の主導権を握り得たのは、トーマス・グラバーというスコットランド、アバディーン州出身の天才的な実業家と緊密な関係を築いたからである。アバディーンはスコットランド最大の造船の地域であった。この地から多くの青年たちが海外に雄飛した。アバディーンで建造された快速帆船は、世界各地の特産品を英国に持ち込んだ。19世紀半ば、アジアからの最大の輸入品は茶であった。
 21歳の時、グラバーは、まず中国に渡った(1859年)。アバディーン出身の毛織物製造会社、「クロンビーズ・オブ・グランドホーム」という、当時の著名な会社を頼ったのである。その年、「日米通商条約」によって、下田、箱館、横浜、長崎が全外国人に対して開港したとの情報を得るや、彼は、紹介状(誰の紹介状かは不明)を持って長崎に来た。
 紹介先は、同じくスコットランド商人のケネス・ロス・マッケンジー(1801~73年)であった。マッケンジーは、長崎開港(1859年)の数か月前にこの地に、「ジャーディン・マセソン商会」の代理人として、茶輸入商人として来ていた。「ジャーディン・マセソン商会」は、1832年に、スコットランド出身の元船医・ウィリアム・ジャーディン(1784~1843年)と同じくスコットランド人貿易商人・ジェームズ・マセソン(1796~1878年)が設立した商社であり、1840年に中国でアヘン戦争の引き金になったアヘン商会であった。
 出自はともかく、同社は、戦争で割譲された香港に1844年、本社を移し、拠点を広州から上海に拡大して、東アジア貿易を牛耳る大商会となった。1868年の香港上海銀行創設にも同商会は大きく関与している(実質的には、サッスーン財閥が主導権を握っていた)。横浜には、開港と同時に支店を開設している(横浜一番館)。
 戦後日本の首相、吉田茂(1878~1967年)の養父、吉田健三(1849~89年)は、1866年に英国軍艦に乗って密航し、2年間同国に滞在し、帰国してからは、「ジャーディン・マセソン商会」の横浜支店長を一時務め、日本政府に軍艦、武器を売りつける一方で、生糸輸出で大をなした人である。彼は、1872年、自由民権運動の牙城であった「東京日日新聞」の経営に参加して、多くの活動家を支援した。土佐に広くて深い人脈を持っていた。
 1861年、マッケンジーが漢口(はんこう)に移るとともに、グラバーは「ジャーディン・マセソン」商会の代表権を譲り受けた。マッケンジーが去ったわずか1月後(1861年6月)、外国商人たちは、日本初の商工会議所を設立した。グラバーは、その運営責任者の一人に任命された。
 1862年、グラバーは、「グラバー商会」を設立する。社員の一人に、日本初だが、実際には日本人はオフリミットであった「神戸ゴルフクラブ」を設立した(1901年、神戸市は、日本初としてのこのゴルフクラブを、六甲山を開発したプロジェクトであったと絶賛し、彼を「六甲山開祖」とした碑を建てている)アーサー・グルーム(1846~1918年)がいた(兄のフランシス・グルームが「グラバー商会」の共同設立者)。
 開港後、西日本の各藩は、幕府が設立していた「長崎海軍伝習所」(1855年第1期生入学)に若手の藩士を派遣していた。この伝習所は、オランダ医学や航海術がオランダ人講師によって講義されていた。各藩は、若い藩士に航海術を学ばせることも目的であったが、実際には、外国人との貿易のルートを藩士に探らせていたのである。事実、五代才助は、若造でありながら、この長崎への派遣時に、薩摩藩のために軍艦を発注している。
 グラバーは、とくに、薩摩、長州、土佐藩士と親しく、彼らと軍艦や武器の取引を行っていた。当時、幕府のルート以外の商取引は禁止されていたので、グラバーは危ない橋を渡っていたのである。
 1863年の「薩英戦争」、1864年の長州による関門海峡封鎖が引き起こしたフランスと長州の戦いの結果、英国は、幕府の弱体化、武力における薩摩の強力さを目の辺りにして、薩摩藩主の島津家と接触したがっていた。これを斡旋したのがグラバーであった。英国使節団と島津藩との会見は、1866年、鹿児島城内で実現した。英国側は、パークス、グラバーたち、薩摩側は、藩主・島津茂久(しまづ・しげひさ、1840~97年)、その父・島津久光(ひさみつ、1817~87年)、西郷隆盛(さいごう・たかもり、1828~77年)、寺島宗則たちであった。
 周知のように、「グラバー商会」の取引商品は武器が主役であった。1867年には、香港上海銀行とオリエンタル銀行の代理店になった。
 同商会は銀貨決済を原則にしていたが、銀貨による支払いができず、米を差し出す藩もあった。グラバーはこれを了承していた。受けとった米や倒産品は、自社のルートで中国に輸出して換金していた。
 坂本龍馬(さかもと・りょうま、1836~67年)が薩摩の武器と長州の米とを交換して、薩長同盟の基盤を築いたという説は眉唾物である。そもそも、当時の龍馬に大量の武器を調達し、米を換金できる力などなかったはずである。そうした取引の太宗は「グラバー商会」の手になるものであった。
 グラバーは、日本人の勝手な海外渡航を禁じていた幕府の国策を犯して、若者たちの海外留学(もちろん、密出国)の後押しをすべく、渡航のための船や留学先の入国手続きの世話をした。これが、後に薩長の内部で権力を取ることになる若者たちとの親交を深める最大の梃子となった。
 1863年、グラバーは長州の5人の若者(「長州5傑」)を横浜から英国に密出国させた。その5人とは、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(いのうえ・ぶんた、後の馨=かおる、1836~1915年)、遠藤謹助(えんどう・きんすけ、1836~1893年)、山尾庸三(やまお・ようぞう、1837~1917年)、野村弥吉(のむら・やきち、後の井上勝=いのうえ。まさる、1843~1910年)の面々であった。
 5人とも明治新政府で大活躍している。伊藤博文は4期に渡り首相を務めた人である。「グラバー商会」が深く関わった大坂造幣寮の建設に山尾を除く4人は、いずれも、大坂造幣寮の長になった経験がある。井上馨と井上勝は、グラバーが紹介したオリエンタル銀行の指示の下で、造幣頭、造幣局長として、大阪造幣寮建設の責任者であった。遠藤謹助も造幣寮では大活躍をしている。1870年に造幣寮長の任に当たるが、独断専行していた、オリエンタル銀行のキンダーと衝突、結局、キンダーを造幣寮から追い出すことに成功している。一時はその責任を取って、遠藤は造幣寮を辞している。現在、大阪人に人気のある造幣局の「桜の通り抜け」は、1883年、当時局長であった遠藤の提唱で始まったものである。
 英国への留学については、長州藩の後が、薩摩藩士の番である。1865年、「グラバー商会」は、後に大阪経済界の大黒柱になる五代友厚率いる19名の薩摩藩士を乗せて密出国させた。
 一行19名のうち、引率係の寺島宗則、五代友厚、他2名と年少の長沢鼎(ながさわ・かなえ、1852~1934年)の5名を除いた14名は、一旦ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに入学したが、すぐに、フランス、米国に転学した。長沢は、アバディーンの実家に預けられて地元の学校に通った。
 米国に転身したのは、森有礼(もり・ありのり、1847~89年)ら6名であった。とくに、森は、初代文部大臣、一橋大学(東京高商)の創設者として、日本の教育界に巨大な足跡を残した人である。
 グラバーが送り出した留学生たちのそれぞれは、明治新政府時代に大きな業績を残したが、それでも、グラバーが日本に創業した事業の数々は、当時の日本人の度肝を抜くものばかりであった。
 1865年、グラバーは、長崎の大浦海岸通りに蒸気機関車を走らせた。数百メートルの線路の敷設、燃料である石炭の調達等々は、すべて「グラバー商会」が実施した。
 グラバーは、長崎の小菅(こすが)の入江に船舶の大規模な修理工場(修船場)を建設した。この建設には、英国留学から帰った五代友厚の協力があった。五代は薩摩藩の会計係に就任していた。留学からの帰国後1年で、五代は薩摩藩の共同出資という形で、グラバーに協力したのである。
 日本が欧米から購入した船のほとんどは中古船であったために、どうしても修理施設が必要だった。工場建設に協力したのは五代友厚、小松帯刀であった。工場建設に必要な「コンニャク・レンガ」(日本最古の煉瓦、コンニャク型で小型)は後に三菱長崎造船所に払い下げられる「長崎製鉄所」で焼かれたものである。
 この修船場は、その形状から「ソロバン・ドック」と名付けられ、新帝まで見学した。
 この「小菅修船場」はグラバーが経営していたが、1869年に政府によって買い上げられた。官営になってからも、管理は政府が雇用した外国人技師によって担われていた。しかし、これも、1887年に三菱長崎造船所に払い下げられた。岩崎家と明治政府との強い結びつきをこれは示したものである。
 グラバーは、1868年に高島炭鉱の本格的な採掘を佐賀藩主の鍋島直大(なべしま。なおひろ、1846~1921年)と交わす。資金の多くは香港の「ジャーディン・マセソン商会」によって供与された。
 しかし、これまで、グラバーの事業展開に協力してきた「ジャーディン・マセソン商会」が、グラバーは事業に手を広げすぎだと判断して、資金供与を渋りだした。当然、グラバーは、急速に資金不足に直面した。1870年、グラバーは高島炭鉱を「オランダ貿易協会」に売り渡してしまう。 その直後、炭鉱では激しい労働争議が起こり、死者まで出た。そこで、1874年政府が35万円をグラバーに貸し付け、炭鉱をグラバーに買い戻させた。
 同年、政府は「日本坑法」を成立させて、外国人による炭坑の所有を禁じた。グラバーは、実の弟たちとともに、炭鉱には残ることができたが、所有権は、後藤象二郎(ごとう・しょうじろう、1838~97年)が社長を務める「蓬莱社」(ほうらいしゃ)に移された。
 これも、身売りされる運命にあった。身売りに奔走したのは、グラバーと福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835~1901年)であった。
 結局、高島炭鉱も、岩崎弥太郎(いわさき・やたろう、1835~85年)の「三菱商会」(1873年設立)が負債も含めて炭鉱を引き受けた。グラバーは、1885年まで炭鉱の顧問に就任していた。
 グラバーの最大の取引相手は、西南部の雄藩であった。グラバーは、これら大名たちに倒幕のための武器を売りつけていた。しかも、代金は延べ払いであった。
 皮肉にも、倒幕の成功が、グラバーの首を絞めたのである。藩が解体されることによって、大名はグラバーへの支払いができなくなったのである。
 グラバーの手元には、大名が発行した無数の約束手形と売れ残りに膨大な数の武器であった。
 「グラバー商会」と密接な関係を築いてきたグルーム兄弟は去り、茶輸出で協力してきたフレデリック・リンガー (1838~1907年)も独立してしまった。
 「ジャーディン・マセソン商会」が「グラバー商会」への資金供与を拒否したことから、1870年、グラバーは長崎にある英国領事裁判所に破産申告をし、会社解散を決意した。同社の資金繰りは、すでに明治新政府ができた1868年には極度に難しくなっていた。しかし、大坂造幣局(造幣寮)建設への協力を同社は五代友厚から依頼され、「ジャーディン・マセソン」商会を介在させて、閉鎖状態にあった香港造幣局の造幣機械を「グラバー商会」が買い取り、明治政府に転売した。造幣寮の完成祝賀会が開かれた1871年には、「グラバー商会」はすでに会社解散をしていたのである。五代からすれば、少しでも「グラバー商会」の資金繰りを助けようとしていたのかも知れない。後に造幣寮の長官となった遠藤勤助は、すでに指摘したように、グラバーが英国への留学の導きをした人である。
 しかし、造幣局の重要な業務のほとんどはオリエンタル銀行に握られていて、「グラバー商会」は造幣寮の操業初期に機械を納入しただけで、利益を出せるだけの取引ができたわけではなかった。
 1870年に「グラバー商会」を倒産させた後も、グラバーは、日本に留まっていた。たとえば、高島炭鉱の所有権は「オランダ貿易協会」に移ったが、実質的な経営権はグラバー個人に残された。炭鉱が、後藤象二郎の会社に払い下げられても、経営は依然としてグラバーに委ねられたままであった。「三菱商会」に転売されても、岩崎はグラバーを炭鉱経営の所長の地位を与えた。それは1885年まで続いた。所長を辞めた後も、グラバーは、「三菱商会」の顧問として、岩崎との関係は保たれた。顧問として雇われていたのである(1885年まで)。
 「グラバー商会」が倒産してしまい、一時の勢いは失われた後も、グラバーはしたたかに日本の新政府の中枢に食い込んでいく。大阪で娶った日本人の妻と終生生活を共にし、子供たちも日本人として育てた。対外戦争に血道を上げる日本に滞在し、日本の土となったのである(本稿は、ブライアン・ババークガガフニ、平幸雪訳『グラバー家の人々』長崎文献社、2003年、を参照している)。

学長通信(第6号)

 (1) 「大阪労働学校・アソシエ」の講義は、8、9月にはありません
 本校の講義は、8月と9月は夏期休暇中によりありません。しかし、夏期休暇中でも、学生、講師が学校で研修しております。後期は10月から始まります。
 後期以降も、講義に関心のある方々の聴講を歓迎いたします。いつでも、ご都合のつくときにご参加下さい。場所:学働館3階・講義室・図書室。
 聴講ご希望の方は、お問い合わせフォームよりご一報下さい。
 
 (2) 第1回市民講座
 9月には、第1回市民講座が開かれました。この講座は10月にもあります。すでに終わったものも含めて、3回シリーズの市民講座を以下にご案内します。市民の方々の参加費は無料です。
 本校は、今後、公開市民講座を不定期に開催します。第1回目は「日本が海南島で犯した国家犯罪を問う」というテーマで、3回にわたって、「学働館」4回のホールで開催します。
日本は、現在、中国の保養地として有名になっている海南島を、太平洋戦争中の1939年2月から45年8月まで軍事占領をし、現地の人々を、軍隊に動員したり、虐殺したりして、大きな傷を現地に負わせました。しかし、日本政府はこの史実に対して、徹底的に眼を背けてきました。 
 第1回市民講座では、本校の斉藤日出治(さいとう・ひではる)先生がメンバーの1人として活動されている「海南島近現代史研究会」の会員の皆様から報告していただきます。講演だけでなく、「ドキュメンタリー」記録映画も上映します。
 第1回 9月10日(土)13~15時、学働館4階ホール。「海南島における朝鮮人虐殺と現地住民の虐殺」、ドキュメンタリー「日本が占領した海南島で」(65分)と解説・討論。
 第2回 10月1日(土)13~15時、学働館4階ホール。「海南島月瑭村の虐殺と死者の記録・追悼碑の建立」、ドキュメンタリー「海南島月瑭村虐殺」(45分)の解説と討論。
 第3回 10月8日(土)13~15時、学働館4階ホール。「日本による海南島侵略史の世界史的意味について」、佐藤正人氏講演。                 
 ふるってご参加ください。当日、1回だけご出席されても結構です。

 (3) 学生の自主研究
 今月も先月に続いて、学生たちは、①講義録の作成、②図書の分類と整理、カード作成、③沖縄研究、④カナダ・モントリオールにおける「ソウル宣言」のシンポジウム参加を果たしています。沖縄研修旅行の学生レポートを今月号に載せています。

 (4)  地域との共生を模索して―地域史から学ぶ

 
 第3回 島崎藤村の草莽の視点

 はじめに

 文芸評論家として名高い篠田一士(しのだ・はじめ、1927~89年)が、『二十世紀の十大小説』(新潮社、1988年)という題で、歴史上で最重要な世界の小説を10冊挙げている。その中に島崎藤村(しまざき・とうそん、1872~1943年)の『夜明け前』(新潮社、第1部は1932年、第2部は1935年)が第10位に入れられている。
 他の9冊は以下の通り(数字は順位)。1. マルセル・プルースト(フランス、1871~1922年)『失われた時を求めて』(1913~27年)。2. ホルヘ・ルイス・ボルヘス(アルゼンチン、1899~1986年)『伝奇集』(1944年)。3. フランツ・カフカ(チェコ、1883~1924年)『城』(1926年)。4. 茅盾(マオ・ドゥン、中国、1896~1981年)『子夜』(1932年)。5. ジョン・ドス・パソス (米、1896~1970年)『U.S.A』(1938年)。6. ウィリアム・フォークナー (米、1897~1962年)『アブサロム!』(1936年)。7. ガブリエル・ガルシア・マルケス(コロンビア、1928~2014年)『百年の孤独』(1967年)。8. ジェイムズ・ジョイス(アイルランド、1882~1941年)『ユリシーズ』(1922年)。9. ロベルト・ムジール(オーストリア、1880~1942年)『特性のない男』(1930〜1932年)。そして、島崎藤村が10位である。

 1. 日本の私小説には、本質を捉える「歴史」への問がない
 
 篠田は軽い気持ちでこれらを選んだわけではない。雑誌『新潮』での連載が、足かけ3年にわたったことを考えても、篠田は満を持して発表したのだろう。そして、『夜明け前』に対しては、「空前にして絶後の傑作」と絶賛した。
 ただし、他の9名については、選んだ論拠を丁寧に説明しているのに、『夜明け前』については、絶賛の言葉だけで、冷静にその論拠を示したわけではない。
 松岡正剛は言う。篠田ほどの実力のある評論家が論拠を示さなかったのは、日本の文学者のほとんどが歴史に疎く、世界史の本質的な流れをきちんと掴んでないために、日本の小説家への遠慮があったのだろうと。島崎藤村のように、真正面から歴史が突きつけていた課題に答えようとした人物をきちんと評価することは、日本の文学者の苦手とするのであると松岡は慨嘆する。
 「日本人は島崎藤村を褒めるのがヘタなのだ。『破戒』も『春』も『新生』も、自我の確立だとか、社会の亀裂の彫啄だとか、そんな言葉はいろいろ並ぶものの、ろくな評価になってはいない」。「われわれは藤村のように『歴史の本質』に挑んだ文学をちゃんと受け止めてはこなかったのだ。そういうものをまともに読んでこなかった」(松岡正剛、千夜千冊、 2000年12月21日、『夜明け前』、http://1000ya.isis.ne.jp/0196.html)。
 同感である。世界の文学に比べると、日本の小説は、独りよがりの身辺的な心理描写で終わることをもって「純文学」と嘯いてきただけである。しかも、日本語の使い方が乱れても平然として、作家の証しとして、酒に女に酩酊する「私小説」作家が多すぎた。
『夜明け前』は、ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道(なかせんどう)の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(まごめじゅく)を舞台に、主人公、青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の作品である。『中央公論』誌上に、1929年4月から1935年10月まで断続的に掲載された。
 島崎藤村が、この小説を書き始めた1929年から35年までは日本の暗黒時代が始まった期間である。1927年に日本で昭和金融恐慌が起こり、29年に世界金融恐慌が始まり、1931年に満州事変、1932年に満州国建設、同年5・15事件、1933年には国際連盟を脱退した。それからの日本は、戦争経済体制に向かって一直線に突き進んだ。藤村が執筆を終えた後、36年に2・26事件、1937年に日中戦争が始まった。
 藤村は、ここで明治を振り返った。明治維新とは何だったのか?「王政復古」という名の日本的精神の復活を叫んでいた為政者たちが行ったことは、ひたすら欧米の後追いでしかなかった。軍事態勢を強化し、国民の精神を蝕んだだけではないのか?
 これまでも歴史小説的な類いの物はたしかにあった。しかし、そのすべては、英雄たちの華々しい活躍と、彼らを取り巻く人間模様が描かれただけのことであった。為政者たちの狙いと、草莽の民が受けた悲惨な果とを対照させて、歴史の本質を抉り出す仕事を、藤村以外にどの小説家が成し遂げたのだろうか。
 松岡正剛は言う。
 「藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、『脱亜入欧』は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは『王政復古』を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった」と(同上)。
『夜明け前』の主人公、青山半蔵は、藤村の父がモデルである。冒頭に「木曽路はすべて山の中である」と書かれた街道の馬籠宿という江戸から遠く離れた宿場町で生まれ育った半蔵は、江戸の香りが濃厚な平田篤胤(ひらた・あつたね、1776~1843年)の学風を受け継ぐ人から学びたく、江戸に出たがっていた。せめて、「国学」の素養だけは身に付けておきたいと願っていた。
 そうした思いが募っていたときに、1853年、米国の使節としてマシュー・ガルブレイス・ペリー(1794~1858)が軍艦(黒)船4隻(2隻が蒸気船、2隻が帆船)を引き連れて浦賀に来港し、江戸は大騒ぎをしているという情報がこの地にも入ってきた。
 地元の人々の生活苦を見て育った半蔵は、村人を救うべく、世直しの考え方を微かに持つようになっていた。時代の変化は、この田舎にもゆっくりと押し寄せていた。いつしか、半蔵は、江戸幕府打倒派の西部の各藩の武士たちが「王政復興」を唱えだしていることに憧れの念を抱くようになる。江戸で、京都で、幕府側と朝廷側との間で血みどろの戦いが続いた。
 そうこうするうちに、皇女和宮が降嫁して、徳川将軍が幕政を奉還するという噂、しかも、和宮の運ばれる街道がこの中山道(なかせんどう)で、馬籠宿を通るらしいという噂で、村人たちは沸き返った。その頃、西国で発生した「ええじゃないか」と叫んで踊る集団の勢いがこの地にも伝わってきた。
 江戸時代末期に現れた「ええじゃないか」は、「王政復古の大号令」が出されるまでの1867年8~12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した民衆の騒動である。「天から御札(おふだ=神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子(はやし)言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。伊勢神宮に御札が降る「おかげ参り」と違い、「ええじゃないか」の御札は地域で信仰されている社寺の御札が降ったことから、各地で祭祀が行われた。
 「おかげ参り」について説明しておきたい。
 「おかげ参り」とは、「御札が降る」などの神憑(かみがかり)的な噂が広まると、奉公先から抜け出し、伊勢参りに出かける庶民が急増した現象を指す言葉である。江戸時代の、1617年、1648~52年、1705年、1771年、1830年と、約60年周期で自然発生的に繰り返された。いずれも、3~5年の期間でこの現象は終わっている。
 京都では、1867年8月からこの踊りが高揚し、岩倉具視(いわくら・ともみ、1825~83年)による「王政復古の大号令」が出されることがはっきりした12月段階で収束した。つまり、この新しい踊りは、かなり政治的に利用されてきた可能性を否定できない。

 2. 今日の「日本会議」を彷彿させる平田篤胤の革命論とその顛末

 江戸時代の革命思想の代表は「国学」であった。江戸末期の国学とは、尊皇を基本的理念に持つものである。半蔵は、倒幕の急先鋒と見なされていた長州の志士たちに、神武以来の「王政復古」の夢を懸けたのである。
 このあたりの藤村の描写は、歴史を人間の強欲からえぐり出すものである。長州・薩摩の志士たち、反目し合う公家たち、水戸浪士たち、彼らに期待する木曽路の名士たち、右往左往させられる庶民、等々の動きを繊細な筆致で叙述し、革命という権力奪取とは、所詮権力者の内輪の強欲の表れでしかないことを証明して行く。
 志士たちが、崇高な「王政復古」の夢を実現させてくれるであろうとの期待は、半蔵の過度な思い込みであったことを藤村は身を切る痛みを吐露しつつ執拗に描いた。
 倒幕、朝廷を押し立てる、薩長による権力の集中、等々の動きは、半蔵の「王政復古」の夢を容赦なく叩き潰した。
 半蔵は、革命後、一縷の望みを託して上京し、縁あって「教務省」(文部省にあたる)に職を得たが、自分の命そのものであった「平田学」はもはやなんの意味をも持たないものに押し下げられていた。密かに誇りに思っていた自らの「学問」も馬鹿にされる時代になってしまった。
 半蔵は、自分の心を詠んだ短歌を記した扇子を天皇の行幸の列に投げ込んだ。
 「蟹の穴 ふせぎとめずは 高堤 やがてくゆべき 時ならめや」
 この時代の誤りは、いまは小さくても、国全体を滅ぼす大きな洪水になってしまうだろう、という訴えがこの短歌には込められていたが、彼の命を懸けて育んだ思想は、巡査に押さえ込まれた一瞬に、粉々に砕け散った。
 生き残った半蔵は、家族からも監視されて、狂い死にする。56歳であった。その子である藤村は父の悲劇を胸に、同じ56歳から、この『夜明け前』を書き続けた。それは、生活感覚に根差さない軽薄な思想が、いかに人々の心を捕らえてしまうか。逆に、狭い生活感覚のみにこだわって、激しい思い込み(憧れ)に拘束された思想のいかに脆いことか。藤村が腹の底から絞り出すようにして訴えたことは、透徹した歴史認識のない思想が冒す犯罪の恐ろしさについてである。犯罪とは「ためにする」思想が人々を殺し、思い込みの強い思想が、自分自身を破壊することである。
 藤村の父(小説の主人公=青山半蔵)は、街道筋(木曽路)、馬籠宿の本陣(ほんじん=重要人物が止まる宿場宿)と庄屋を兼ねる地元の名家だったが、黒船来襲後の時代の変化に敏感な人であった。当時の時代変革の有力な思想(国学=儒教・仏教に妥協する神道を批判し、日本独自の思想形成に傾注)に憧れ、日本変革の政治運動に参加したがったが、旧家のしがらみを断ち切れずに悶々としているうちに、「王政復古」とは名ばかりで、実際には、自己保身と権力欲剥き出しの元志士たちに絶望し、狂い死ぬ。藤村は父のようにはならないない、きちんとした思想を持つことによって、時代を切り開いて見せるとの覇気を持っていたが、歴史が見せつける人間のエゴイズムに気圧されて、父への思慕の念を深めていく。これが『夜明け前』に凝縮させた藤村の魂の呻きであった。
 父が魂を奪われていた思想は、国学の中でも平田篤胤(ひらた・あつたね、1776~1843年)の「復古神道」であった。
 平田篤胤は、本居宣長(もとおり・のりなが、1730~1801年)の神道批判に同調しつつも、宣長学派の実証主義から脱し、神秘学的なものに傾斜した。篤胤の学説は水戸学をはじめ、幕末の尊皇攘夷の支柱となっていた。
 篤胤は、異界の存在を信じ、死後の魂の行方と救済を自己の学説の中心に据えた。また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義を研究し、西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた。彼の知識は広範で、学問体系は複雑なものであった。篤胤の復古神道は平田神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながった。
 篤胤は、庶民をも説得目標に置いていた。教義の内容を講談風にしたものを、弟子たちに口述筆記させ、それを出版している。これらの出版物は町人・豪農層に受け入れられ、国学思想の普及に大いに貢献した。庶民層に篤胤の思想が受け入れられたのは、篤胤が、土俗的民俗的な内容を自己の思想の重要な構成要素にしていたことによる。
 とくに、木曽、伊那地方で、平田学派は大きな影響力を持っていた。「王政復古の大号令」が半蔵を鼓舞したという『夜明け前』の叙述は当時の木曽路の人々の新時代へ期待感を正確に伝えている。
 倒幕前は、平田派の神道家は大きな影響力を持っていたが、新政府が、神道を国家統制下に置き、それまでの神道を編成替えした国家神道を押し立てたことから、平田派は明治政府の中枢から排除されて影響力を失っていった。
 藤村は、小説の登場人物の口を借りて、尊皇攘夷の時代錯誤を批判している。
 尊皇は水戸浪士の掲げてきた旗印である。もともと尊皇と攘夷とを結びつけ、その二つのものの堅い結合から新機運を呼び起こそうと企てたのは、真木和泉(まき・いずみ、後の保臣、やすおみ、1813~64年)という篤胤の崇拝者であった。
 真木は、久留米藩士で、久留米の神官(従五位下・和泉守の官位を持つ)。1844年、水戸藩に赴き、会沢正志斎(あいざわ・せいしさい、1782~1863年)の門下となり、戸学の継承者とされる。
 藩政改革を藩主に上申し、その怒りを買って10年間も蟄居を命じられた。その時に詠んだ歌、「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ること得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」は、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862~1933年)の『武士道』(1900年)に引用されている。
 真木は、長州藩に接近し、王政復古の大号令布告を朝廷に進言すること、武力を増強して外国に対抗することを主張していた。1863年、朝廷の中の公武合体派の公家たちが、会津藩、薩摩藩と組んで、尊皇攘夷派の公家たちを追放した。追放された7人の公家が長州に逃れときに、真木は行動を共にした。
 真木は、楠木正成(くすのき・まさしげ、1294~1336年)を崇拝し、「湊川神社」をはじめとする人物顕彰神社や「靖国神社」などの招魂社建設に大きな影響を与えた。
 真木たち、篤胤派の活動化たちは、幕府の専横と外国公使陣の不遜さに憤り、王室の衰退を嘆く心情から激しい運動を展開していたが、尊皇攘夷を王室の威厳回復の梃子とすることへの疑問は、当時から多くの人が抱くものであった。藤村の言葉で表現すれば、「尊皇は尊皇、攘夷は攘夷―尊皇は遠い理想、攘夷は当面の外交問題である」という意識が生まれ出していた。
 真木は、1864年に長州藩が起こした皇居襲撃(禁門の変、蛤御門の変)に加わったが、長州勢は敗退し、敗走中の「天王山」(てんのうざん)で会津藩と新撰組によって殺害された。
 真木には、誠意があった。「衆にさきがけして諸国の志士を導くに足るだけの熱意があった。最早その人はない。尊攘の運動は事実に於いてすでにその中心の人物を失っている」(藤村『夜明け前』新潮文庫、第1部、下)。
 藤村は、小説の中で、登場人物に語らせている。尊皇攘夷の牙城であったはずの長州藩が自藩の俊秀たちを英国に密航させて外国のことを学ばせている。それには、英国の公使・ラザフォード・オールコック(1805~97年)による有力藩への説得が功を奏している。攘夷のみを主張する水戸学は、もはや廃れるしかないのではと。
 藤村の慧眼は、篤胤の思想が武士よりも、時代に翻弄されて生活圏を根こそぎ奪われつつある百姓や町人(草莽=社会の危機に対処する動きをするが、立身出世を求めない人たち)の心を捉えていたことに注目した。
 ちなみに、国学には医師が多い。平田篤胤がそうであった。篤胤の師・本居宣長(もとおり・のりなが、1730~1801年)もそうであった。朱子学を強要されていた江戸時代にあって、他の職業に比して、医師は、比較的自由にヨーロッパの学問に傾倒できたからであろう。そして、士族でない生い立ちが、自らの学問を庶民にも伝えたいという思いを育んだのであろう。
 庶民、とくに主人公の半蔵のような本陣・庄屋は、為政者たちや法律の理解を超える複雑な地域の歴史に規定された生き方をしてこざるを得なかった。地域のそうした事情を無視した急激な変化を為政者の思い付きで起こされては、地域で生きなければならない庶民には大打撃となる。
 平田派が説いたのは、ただ「古」(いにしえ)に帰れとうことではなかった。この世に「王」と「民」しかいなかった「古」(上つ代、かみつよ)にいったん帰って、そこから「仁義礼講孝悌忠信」(じん・ぎ・れい・こう・こう・てい・ちゅう・しん) などと「やかましい名をくさぐさ設けて厳しく人間を縛りつけてしまった」社会を作り替えることの重要性に、庶民は気付いたのである。
 たとえば、今日の言葉でいう「入会権」(いりあいけん)に代表される村落住民の特権があった。これは世界共通の住民の権利であった。権力者に支配される土地であっても、生活に不可欠な資料をそこから獲得する権利のことを指す用語である。田には田の、山には山の各種特権が、そこで生きる住民のために慣習的にある特権がある。権力者が交代しても、入会権的な特権は冒されることのないものとして、社会には認識されていた。
 『夜明け前』の舞台となっている木曽路にも、山地には「明山」(あけやま)と呼ばれる生活のための樹木などの伐採が山で生きる民のために認められていた。
 民謡の「木曽節」にも歌われているが、木曽には、「木曽五木」(きそごぼく)という檜(ひのき)の5種類(ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ、サワラ)は許可なく伐採することが禁じられていた。しかし、五木を伐採しないことの報酬として、資料を得ることや、報償米の支給などが山人には認められていた。
 ところが、新政府は、この特権を無視して、「五木」伐採の禁のみを地元民に押しつけてきた。「王政復古の大号令」を布告したことから、半蔵などの期待を集めていた新政府が、地域の伝統的な特権を剥奪した。これに抗して山人に伐採を促したとして、半蔵は庄屋の地位を剥奪されてしまった。尊敬する平田派の学者たちは、主として栄達を欲する行動に出て、その思想は干からびてしまった。崇高な思想も現実の物欲の前にいとも簡単に放棄されてしまった。
 藤村は、以下の慨嘆を記して、の長編を終えた。
 「すべて、すべて後方(うしろ)になった。ひとり彼の生涯が終わりを告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台もその一九年あたりまでを一つの過渡期として大きく廻りかけていた。人々は進歩を孕(はら)んだ昨日の保守に疲れ、保守を孕んだ昨日の進歩にも疲れた」。(若者は)「封建時代を葬(ほうむ)ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むことも出来ないような吹くな薄暗さがあたりを支配していた」(藤村『世悪前』新潮文庫、第2部、下)。
 私たちの幾人が、この含蓄の深い言葉の意味を理解しているのだろうか?

 (5) 学生レポート

学生レポート
日本国憲法と米軍基地問題との矛盾・沖縄反基地闘争の現状と研究

学生A

第一章 なぜ戦後70年が経過しても米軍が日本に残り続けているのか

サンフランシスコ講和条約は、1951年(昭和26年)9月8日に調印され、1952年(昭和27年)4月28日に発効された。
通常は講和条約を締結し、占領が終われば占領軍は撤退する。しかし、1950年9月15日のニューヨーク・タイムズは、米国の対日講和における次のような方針として、「(日本の)再軍備に制限を設けない。経済と通商の自由を最大限認める。国連加盟などの参加を促進する」「米軍が日本に駐留する許可を得る」と報道している。つまり、講和条約が締結される以前から、米軍が国内に駐留することが日本独立の条件となっていた。
「サンフランシスコ講和条約 第6条( a ) 前半
連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後、なるべくすみやかに、かつ、いかなる場合にもその後90日以内に、日本国から撤退しなければならない(後略)」
「ポツダム宣言 第12項
以上に列挙した占領の目的が達成され、さらに日本国国民の自由に表明された意志にしたがって、平和的な傾向をもつ責任ある政府が樹立されたときは、連合国の占領軍はただちに日本国より撤退する

それにも関わらず、日本は見ての通り、太平洋戦争で米軍が上陸した嘉手納を始めとして、占領が終わった頃に米軍基地だった場所は、全てそのまま基地として残されている。GHQが解散しようと、米兵はそのまま駐留を続けている。なぜ米軍は撤退しないのか、この謎は講和条約第6条a項の後半部分で明らかにされている。

「サンフランシスコ講和条約 第6条( a ) 後半
(前略)ただしこの規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結されたもしくは締結される二国間もしくは多数国間の協定にもとづく、またはその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とんまたは駐留を妨げるものではない。」

第二章 日米地位協定とは何なのか

サンフランシスコ講和条約第6条a項に記述のある「協定」とは、日米地位協定を指している。日米地位協定とは、アメリカが占領期と同じように日本に軍隊を配備し続けるための取り決めであり、1952年の旧安保条約とセットで発効された日米行政協定を前身とするものである。その日米行政協定を結ぶにあたって、アメリカ側が最も重視した目的が、「日本の全土基地化」「在日米軍基地の自由使用」であった。
前者は、日本全土を米軍にとっての「潜在的基地」にすることを目的としたものであり、後者は、占領期と同じように、日本の法律に拘束されず自由に日本国内の基地を使用できることを意味する。当時、国務省顧問だったジョン・フォスター・ダレスが言うように、「われわれが望む数の兵力を、望む場所に、望む機関だけ駐留させる権利を確保すること」がアメリカの最大の目的であった。
講和条約がサンフランシスコのオペラ・ハウスで調印されたのと対称的に、行政協定は東京・外務省庁舎の中でひっそりと結ばれた。また、旧安保条約はサンフランシスコ郊外にある米国陸軍第六軍の基地の中にある、下士官クラブで結ばれている。
講和条約→安保条約→行政協定の順番に、それぞれ締結されてきたが、行政協定のための安保条約、安保条約のための講和条約でしかなかったと、元外務次官であった寺崎太郎は指摘する。
旧安保条約には、米軍の日本駐留の在り方についての取り決めが何も書かれていない。「条約」は国会での審議や批准を必要とするが、政府間の「協定」ではそれが必要ないため、日米両政府は都合の悪い取り決めを全部この行政協定の方に入れてしまった。
日米行政協定とは、日米地位協定と同じく、日米安保条約に基づいて駐留する在日米軍と米兵他の法的地位を定めた協定である。占領中に使用していた基地の継続使用、米軍関係者への治外法権、密約として合意された有事での「統一指揮権」など、占領中の米軍の権利をほぼ全て認めるものである。1960年、新安保条約締結と同時に「日米地位協定」と名称を変えたが、米軍の治外法権、日本国内で基地を自由使用するという実態は殆ど変わっていない。

第三章 米軍駐留に違憲判決を下した「伊達判決」の行方

 在日米軍立川飛行場の滑走路拡張工事に反対する住民運動、砂川闘争が1955年から始まり、二年後の1957年には米軍基地内に数メートル入ったデモの参加者23人が逮捕され、その内の7人が刑事特別法違反で起訴されるという「砂川事件」が起きた。
 1959年3月30日の東京地裁判決で、砂川事件を担当した伊達秋雄裁判長は、「米軍駐留は憲法第9条違反」という画期的な判決を下した。この、通称・伊達判決を要約すると、「米軍が日本に駐留するのは、わが国の要請と基地の提供、費用の分担などの協力があるもので、これは憲法第9条が禁止する陸海空軍その他の戦力に該当するものであり、憲法上その存在を許すべからざるものである」。
 そして、米軍の日本駐留が憲法に違反している以上、駐留米軍を特別に保護する刑事特別法も憲法違反、米軍基地に入ったことは罪に問われないとして、被告全員に無罪判決を言い渡した。
 当然のことながら、伊達判決は60年安保改定交渉を進めていた日米両政府に大きな衝撃を与え、全国の反基地闘争、安保改定反対運動を勢いづくことを懸念していた。違憲判決が覆されない限り、新安保条約の国会提出も調印できなくなってしまう。
 日本政府は、一刻も早く伊達判決を覆すために、――マッカーサー駐日大使の指示の下――高裁への控訴という通常の手続きを踏まず、最高裁に直接上告する「跳躍上告」を行った。跳躍上告を行うと、高裁へ控訴するよりも早く、最高裁での判決が得られるからである。
  更に、田中耕太郎・最高裁長官は、安保改定交渉の当事者であるウィリアム・レンハート駐日アメリカ主席公使に対し、公表前の砂川裁判の審理日程、「結審後の審理は実質的な全員一致を目指す」など自身の意向を伝えていた。一国の司法のトップが、このようにして日米両政府の望み通りの展開になるよう奔走していた事実が、2008年に米側の解禁秘密文書によって明らかにされた。
 当然、このような行為は憲法76条に規定された裁判官の独立に反し、日本が法治国家でなく、米国にとって都合の良いものだけが存在を許される「占領地」であることを確証するものである。
 こうして、1959年12月16日、最高裁長官である田中耕太郎自らが裁判長を務め、最高裁で砂川裁判の判決が言い渡された。原判決を破棄して東京地裁に差し戻し、米軍駐留や刑事特別法を合憲とするのではなく、「憲法9条2項がその保持を禁止した戦力とは、わが国が主体となって指揮権・管理権を行使し得る戦力を意味する」「日米安保条約はわが国の存率の基礎にきわめて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものだ。(中略)違憲か合憲かの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない」として、司法の政治的配慮によって米軍駐留を容認することになり、今日に至る。
 
第四章 沖縄・反基地闘争現地視察 山城博治氏へのインタビューまとめ
沖縄の反基地闘争が、本土と比較して激しいのはなぜかという私の問いに、今まさに基地が作られている現場で集会所に集まる、デモ行進して歩く、では意味がない。ただ、「反対」の声を上げるだけでは虚しさを感じる。集会ではなく現場で張り付く。座り込むなど非暴力実力行動に重点を置くという回答を頂きました。
また、沖縄県民弾圧に利用されてきた日米地位協定は、法学部の学生すら習っていない、大学の先生でも地位協定を研究してない人は多いというお話には驚きました。山城氏が言うように、沖縄と直接的な関係のない人たちは、自分の興味の範囲の中で調べていくしかないと思われる。

第五章 沖縄・反基地闘争現地視察 佐々木弘文氏へのインタビューまとめ
 僧侶である佐々木弘文氏は、反戦・反基地の前に「反差別」を信条としている。人を殺すには人を偏見で見るしかなく、そういうことが戦争に繋がる。
 戦争を遂行するには基地が必要であり、たとえどれだけ国力のある国家だとしても、日頃からの訓練や準備がなければ戦争はできない。戦争が始まったら止めることができない、だから戦争の始まりになる基地建設を止めさせよう、という佐々木氏の思いが伝わってきました。
 2014年にN4ヘリパッドが完成し、佐々木氏は辺野古での運動を始めた。新基地建設に反対するカヌー隊は当初、4,5人しか居なかった。しかし、立ち向かわねば変わらないと思って続けていくことで、世論を動かし、政治家を動かし、とうとう工事を止めることが出来た。仲間が増えてきたから続けることが出来たと、佐々木氏は強く訴える。

参考資料

『戦後史の正体』 孫崎享 著(創元社)/2012年
『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』 前泊博盛 著(創元社)/2013年
『検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉』 吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司 著(創元社)/2014年
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』 矢部宏冶 著(集英社インターナショナル)/2014年
『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』 矢部宏冶 著(集英社インターナショナル)/2016年
『伊達判決を生かす会』 http://datehanketsu.com/toha.html